そして、嫁入りから五日目の朝。
 珠が食事を運んでくる前に、白玖がやってきた。白玖が朝早く来るのは初めてのことだ。
 白玖とともに、橘花は部屋を出た。鍵がないとはいえ、嫁入りしてから部屋を出るのははじめてのことだった。
 珠たちメイドの住まいである屋敷の離れへ向かう。
 案の定、庭で洗濯物を干す珠がいた。近くには背の高いメイドがいて、厳しい目つきで見張るように珠を見下ろしている。
「あれはメイド長の浅香(あさか)だな」
「彼女、珠を睨んでるように見えますけれど」
「珠の教育係を任されているのは彼女だからな」
 洗い終わった洗濯物を、珠がひとつずつ竿に干していく。しかし、なにぶん背が低いので、ひとつ干すのにも時間がかかってしまう。
「遅い。もっときびきび動いてくれなきゃ、仕事前までに全員分終わらないわよ。まったく、あなたが学校に行っているあいだ、私たちが仕事ぜんぶ変わってあげてるんだから、これくらいさっさとやってよ!」
 遅いというなら、手伝えばいいのに、と橘花は見ながら思う。
「は、はい。申し訳ございません……」
 珠はメイド長の怒鳴り声に怯えながら、一生懸命手を早める。しかし、慌てたせいで、衣をひとつ地面に落としてしまった。
「ちょっと!」
 メイド長は金切り声を上げ、手を振りかざした。容赦なく珠を頬を打つ。華奢な珠は地面に崩れ落ちた。
 橘花は思わず声が漏れそうになり、慌てて手で口を押さえた。
「ひどい……」
 思わず呟く橘花の横で、白玖も厳しい視線を送っている。
「なにしてるの! 早く起きて洗い直して!」
「もっ……申し訳ございません!」
 珠は震える声で地面に落ちた衣を拾う。
 濡れて色が濃くなっているが、あれはメイドが着ているものだ。笠屋敷家の人間の衣服ではない。
「メイド服の洗濯も、珠がすべてやることになっているのですか?」
 橘花が白玖に訊ねると、白玖はいや、と首を横に振った。
「メイドたちはそれぞれ、じぶんのことはじぶんでやる決まりだ」
「じゃあ、珠は私の世話だけでなく、同僚の世話までさせられてるってことですね?」
「……そのようだ」
 白玖は目を伏せた。珠がこうした仕打ちを受けていることを知らなかったのだろう。
「そういえば、珠が嬉しそうに焼き菓子をもらったと言っていた日、メイド長たちが焼き菓子の話をしていた」
「え?」
「最初は、珠が彼女たちと一緒に食べたのかと思ったが……もしかしたら、珠の持っていたそれを、むりやり奪ったのかもしれない」
「なっ……」
 橘花は、珠に焼き菓子のことを聞いたときのことを思い出す。よくよく思い起こせば、ぎこちない返事だったように思う。
 ――今さら気付くなんて……。
「とりあえず、証拠はこの目に収めた」
 白玖が珠たちのもとへ止めに入ろうと動く。
 しかしその前に、橘花が動いた。
「珠!」
 橘花の声に、珠が顔を上げる。
「お、奥さま……?」
 驚く珠の背後で、メイド長は引き攣った顔をして礼をした。橘花と、その横にいた白玖に気付いたのだ。
「これは、若旦那さま。奥方さままで……」
 橘花は庇うように珠の前に立つと、メイド長を睨みつけた。
「あなた、私のメイドになんてことをするの」
「あれは……その、教育でございます。この子は覚えが悪くて……」
「教育? 打つのが?」
 橘花はメイド長に聞き返す。
「珠は私の世話に関して、なにも問題はない。それに、失敗したからといって、なにも打つことないでしょう。教育係だからって、なんでもやっていいわけじゃないはずよ」
「それは……」
「珠にじぶんの仕事まで押し付けて……私のメイドの件だって、最初はメイド長に任せた仕事だったと聞いたけれど」
「それは……」
「珠」
 白玖が珠の手を掴む。袖を捲りあげた。珠の肌には、痣がいくつもあった。白玖は眉間に皺を寄せた。痣を指でなぞると、珠は痛かったのか、びくりと肩を震わせた。
「これは、メイド長にやられたのか?」
「…………」
 白玖が問うと、珠は泣きそうな顔をして頷き、そのまま俯いた。
「なっ……珠! あなたよくも私を……」
 メイド長は顔を真っ赤にして珠に詰め寄る。すかさず白玖が背中に珠を隠した。
 白玖の眼差しに怯んだように、メイド長は言葉を飲んで後退る。縋るようにメイド長は橘花を見た。
「っ……奥方さま、違います! 私ではありません! 珠は嘘をついております。私を陥れようと……」
 言い訳を始めるメイド長に、橘花は冷ややかな視線を送る。
「私は、珠の言うことを信じる。この子はうそは言わないもの」
 はっきりと告げると、メイド長は悔しそうな顔をして、小さく舌打ちをした。
「……贄の花嫁のくせに」
 メイド長は蔑むような視線を橘花に向ける。
「知ってるのよ。あなた、どうせもうすぐ死ぬ花嫁なんでしょ。身代わりのくせに、本妻面しないでくれるかしら」
「…………」
 言葉を失くす橘花に、メイド長はふっと鼻で笑った。
「あなた、この屋敷のメイドたちになんて言われてるか知ってる? 毒妃って呼ばれてるのよ。毒で若さままでたぶらかした忌まわしい毒妃。目障りだからさっさと死んでくれないかしらね」
 橘花はなにも言い返せないまま、俯いた。はっきりとした悪意に、怯んでしまったのだ。
「おい。今、なんと言った?」
 橘花が黙り込んでいると、すぐとなりから、身震いするほど低い声がした。
 白玖がメイド長の前に立つ。しかし、メイド長もやけくそになったのか、怯む様子はない。
「あら。今度は浮気男が説教する気かしら」
「浮気だと?」
「知ってるんですよ。若旦那さまだって、最近は身代わりの花嫁を閉じ込めるはずだった座敷牢に、べつの女を連れ込んでいるらしいじゃないですか?」
「なっ……」
 橘花も珠も驚いて白玖を見る。
 白玖は、メイド長の暴露に明らかに動揺していた。その横顔に、橘花はすうっと心が冷えていくのを実感する。
「若旦那さま……? うそですよね? なにかの間違いですよね?」
 橘花のとなりで珠は驚愕しながらも、信じられないといった眼差しで白玖に問う。
 しかし、珠の問いかけにも、白玖は肯定も否定もしない。つまり、メイド長の話は事実だということである。
 橘花は目を伏せた。
 なにを落ち込んでいるのだろう。橘花はそもそも身代わりの花嫁である。白玖が新たな花嫁を娶ることは、橘花が嫁入りする段階から既に決まっていたことだ。
 それなのに、どうしようもなく心が痛んでしまう。
 やはり、嫁入りの日、白玖に希望を見出してしまったことが、間違いであったのだ。
 あのときの白玖の言葉さえ信じなければ、今頃こんな気持ちにはならずに済んだのに。
 それでも。
 傷ついてなお、せめて、じぶんが死ぬそのときまででいいから、白玖のいちばんでいたかった。……なんて、許されない思いを抱いてしまって、笑いそうになる。
 いつの間にか橘花は、白玖にずいぶん心を許してしまっていたようだ。
 胸の痛みに耐え切れず、橘花はしゃがみ込んだ。
「橘花!」
 白玖が橘花へ手を伸ばす。
「触らないで!」
 橘花の声に、白玖の手が宙でぴたりと静止する。
「……すみません、大きな声を出してしまって」
 橘花は、叫んでから我に返った。
「いや……」
 わざわざ叫ばずとも、きっと白玖は橘花に触れることはなかった。なにしろ、橘花は毒妃なのだから。そう思うと、橘花の胸の痛みはさらに増してくるようだった。
 白玖は苦しげに息を吐くと、手を引っ込め、メイド長を睨む。
「……浅香。これ以上俺の花嫁を罵倒するのは許さな――」
 白玖がメイド長を叱りつけようとしたときだった。珠がメイド長の前に飛び出し、その身体を突き飛ばした。
「きゃっ!? ちょっと、なにするのよ!!」
「撤回してください!」
 珠は顔を真っ赤にして、メイド長に覆い被さる。
「奥さまは毒妃なんかじゃない! とっても優しいひとです! 撤回して!」
 珠は泣いていた。橘花は、声を荒らげた珠に呆然とする。
「た、珠、落ち着け」
 橘花と同様、一瞬呆然とした白玖だったが、ハッと我に返ると珠をメイド長から引き剥がした。
「奥さまはだれより素敵なひとです!」
 白玖に押さえつけられながらも、それでも珠はじたばたともがきながら、メイド長に叫んだ。
「突然叫んで……なんなのよあなた! 私にこんなことしてただで済むと思ってるの!?」
「珠。大丈夫だ。橘花のために怒ってくれてありがとう」
「う……若旦那さま」
 白玖は珠の頭を優しく撫でると、メイド長の前に再び立った。
「ただで済まないのはおまえだ」
 白玖の眼差しに、メイド長がハッとする。途端に肩を落とし、俯いた。
「浅香、今の珠への暴行と花嫁への暴言は、次期当主として到底看過できるものではない」
 白玖の口調は厳しいものだった。
 本来なら、長としてメイドたちを導かなければならない立場だ。そんな人間がいじめを主導していたなど言語道断である。じぶんへの暴言は置いておいても。
「メイド長は変える。それから、しばらくの間謹慎を命ずる」
「…………」
「返事は」
「……はい。申し訳ございませんでした……」
 白玖がメイド長に下した処罰は、寛大なものだった。
 花嫁のメイドに日常的ないじめを行っていたのだ。ふつうなら、屋敷を追い出されてもおかしくないことである。
 しかし、橘花は正式な花嫁ではない。花嫁という位はあるものの、結局は七日後には死ぬ贄である。
 だから白玖は、この程度で済ませたのだろう。珠の今後については白玖のことだから配慮があるだろうが、珠のことを思うと、橘花は複雑な気持ちになった。