「兄ちゃん、ちょっとお父さんの足をあげてくれる?」

「うん」

ケンジは父親の足首を持つ。母は慣れた様子でクッションを足首の下において固定した。少し高い方が血の巡りにはいいそうで、床ずれの防止にもなるらしい。最近母は息子を「アニキ」とか「兄ちゃん」と呼ぶ。ユウや父をサポートをするようになってからだ。

「ねえその呼び方さ、やめない?」

「何が? だって兄ちゃんなんだからいいでしょ」

ケンジは抗議しようとしたが「野沢さん、検温ですよ」とスタッフが入ってきた。彼女は慣れた様子で父の体温を測ると「今日はサンドイッチにしましたから」と二人にいう。

「すみません」

「いいんですよ、ちょっと待っててね」

しばらくすると、ラップにくるんだサンドイッチとジュースを運んできた。

「お父さんの洋服を洗ってくるわ。ちょっと見ててもらっていい」と言い、母がランドリーに向かう。そこでケンジは父のそばに座り、持ってきた本を読むことにした。

風がときおりカーテンを揺らし、遠くではウグイスが鳴いていた。ケンジはふと父を見ると、穏やかな顔をしている。

「父さん、オレ。中学受かったからさ」

そう言ってみると、なぜか父が笑ったような気がした。

母はまだ帰って来なかったが、ケンジはトイレに行きたくなった。そこで立ちあがると、通りかけた看護師に一声かける。

「お手洗いは、つきあたりを左に曲がったところよ」と言われ、ぺこりとお辞儀をし、部屋を出る。昼間とはいえ保養所はシンとして空気はまだ冷たい。落ち着かないまま用を足すと、そそくさとトイレを出る。

(やはり、こういった保養所って苦手だな)

カンがするどいケンジは、病院やお墓は極力避けたい場所だった。嫌な目に遭ったことはないのだが注意が必要だ。

そんなことを考えながら部屋に入った時だった。カーテンの中で父をジッと見ているスタッフがいた。いや、スタッフだと思ったが、雰囲気が明らかに違う。その女は着物姿で父の額に手を当てていた。銀色の髪をポニーテールのようにトップで束ねている。

「あの」

そう言ったとたん、その存在は一瞬にして目の前から消えてしまった。ケンジはとっさにカーテンを開けたが、ベッドには父しかいない。いま、たしかに誰かいたのに。

たて続けにケンジの脳裏には、広々とした花畑のイメージが浮かぶ。

(クマザサ、ヨモギ、スギナ、ドクダミ、タンポポ、ラベンダー……)

「なに、なんなんだ」

よく知らない野草の名前が次々に浮かんで、ケンジは頭を抱えた。

「ふう、おまたせ。どうしたの?」

母が洗濯物を終え、部屋に入ってきた。変な表情でもしていたのだろうが、ケンジはあわてて首をふる。

「今日は天気がいいし、外で食べようか」母はそう言ってベランダにイスを運んだ。

「来る前にお昼くらい買えば? 駅前にあったじゃん」

「そうは思うんだけどさ。いいじゃないの、好意に甘えましょう」

たしかに保養所のランチは美味しいので楽しみになっている。またヘンなものを見てしまった。だが、別に父についている悪霊にはみえない。逆にインコのように親近感さえ感じてしまい、ケンジはとまどいながらサンドイッチを食べた。

「あ、そう言えば思い出したんだけど、この間見つけた、カフスね」

「カフス?」

「うん、あれね。ずっと前にお父さんと旅行に行ったときに買ったの。四国に行ったのよ」

その言葉を聞いたとたん、見ていた風景がかすみ、防波堤の光景がよみがってきた。

四国なのかな、あの悪夢はーー。

「四国のどこ?」

「どこだったっけなぁ。とにかく海岸沿いの土産屋さんで買った気がする」

ケンジは思わず後ろを見た。父は来た時と同じようにベッドに横たわっている。

「どうしたの」息子の様子が急に変わったので母は妙な顔をする。ケンジは首をふって、サンドイッチの残りを大急ぎで平らげた。


「五千円、千円が十九枚に、あとは……」

ケンジは貯金箱をひっくり返す。小銭も入れると九万五千円くらいあり、自分一人なら四国に行けるくらいの金額だった。

「なにしてんの」

ノックもせず、母が急に入ってきた。ケンジはちょっと動揺した。お年玉を使うことにクレームをつけられたことはない。だが今回は、母がケンジを怪しんでいる様子がうかがえた。

「怒らないから。何に使うのか教えてよ」

「いや、旅行にでも行こうかなーって」

「旅行? あんた一人で?」

「うん」

「ええ。なんでよ」

「だって春休みになるし。いいじゃん、もう」と言い、数えていた小銭を貯金箱に戻す。

「あのさ、一人旅はないでしょう。どこに行くつもりなの」

「あー、うん。四国へ」

「ひょっとして、あのカフスの話を聞いたから?」

「うん、いや。どうかな」

息子の動揺を見ながら母は考えこんでいたが「そうね……。中学校のお祝いもあるし。じゃあ四国に旅行するか」と言いだした。母の決断力は折り紙つきだが、今度はケンジが驚く番だ。

「いいの、マジで」

「うん、だって行きたいんでしょう。お父さんとお母さんが行った所へ。でもさ、海外とかじゃなくてもいいの?」

「いいの、四国へ行きたい」

「わかった。今回はユウの事もあるから、お医者さんに聞かないと」

「ユウも連れていく気?」

「そりゃそうよ、ずっと留守番させるワケにはいかないでしょ。少し時間をちょうだい」そう母は言うと、部屋を出ていった。

ユウが四国へ行く。もしそれが現実になるなら、本当にあの夢の謎が解けるのかもしれない。ケンジはこの旅がパズルのように、すべてのピースがピタリとはまる寸前のような、不思議な感覚をおぼえた。


旅の前日。ケンジが荷物をチェックしていると妹がやってきた。

「あたしはリュックと、このポシェットだけ」と彼女は言う。必要なモノはすべて宅配で送っていた。

「四国ってどんなトコかな。楽しみだね」

「体調が悪くなったら、すぐ言えよ」

「大丈夫だよ。ユウの担任の先生がね。長い旅だから気をつけてってお守りをくれたんだ」

そう手首を持ち上げると、小さな水晶のブレスレットがキラキラと光った。それを見てケンジもふと思い出し、机から例のカフスを取りだす。

「ほらコレ。お父さんが仕事で使うアクセサリーだったんだって」

「あ、コレ。夢でも見た!」

「え、そうなの? なんで夢にカフスがあるのかな」

ユウはその問いに首をひねると「わかんないけど。落ちてたんじゃない?」と言う。

本当だろうか。たしかにカフスは二つのペアで、ココにあるのは一個だけ。ケンジは身震いすると「じつはね、今回の旅は……。ちょっとこわいんだ」とユウに打ち明ける。

「こわいの?」

「うん」

ユウは兄を不思議そうに見ていたが「でも行くんだ、四国に」と言ってまた笑った。

* * *

出発の日になった。三人は早朝から東京駅へ向かう。ユウはホームから新幹線までをすべて自分で行動した。つまり自分の足でホームまで歩いたし、いざ新幹線がやってくるとチケット番号をしっかりと照合し、指定の席に座った。

母もケンジもユウのこの様子に目を丸くした。家ではずっと寝ていたのだ。だが新幹線に乗ったとたん、ユウはスイッチが切れた人形のように眠ってしまった。そして新幹線は滑らかに発車した。

新幹線は名古屋を通過し、新大阪も通りぬけた。ケンジは長い時間、新幹線に乗るのが初めてだ。だが一日中乗っていてもいいと思うくらい、快適だった。

母は到着する直前にユウを起こし、三人で新神戸に降りた。初めて来た西日本はケンジとユウの五感を刺激し始めた。

「すぐに四国へは行かないよ。神戸も観光したいでしょ」

子どもの様子を面白がりながら母が言う。そして三人はタクシーを拾うと神戸ハーバーランドへ向かった。母も初めての場所だったらしいが、いざ着いてみると観覧車があり、兄妹は思わず見上げる。

「なんか、横浜に似ている」

母は笑って「そうだね、まずはチェックインをしようか」と言い、ホテルへ入った。

予約したホテルはベイエリア沿いで、部屋は八階だった。カーテンを開けると神戸港が一望できる。ケンジはその景色のよさにすっかり目が奪われた。外ばかり見ている息子をしり目に、母はまずユウの体温を測った。少し高いがそれほど問題はなさそうだ。ユウはパジャマに着替えると、目の前にあるベッドに潜りこむ。

「寝心地はどう」

「すてき!お姫様のベッドみたい」

<p>ふかふかのベッドが気に入ったのか、彼女はそう言うと目を閉じて眠りこんでしまった。

残された母とケンジはホテルを出るとベイエリアを散歩した。港に吹く風が気持ちいい。母はずっと「あー来てよかったぁ」をくり返している。これでユウが元気になればいうことはない。旅はまだ始まったばかりだし、そう楽観視しながらケンジも港から見える景色を楽しんだ。


神戸空港からのフライト時、空は快晴だった。妹は空港で目を覚ますと機上からの瀬戸内海を食い入るように眺めている。逆にケンジは飛行機があまり得意ではなく、揺れるたびにドキドキしていた。

高知に到着すると三人は空港からタクシーに乗り、母はある海岸の名前を告げる。車はずっと海沿いを走り、見上げるとトンビが大空を旋回していた。

タクシーが到着したのは老舗の旅館だった。神戸のホテルとは違って純和風の建物だ。

「お父さんと泊まったホテルはもうなかったの。でも場所は近いのよ」

母はケンジにそう説明すると、すぐに内線を回して布団を一組敷いてもらうことにした。三人は温泉に入り、夕食を客室で食べた。カツオのたたきや新鮮なブリの刺身は、二人を喜ばせるのに十分だった。

「ユウ、大丈夫?」

「大丈夫だよ。眠くないもん」とユウは言うと、嬉しそうにカツオのたたきを口にする。子どもの様子をアテにしながら、母は缶ビールをチビチビと飲んだ。このまま眠らなければいいのにとケンジは思ったが、母にうながされ、妹はしぶしぶ布団に入る。天気予報によると明日は晴れるが、夕方から雨になるらしい。

「せっかく来たのに残念だね」

「ううん、来ただけで十分」とケンジは言った。

「そうだね。天気なんてすぐ変わるし。明日は海岸を散歩してみようか」

「うん」

母とケンジは昨日と同じく早めに就寝した。案の定、母は一番に寝息をたてた。だがケンジは相変わらず寝つきが悪い。今夜は珍しく、ユウも暗闇の中で目を覚ましていた。

「ケンジ、眠れないの?」

「うん」

「なんかさ、ここ夢の場所みたい……」

「似てるよな?ね、だから」

「ああ、だからココに来たのだっけ」ユウもようやくケンジが同じ夢を見ていると察したようだ。

「明日。母さんが散歩しようって」

「調子が良かったらね。でも、本当に夢と同じ場所なのかな」

「どうかな?」

「うん……。ちょっとドキドキする」

「夢と現実は、さすがに違うだろう。明日確認しよう」

「そうだね、おやすみなさい」と妹は言った。


翌朝になった。部屋に朝日がさしこみ、その光の強さで目を覚ました。奥ではもう母が身支度を整え始めている。

「ケンジ、起きたの。おはよう」と母は言い、息子に歯ブラシとタオルをわたす。それを受け取ると彼は洗面台へと向かった。身支度が整うと、母とケンジはラウンジへと向かった。

朝食にはワカメと豆腐のお味噌汁、アジの開き、だし巻き卵、小魚の煮つけ、温泉卵、ノリや梅干しが並んでいる。白米をお代わりしみそ汁を飲むと、昨日までの不安が少しだけやわらぐ。

朝食を終え、部屋に戻ってもユウはまだグッスリ眠っている。

「ユウも、疲れが出てきたかな」と母は言い、即席で作ってきた小さなおにぎりを二つ、彼女の枕元に置く。そしてラフな服装に着替えると「そろそろ行こうか」と言い旅館の外へ出た。

* * *

海岸は凪で天気もよく美しい。晴れわたる大海原を前に、ケンジは思わず深呼吸をする。

「いいとこでしょ。海がきれいよね」

「うん」といいながら、ケンジは砂浜を走り出した。

海岸を散歩すると母は小さな商店街に連れて行ってくれた。貝殻を使った工芸品がたくさん置いてある。だが、どの商品もホコリをかぶっていた。

「昔はもっと、たくさんお店があったのに」と母は言い、二人は店を出た。

結局、母とケンジは土産屋を二、三件見ただけだった。帰り道、小さなカレー屋があったので昼ご飯を食べる。その定食屋を通り過ぎると他にお店がない気がしたからだ。

カレーを食べおえ宿へ帰る途中、母が小さな脇道を発見した。二人でしばらく歩くと、道は徐々に細くなってきた。雑草が目立ってきて、カラスがうるさい。緩やかな坂道も長く続くと疲れるものだ。ケンジは少し息切れがしてきた。

しばらくすると、ようやく頂上へ着く。そこには奇妙な形をした二枚岩があった。大人の背丈ほどで、大きな岩が小さな岩によりかかっている。二人は二枚岩をぐるりと一周した。後ろは崖で、手前には松林があった。そして松の隙間からはさっきの海岸が一望できた。

「あれ、この岩は、たしか……」

「見おぼえあるんだ」

「うん。ああ、ここでお父さん転んだんだわ。そうだ!」と言い、思い出したように母が指をパチンと打った。

「カフスを落としちゃったの」

「え、こんなとこで?」

「うん、すぐ箱を開いたときに落としたのよ。降りてからもう一つカフスを買ったの。思い出した」

「もうカフスはないよね」

「そりゃそうでしょ」と母は笑った。

ケンジはあらためて景色を眺めた。よく見ると崖の下には防波堤もある。あまりにも夢に似ている。

「ユウが起きたって。待ってるから帰ろう」スマホを持って母が言うので、ケンジは母の後を追いかけた。

* * *

ホテルでは、ユウが二人を迎えてくれたが、夕飯を食べ終えると「先に休むね」と言って寝てしまった。仕方なくケンジと母はテレビを見る。温泉には何度も入ったので、これ以上行くと湯あたりしてしまいそうだ。

外は少しずつ雨が降りだす。

「本降りにならなきゃいいね」と母は言い、ビールを飲んだ。その横ではユウが布団にくるまり小さな寝息をたてている。ケンジは外の景色を窓から眺めた。黒い雨雲が空いっぱいに広がり、まるで以前見ていた夢のような風景だ。

「ケンジ、窓を閉めてね。ふう、そろそろ寝よう」

そう母が声をかけてきたので彼は窓を閉じてカーテンを閉める。布団に入るのを確認すると、母が電気を消した。シンとした客間は一瞬で闇になる。現実と夢のフィルターが重なったような不思議な場所だ。昨日までは寝つきが悪かったケンジも、旅の疲れか、いつの間にか眠ってしまった。

* * *

大しけで舟が波にもまれている。どうやら漁から戻ろうとしているようだ。海岸ではその舟を見つめる子どもがいた。

「ユウ」
ケンジがそう呼ぶと彼女は後ろを振り向いた。だがすぐに、舟を心配そうに見つめる。大しけのなか、ピーヒョロロロとトンビが鳴いてユウの周りを旋回する。

ユウは意を決したのか、つたない足取りで海に入っていった。

「ユウ、よせっ」

ケンジはユウを追いかけ、自分もいつの間にか沖に向かっていた。ジーンズがぬれて重い。だがユウは振り向きもせず泳いでいく。一瞬、爆風に近い風が海をたたきつける。そして大きな波がケンジを飲みこもうとした。

「ユウ!」

そう叫んで彼は布団から飛び起きた。目の前に妹が立っていた。これは夢?ケンジは一瞬、ここがどこなのかが分からなくなる。<

「ユウ、どこへ行くの」

「漁よ。急がないと。父さんが――」

よく見るとユウの髪は乱れ、目がうつろだった。だが彼女はケンジを背にすると闇のなかで靴を履きだす。

「待てよ、おい」

ケンジはそう腕をつかもうとしたが、ユウは兄をかわすと廊下へ出ていってしまう。

「母さん、ユウが」

そうふり向くと、母は目を閉じたままだ。ケンジは仕方なくジャケットをつかむと、ユウを追いかけた。