【第一部・完結】七龍国物語〜冷涼な青龍さまも嫁御寮には甘く情熱的〜

「ああ、おれの手も鱗に覆われてしまったな。だがお前と揃いなら悪くない」
「どうして、蛍流さんまでこんな手に……?」
「言っただろう。おれは青龍との誓約を破って、青龍の力と形代の資格を失ってしまったと。水辺というのは青龍の神気が最も濃い場所。そして目の前の水晶球には青龍がいる。今この場所は尋常ならざる青龍の神気で満ちている。只人が濃密な青龍の神気を浴び続けて五体満足でいられるはずがない。青龍の神気に耐え切れなくなった身体が鱗と化してきたのだ。もうじき消えるだろうな。跡形もなく、小米雪の如く砕け散るに違いない」
「そんなっ……! そんなのイヤです! だって、ようやく会えたのに! もっともっと蛍流さんのことを知って、たくさんお話したいのにっ!! この十年の間にあったこととか、お互いのことを……っ!」
「おれもだ。さっき崖下に落ちながら思い出したのだ。あの日、出会ったのが泣いていたお前だったと。どうして気付かなかったのだろうな。ずっと会いたくて、こんなにも焦がれていたというのに……」

 玲瓏なる蛍流の低い声が震える。形代の役割を解任され、清水との繋がりが途切れたことで、かつて清水が二つの願い事を叶える対価として奪った記憶が戻ったのだろうか。握る手に力が込められたかと思うと、ふいに引っ張られる。
 息も出来ないくらい強く抱き締められると、蛍流の言葉が耳を打つ。
 
「遠く異なる世界にやって来て、名前も知らず、顔も思い出せなくても、片時も頭から離れなかった。もう会えないと分かっていても、祈らずにはいられなかった。お前の息災とあの日交わした約束の通りに笑って過ごしていてくれることを。そして願わくは……おれという人間があの世界に存在していたことを、お前だけでも覚えていて欲しいと」

 それだけ言うと蛍流は解放してくれたが、空いていた手で海音の頬に触れてくる。ガラスのような硬質な鱗に覆われた蛍流の手はほんのりと温かく、それでいてどこかくすぐったい。

「十年前のあの日、おれはお前を助けたはずが、ずっと助けられていたのだな。牢獄に似たこの山で両親に捨てられたと思い込み、師匠の元から逃げ出そうとして失敗し、幼子のように泣きじゃくるおれの心を守ってくれた。あの約束があったからこそ、おれは自分の心を見失わずにいられたのだ。師匠と茅晶がいなくなってからもずっと……」
「そんなことは……ずっと助けられていたのは私の方です。十年前も、この山で最初に出会った時も。この感謝をどう伝えたらいいのか、想いが溢れて言葉になりません」
「それなら、今こそあの時の約束を果たしてくれないか。どうか笑って欲しい。この胸にしかと刻みつけたいのだ。お前の笑みを。それさえあれば、もう何も心残りは無い。あの日の少女と約束を果たせずにいたことが、ずっと心に引っかかっていたからな」

 声変わり前のあどけない蛍流の声が頭の中に響く。「きみが笑っているところを見たいんだ」と。
 海音は蛍流の藍色の瞳をじっと見つめると、頬に添えられた蛍流の手に自分の手を重ねて握りしめる。爪の先まですっかり鱗に覆われた海音の手だが、同じように鱗の生えた手をした蛍流とは大きさが全く違う。蛍流の手の方が大きく、指先が細く長い。そんな蛍流の指先が当たる海音の唇は紅こそ取れてしまったものの、艶は失われていない。
 もう二度と無いとは分かっていたものの、万が一にもまた何かの弾みで唇が触れ合ってしまった時に備えて、あれから入念に手入れをしていた。
 その口付けを愛する人ではなく、どこぞの年老いた好色家と交わすかもしれないと思った時は悪寒が走ったが、蛍流が形代じゃ無くなった今なら許されるだろうか。少しくらい海音から口付けをしたとしても。悲恋で締めくくられる恋愛作品でさえ、ラストは愛する人とのキスで幕引きするのだから……。
 そんな頬に添えられた蛍流の手を掴んで自分の唇に充てがうと、海音は幅広の掌に軽く口付けを落とす。そしてわずかに頬を赤く染めた蛍流に目を細めつつ口元を綻ばせると、はにかむような笑みを浮かべたのだった。
 一連の海音の行動に目を見張った蛍流だったが、やがて「ありがとう」と両目を潤ませながら宙に溶け入りそうな低声で礼を述べる。
 
「お前はそんな笑い方をするのだな。大きな蕾が大輪の花を咲かせるような笑みは、まるで雪花と共に咲く椿の花のようで美しい……いや、『気取らない美しさ』という花言葉を持つ椿そのものだ。大雪の日に咲いた雪化粧を纏った椿の花を見ているようで胸が温かくなる」
「そんなに褒められると恥ずかしいです。普通に笑っただけですよ」
「だが今度こそこれで心残りは無くなった。たった数日ではあったが、お前と同じ時間を過ごせたことは、おれにとってとても満ち足りた日々だった。そしてあの日に交わした約束を果たせたのも、この世界に来てくれたお前のおかげだ。今なら青龍として自信を持てる。お前との約束を胸に、おれは()()の務めを果たそう」

 繋いだ手を引いて抱き寄せられれば、今度は布越しに人肌とは思えない硬質な感触が頬に当たる。
 まもなく海音の命が閉じようとしているように、蛍流の命も終わりを迎えようとしている。だがその前に青龍として最後の務めを――晶真を止めるつもりなのだろう。この状況で蛍流が落ち着いているのが何よりの証拠。全てを引き換えにして、この世界を救おうとしている。
 蛍流の覚悟と決意を察して、じんわりと涙が溢れ出す。

「全てを失い、人を遠ざけるような噂を流した以上、もう人と関わることは無いだろうと諦めていた。そんなおれに人としての営みを思い出させてくれた。この世界で寄る辺も無いお前に居場所を与えたつもりが……なんだかもらってばかりいるな。結局、最後まできちんと礼をしなかった。こんなことになるのなら、もっと早くこの滾る想いを言の葉に乗せて伝えてしまえば良かった。青龍に限らず、一人の男として未熟者だな、おれは」
「未熟者なんてことありません。蛍流さんは立派な青龍で、素敵な男性です。今も昔も……」
「照れることを言ってくれるな。離れがたくなってしまうではないか。胡蝶の夢を見ているかのようだ」
「夢じゃありません。私はここにいます。この手の温もりも、掌にしたキスも本物です!」

 自嘲するように笑っていた蛍流だったが、海音の目尻から今にも涙が零れだしそうになっているのを見出すとそっと唇で拭ってくれる。その唇が今度は海音の首筋に近づくと軽く口付けを落としたので、海音は「ひゃあ!」と小さく悲鳴を上げてしまったのだった。

「そうだな、この感触は夢ではない。焦がれていたお前の柔肌に触れている。こんなことになるのなら、あの山道で……それこそ出会った時にこうして触れていれば良かった。同じ龍に選ばれた伴侶か身代わりかなんて関係ない。出会い、恋してしまった以上、お前への慕情を止められるわけが無かった。たとえこの場限りの恋になってしまうとしても……」
「私たちずっと前から両想いだったんですね。私だけが好きなんだと思っていました」
「おれもだ。お前にはもっと相応しい男がいると思い込んでいた。だが他の男に嫁ぐと聞いた途端に手放せなくなった。お前を幸せに出来るのはおれだけだ。お前を一番大切に想っているのも……」
「もう……」
 
 二人で顔を見合わせると笑壺に入る。それが以前、蛍流が自身の秘密を打ち明けてくれた時に見せてくれた年相応の爽やかな笑みと同じで胸の奥が熱くなる。
 こんな状況じゃ無ければ、蛍流が言っていたように止めどなく溢れる思いを言葉にするのに。残された時間の少なさにもどかしさが募る。

「一場の春夢ではあったが、お前と相思相愛の仲になれたことを忘れはしない。またどこかで巡り合えたのなら、今度こそ決して切れない久遠の契りを結ぼう」
「待って! 蛍流さん……っ!!」
 引き止めようとした海音の頬に蛍流が口付ける。海音の力が緩んだわずかな隙をついて、蛍流は絡めた手を離してしまうとゆっくりと離れてしまう。
 そうして顔を引き締めると、蛍流はこの場に残る青龍の神気を吸収し続ける昌真に向き直る。昌真の手の中の水晶球は何度も青灰色と浅葱色の明滅を繰り返していた。もしかすると水晶球の中で清水も必死に抗っているのかもしれない。

「青龍!」

 蛍流の金玉の声が水を含んだ空気を震わせる。その声で顔を上げた昌真は不快感も露わに眉根を寄せる。

「どんな咎も罰も引き受けよう。未来永劫、この地に縛られ、七龍に隷属したって良い。この身と魂をお前に捧げよう。だから頼む、もう一度おれを形代に選んでくれっ! その代わり、茅晶兄さんを赦して、海音を解放して欲しい! 今度こそ青龍としての役目を全うする。もう二度と逃げ腰になることも、弱気にもならない! 先代のような青龍になると誓う。おれの元に戻ってきてくれ! そんな水晶球くらい、神に属する青龍ならいとも簡単に抜け出せるはずだ!!」
「馬鹿なことを。これは黒龍が生み出した七龍の力を奪う水晶球。この中に閉じ込められた七龍は徐々に力を吸収され、やがて自我を保てなくなる。青龍に逆らった離反者の戯言を聞くはずがあるわけ……」
「私も捧げます! この身体がどうなったって構いません! 命だって惜しくありません! もう元の世界に帰りたいなんて言いません! だからどうか蛍流さんと昌真さんを解放してください!!」
「海音……っ!?」

 残っていた涙を手の甲で乱暴に拭った海音はすっかり魂消てしまった蛍流の腕に掴まりながら、「さっき言いましたよね」と何とも無いように明るい調子で返す。

「この命が続く限り、ずっと一緒にいます。もう絶対に蛍流さんを一人にはしません」
「だが……」
「……後悔していたんです。蛍流さんに想いを告白された時にそれを断ってしまったこと。もしあの時に正直に自分の気持ちを打ち明けていたのなら、こんなことにはならなかったかもしれないのにって。こうなってしまった原因の一つは私にあるんです。それなら罰を受けるのは私です。蛍流さんだけに全ての責任を背負わせません」

 いつかのようにきつく咎められ、冷たく突き放されるかと思ったが、蛍流は「まったく……」と呟いただけであった。
 
「……再会した時もそうだったが、お前は無茶ばかりするのだな。少しくらいは周りの気持ちも考えてくれないか。何度おれの肝を冷やせば気が済むのだ。その行動力はどこにある」
「そんなのとっても簡単です。私が蛍流さんを愛しているからです。たとえ青龍と伴侶じゃなくなっても、この身体が七龍の神気に蝕われて跡形も無く消えてしまったとしても、私が蛍流さんを愛する気持ちに変わりはありません。そういう蛍流さんだって、一人で何でも抱え込もうとするのは止めましょう。見ていて気を揉みます」
「そっ、そうか。これからは善処しよう」
 
 どこか気恥ずかしそうに海音から目を逸らした蛍流だったが、やがて掌を海音に差し出す。
 
「……それならおれの手を握りしめてくれないか。そして何があっても離さないで欲しい。最期の瞬間までお前を感じていたいのだ。この命が閉じ、意識が無くなるその時まで。力が抜けて、冷たくなるまで師匠の手を握りしめていたように」
「勿論です。もう離しません」
「ああ。そうしてくれ。これからおれたちは一蓮托生の仲だ。住む世界が分かれ、互いに忘れていても、か細い縁を頼りに再び星の下に出会えた。これを運命と呼ばずして何と呼ぶ。もう二度とこの手を離すものか。共にこの窮地を脱しよう」

 蛍流と指を絡めて離れないようにしっかり握りしめると、唇をぎゅっと固く結びながらどこか眩しいものを見るように目を眇めていた昌真に顔を向ける。
 そんな海音たちの態度が気に入らなかったのか、昌真の後ろに控える激憤と怨念の塊ともいうべき黒龍が凄みを利かせながら獣のように吠え出したが、傍らの蛍流が勇気を奮い立たせてくれた。一人だったらきっと黒龍の恫喝に怯んで、脱兎のごとく逃げ出していただろう。それだけ黒龍から発せられる憎悪の圧は苛烈だった。臆病風に吹かれて気後れする心を叱咤して、蛍流と共に昌真と黒龍に歩を進める。
 海音たちが黒龍を睨みつけた瞬間、黒龍は威嚇するように咆哮し、そして暴風雨を発生させる。蛍流が力を暴走させた時よりも激しい風雨に身体が吹き飛ばされそうになると、すかさず蛍流が手を引いて抱き寄せてくれた。海音もしっかり蛍流の身体を掴んで、互いに支え合いながら目前の昌真と黒龍へ向かう。
 そうして繋いだ掌と震える足に力を入れながら、再び黒龍を凝視したのだった。
 
「青龍、おれたちはここに誓う。この地で青龍の形代とその伴侶として身命を賭すと。もうお前の意志に逆らうような真似はしない。生まれ育った世界を捨て、この世界の一員となろう。この国と民がより良い生活を送れるように従事する。この地を守る守護龍として、これからもおれたちに力を貸してくれないか。お前たちが守ってきた世界をおれたちにも守らせて欲しい!」
「何度も言わせるな。そんな戯言を青龍が聞くはずが……」

 鼻を鳴らして昌真が嘲笑した瞬間、音を立てながら水晶球にひびが入る。そしてあっという間に水晶球全体にひび割れが広がったかと思うと、雨雫のような細かな破片となって砕け散ったのだった。

「なにっ!?」

 戸惑う昌真の掌から天に向かって浅葱色の光が放たれたかと思うと、威厳ある声が辺りに響き渡る。

 ――その宣言を二度と違えること勿れ。我は其方らを認めよう。新たな青龍の形代とその伴侶よ。
 そうして浅葱色の光が周囲を包み込み、耳をつんざく激しい咆哮が渓谷に反響する。身の毛がよだつような激痛を伴った声に縮み上がってしまうと、海音を庇うように蛍流が抱き締めてくれた。そんな浅葱色の光を浴びた蛍流の身体からは急速に鱗が消えていったが、対して海音の身体は鱗が増えていった。
 手足、背中、腹部、頬と身体の内側から殴られているかのように、全身がボコボコと痛む。歯を食いしばって痛みを堪えながら、無機質な鱗と化していく自分を嘆く。
 蛍流は形代として認められたが、自分は伴侶として認められなかったということだろうか。海音の覚悟が足りなかったのか、それとも一度でも不適合の烙印を押された人間を七龍は認容しないのか。

(でも、これでいいか……)

 蛍流と昌真は救われた。二人が愛するこの世界も。そして十年前に交わした少年との約束も――蛍流との約束も果たせた。海音は満ち足りた気持ちになる。
 膝から力が抜けて、繋いでいた掌もするりと滑り落ちる。目を閉じれば、亡き母親や元の世界に残してきた父親との思い出が蘇ってきた。
 母親の入院先でお世話になった看護師や学校の友人たち、この世界に来てから出会った人たちや昌真も。これが走馬灯と呼ばれるものだろうか。身体中が温もりに包まれる。
 海音と父親に看取られた母親も最期はこんな気持ちになったのだろうか。在りし日を回想しつつ、多幸感と満足感に包まれながら意識を手放したのか。とうとう夢現の中で蛍流の幻聴まで聞こえてくる。

(蛍流さん……)

 最後に蛍流の顔が浮かんでくると、自然と頬が緩んで笑みを形作る。遠くで耳心地の良い蛍流の迦陵頻伽の声が動揺と不安で震えていた。海音の身体を強く抱き締めながら、「海音! 海音っ!!」と今にも泣き出しそうになりながら早口で繰り返しているようだった。
 こんな顔をさせるために、最後まで蛍流と一緒にいると宣言したつもりじゃ無かったのに。声を出す気力も残っていなかった海音は心の中で謝罪を繰り返す。

(ごめんなさい。最期まで迷惑を掛けて……ごめんなさい……)

 視界が黒に染まっていき、自分の名前を繰り返す鶯舌がだんだん遠のいていく。母親が亡くなる直前に聞いたことがあった。命が閉じる瞬間、最期に残る五感は聴覚だと。
 身体が動かなくなり、声も出せなくなり、やがて何も見えなくなっても、音だけは聞こえている。
 だから最後に感謝の言葉を伝えて、残された時間を悔いの無いように過ごして欲しいと。感謝を伝えたいのは海音の方なのに、夢と同じように喉が張り付いてしまったのか全く動かない。
 それでも夢との大きな違いは、まだ辛うじて呼吸が出来るところだろう。それなら声を出せなくても、唇くらいは動かせるはず。蛍流が理解してくれるかは別として。
 そんなことを薄れていく意識の中で考えながら、海音がわずかに唇を開けた刹那、蛍流が自分の唇を海音の唇に押し当ててくる。人工呼吸をされているのか、海音の中で吐息が絡み合い、そして一つになる。
 蛍流が与えてくれる温もりが冷え切った海音の身体を包むように温め出したかと思うと、胸の奥深くでドクンと何かが脈打ち始める。

 ――生きたい。

 泡のように身体の奥底から湧き上がったその一言が静かに、そして激しく噴き出そうとする。

 ――蛍流さんと、生きたい。

 泡沫が数を増し、ブクブクと音を立てながら勢いを増していく。
 命に終わりを告げ、黄泉へと旅立とうとしていた海音に逆らうように、生への渇望が身体中を巡り出す。

 ――蛍流さんと生きたい……っ!

 その瞬間、海音の体内で何かが弾けたかと思うと、身体を蝕んでいた痛みが消えて、鱗の侵食も止まる。
 凍りついたかのように固まっていた身体が軽くなり、次いで手足にも力を入れられるようになる。重かったはずの瞼も開けられたのだった。
 何が起こったのか分からないまま、焦点の定まらない目で呆然と空を見つめていると、突然張り付いていた喉に大量の空気が入ってくる。
 息苦しくなった海音は蛍流を突き飛ばすと繰り返し咳き込んだのだった。

「海音っ! 良かった。間に合って……」
「ほたるさん……?」

 喉を押さえながら掠れ声で呟けば、蛍流が「良かった……」と呟きながら強く抱擁してくれる。

「おれの身体から流れてしまった余剰分の青龍の神気を吸い取ったのだ。神気に耐えられなくなったお前の身体が今にも砕けかけていたから……」
「じゃあ、私はまだ生きているんですね……」
「当然だ。おれたちは一蓮托生を誓い合った仲であり、お前は青龍であるおれの伴侶だ。お前以外が伴侶になることなど、あってたまるものか。天地がひっくり返っても認めん。それにおれはまだお前に伝えなければならない言葉があるというのに……」
「伝えたいことですか? いったい何を……」

 一度は海音を離した蛍流だったが、やがてどこか照れくさそうにしつつも海音の目をじっと見据えたまま顔を近づけてくる。両手で海音の頬を包みながら、内緒話をするように吐息が掛かる距離まで顔を寄せると、ゆっくりと言葉を紡いだのだった。

「これからは伴侶として共に生きて欲しい。久遠の愛をお前に捧げよう――愛している、海音」

 その言葉と共に再び海音の唇と蛍流の唇が重なる。今度は味わうように深く長く、愛し合う男女のように静かに熱く。
 そんな蛍流の艶やかな唇の感触に触れたことで、ようやく生きていることを実感した海音が身を委ねて目を閉じた瞬間、目からは一粒の涙が零れる。そんな二人を祝福するように一陣の光風が辺りを吹き荒び、その風に煽られた海音の身体から浅葱色の鱗がポロポロと剥がれだす。
 海音の身体から剥がれた鱗はやがて瑞花のような細かな粒子状の雪となって二藍山の彼方へと飛んでいき、この豪雨で溢れた川を沈め、荒れた大地に豊かな緑を芽吹かせる。
 そして鱗の下から現れた海音の肌は、雪を欺くような真っ白な色をしていたのだった。
 わずかに開けた窓から長風に乗って小鳥たちのさえずりが入り込んでくる。ようやく訪れた春を詠うような可愛らしい合唱に対して、伴侶のために整えられた部屋では若き青龍の声息が響いていた。

「ほら、冷ましたぞ。口を開けてくれ」
「あの……そこまでしていただかなくても、一人で食べられますから……」
「何を言っている。昨日もそう言って、ほとんど食べていなかったじゃないか」
「昨日まではまだ身体が怠かったからか、食欲が湧かなくて……でも、今日は大分良くなりましたから……」

 そう言い掛けた海音の口元に、土鍋から掬った少量の粥――蛍流が息を吹きかけて冷ましてくれた、を乗せた匙が近付けられたので、渋々口を開ける。
 程よく冷めた粥をもぐもぐと咀嚼していた海音だったが「んんっ!」と気付いて、粥を吹き冷ましていた蛍流に声を掛ける。

「今日は卵粥なんですね。葱も入っていて美味しいです」
「先程、雲嵐殿が到着したからな。ようやく山中の整備が終わって、屋敷までの動線が確保されたらしい。食料以外にも頼んでいたお前の薬も届いたぞ。食後に飲むと良い」

 それで昨日までの白粥と違って、卵と葱が入っているのかと納得する。滑らかな舌触りの甘い卵粥に、アクセントとして加わった葱の辛味と独特の香りがクセになる。粥自体も昨日まで食欲が無かった海音の身体を気遣って消化しやすい七分粥にしてくれたのか、喉につるんと入って食べやすい。

「早かったですね。もっと掛かると思っていました」
「おれが急がせたのだ。早くお前の薬を届けてもらいたかったから。それにしても、目覚ましい回復力だな。あれからまだ三日しか経っていないというのに……これも青龍の神気がもたらす効果か」

 三日前、蛍流と共に昌真と黒龍の魔の手から清水を取り戻した海音だったが、屋敷に戻ってすぐ高熱を出して倒れてしまった。
 心配した蛍流が清水を呼んで診立ててもらったところ、ほぼ丸一日雨に打たれていたことに加えて、蛍流から流れてきた青龍の神気とこれまで清水が隠していた海音自身が持っていた神気が一挙に押し寄せたことで、海音の身体が限界を迎えたのではないかということであった。
 神気を除いて、これが常人なら発熱で一週間は苦しむところだが、青龍の加護を受ける海音は数日で回復した。思えば、この世界に来てからというもの、いつも怪我の快復が異様に早かった気がした。これも青龍に選ばれ、青龍の神気に守られる伴侶だからなのか。
 
「神気だけじゃありません。蛍流さんが甲斐甲斐しく、看病をしてくれたおかげです」
「そうか……それなら早く元気な姿を見せてくれ。お前と愛を語らうためにも」
「愛って……」
 
 出会った頃とは打って変わって、饒舌なまでに恥ずかしい言葉を衒いなく話す蛍流に戸惑うが、海音がそれを指摘する前にまた薄黄色の卵粥を口に入れられてしまう。やはり昨日までの食欲不振が相当蛍流の痛心に堪えたのか、卵粥の入った土鍋と匙を海音に渡すつもりは無いらしい。
 こうなった以上、質実剛健な蛍流は海音が完食するまで解放してくれないだろう。ここは仕方なく蛍流に甘えて、卵粥を食べさせてもらうことにする。

「これまではずっと我慢していたが、相思相愛の間柄になったのならもう語り合っても良いだろう。早くこの胸の内で滾る、お前への愛を伝えたいのだ。昼も夜も関係なく、言葉でも身体でも全身全霊をかけて情愛を語りたい」
「身体でも、ってことは、やっぱり、その……私たちもいずれ大人の関係を持つということですよね」
「当然だろう。おれたちは青龍によって選ばれた夫婦だ。まだ政府に通知を出しておらず、祝言も挙げていないが、おれたちの関係は清水も認めている。背中にもその証が現れているのだからな」
「龍の形をした痣ですよね。この髪色もでしたっけ?」
「ああ。その青みのかかった髪色は間違いなく青龍の神気によるものだ。出会った頃の緑の黒髪も似合っていたが、今の色もよく似合っている」

 海音は改めて自分の髪を見つめる。長さや質こそ変わらず胸元までの伸びたストレートヘアだが、色は蛍流の藍色の目とよく似た青みのかかった黒色に変わっていた。
 発熱で倒れた後、鏡に映った自分の姿を見て仰天した海音が蛍流に尋ねたところ、この青色は青龍の神気を纏っている証であり、蛍流の髪や目の色と同じものだと教えられたのだった。
 髪色以外にも肌は蛍流と同じ抜けるような白色に変わっており、背中には右を向いた龍の痣がくっきりと現れていた。痣については発熱で沐浴が出来ない海音に代わって、背中を拭いてくれた蛍流も確認しており、そんな蛍流の背中にも青龍に選ばれた形代の証である左を向いた龍の痣があることを教えてもらったのだった。
 七龍によって選ばれた形代と伴侶が一夜の夢を結ぶ姿は番の龍が交わうようであり、信愛によって結ばれた二人がもたらす神気は自身が治める龍脈をより活性化させる効果があるという。
 
「ありがとうございます。まだしばらくは鏡を見る度に違和感を覚えて落ち着かない気持ちになりそうですが、早く慣れるようにしますね」
「そうだな……でもそれくらいなら、おれでも手伝えそうだ。見る機会を増やせば良いのだからな」

 そう言って蛍流が海音の髪をひと房手に取って軽く口付けを落としたので、海音はぎょっとしてしまう。そんな蛍流は眉一つ動かすことなく、「全快したら毎日しよう」とさも当然のように返しただけであった。

「本当なら毎日でも唇を重ねたいところだが、おれたちの接吻を見ていた清水が難色を示してな。祝言を挙げるまでは健全な付き合いをするよう諭されて、禁止されてしまったのだ」
「そうですか……」
「だがこの胸に滾る想いを伝えるには、言葉だけではどうしても足りない。頼んでみるつもりだが、せめて頬や首、髪あたりには毎日したい。それが駄目でもせめて耳か手くらいには出来ないかと思っている。三日前、手に接吻された時はお前の深い愛を感じて心が沸き立った。あの時に感じた浮き立つ気持ちをお前にも味わって欲しい。お前が与えてくれた愛に匹敵するような深愛を捧げよう」
 
 その時を思い出したのか蛍流の顔が綻んだが、対して海音の背筋はますます寒くなる。
 あの時はこれが最後になるかもしれないと思って、元の世界で見た映画に倣って蛍流の手に口付けしたつもりだったが、もしかすると純粋無垢な蛍流に余計な知識を吹き込んでしまっただけかもしれない。回復した後、清水に何と言われることか……想像しただけで身体が震え慄く。
 そんな海音の様子に気付いた蛍流が「羽織を取ってくるか?」と尋ねてきたので、海音は「大丈夫です!」と即座に否定したのだった。
 そうして親鳥から餌を貰う雛のように大人しく残りの卵粥を食べさせられていた海音だったが、火傷しないように息を吹いて冷ましてくれる蛍流の端正な横顔を盗み見ながら、ふと気付いたのだった。

(そっか……今までがずっと気を張っていただけで、これが本当の蛍流さんなんだよね……)
 
 多くの民に慕われていた先代青龍のようにならなければならないと気負い過ぎていただけで、これが本来の蛍流なのだろう。蛍流自身が流した噂による先入観も関係していたのかもしれないが、本当の蛍流は心根が優しくて面倒見の良い、年相応に純朴で真っ直ぐな性格の持ち主。
 晶真や師匠に愛されながら育ったからか甘え気質や独占欲の強いところもあるが、いざという時は誰よりも勇気と義侠心に溢れた青龍の形代としての強く逞しい顔を持っている。
 それでも好きな人にはどこまでも熱情的で愛情深く、蕩けるような溺愛で包み込んでくれて、元の世界を捨てた海音の未練やうら淋しさを温めてくれる。
 同じ痛みを知っているからこそ、欲しい言葉をかけて愛を注いでくれる蛍流は理想的な男性そのもの。そんな蛍流とこれから果てしなく長い時を過ごしていくことを思うと、緊張と興奮で身体がうずうずしてしまう。透き通る水のような玲瓏な声で星の数にも等しい睦言を囁かれるに違いない。清水にも指摘された海音の初心な心臓が持つのか……これも自分の姿と同じように時間を掛けて慣れていくしかないのだろう。
 そんなことを考えながら卵粥を食していると、不意に蛍流と目が合ってしまう。藍色の目を細めながら熱っぽく微笑まれたことで身動いでしまったからか、匙から溢れたご飯粒が口の端に残ってしまった。海音が手巾で拭う前にすかさず蛍流が指先で掬うと、自分の口にご飯粒を放り込んでしまったのだった。

「蛍流さんの気持ちは嬉しいですが、私にばかり時間を割いていただくわけにもいきませんし……。そんなことより、青龍のお務めはいいんですか? 私は大丈夫なので、早く戻った方が良いんじゃ……」
「これくらい問題ない。あれから青龍の力が安定しているのだ。これまでとは違って自分の感情に左右して天候が乱れることも、力が暴走することも無い。それにまた何かあっても清水がどうにかしてくれるからな。少しくらいお前に時間を割いたって、許されるはずが……」
「あるわけないだろう。いつまでも病人の元に押しかけていないで、早く戻って来い」

 蛍流の言葉に間髪入れながら「邪魔をするぞ」と部屋に入ってきたのは、蛍流に負けず劣らずの艶のある美声と鼻梁の整った顔立ちの青年――昌真であった。

「食事を届けたらすぐに戻るというから中座を許したというのに、戻る気配が一向に無いから様子を見に来てみれば……。まったく、お前という奴は……」
「少しくらい話しても良いだろう。あれから海音とほとんど話せていないのだ。それにもしおれが目を離している隙に海音の症状が悪化していたらと思うと、心配で青龍の務めどころでは……」
「はぁ……お前たちは青龍の神気で繋がっているだろう。お互いの身に何か異変が起これば、真っ先に気付くはずだ。こうも騒々しいとみ……嫁御寮も休めないだろう」

 晶真は同意を求めるように海音に目線を送ってきたが、蛍流が不貞腐れたように目を逸らしたので海音は苦笑することしか出来ない。
 どうやら蛍流は兄である昌真が海音と親しそうに話すのが気に入らないばかりか、自分以外の男性が海音の名前を呼ぶのが嫌らしい。
 それに気付いた晶真も蛍流が居る前では、なるべく海音の名前を呼ばないように気を遣ってくれていた。今のように「海音」と言い掛けても、蛍流が睨んでいることに気付いて、慌てて「嫁御寮」と言い直してくれる徹底ぶりであった。
 
「だが蛍流の言う通り、昨日よりだいぶ顔色が良くなった。これで俺も一安心だ」
「ありがとうございます。晶真さんにもご心配をおかけしてしまって、すみません……」
「……これくらいどうということはない」

 抑揚の無い話し方も相まって冷たそうに聞こえるものの、晶真の顔はどこか明るい。安堵を覚える柔和な笑みは微睡みの中に差し込む一条の光のようで、不意打ちで囁かれる蛍流の情熱的な言葉に取り乱す海音の心をいつも落ち着かせてくれていた。

「それで蛍流はいつまで居座るつもりだ」
「居座ってなど……」
「あまり病人を振り回すものじゃない。嫁御寮も困るだろう」
「私は平気です。ただ昌真さんが大変ですよね。私たちのお目付け役ですから」
「……こんなことになるのなら、安請け合いするんじゃなかったと後悔しているところだ。これが今後続くのかと思うと、先が思いやられる……」
 
 発熱で倒れた海音が目を覚ましてから蛍流がずっとこの調子なので、あれから昌真とはほとんど会話が出来ずにいたが、ようやく昌真と話しが出来たのは昨日の昼に蛍流の代わりに昼餉を運んでくれた時。そこで海音は昌真から謝罪を受け、この一件の罰としてしばらくは清水の監視下に置かれることを教えられたのだった。

 本来であれば国の守護神である七龍を害そうとした犯罪者として晶真は政府に引き渡されて沙汰を待つことになるが、青の地に未曾有の水害が起こる前であったことや晶真が七龍国の歴史上初めて黒龍に選ばれた人間であることから、蛍流と清水が情状酌量を求めているとのことであった。
 海音は知らなかったが、これまでも黒龍が人間の強い負の感情を利用して顕現した記録はあるものの、負の感情を増幅させる黒龍の強い神気に心身が耐えられず、一人残らず黒い破片として砕け散っていた。現出した黒龍もその土地を守る七龍たちによって祓われ、その都度どこかへと消え去っていたため、行方を追い掛けられずにいたが、今回昌真が抱える負の感情に呼応して数百年ぶりに姿を現した。
 黒龍は昌真に自身の神気を与えたが先代青龍の形代の血を引いていたからか、昌真は黒龍の力に振り回されることなく、また清水によって黒龍の神気を浄化されたことから、今は蛍流たち他の形代と同じように黒龍と国を繋ぐ神と同等の存在になっていた。
 これまで誰も扱えなかった黒龍と良好な関係を築き、また黒龍の神気を扱えていることから、蛍流たちは晶真を黒龍の形代として政府に申請出来ないかと他の七龍たちに相談して協力を要請した。そうすることで晶真は蛍流と共に青の地の水害を止めようとして慣れない黒龍の力を暴走させてしまい、その結果蛍流と清水に危害を加えそうになったと、今回の騒動を説明する根拠にもなるとのことだった。晶真が現青龍である蛍流の兄であるという兄弟関係も、この理由を信じるに足るものとして後押ししてくれるだろうと蛍流たちは考えているという。
 政府からの音沙汰を待つ間は晶真を清水の監視下に留めおくことになるが、ただ拘束するのではなく、少しでも罪を軽くするために、清水の提案でしばらくは二人のお目付け役とこの世界に疎い二人の教育係を担うことが決まったとのことであった。
 そんな教育係となった晶真から、海音が鱗に覆われて砕けかけたあの時に何が起こったのか、詳細な顛末を教えられたのだった。
 
 海音が鱗に覆われる前、昌真は黒龍が生み出した水晶球に清水を捕縛したものの、清水が持つ圧倒的な神気で水晶球が耐えられなくなった。その結果、清水は自ら水晶球を破壊して脱出し、再度蛍流を形代に選ぶことで混乱に陥りかけていた青の地を平定させた。それが出来たのも、清水が全盛期以上の力を取り戻せたからであった。
 捕らえられる直前に清水は蛍流の代わりに罰を受けたことで力を失ってしまったが、その際に蛍流との繋がりも切れてしまっていた。
 それにより蛍流に供給されていた神気が清水に戻っていき、清水は本来の力を取り戻していた。加えて、蛍流自身が歴代の青龍の形代の中で最も神気を持っていたこともあり、清水はこの山で龍脈の守護につく前より強い力を得られたとのことだった。
 それを知らなかった黒龍は想定を遥かに上回る神気を持っていた清水を抑えられなかった。水晶球さえ吸収出来ない神気を持っていた清水は自ら黒龍の呪縛から逃れると、青の地に起こっていた水害を抑えるために蛍流と海音をそれぞれ形代と形代の伴侶に選んだ。
 そして蛍流には龍脈に流れる神気のコントロールを、海音には蛍流から溢れた神気を受け止める器としての役割を与えたという。

『海音も知っている通り、蛍流の力が不安定だった原因の一つは尋常じゃない量の神気だった。蛍流一人では抱えきれない量の神気を持っていたことで、これまでこの青の地は天候不順が続いていた。そこに蛍流と共鳴する存在として伴侶が現れた。伴侶の神気は形代から供給されることになる。つまり蛍流が持っている余剰分の神気は伴侶である海音――君に流れるが、伴侶とて一度に強い神気を流されてしまえばひとたまりも無い。身体は龍の鱗に覆われて砕けてしまうだろうな。丁度、二日前と同じように』

 その時、昼餉として用意された粥に口をつけながら昌真の話に耳を傾けていた海音だったが、二日前という言葉で飛び上がりそうになる。

『そういえば、蛍流さんが言っていました。「余剰分の神気を吸い取った」って。つまりあの時も、蛍流さんから流れた神気に身体が負けそうになっていたということだったんですね』
『そういうことだ。そこで蛍流には一度君に流れた神気を自分に戻すように伝え、あいつは君に口吸いして神気を吸収した。それにより神気が減ったことで君の身体も自由が利くようになり、自力での呼吸も可能になっただろう。それでも一度に大量の神気を流し込まれた影響で、身体はすっかり悲鳴を上げてしまったようだが』
『やっぱりこの体調不良は神気を受けた影響なんですね……』
『まあ、君の場合は他にも原因がありそうだが……。正式に伴侶として選ばれた以上、これから君の身体は少しずつ神気に対する耐性を身に付け、蛍流と同じ悠久の時間を生きる存在となるように、身体が作り変えられていくだろう。その過程で身体にも変化が現れるだろうが、調べた限りでは人型を失うほどの変化は起こらないとのことだった。安心して流れに身を任せて欲しい』

 ちなみに昌真の黒髪と黒目というのも、黒龍に選ばれて神気を受けたことで今の色に変わったとのことであった。蛍流も清水に選ばれてこの世界に来た時には、髪と目の色が変わっていたと言っていたので、海音たちに限らず他の形代とその伴侶も同じなのかもしれない。
 以前よりも色素が薄くなった肌と藍色に近くなった髪を見ながら、そんなことを考える。

『でも私が受け止めきれなかった神気を蛍流さんが吸い込んだのなら、蛍流さんは余分な神気を持っているということですよね。また前みたいに感情に左右されて天候が変わるんじゃ……』
『その心配は要らない。今回の一件で蛍流は青龍として覚醒した。これまでのように自分が神気に振り回されるのではなく、自分で神気を操るようになる。余剰分も少しずつ龍脈に流せるようになるだろう。今はまだ覚束ないが、近い将来には父とも対等に渡り合える青龍になる。これも君のおかげだ。感謝している、海音』
『あの、昌真さんはまだ黒龍と繋がっているんですよね。またいつか蛍流さんと敵対する日が来るのでしょうか……』
『俺は黒龍に選ばれた形代だから、当然のことながら黒龍とは繋がっている。だが俺が憎んでいるのはあくまでも七龍に傾倒したこの国の在り方であり、蛍流個人では無い。蛍流には父のような苦しい思いをして欲しくないだけだ。家族を守るためなら、苦しめている原因を取り除きたいと思うものだろう。たとえその原因がこの国とこの国を守護する七龍であったとしても……』

 一緒にこの国の在り方を変えないかと誘われた時からなんとなくそんな気はしていたが、やはり昌真は蛍流個人ではなく、国を護る七龍に選ばれた形代が国と民のために犠牲となる国の在り方を憎んでいる。そう思うようになった原因も身近で家族を――父親であった先代青龍が苦しむ姿を見ていたから。
 その先代の跡を蛍流が継いだ以上、いずれは蛍流も先代青龍と同じように苦しむようになる。昌真は蛍流まで父の二の舞になって欲しくないからと、七龍を奪ってこの国を変えようとしたのだろう。家族想いの立派な青年である。

『そうですね。家族のためなら、もしかしたら私も同じことをしていたかもしれません……』
『君も家族想いだな……だがこの話を蛍流にしたところ、君とは違って説得されてしまってな。蛍流は父や青龍、そしてこの国の民衆に乞われたから青龍になったのでは無く、この国を守りたいと心から思ったからこそ、自分の意思で青龍になったと。君の言葉で思い出したと言っていた』
『何か言いましたっけ。私……』
『ここに来たばかりの頃、蛍流に言ったのだろう。「最初から上手くいく人はいない。失敗を恐れずに、今後の糧にすれば良い」と。その言葉に救われたと言っていた。失敗続きに加えて役人どもの陰口で自信を失っていた若き青龍を肯定してくれた唯一の言葉だと話していたよ』

 言われて思い出せば、確かにここに来たばかりの頃に好き放題言って蛍流を侮っていた役人たちの非礼を詫びられた際に、蛍流にそう言ったような覚えがある。あの時は何も事情を知らない海音が生意気な口を利いてしまったので、もしかすると怒らせてしまったかもしれないと焦ったが、蛍流の心には別の意味で響いていたらしい。その時の紅潮した蛍流の横顔も思い出したからか、海音は面映ゆい気持ちになる。
 
『それで思い出したそうだ。父や歴代の青龍たちが大切にしていた世界を守り、俺や今後現れる伴侶――つまり君が住みやすい国にしたかったから、父の跡を継いで青龍になる決心をしたと。あわよくば異なる世界から迷い込んでしまった異世界人たちをも守れるようになりたいと、夢まで語られた。俺の完敗だったな』

 蛍流のために良かれと思って国の根幹を脅かすような大罪を犯そうとし、そして失敗した上に肝心の蛍流に否定された割には、昌真の顔は晴れ晴れしていた。やはり昌真の行動の起点にあったのは蛍流の存在なのだ。大切な弟の未来を救うために、自分の命を張ってこの国を守護する七龍に謀反を起こそうとした。昌真と蛍流の間にある深い兄弟愛を感じて、自然と海音の頬が緩んだのだった。
 
『蛍流さんのことが好きなんですね』
『たとえ血の繋がりが無かろうとも、蛍流は共に育った俺の弟だ。大切な家族が苦しめられているのなら助けたくもなる。勿論、君のことも』

 海音は瞬きを繰り返しながら、『私もですか?』と場にそぐわない声を上げてしまう。
 
『黒龍の力で他者には見えるはずが無い俺の姿が見えた時から、君が青龍に選ばれた伴侶であることは気付いていた。この地を守る守護獣は誤魔化せたのだが……やはり青龍に選ばれた君には敵わないらしい。俺が君を陥れてここから連れ出そうとした時も、君を取り巻く青龍の加護に阻まれたからな』
『あの雷って、やっぱり清水さまの力だったんですね。ただの静電気じゃないとは思っていましたが……』
 
 この山を降りて見知らぬ華族の元に嫁がなければならないことに嘆いていた海音が昌真の誘いに乗って手を取ろうとした時、それを阻むように青白い雷が二人の間に轟いた。ただの静電気にしては大きいと思っていたが、あれこそ清水が与えてくれた青龍の加護だったらしい。
 
『弟である蛍流の伴侶として認められた以上、君は俺の義妹(いもうと)ということになる。君の詳しい事情は蛍流から聞いている……随分と苦労したそうだな』
『そんなことは……』
『蛍流は分別のついた生真面目な優男に見えるだろうが、ああ見えて我が儘なところがあれば独占欲も強い。自分が欲しい物や好きな物は手に入れないと気が済まないんだ。そこの窓辺に飾っているゼンマイ式の玩具もそうだ。あれも元は俺が父から貰ったものだったが、気に入った蛍流が自分の物にしてしまった。父は飽きたら返されるだろうから今は貸してやれと言っていたが、結局返されないまま、いつの間にか君の手に渡っていた』

 昌真が示した部屋の窓辺には、以前この部屋の玩具が入った行李の中から見つけたゼンマイ式のブリキで出来た遊牧民と馬の玩具が飾られていた。
 和華が来た際に運び出した荷物を、今朝方蛍流と晶真がこの部屋に運んでくれたので、せっかくだからと海音が窓辺に置いたのだった。

『蛍流は君に懸想している。時には他の男に取られないように、度を超えた熱烈な愛を与えてくるだろう。君の気を引こうと甘えたり、我が儘を言って困らせたりするかもしれない。俺たちに対してもそうだったように……蛍流には甘かったからな、父も俺も』

 そこで晶真が大仰に溜め息を吐いた。眉間に深い皺まで寄ったことから、相当蛍流に手を焼かされたのだろう。海音は心の中でそっと晶真に同情したが、昌真にとってはそれさえも懐かしい思い出なのだろう。遠くを見ながらゆっくり話すのが何よりの証だ。
 
『蛍流や青龍、この世界のことに限らず、困ったことがあれば遠慮なく頼ってくれて構わない。そのためのお目付け役兼教育係だからな。それにしても少々難ありな男の伴侶をよく受け入れたものだ……これから苦労するな、海音』
『それも覚悟の上です。昌真さんもそうですよね?』
『そうだな』

 そこで昌真が小さく破顔したので、海音も笑みを浮かべる。そうしてあまり遅いと蛍流が嫉妬するからと、昌真は部屋を後にしたのだった――。
「簡単な仕事くらいなら()()()にも出来るだろう。勿論、青龍の神気が必要な時はおれがやるしかないが、海音の――自分の伴侶に尽くすことも青龍の務めと同じくらい大切だ。師匠にも自分の伴侶は至上の宝として大切にするように、何度も言われた」
「……そうだな。確かに俺たちは父さんからそう教わってきた。だが、今はお前が青龍だ。青龍の務めをお前以外の者がやるわけにはいかない。俺では意味が無いんだ。それについ三日前に青龍と約束したばかりだろう。『これからは先代のような青龍になる』と。先代の青龍――父さんは俺たちを構いつつも、自分の役目はしっかり果たしていた。それをお前は早速違えるつもりか?」

 流石にぐうの音も出ないのか、蛍流は悔しそうな顔をして黙ってしまう。
 最初こそどこかよそよそしい雰囲気の二人ではあったが、離れていた日々よりも兄弟として共に暮らしていた年月が勝ったからか、あっという間に打ち解けてしまった。今ではすっかり弟を可愛がりつつしっかり嗜める兄と、兄を慕う素直な弟の構図が出来上がっていたのだった。
 蛍流が「兄さん」と呼ぶ度に、昌真は「茅晶でいい」と言いつつも、兄と呼ばれて満更嫌そうにしていなかった。そんなどこか似通った二人が憑き物の取れたような穏やかな笑みを浮かべて親し気にする姿は、海音を微笑ましい気持ちにさせてくれたのだった。
 
「師匠を引き合いに出すのは卑怯だ……」
「自分の仕事を疎かにして、伴侶に現を抜かしているお前には言われたくないな。それとも先に話してしまうか。雲嵐殿ならまだ奥座敷にいるぞ」
「少し急ぐ案件だからな。海音の心労も考慮して本当は全快してから話そうと思っていたが、丁度、雲嵐殿が来ている。それなら今ここで話してしまうのも悪くないか……ただ本当に今話していいものか……」

 二人は神妙な顔で悩んでいるが、話しについていけない海音は首を傾げることしか出来ずにいた。

「すぐに話せないということは、良くない報せなんですか……」
「良くないと言えば良くない。だがおれたちからしたら、溜飲を下げられて気持ちが清々する話だ」
「私にとっては悪い話で、蛍流さんたちにとっては良い話ですか……」
「ああ……傷心のお前には辛い話かもしれないが……次に雲嵐殿が来る時だと少し遅いかもしれないと思ってな……」
「ここまで言われたら、さすがに気になります。聞かせてください!」
「分かった……。兄さん、今日届けてもらった新聞と、それから()()を持って来てくれないか?」

 その言葉で昌真は心得たというように、音も無く静かに部屋を後にする。そして昌真を待たずに、蛍流は話し始めたのだった。

「お前は和華や灰簾家が、その後どうなったか気にならないか?」
「そういえば、和華ちゃんは私を突き飛ばした後、山を降りたんですよね。灰簾家のお屋敷に戻ったとばかり思っていましたが……」
「確かに和華は灰簾家の屋敷に戻ったぞ。丁度、余所の男に輿入れするお前を迎えに来た馬車がこの山の麓に停まっていたからな」

 蛍流の言葉で「あっ……!」と思い出す。あの日海音は灰簾家が整えた縁談のために、ここを出て灰簾家に戻るはずであった。その後の騒動ですっかり忘れていたが、海音を迎えに馬車が山の麓に来ていてもおかしくない。
 あんぐりと口を開けて固まった海音に「その様子だと忘れていたようだな」と蛍流はどこか安堵したように肩の力を抜いたのだった。

「すっかり忘れていました……輿入れしないことを灰簾家に連絡しないといけないですよね」
「その心配なら必要ない。海音の代わりに別の娘が輿入れしたからな」
「別の娘……?」

 そこで雲嵐が届けたと思しき新聞と青磁色の風呂敷包みを手に昌真が戻ってくると、蛍流は「ありがとう」と言って受け取る。

「これは二日前に発行された新聞だが、この記事を読んで欲しい。興味深い内容が書かれている」

 蛍流が示した新聞記事には、とある華族の令嬢が突如として老婆のように老けてしまい、どのような名医に相談して治療を受けても原因不明と診断されて治らなかったという怪奇現象のような内容が書かれていた。
 その直前に令嬢はこの二藍山を訪れており、供も連れずに逃げるように山から降りてきたこと、また普段から女学校での素行が良くなかったことに加えて、令嬢の生家も不穏な噂をいくつも抱えていたことから、令嬢は青龍の怒りに触れて罰を与えられたのではないかという憶測まで載っていたのだった。

「この令嬢って……」
「名前こそ書かれていないが、間違いなく和華のことだろうな。それでこっちが今朝方発行された新聞だ」

 今日の日付が印字された新聞には二日前の新聞に載っていた老婆のようになった令嬢のその後が書かれており、とある華族への輿入れが決まったとのことであった。印刷が不鮮明ではあったものの、その令嬢が馬車に乗り込もうとしている写真まで掲載されており、その顔は確かに老婆のように皺だらけで髪も真っ白になっているようだった。

「これが和華ちゃんですか……?」
「流石に人目を避けたのか、夜も明けきる前の朝未だきの時間帯に遠目から撮影されたので細部までは写っていないが、この背格好は間違いなく和華だろうな。雲嵐殿が灰簾家を出入りする丁稚に聞いたところ、二藍山から戻ってからの和華は屋敷から一切出て来ず、代わりに何人もの医者が屋敷を出入りしていたとのことだった。そうかと思えば、急に屋敷の女中たちが慌ただしそうに和華の輿入れと灰簾夫婦の『遠出』の用意を始めたと話していたそうだ」
「遠出……?」
 
 和華の輿入れの用意と並行して灰簾夫婦も荷をまとめているという噂が、灰簾家を出入りする行商人から雲嵐にもたらされた。灰簾家が家財道具を売り払って資金を集め出し、これまで仕えてきた使用人さえも解雇して屋敷から追い出して、残された数人だけで荷をまとめているという。
 ただの旅行なら家財道具の売買や使用人を辞めさせる必要は無く、屋敷を越すとしても荷運びや荷作りで人手が必要な時に減らすのも不自然であった。これらを突然始めた時期が二藍山から和華が帰って来てからというのも、より違和感を覚えさせた。
 これらの状況を統合した結果、今回和華が新聞に載ったことで灰簾家の不審な噂まで明るみに出てしまったことで、灰簾夫婦もこれまで犯してきた罪科の責任を問われることになったが、罪が露見することを恐れた灰簾夫婦が追及を免れようと「夜逃げ」を企てているのではないかというのが、雲嵐の見立てであった。和華の輿入れと同時に灰簾夫婦も遠出と称して屋敷を離れ、ほとぼりが冷めた頃に何事もなかったかのように戻って来るつもりではないかと。
 
「つまり和華ちゃんの輿入れ先というのが、私が輿入れする予定だった華族の人だったということですか?」
「恐らくは。家同士の繋がりを目的に見据えたとして、自慢の美貌を失った和華を妻に迎えたいという物好きな男はそうそういない。それに新聞にまで悪評が載ってしまった以上、灰簾家だって和華を早々に余所にやりたいと考えるだろう。そこでうってつけだったのが、お前を嫁として迎え入れようとした男だった。和華の話によれば、若い女人なら美醜は問わないとのことだからな。そして和華と芋づる式に灰簾夫婦がこれまで犯してきた罪まで世間に露見した以上、灰簾家もお咎めなしとはいかない。世間の目が和華に向いている内に、雲隠れを目論むことは想像に難くないからな」

 灰簾夫婦についてはすでに蛍流が手を打っており、娘の和華がこの国と青の地を守る守護龍の青龍の清水と、蛍流の伴侶として清水が選んだ海音に危害を与えようとした疑いがあるという旨を政府に連絡をして、灰簾夫婦が不審な動きをしたらすぐ拘束するよう指示を出していた。灰簾家が新聞に載ったことは政府も承知していたようで、すでに灰簾家には官憲を監視につけていると即刻返事が届いたという。
 灰簾家が無実を訴えてきたとしても、実際に海音は和華によって崖下に突き飛ばされていたことから、青龍の伴侶ひいては青龍に害をなそうとしたという証拠もある。和華が連れていた女中たちからも証言を得られれば決定打となるだろう。
 灰簾夫婦も華族でありながら、娘である和華の教育と管理を怠ったとして、青龍に仇名した一家として罪に問うことも検討しているという。

「この様子だと灰簾夫婦が捕らえられるのは時間の問題になってきたな。青龍であるおれからの要請とこの新聞記事も受けて、和華の父親である灰簾子爵が犯してきたこれまでの裏金や横領の調査も本格的に始まったと聞く。どのみち灰簾家の爵位剥奪は免れない」
「爵位の剥奪だけならいいが、青龍に弓を引いた反逆人として青の地からの追放もありえる。今回のように七龍に仇名した罪人たちの情報は他の土地の政府にも共有されることから、もう政治の表舞台に限らず社交界にも出て来られない。青の地以外の農村で細々と暮らすしかないだろうな」
「農村なんて生温い。せっかくなら開拓地送りにして庶民の苦労を嫌という程、経験してもらおう。ああ、和華も輿入れ先から逃げ出すようなら、両親と共に開拓地に送るか、どこか厳格な家の奉公に出させてもいいかもしれない。これまで贅沢三昧していたのだから、それくらいは許されるだろう」
「でも流石に開拓地に送るのは可哀そうです。爵位の剥奪だけで良いと思います。それ以上の罰は流石にどうかと……」
 
 薄暗い笑みを浮かべながら灰簾家の今後を話していた二人だったが、海音の言葉に仰天したような顔をする。
 蛍流が力を暴走させた後に起こった和華とのひと悶着や、山道を転がり落ちた海音がシロに助けられて清水の元に連れて行かれたことも、二人には全て話していた。海音から話しを聞いた時の蛍流は激憤したが、海音がもう済んだことだからと諭したつもりであった。
 
「なっ……!? 和華に怒っていないのか!? 自分が吐いた嘘を咎められるのが嫌でお前に身代わりを押し付けただけじゃなく、危うく転落死するところだったんだぞ!?」
「確かに山道を転がり落ちている時は死ぬかと思いましたが、でも和華ちゃんはもう罰を受けたから良いと思うんです。それになんとなく和華ちゃんの気持ちも分かるから……女の子って周りの気を引きたいものなんです。自分だけを見て欲しいから。自分だけを愛して、いつまでも自分のことを覚えていて欲しいと思うから……」
「そういうものなのか……?」

 蛍流と晶真は戸惑っているようだが、海音には今回の騒動のきっかけを起こした和華の気持ちが分かるような気がした。
 女の子なら誰だって周りから褒めそやされたいし、他の同年代の女の子たちよりも一際目立って、一番になりたいと考えるものだ。青春時代の輝きは、流れ星のように一瞬しかないのだから。
 特にこの世界の海音と同年代の女の子たちは、当たり前のように実家や男性の支配下に置かれている。勝手に嫁ぎ先や結婚相手を決められて、時には政治や生家の道具にされてしまう。
 そんな彼女たちが青春時代の煌めきや輝かしい日々を謳歌出来るのは、瞬くほどの刹那の時間だけ。それも海音が元いた世界の女の子たちより、圧倒的に時間が短い。
 せっかく輝き出しても、家のため相手のためと、あっという間に流れ去ってしまう。
 青春時代が短いからこそ、誰よりも目立ち輝きたいと思ってしまうのかもしれない。眩く輝いていた自分の青春時代をどこかに残しておきたいと、自分が存在していた証を人々の記憶に留めておきたいと考えてしまうのだろう。自分が和華の立場だったら同じことをしていたかもしれないと熟考すればするほど程、和華を咎めることは海音には出来そうになかった。
 
「それに感謝もしているんです。だって和華ちゃんと出会って頼まれなかったら、きっと私は身代わりを引き受けていなかったでしょうし、蛍流さんとこうして出会って、あっ、愛し合うことも、無かったと、思うのでっ……」

 最後は尻すぼみになってしまったが、蛍流にははっきり聞こえたのだろう。赤面しながらも「そ、そうか……」と返してくれたのだった。

「そう言ってくれて嬉しい。おれもお前のことは誰よりも愛しているし、これから先も変わらない愛を捧げよう。そんなお前にこれを贈らせて欲しい。おれからの贈り物だ」
「贈り物って、この風呂敷包みですか? 開けてもいいですか?」

 蛍流が頷いたので、海音は受け取った風呂敷包みを解いていく。そうして中身が明らかになった時、海音は胸に温かいものが込み上げてくるのを感じたのだった。