その翌日から、呪いはさらにひどくなった。
 日に日に身体が重くなっている。死が近づいているのが分かる。
 高熱が続き、寝ている時間が増え、呼吸が苦しくなった。
 寝たきりの橘花を、珠は一生懸命看病してくれた。
 滋養(じよう)のあるものを食事に出してくれたし、痛み止めの薬もくれた。無論、呪いなので薬などまるで効きはしないが、身体には効かずとも、心には効いた。
 白玖は、数日前からまったく姿を見せていない。少し寂しかったが、これで良かったとも思う。こんな姿を見られるのは、いやだ。
 それくらいには、橘花は白玖を想っていた。たとえ一方通行の想いだとしても。
 ――願わくば……。
 橘花は窓の向こうの月を見上げる。
 ――願わくば、来世では白玖と添い遂げたい。身代わりとしてではなく……。そして、珠とも本当の友だちになりたい。
 そう、月に祈りながら、橘花は深い眠りについた。


 ***


 橘花は薄暗い沼池のなかで目を覚ました。
 半身が沼に沈んでいて、身動きが取れない。
 ぐっと足に力を入れると、なにかに引っ張られるような感覚を覚えた。足首をなにかに強く掴まれている。ぐっと引かれた。バランスを崩し、泥に手をつく。
 いったい、なにに。
 そう考える暇もなく、手首になにかが触れた。驚いて手を引くと、泥とともに現れたのは、(むくろ)だった。
「ひっ……」
 思わず尻もちをつく。骸は強い力で、橘花を泥のなかに引きずり込もうとしている。
 泥が跳ね、水面がわずかに揺らめく。
 泥池のなかに沈んだ橘花の半身を、またべつの骸の手が掴んだ。
 細い骨だ。
 ――これは、もしや。
 歴代の花嫁の骸……。
 橘花は確信する。
 笠屋敷家の呪いは、ひとつではないのだ。
 蛇神だけではなく、犠牲となって死んでいった花嫁たちの呪いも綯い交ぜになって花嫁を襲う。
 そのうち、いくつもの骸が泥のなかから姿を現した。
「クルシイ……タスケテ」
 骸が呪文のような言葉を吐く。
「タスケテ、タスケテ……」
「シニタクナイ」
「シニタクナイ」
「クルシイ」
「ニクイ」
「ドウシテワタシガ」
「ニクイ」
「ニクイ」
 泥のなかからいくつもの手が現れる。その手は、まっすぐ橘花へ伸ばされた。
「っ……」
 恐ろしい力で泥のなかへ引き込もうとする。皮膚を掴む骸の感触は冷たかったが、肉を引きちぎろうとしているかのごとく強かった。怨念だ。
「やだっ……離して!」
 逃げなければ。このままでは、溺れてしまう。
「アバレルナ」
「オマエハニエダ」
「ニエダ」
「ワレラト、オナジ」
「ブザマナニエ」
 恐怖が橘花を襲う。
 しかし、もがけばもがくほど、沼のなかに引きずり込まれていく。
「うそ……」
 ――このまま沈むの?
「やだっ……やだ、白玖! 白玖!」
 叫ぶけれど、橘花の声を拾ってくれる白玖はどこにもいない。白玖はきっと、新しい花嫁のもとへ行ってしまったのだ。橘花のことなど、すっかり忘れて。
 ――白玖……。
 叫びが嘆きに変わったとき、どろり、と沼が動いた。
 骸ではない、なにかがいる。橘花は動きを止めた。
 薄暗い沼のなか、重々しい泥がゆっくりと動く。
「な、に……?」
 泥の中から、鋭いふたつの眼が橘花を見ていた。黄金色の瞳は、じっと橘花だけを見つめている。
 ――あれは。
 沼のなかにいたのは、蛇だった。
 泥色の大蛇が、橘花を取り囲むようにとぐろを巻いている。
「そなたが、我が愛しい花嫁か」
 大蛇の声だった。
「待ちわびたぞ」
 大蛇が舌なめずりをする。
 すべての力が身体から抜けた。
 あぁ、もう終わりだ。
 橘花は贄。
 このままこの大蛇に絞め殺され、呑み込まれるのだ。逃げようにも、骸に動きを封じられている。ぜったいに逃がさない、と。
 橘花は為す術をなくし、脱力した。
 すべてを諦めて目を伏せようとしたとき、すっと光が射し込んだ。
 空を見上げる。
 雲間から、陽が射していた。光はスポットライトのように、ある一点へ落ちると、流れるように橘花のいるほうへと向かってくる。
 だんだん、周囲が明るくなってくる。
 泥池に陽が射し込むと、どす黒かった泥が、さらりとした澄んだ水に変わる。
 光がある一点を照らし、止まった。そこには、一艘の舟が浮かんでいた。舟にはだれも乗っていない。
 しかし大蛇は舟を見て、
「我が花嫁」
 と呟いた。
 大蛇は、舟を追いかけるように光の川を泳いでくだっていく。
 瞬きをするように一瞬だった。
 大蛇は、舟をその身体で押し上げて転覆させると、まるごと呑み込んだ。
 ばきばきと、木の舟が壊れる音だけが、その空間に響いていた。
 大蛇の喉がごくりと動き、その眼がすうっと細められた。
 満足したのか、大蛇はそのまま川の底へと消えていった。
 舟を照らしていた光が動き出す。
 光はどんどん橘花に向かってくる。泥が浄化されていく。
 橘花はそれを、目を見開いて見つめていた。
 ――どうして……。
 橘花は泉のなかに立っていた。
 足元を、小魚たちが泳いでゆく。いつの間にか、骸も消えていた。
 どういうことだろう。
『――か』
 困惑していると、声が聴こえた。
 ハッとする。
『橘花』
 今度は、はっきりと聴こえた。
 白玖の声だ。
「白玖?」
 橘花は弾かれたように立ち上がる。
「白玖っ……!」
 涙があふれる。
 ――助けて。お願い。私の名前をもう一度、呼んで。私が必要だと言って。
『橘花』
 光のなかに手を伸ばす。指先に、なにかが触れたような気がした。