橘花に与えられた部屋は、白とレースが印象的な、洋風の部屋だった。
 橘花は、与えられた部屋を見て驚いた。もっと、寒々しい部屋を想像していた。たとえば、秋月家の座敷牢のような。
「ここが私の部屋?」
 そばにいたメイドに訊ねると、彼女は怯えたように橘花を見た。
「は、はい……そうでございます」
 怯えはするが、答えてくれる。橘花はこれまた驚いて固まった。
「……あ、あの……?」
 メイドがおどおどと橘花を窺い見る。
「あ、ごめんなさい。まさか、反応してくれると思わなくて」
「え?」
「私、実家では無視されてたから」
「…………」
 メイドは黙り込んだ。なんと返せば良いのか分からないようだ。
「あ、ごめんね。いきなり。気にしないでいいから」
 それにしても、と橘花は部屋を見渡す。
 なんだ、ここは。
 橘花に与えられる部屋は、逃げ出さないよう、外から鍵がかけられる仕組みの牢だと聞いていた。
 かつて、脱走を図った贄の花嫁がいたためである。しかし、橘花が案内されたこの部屋は、当時から使われていた部屋とは思えない。頑丈な錠もないし、窓も開く。
 橘花は実家の部屋を思い出す。
 一度入り、外から鍵をかけられてしまえば、自らの力で出ることは許されない寒々しい牢。
 暗い照明。薄い布団。仕切りの奥に洗面所とトイレがあるばかりで、ほかにはなにもない。部屋、というより空間、といったほうがしっくりくるそんな場所。
 橘花は与えられた部屋に戸惑う。
 明るくきらきらした照明。柔らかそうなベッドに、陽の光を優しく絡めとってくれそうなレースのカーテン。本棚には文庫本や漫画もある。橘花のために用意されたのだろうか。
 部屋の真ん中でぼんやりしていると、「あの」とメイドが恐る恐る声をかけてきた。
「ここは、歴代の贄の花嫁が使っていた部屋とはべつのお部屋でして……若さまが奥さまのために新たに作った部屋なんです」
 ――わざわざ?
「どうして? 今までの部屋は? 私、鍵付きの牢に閉じ込められるって言われてきたんだけど」
「そ……そちらは今、若さまが使っております。今晩から、若さまはその座敷牢で休むことにすると」
「……は?」
 ――なぜ?
 意味が分からず眉を寄せると、それに対してメイドはびくっと過敏な反応を示した。
「もっ……申し訳ございません。若さまに案内するよう指示されたのがこの部屋でして……」
「いや……べつにあなたに怒ってるわけじゃ」
 ないのだが。
 目が合うと、メイドはやはりびくっと肩を揺らした。
 どうも、橘花のことが恐ろしくて仕方ないらしい。
 橘花はため息をついた。
 実家にいた頃、世話をしてくれたメイドたちも似たような態度だったから慣れているが。
「……ねぇ、あなた、名前は?」
「え?」
 たった七日間しかここにはいないのだから聞かなくてもいいかと思ったが、呼ぶときの名前がないのは面倒だ。
「えと……(たま)と申します……」
「珠。素敵な名前ね」
 なるべく、怯えさせないように微笑む。
「……あ、ありがとうございます」
 珠は一瞬戸惑いの表情を浮かべてから、こわごわと礼を言った。
「私は橘花。贄の花嫁だけれど、よかったらよろしくね」
「……はぁ……」
 それと、と続ける。
「聞いていると思うけど、私はこの身が毒に侵されてる。間違っても私には触れないで。分かった?」
「は、はいっ」
 珠はわずかに目を見張って、橘花を見つめていた。
 橘花の世話は、珠がほとんどのことをしてくれた。
 珠はまだ学生で、近くの中学に通っているらしい。学校に通いながら仕事をこなすのは大変そうだったが、珠は真面目な性格のようで、橘花に怯えつつも丁寧な仕事をした。
 今までのメイドは怯えるか面倒そうな顔を見せるばかりだったが、珠は怯えながらも橘花の問いかけには答えてくれたし、素直に反応してくれる。それも、橘花にとっては予想外なことであった。


 ***


 その夜、白玖が赴いた。
「少し話せるか?」
 窓を開けて月を眺めていた橘花は、白玖の訪問に驚いた。
 嫁入りの際は来ると言われたが、まさか本当に来るとは思わなかったのだ。
 窓を閉めてベッドから降りようとすると、白玖が「いい」と制止する。
 ふと、白玖の手に巻き付けられた包帯が目に入る。手のひらの部分には、黒ずんだ染みが広がっていた。橘花の視線に気付いた白玖が、さっと手を隠す。
 橘花の胸に罪悪感が広がる。
 おとなしくベッドに座ったままでいると、あろうことか白玖は橘花のすぐとなり、ベッドに腰を下ろした。橘花と並ぶかたちで。
 橘花は慌てて白玖から距離をとる。
「……そんなに逃げなくても」
 離れた橘花に、白玖の表情がほんの少し翳る。
「……あなたはいいかもしれないけれど、私はいやです」
 今でも、橘花の髪に触れたときの白玖の苦痛に歪む顔を思い出すと、心が騒ぐ。心地のいいものではなかった。できれば、もうあんな思いはしたくない。
「……焼き菓子を持ってきたんだ。甘いものは好きか?」
「え?」
「なにが好きか分からないから、いろいろ持ってきたんだが」
「……さぁ。食べたことがないので、分かりません」
「そうか。じゃあ、食べたら感想をくれ。次は好きなものをあげたいから」
「はぁ……」
 橘花は戸惑いながらも、渡された紙袋を受け取った。
 紙袋はほんのりとあたたかく、甘い匂いがした。
 なぜか、無性に泣きたくなる。
「……旦那さまは、どうしてあんなことを言ったのですか」
「あんなこと?」
「ぜったいに死なせない、って……」
 沈黙が落ちた。
「……花嫁を守りたいと思うのは、おかしいことだろうか」
 返事が返ってくるとは思わず、橘花はわずかに目を見張る。
 白玖の眼差しは真剣そのもので、声には抑えようのない切実さが滲んでいた。白玖は本気で言っている。それが分かり、橘花は戸惑う。
「……あ、いえ。ふつうの花嫁ならば、おかしくはないですけれど」
「ふつう?」
「私は、贄ですから。父からはそのように言われて嫁ぎましたし、あなただってそのつもりで私を迎えたのでは」
 白玖がわずかに息を詰める。
「……ずっと気になっていた。橘花はなぜ、こんな目に遭わされて怒らない?」
「怒る?」
「怒るべきだ。生まれてからずっとあのような牢のなかに閉じ込められて、そのうえ……」
 白玖が言葉に詰まる。膝の上で握った拳はかすかに震えていた。白玖のほうが、怒っていた。
「……怒るもなにも、私にとってはそれが日常でした。傷付けられることには慣れていますし、それよりも……私は、傷付けてしまうほうがずっと怖い」
 橘花は既に、その力で母を殺しているのだ。
「……そうか」
 白玖は、包帯に包まれた手をもう片方の手でさすった。
「悪かったな」
「……?」
「触れて、怪我をしたことだ。橘花の気持ちを軽んじた行動だった」
 真摯に言われ、橘花は戸惑う。小さな声で「いえ」と言うのがやっとだった。
「橘花は優しい子だな。それから案外、照れ屋なんだな」
「そ、そんなことは」
 白玖の不意打ちの笑顔に、橘花は顔が熱くなるのを感じた。初めての心地だった。
「……その傷、痛みますか?」
「手はなんともない。でも、少し苦しいな」
 どきっとする。
「苦しい? どこが……」
 不安になって、橘花は白玖を見つめた。白玖は心配そうな眼差しを向ける橘花に、苦笑を向けた。
「そんな顔されると、余計に抱き締めてやりたくなる。でも、それができない。……それに、橘花もそれを望んでない」
 橘花ははっとした。気まずくなって、白玖から目を逸らす。
「望んでないわけでは……」
 白玖に触れられたのは、ただ驚いただけで、いやだったわけではない。と、思う。でも。
 ちらりと白玖を見ると、白玖は驚いた顔をして、それからふっと笑った。
「……そうか。じゃあ、七日の朝が明けたら、抱き締めてもいいか?」
 目が泳ぐ。
「だから、私に触れたら死ぬって……」
「もしもの話でいい。もし橘花の身体から毒が消えたら、触れていいか」
 なぜだか恥ずかしくなって、橘花はくるっと背中を向けた。
「も、もう寝ます」
 背中を向けたまま言って、ベッドに入る。白玖は少し腰を浮かして端に避けた。
「俺は、もう少しここにいてもいいか?」
「ね、寝るんですよ。お話はしませんよ」
「うん。いい。気が済んだら、勝手に出ていくから」
 橘花はふん、と息を吐く。
「……好きにしてください」
 橘花はシーツにくるまりながら、そう返した。頬が熱い。きっと呪いのせいだ、と言い聞かせた。