雨が降ってきた。嫌な予感がするーー。女は舟のある場所へ急いだ。

やっぱりいた。ユウだ。一人で舟に乗ろうとしている。いや、二人か?

「ねえ、ここで何をしてるの」

「ああ、あなたはーー」と男がいう。ユウは男の陰にかくれてこっちを見る。

「私はユウの父です。どうしても沖に出ないといけない理由があって、こうやって舟をお借りしようとしていました」

「持ち主に許可なしっていうのは、どうかね」

「申し訳ありません。よかったら一緒に乗せてもらえませんか」

「そんなに言うならいいけどさ。でも沖に出てイイことなんてちっともないよ」女はいい、二人に舟を出すのを手伝わせる。雨は静かに降り続いていた。

ユウが先に乗り、女と父親が沖まで泳いで舟を出す。波が少しずつ高くなっている。舟に揺られながら女が聞いた。

「なんで舟に乗ろうって思ったの?」

「沖にはたくさんの魂が眠ってますから、助けないと」

「ありがたい話だけど自分を優先すればいいのに。ユウ、大丈夫?」

「うん……、ちょっと揺れるね」

「こわいならどこかに捕まってな。これから波が高くなる」

ユウが舟の一番頑丈な場所にしがみつくのを確認すると、女はユウの父に言った。

「あの白い建物は、どう?」

「え? 白い建物ですか。どうというのは?」

「あなたに会いに(時間が支配する世界)には何度かうかがってるの。憶えてる?」

「あー、そうでした。うんうん」

「あの部屋の番号は何番だったっけ?」

「番号はーー」急に男は立ちあがると女に襲いかかってきた。女はとっさに櫂で男の胸を突く。すると男は雨空の中に消えていった。

「父さん!」

女は周りを見回した。舟の底にカフスがコロンと転がっていたので、取り上げた。やはり、コレを使っていたのか。

「ユウ、大丈夫?」

「父さんが消えちゃった、どうしてなの?」

「あれはお父さんの化身さ。ユウは幻をみていたんだ」

波がうねりをみせたので、あわてて櫂を持ち直しながら女が言う。だが、海がボコボコと騒ぎ始める。いつのまにか何百もの白い物体が浮かびあがってくるのが見えた。

「玉だ。こんなにたくさん」

ユウは涙を流し震えたまま舟の端にしがみついていた。雨のなか、小さな黄色い光がこっちへ向かってきた。

「ああ、ここにいたんだ」

ユウは小鳥をみて少し安心したように言う。するとインコはユウの肩にとまり、ピピピと鳴いた。

「すごい数だね。だから奴らは生きてる子を漁に出したいんだな」

女は小さな玉を五つ、籠(かご)にほうりこんだ。

「ねえ、クラゲみたいなこれ、なに?」

「玉っていうんだ。詳しい説明はまたあとで」

ユウに女が言うと、大きな玉が舟にぶつかってきた。女はしりもちをつきながら、櫂をしっかり持ちなおす。ユウは舟にしがみついてジッとしていた。

(あの、こみいっている時に申し訳ないのですがーー)

どうしたの?」

はい。ユウ様のお兄様をこちらへお連れしました。ですが、最後の夢で、どうやら落ちてしまったようでして。)

「まったく、次から次だねぇ」

「ケンジが? どうしたの」

「様子をみてくるよ。悪いけど少し待っててくれる? インコがあなたを守る。大丈夫、すぐに戻ってくるから」

ユウがうなずいたので、女は空を見上げると舟の先端に立ち、飛んだ。一瞬で空に消えたので、ユウは目を丸くして空をみた。

「いまのは、何? すごい――」

ユウの言葉にインコはピピピピとさえずった。ユウと同じ気持ちのようだった。

* * *

エレベーターは下に降り、妹はすでに一階に着いていた。しかたなく彼は階段を使って追いかける。

妹は大人の目を上手に盗み外へでていった。辺りは薄暗く、少し先の電灯がぼんやりともる。雨が強く降り始めていて、ケンジはあわててフードを被った。

「ユウ!」

ケンジは夢中になって走ったが妹は彼の目の前からフッと消えてしまった。焦って周りを見わたしてみるが、人っ子一人いない。

「この様子じゃ本降りになる」

ケンジはいま不安と闘っていることはわかっていた。すると、小さな光がケンジの目の前を通り過ぎた。

(インコか)

雨は少しずつ強さを増し、ケンジの肩にポツポツと当たる。ふと気づくと街灯はほとんどない。彼はあまりの暗さに思わず足がすくんだ。たのみの綱は、あの黄色い光だ。行先はなんとなくわかってはいた。ケンジはインコを追いかけて急な坂道を走ったので息が切れる。だがようやく大きな二枚岩にたどり着いた。昼間とは違い不気味でグロテスクな印象だ。

インコはその岩の上をしばらく舞っていたが、やがて岩の後ろに隠れてしまった。

「おい、待てよ」

だが光は消え、チリンと鈴の音がして二枚岩の下にポッカリと穴が開いた。ケンジが叫ぼうとする間もなく、底なしの穴に転がり落ちていく。穴はいびつでケンジは何度も体をぶつけた。どれくらい落下したのだろう。やがて真っ白な、霧のような空間に投げ出された。

ケンジはうめきながら身動きがとれず、鋭い痛みが全身を襲った。しばらくするとインコがケンジの周りをヒラヒラと舞い、やがて消えた。

(父さん、母さん、ユウ)

一瞬家族の顔が脳裏をよぎる。だが、彼はそのまま気を失った。

* * *

ずいぶん時間がたった気がする。おそるおそる目を開けてみると、辺りは白いもやに包まれていた。彼は穴の底にうつぶせで横たわっている。意識が戻るにつれ、ケンジの全身が痛みでズキズキしてきた。仰向けになろうと寝返りを打つと、激痛で思わず身をよじる。

(どうしたらいいんだろう)

途方に暮れ地面に寝転がっていると、もやの向こうから誰かがやってきた。ケンジは緊張したが、なす術がない。

人物は、彼の前にしゃがみこんだ。そして頭にそっと手をあてる。体からふわりとヨモギの匂いがした。続けて右腕、右足、左足、左腕と同じように手あてを続けた。ずいぶんと長い間そうしていたが、やがて全身の痛みがひいていった。

「もう大丈夫だよ、起きて」

そう言われ、ケンジはおそるおそる立ちあがった。たしかにどこも痛くない。ホッとしてようやくその人物を見た。目の前にいる女は着物姿で青い目、白銀の長い髪を後ろで束ねている。

ケンジは生まれてからというもの、こんな美し女を見たことがなかった。思わず見とれたが、女は「立ちあがったら、歩くんだね」とぶっきらぼうに言い、背を向けて歩きはじめた。

パジャマの膝は破けて血がにじみ、頬をなでると手が血で汚れた。

「助けてくれてありがとう。でも、まだ」

「完全じゃないね」と女はいい、持っていた手拭いで傷口をさすっていく。手拭いにも血がついて真っ赤なシミが点々とついていった。だが女はかまわないまま手拭いで傷口をふいていく。少しずつ、ケンジの体から野草の匂いが漂う。

一通りケンジの体を拭くと、女は竹の水筒を開け手拭いをすすいだ。あっという間に血が落ちて、元通りの手拭いに戻った。

「このくらいでいいだろう」そう女が言うので、ケンジは手や顔にふれてみた。たしかに血がしたたることはないが、痛みは続いていた。

「さて、時間がないから行こう」

「行こうって?」そう彼は訪ねたが、女は答えないまま歩き出した。しかたなくケンジも後を追う。だが、歩いても歩いても風景が変わらない。女の足は意外にも早く、ケンジは追いかけるのがやっとだった。

「ねえ、ココはどこなのさ」

「だから、穴だよ」

「ひょっとして、オレが以前、夢で落ちた場所?」

「そうともいうね」

ケンジは周りを見たが、ただ無機質なだけの真っ白い空間は、果てがないような気がする。少年と女は歩き続けた。だが歩いても歩いても、先は真っ白い霧があるだけだった。正直、疲れていたし不安だ。なぜ四国へ来てしまったのだろう。こんなコトになるなら、いっそあのまま家に居ればよかったのに。

しばらく歩いていくと、ヒタヒタいう音がした。彼はチラリと後ろを見る。なにもないーー 女が急に足を止めた。

「ーー伏せて」

一瞬のことだった、ケンジと女がよけた先から、何か白い獣が飛びかかってきた。白いもやが邪魔しているが、何かいる。ケンジは驚いてその場にしゃがみこむ。女は腰から短剣を出した。上を見て、さだめをつけると短剣を投げる。唸り声とともに、それは目の前に落ちてきた。

ケンジと女が近寄ると、灰色のオオカミのような物体が呻きながら横たわっていた。脇腹に短剣が突き刺さっている。女は短剣を引き抜くと、すぐにオオカミの喉を切った。一瞬の出来事だった。オオカミは小さく痙攣すると、跡形もなく消えた。

「あんた、何かよくない考えごとしてなかった?」

怒った表情で女がそう聞いてきた。女の瞳をみていると、ケンジはまるで自分が悪いことをしたような気持ちになる。

「この世界はイマジネーションでできている。あんまりネガティブなことを考えると、その通りになるから気をつけな」<

「じゃあ、やっぱりこれは夢なの」

「そうともいう」

「いまーー。不安で帰りたいって思ったよ。チラッとパズルの事を考えた。そのパズルの絵ってーー 城の前にオオカミがいるんだ」

「察しがいいじゃん。そうだよ。ここは君がいる場所よりイメージが現実化しやすいんだ」

「じゃ、どうしたらいいんだろう。ここから出たいし霧が晴れるといいなって思うんだけど、イメージしなきゃだめ?」

「やってみたら?」

ンジは疲れきった表情で女を見る。すると女は「ちょい、これを渡しとくよ」と言い、カフスを手渡した。

(一つは、誰かが拾ったんじゃない?)

ケンジは以前、ユウが言っていた言葉をふと思いだした。

「どこで見つけたの?」

「海岸さ」

「でも。無くなったカフスが夢の中にあるなんて」

そう言うと、女が眉をあげてケンジを見た。

「君さあ、こっちによく来ているワリにはわかってないね」

「どういう意味?」

「だーかーら。さっきも言ったとおりだよ。穴に落ちたら痛い。歩かなきゃ出口がない。必死で探さなきゃダメって感覚が、この世界を創ってるってこと」

彼はペアのカフスをしばらく眺めていたが、ボタンの穴に通してみた。すると、なぜか脳裏に巨大なアーチが浮かんでくる。

「大きくて高い……、出口はあそこかな」ケンジがそうつぶやくと視界が少しずつクリアになり、その向こうに巨大な岩場のアーチと海が見えてきたではないか。

「ああ、やれやれ」女は伸びをしながら、アーチ状の岩へ向かう。後ろから勢いよくインコが飛んできて、女の肩にチョコンと乗った。ケンジはボウゼンとその様子を見つめていたが、あわてて女とインコを追いかけた。

 * * *
アーチ状の岩をくぐりぬけると、いつもの海岸と少し先には防波堤があった。空は海鳥が騒がしく鳴いている。ケンジは後を追いながら海岸を見つめる。パジャマ姿でジャケットを羽織った姿だったが、彼の様子を気にする者などいないようだ。

「あの舟に乗る」と女が言う。その方向を見つめると、たしかに、小さな舟が見えた。

「泳げる?」

「多分ーー、でもココにいちゃだめ?」

ケンジは舟がいる場所まで泳げそうもなかった。

「ご勝手に。でもあんたの妹は乗ってるよ」

「ユウが?」とケンジは言い、考えこむ。

女は沖を見つめ、チラッとケンジを見ると「さっき穴の出口を見つけたね。あんな感じで泳ぎな」と言う。雨はしだいに強さを増してきた。だが女は雨など気にもしない様子で海の中に入り、やがて沖に向かって泳ぎ出した。

ケンジは浜辺に立ったまま途方に暮れる。あんな風に泳げる自信はまったくない。しかもこんな格好だ。

(この世界はイマジネーションなんだ)

女の言葉を思い出し、意を決してケンジも一歩海へ足を踏みいれる。ときおり波が高くなりジャケットがぬれて靴も重くなっていった。すると、いきなり大きな波が押しよせる。

「ねえ、助けて」

パニックが彼の心の中を占め、思わず女に向かって叫ぶ。だがケンジの体は濁流に飲みこまれた。

必死にあがこうとしたが、急に気力がなくなり手足を動かすことができない。

(もうダメ――)

ケンジは海の中に沈んでいく。すると海底が急に逆流し、彼の体を強い力が押し上げていった。水の中でうっすら目を開けると、父が両腕でケンジを引き揚げようとしているではないか。

(父さんが見ている――。どこかで)

幻かもしれない、だがケンジは急に気力が蘇る。すると、なんとか頭を地上にだすことに成功した。

「助けて!」

すると一艘の舟がこちらにやってくる。体はそろそろ限界だった。

「ケンジ!」

叫び声が聞こえる、ユウだ。それと同時に舟が近くまでやってきて、女が彼の体一気に引き上げた。彼は意識がもうろうのまま、しばらく舟に捕まっていた。

「ユウ、大丈夫なのか」

「うん、漁を手伝っていたの」

そう妹は言いながら後ろにあるカゴを見せると、いろいろな大きさの白い玉が浮いていた。

「ユウが舟に乗ると。たくさん、浮いてくるの」

「これは何」とケンジが女に聞く。

「魂っていうやつ。こっちでは玉という」

「これが漁なの」

「そうだよ」

「魂は天に行くのかと思ってた」

「ここに浮いているのは浄化していないヤツだ。だから捕って好物の連中に分けてやるのさ」

「えーこんなのを?」とユウがいうと、肩でインコがピピピとさえずった。

その時だった。急に後ろから笑い声が聞こえてくる。海の上にはインコと三人以外いないはず。

「まずい。静かに」と女が言う。

「何?」

「人魚に見つかった。返事をしないで」

「ねえ、坊や。かわいいねえ」

人魚はケンジに向かって手をヒラヒラさせた。人間でいえば四十代。女のようで、漆黒の長い髪とやや垂れ下がった乳房がある。


「遊ぼうよ、ねえ」と言い、別の人魚が舟の先を揺らし始めた。ユウはあわてて舟にしがみつく。

「こっちにおいで、坊や」

三匹目の人魚がやってきた。そして次々と舟に人魚が寄ってきて、舟はあっという間に取り囲まれる。銀髪の女はとっさに櫂を手に取ると、人魚の手を目がけて振り下ろした。

「ちょっと、なにすんのさ」

人魚はすさまじい形相になり、グルグルと舟の周りを泳ぎ始めた。しばらくすると人魚のうねりが渦潮となり、舟がゆっくりと回転を始める。

「やばい。このまま渦潮が強くなると沈没する」

ユウは女の腰しがみつく。ケンジもバランスを失い舟の後方に座りこんでしまった。必死で周りを見ると空を飛ぶ一羽の海鳥に目がとまった。鳥の動きがコマ割りのように脳裏に写り、鳥たちが人魚に関心を示していることに気づく。ケンジは思わず鳥に助けを求める。

ーー空を飛ぶ鳥よ、海鳥よ。君はなんて優雅なんだ。

お願いだ。その素晴らしいパワーを少しだけ僕に貸してくれーー

すると海鳥が舟の近くまで急降下し、人魚の髪を突いて飛び去っていくではないか。一羽、また一羽と次々に海鳥がやってくる。ユウも女も驚いた様子で海鳥を見た。ケンジもこの光景を不思議な気持ちで見守った。

「鳥どもめ、邪魔スンナ」

そう人魚は尾ひれを振って怒りをあらわにする。だが次々とやってくる海鳥の攻撃に、人魚たちは次々と退散していった。

しばらくすると渦潮は無くなり、再び海は穏やかな表情に戻った。

「おみごと」と女は言った。「ふつう、人魚に囲まれたらアウトなんだ」

「ケンジ、すごいね」とユウが言ったが、ケンジはボウゼンとしたまま、舟の後ろに尻餅をついていた。

* * *

空は晴れ、星が見えてくる。夜空の下で舟を降りた三人は玉の入ったカゴを抱えて海岸沿いを歩いた。

「ねえ、これどこに運ぶの」

「防波堤の片すみの闇に投げこむのさ。うちらは(処理場)って呼んでる」

「えー、やな名前だな。あの薄気味悪いトコでしょ」とケンジが言うと女はニヤリとする。

「ユウこんな手伝いヤダなぁ」

「いいもヤダもないさ。これが漁の締めなんだ」

二人の会話を聞きながら、ケンジはそっとカゴを降ろした。

「ねえ、二人とも」

「なに」

「この玉なんだけど――。(処理場)に持っていくの止めない?」

すると、女の足がピタリと止まる。

「じゃあ、どうするの」

「魂なんだから、天に戻そうよ」

「いいね、賛成」とユウが言う。だが女はしばらく考えこんでいる。

「どうなの」

女は兄妹の顔を見ながら「やったことがない」と言い、カゴを降ろす。

「急な話だね」

「ダメかな」

「話を聞こうか。なぜそう思うの」女にそう言われたのでケンジは少し考え、そして言った。

「この世界は……。オレの想像が創ったんだろ」

「そうともいう」と、女はまた繰り返した。

「じゃあ、違う世界にもできるよね。荒廃したユメなのは、きっと魂を闇に放りこんでいるせいじゃないのかな。だったら投げこむのを止てみればいい。そうすれば世界が変わる気がするんだ」

女は無言のままだった。ケンジはさらに話を続けた。

「君も、鳥たちも、あの闇に玉を放り投げなきゃいけないルールなんてないんだ。ただの思いこみさ。オレがこの夢が荒廃して逃げられない場所だと思いこんでいたように」

女は腕を組んでケンジの話を聞いていたが、急に肩をすくめると、防波堤とは逆方向に歩きだした。

「ねえ、どこへ行くの?」

「アーチ岩の下さ。ケンジ君のご要望通りやってみよう」

初めて自分の名前を呼ばれたことに戸惑いながら、ケンジは妹と一緒にカゴを持ち、女の後についていった。


三人が防波堤を背にしたとたん、急に雲行きがあやしくなる。ゴロゴロという音が響き渡り、風が強く吹いてきた。

「気づかれたかな、急ごう」

女がそう言うと三人はあわてて走った。


アーチ状の岩の下に着くと、三人は奥に入り、さっきケンジと出てきた場所まで進んだ。さらに奥へ入ると、岩場がくりぬいてあり、そこには透明度の高い水が湧く泉がある。

「魂は浄化すると自然に天に昇っていく。それまでは綺麗な場所で泳いでもらうしかない」女はそういって捕らえた玉を泉の中にうつす。ケンジとユウも後に続いた。

「いつもの場所に投げないと、どうなるの」

「あたしも知らない。だがこの世界にいる奴は罰を恐れて誰も逆らわない」

その時、岩の向こうで稲光が鳴った。三人は急いで岩下に隠れた。

「ほらね、もうお怒りだ」

雷はアーチ状の岩の近くにも落ち、大きな音が響いた。インコはいつの間にかケンジの膝の下に隠れている。

「処理場に玉をやらないから怒ってるの?」

「そう。人も動物も、おなかが空くほどイラつくだろ?」

だが光の玉は天気とは逆で、気持ちよさそうに泳いでいた。水面でプカプカと浮かんでいたが、ひとつ、またひとつと泉の底に沈んでいく。すべての玉がすっかり泉の底に沈むと、落雷がまた岩のそばにドーンと落ちた。

三人は身をすくめ、イベントが終わるのをひたすら待った。しばらくすると落雷は小さくなっていき、アーチの岩から遠のいていく。やがて空から、あのうるさかった声も響いてきたが、その声ははかない。ケンジはもう怖くなかった。空を見上げると雲が人の顔のように変化している。それは老人のようであり、苦悩の若者のようでもあり、疲れ切った女のようにもみえる。

「とりあえず、雷はもうすぐ終わるかな」

「でも、またヘンな天気になるよね」

「しばらくの間はね。なんとかなるよ。ところでユウ、舟はつらかったろう」

「こっちこそゴメン。だってユウ、てっきりお父さんだと思ってーー」

「いいんだよ。この巨大なアーチの下は天に通じている。玉が浄化すれば天も静まるさ」

そう言いうと、女はケンジに向き直り顔を近づけた。

「アナってんだ」

「ええ、穴?」

「ちがうよ、あたしの名前さ。ケンジ君」そう言って女は笑った。

* * *

「アナ、あたしたち帰れるの?」

「帰れるよ。だって帰りたいだろ」

「帰りたい。交換日記の続きを書かなきゃいけないの」そうユウが言うと女が笑う。

「アナ、漁は続けるの?」

「大丈夫よ。捕ってもあの泉に浮かべるから」

「よかった」とユウが言った。

アナと兄妹は岸辺から二枚岩までの小道を歩く。雨はすでに止み、夜明け前の薄暗さがおおうなかで二枚岩にさしかかろうとした時だった。

「あ、あれを見て」とユウが沖を指さす。三人が丘から海をながめると、大海原の中心に光の光が見える。ときおり落雷とぶつかりながらも、力強く天に昇っていく。

「宇宙(ソラ)が開いている。おお……。」

「アナ。あれは何」

「さっきの玉さ。昇天していっている」




「すごい……」

三人は海から昇っていく光をしばらく見つめていた。アナの両目からは涙があふれ、頬をつたわっていく。

「もう大丈夫、浄化した玉は世界を変えていく機動力になるんだ。少しずつだけど二人とも悪夢とはお別れになるよ。そして、新しい世界が始まる」

「アナもあの漁から解放されるの?」

「多分ね。すぐではないけど」

「楽しいといいなぁ」

「ユウがそう望むならね」そういってアミからひとつの玉をとりだした。

「二人とも手を広げてみて」

兄妹はアナの前に手を差し出した。女は兄妹の手の上に、父親の玉を乗せた。

「なんか、あったかい」

ユウがくすぐったそうに言う。しばらくすると光は兄妹の手の中に吸い込まれるようにして消えた。

「今のはなに?」

「おまじない、さあ、出口に来た。憶えていて、恐怖や不安や悲しみが創っていた世界なんだから、楽しい事を考えるんだ。イマジネーションを大切にね」

アナはケンジを振り向くと「お父さんのカフスを大切に。そして祈るんだ、きっとよくなる」と言った。

「ありがとう。君に……。また会えるかな」

「会えるさ。見えない世界を信じるなら」

朝日が昇ってきた。アナは二枚岩を背にすると「元気で」と兄妹に言い、霧のように消えていった。

* * *

「ちょっと、ケンジ」

うつぶせになって爆睡していると、母が布団をめくりあげた。

「え、何」

「汚いカッコだね。どうしたの」と母は言う。

おそるおそる目を開けてみると、パジャマはずぶぬれで、ジャケットは肘の部分が破けている。

「ひょっとして、夜、海岸に行って転んだんでしょう」

ケンジはとっさに「うー、ごめんなさい」と言い、布団の上に正座した。

母はあきれたように彼を見ると「今回はいいわ。旅館の浴衣でもいいから着替えて」と言う。

「ユウは?」

「あんたが起きないから先にご飯へ行ったわよ。おなかがペコペコなんだって」

「母さん、あの…… いや、昨日はよく寝てたね」

「そう? いいから早くきてね」と母は言い、部屋をでていった。

ケンジは部屋を見回した。十二畳ほどの畳にはユウとケンジの服が散乱し、お土産が少し増えている。彼はジャケットのポケットを探ると、二つのカフスがゴロンと畳の上に落ちた。貝で作った宝石箱は持ってきていただろうかと探しながら、昨夜のことをぼんやりと思い出すが、あまりの出来事に夢のような気さえしている。

「ケンジ」

急に呼ばれて振り向くとユウがいた。髪もしっかりブラッシングし、おろしたてのワンピースを着て。

「待ってても来ないからママが呼んできてって」

「大丈夫か?ユウ」

「うん。眠気は急になくなっちゃった。今日はぜったい海に行く。ずるいな、昨日は二人だけで」

「だってユウはあの舟で漁をしてたし」と言うと、ユウは首をかしげ「なんのこと?」と言う。

ケンジは思わずユウの顔をジッと見つめた。

「なに? キモイなぁ」

「いや……、すぐご飯に行くから」

「わかった。はやくきてね。あはっケンジ。すごいカッコ」

ユウの後ろ姿を見送ると、開ききっていないカーテンを開け、窓から外を見る。すると海岸線には虹が見えた。

「アナ……」

思わずつぶやくと、ピピピと鳥のさえずりが聞こえてきた。彼は目をつぶってイメージした。

この世界は――。この朝のように喜びで満ち溢れている。鳥はさえずり、子どもたちが笑い、大人たちは忙しいながらも充実した世界。そう、雷雲がとどろく場所ではない。未来永劫、光り輝く場所なのだ。

スマートフォンが鳴った。母もユウもせっかちだなと思いながらもあわてて手にする。ケンジは窓からはなれて浴衣に着替えると、母とユウの待つラウンジへ、大急ぎでむかっていった。

(おわり)