びっくりした? 彼はそう言っていたずらっぽく笑ってみせる。

「僕ね、月の住人なんだよね」

「え……」

「この世界の人間じゃないんだ。月に住んでるから、月、見たことあんまりなくてさ。毎回、何十年に一度とかのペースで旅行に来るんだよ。月の光を見ながら、ドビュッシーの月の光を弾くために、ここにね」

 唖然とする私を置いて彼は立ち上がり、窓から少し身を乗り出して満月を仰ぎ見る。

「あまり人に見つからないようにって言われてるから、いつも真夜中に来るんだけど……まさか人が来るなんて、思わなかったや」

「何十年に一度って……あなたは何歳なんですか?」

「うーん。500年くらいは生きてるかなぁ。……この質問、前にもしてきた人がいたっけ。君によく似てた」

 彼は笑いを含んだ声で言う。ああ、その人はきっと——。

「そうか、彼女は死んでしまったんだね」

「……」

 彼はまた椅子に座り直して、再び『月の光』を演奏し始めた。ピアノの静かな歌声が耳を穿った。長年にわたる闘病生活の末に命を儚く輝かせ、消えた、あの人に贈る歌のように。どうか安らかに眠ってほしいと願うばかりの、鎮魂歌のように。

「もうすぐ夜が明ける。君にピアノを教える必要はないみたいだ。もうとっくに、教えられているようだからね」

「もう、行っちゃうんですか?」

 もう、会えないんですか。

 私の中で光り輝く月との、永遠の別れに捧げられたピアノの旋律。鍵盤の上を踊るようなそのしなやかな手つき。私はたったこの一夜にして、きっと恋をしてしまった。

 胸がずっと不規則な鼓動を主張している。息を吸うとはやまり、吐くと落ち着くこの鼓動。私は生きている。
 お母さん。私はやっと、お母さんとの約束を果たせそうだよ。

「君と素敵な一夜を過ごせて楽しかったよ、ありがとう」

「私も……。私も、大切な記憶を思い出しました。もう忘れません」

「それはよかった」

 その雪のように淡い笑顔に胸が苦しくなる。叶わないと分かっていても、手を伸ばしたくなる。
 好きですの言葉は、あえて言わない。きっとその方が美しい。

 青年が私の頭にそっと手を置いた。

「僕は待ってるからね、君の弾く『月の光』が、僕の住む彼方の月に届くまでずっと」

 私もそっと微笑を返した。
 空の濃紺がだんだんと淡くなっていく。月の光が薄れていく。ひとつの音楽が、ひとつの物語が、終幕へと歩みを進めるように。

 開け放った窓から、強い風が吹き込んできて思わずぎゅっと目を閉じる。目を開けた瞬間、——彼の冷たく静かな温度は失せ、姿も見えなくなっていた。
 彼は行ってしまった。もうずっと、手の届かない場所まで。

 一人になった音楽室で、ピアノの前の椅子に座り直す。
 白くなっていく空。君が彼方に消えた空は美しく、爽やかな香りがした。
 ベートーヴェンの月光は深く暗い夜の底のようなイメージがあるけど、ドビュッシーの月の光は朝焼けのような、月の光が淡く弱くなっていくようなイメージがある。

 私はやっぱり、月の光が好き。朝の匂いがするから。始まりの匂いがするから。

 ペダルの上に足をのせて、鍵盤にそっと指を沿わせた。
 さぁ、もう一度。
 私が始まる。
 再生の時だ。