連日海音が見ていた夢のうち、どこまでが清水の課した試練だったのかは分からない。
それでも木々を抜けた先で目にした衝撃的な光景に、海音は全て正夢だったと思わざるを得なくなったのだった。
「蛍流さん……」
横殴りの雨に体温を奪われた海音の身体がぶるりと大きく震える。
場所こそ滝壺ではなく渓谷だが、いつ崩れてもおかしくない切り立った崖と、小刻みな振動を起こしながら轟音を響かせる崖下の激流。そんな眼下を見下ろす蛍流の背中。
これまで何度も海音を運んでくれた頼り甲斐のあるたくましい背中には深い愁傷が漂っており、それがますます海音の胸を重苦しくさせる。
映画かドラマのワンシーンを見ているようでひどく現実味が無い。心臓が嫌な音を立てて、大きく脈打ち出す。
「あの、蛍流さん……」
「海音なのか……?」
海音の声で振り返った蛍流だったが、その顔には驚愕の色が浮かんでいた。しかしすぐに打ちひしがれたように顔を曇らせると、ふいと海音に背を向けてしまう。
その様子が今の状態を見られたくないというようにも見えて、どう言葉を掛けたらいいのか迷ってしまう。
「……てっきり茅晶と一緒に逃げたとばかり思っていた」
「蛍流さんを置いていくなんて出来ませんから……ここで何をしていたんですか?」
「自分の力を……青龍の力をどうにかして制御出来ないかと試していた」
「こんなところで……?」
「師匠はいつもここから自身の力を龍脈に流していた。おれにも出来るかと思ったが、どうやら無駄足だったな。所詮、俺は手違いで形代に選ばれたまがい物だ。出来なくてもおかしくない」
力無い哀感を帯びた声から、この状況を蛍流がどれほど悲観しているのか伝わってくる。
蛍流自身も分かっているのだ。このまま雨が降り続ければ、川下に広がる青の地で水害が発生してしまうことを。
そのためにも蛍流自身が暴走する青龍の力を――自分の力をどうにかするしかないと。
「紛い物なんてことはありません。蛍流さんより青龍に相応しい人なんていませんから。他の方法を考えましょう。私も一緒に考えます」
「いや。これはおれの問題なのだ。お前は関係ない。只人であるお前には……」
「私が伴侶だったんです! 今までは私が伴侶に相応しいか見極めるために清水さまが隠していただけだったんです!」
「お前が……そうかそれでお前の声がよく耳に入るのだな。初めて会った時から、お前の声はどこにいても耳に入ってくる。青龍としての重責に急き立てられ、ともすれば周囲に目を向ける余裕さえ失いそうになるおれの心に深く染み入り、胸を温かくしてくれた。この甚雨の中にあっても、不思議とお前の声だけはよく聞こえてくるのだ」
力なく微笑む蛍流に海音はますます罪悪感がこみ上げてきて顎が震えてしまう。
もっと早くこの胸に秘めた想いを伝えていれば、蛍流はここまで追い詰め無かったのではないか。絶望することも、悲嘆することも無く、この地を巻き込むような事態にも発展してなかったのではないかと後悔ばかりが募る。
蛍流のためと思って身を引いたのが仇となってしまった。亡き母と約束した「人の心や痛みを知って、思い遣れる人」になると決めていたのに、海音は自分のことしか考えておらず、蛍流が苦しみ悩んでいたことに気付けなかった。
蛍流が他の女性と添い遂げるところを見たくないという怯えにばかり心が囚われて……。
「私、蛍流さんにずっと言えなかったことがあります……。言ったら困らせると思って、青龍の役目を邪魔してしまうと考えて、この想いを胸に仕舞って山を降りようと思っていました……」
「何を隠していたんだ?」
「本当は私も……蛍流さんのことが好きなんです。でも伴侶じゃないからと、伴侶になれないからって! 蛍流さんの気持ちに気付いていたのに、自分の心に嘘をついていました! 私も蛍流さんが好きです。初めて出会った時から……ううん、十年前に泣いていた私の手を引いて、一緒に神社でお参りした時からずっと好きでした」
「十年前……」
蛍流の唇が震える。以前、蛍流自身も話していたが、蛍流は十年前に会った海音のことがうろ覚えだという。
海音と蛍流の二つの願い事を叶える対価として蛍流を次代の形代に選び、そして蛍流から十年前に会っていた海音に関わる一切の記憶を奪ったらしいが、それならここで十年前の話をしてしまえば、蛍流は大切な思い出を穢されたと思ってますます力を暴走させてしまうかもしれない。
それでも伝えられずにはいられなかった。海音に残された時間が少ない以上、この機を逃してしまえば、もう二度と口にすることさえ叶わない。
つまりこれは一種の賭けであり、海音の欲を満たすだけの自己満足。あの日から胸に秘めていた想いを打ち明ける最初で最後のチャンス。
「ずっとずっとお礼を言いたくて、でも名前を知らなくて、顔も覚えていないから、もう会えないと思って諦めていて。そうしたらこうしてまた再会できて、とっても嬉しかったんです。改めて、言わせてください。ありがとうございました、蛍流さん。十年前のあの時からずっと助けてくれて、私のことを守っていてくれて」
蛍流の藍色の目が丸く開かれ、言葉にならないのか口をぽかんと開けたまま固まってしまう。こうして見れば、あの時の男の子もこんな顔をしていたと思えてくる。背は伸び、見た目や声も変わって、精悍な顔立ちになったものの、繋いだ手の温もりや笑った拍子に右目下の黒子がわずかに動くところは変わらない。困っている人に手を差し伸べる勇敢な性格や愛情深い心さえも。
「だから今度は私が蛍流さんを助けます。一緒に方法を考えましょう。これまでも師匠さんに恥じないように、青龍としての務めを一人で果たせていたんです。これからも成し遂げられます。私の青龍は蛍流さんなんですから」
たとえ全てを救った先に待ち受けているのが海音の最期だとしても後悔は無い。最後の最後に最愛の蛍流を守ることが出来るのなら。
蛍流に本当の気持ちを告白して、十年前に助けてくれた男の子に感謝も伝えられた。もう心残りは無い。
とうとう鱗の侵食が顔にまで達したのか、いつもより表情筋が固いような気さえしてくる。上手く笑えているかは分からないが、海音は顔に力を込めると口元を綻ばせたのだった。
「私はもう逃げません。ずっと蛍流さんと一緒にいます。この命が続く限り……愛しています、蛍流さん」
「みっ……」
泣き笑い顔になった蛍流ではあったが、その瞬間足元から間欠泉のように幾つもの水が噴き出す。二人を遮るように溢れ出した水の柱は地面を揺らし、地盤が緩んだ渓谷にがけ崩れを発生させる。それは海音たちが立つ足元にも広がり、二人を別つようにあっという間に崩れさせたのだった。
「蛍流さんっ!!」
「海音っ!!」
激しい水の中にどちらともなく飛び込み、互いに手を伸ばす。腕が砕けそうになるような水圧の中にあってもお互いに指を絡ませて手を繋ぎ、そうして土煙を上げて崩壊する大地と共に落下したのであった。
それでも木々を抜けた先で目にした衝撃的な光景に、海音は全て正夢だったと思わざるを得なくなったのだった。
「蛍流さん……」
横殴りの雨に体温を奪われた海音の身体がぶるりと大きく震える。
場所こそ滝壺ではなく渓谷だが、いつ崩れてもおかしくない切り立った崖と、小刻みな振動を起こしながら轟音を響かせる崖下の激流。そんな眼下を見下ろす蛍流の背中。
これまで何度も海音を運んでくれた頼り甲斐のあるたくましい背中には深い愁傷が漂っており、それがますます海音の胸を重苦しくさせる。
映画かドラマのワンシーンを見ているようでひどく現実味が無い。心臓が嫌な音を立てて、大きく脈打ち出す。
「あの、蛍流さん……」
「海音なのか……?」
海音の声で振り返った蛍流だったが、その顔には驚愕の色が浮かんでいた。しかしすぐに打ちひしがれたように顔を曇らせると、ふいと海音に背を向けてしまう。
その様子が今の状態を見られたくないというようにも見えて、どう言葉を掛けたらいいのか迷ってしまう。
「……てっきり茅晶と一緒に逃げたとばかり思っていた」
「蛍流さんを置いていくなんて出来ませんから……ここで何をしていたんですか?」
「自分の力を……青龍の力をどうにかして制御出来ないかと試していた」
「こんなところで……?」
「師匠はいつもここから自身の力を龍脈に流していた。おれにも出来るかと思ったが、どうやら無駄足だったな。所詮、俺は手違いで形代に選ばれたまがい物だ。出来なくてもおかしくない」
力無い哀感を帯びた声から、この状況を蛍流がどれほど悲観しているのか伝わってくる。
蛍流自身も分かっているのだ。このまま雨が降り続ければ、川下に広がる青の地で水害が発生してしまうことを。
そのためにも蛍流自身が暴走する青龍の力を――自分の力をどうにかするしかないと。
「紛い物なんてことはありません。蛍流さんより青龍に相応しい人なんていませんから。他の方法を考えましょう。私も一緒に考えます」
「いや。これはおれの問題なのだ。お前は関係ない。只人であるお前には……」
「私が伴侶だったんです! 今までは私が伴侶に相応しいか見極めるために清水さまが隠していただけだったんです!」
「お前が……そうかそれでお前の声がよく耳に入るのだな。初めて会った時から、お前の声はどこにいても耳に入ってくる。青龍としての重責に急き立てられ、ともすれば周囲に目を向ける余裕さえ失いそうになるおれの心に深く染み入り、胸を温かくしてくれた。この甚雨の中にあっても、不思議とお前の声だけはよく聞こえてくるのだ」
力なく微笑む蛍流に海音はますます罪悪感がこみ上げてきて顎が震えてしまう。
もっと早くこの胸に秘めた想いを伝えていれば、蛍流はここまで追い詰め無かったのではないか。絶望することも、悲嘆することも無く、この地を巻き込むような事態にも発展してなかったのではないかと後悔ばかりが募る。
蛍流のためと思って身を引いたのが仇となってしまった。亡き母と約束した「人の心や痛みを知って、思い遣れる人」になると決めていたのに、海音は自分のことしか考えておらず、蛍流が苦しみ悩んでいたことに気付けなかった。
蛍流が他の女性と添い遂げるところを見たくないという怯えにばかり心が囚われて……。
「私、蛍流さんにずっと言えなかったことがあります……。言ったら困らせると思って、青龍の役目を邪魔してしまうと考えて、この想いを胸に仕舞って山を降りようと思っていました……」
「何を隠していたんだ?」
「本当は私も……蛍流さんのことが好きなんです。でも伴侶じゃないからと、伴侶になれないからって! 蛍流さんの気持ちに気付いていたのに、自分の心に嘘をついていました! 私も蛍流さんが好きです。初めて出会った時から……ううん、十年前に泣いていた私の手を引いて、一緒に神社でお参りした時からずっと好きでした」
「十年前……」
蛍流の唇が震える。以前、蛍流自身も話していたが、蛍流は十年前に会った海音のことがうろ覚えだという。
海音と蛍流の二つの願い事を叶える対価として蛍流を次代の形代に選び、そして蛍流から十年前に会っていた海音に関わる一切の記憶を奪ったらしいが、それならここで十年前の話をしてしまえば、蛍流は大切な思い出を穢されたと思ってますます力を暴走させてしまうかもしれない。
それでも伝えられずにはいられなかった。海音に残された時間が少ない以上、この機を逃してしまえば、もう二度と口にすることさえ叶わない。
つまりこれは一種の賭けであり、海音の欲を満たすだけの自己満足。あの日から胸に秘めていた想いを打ち明ける最初で最後のチャンス。
「ずっとずっとお礼を言いたくて、でも名前を知らなくて、顔も覚えていないから、もう会えないと思って諦めていて。そうしたらこうしてまた再会できて、とっても嬉しかったんです。改めて、言わせてください。ありがとうございました、蛍流さん。十年前のあの時からずっと助けてくれて、私のことを守っていてくれて」
蛍流の藍色の目が丸く開かれ、言葉にならないのか口をぽかんと開けたまま固まってしまう。こうして見れば、あの時の男の子もこんな顔をしていたと思えてくる。背は伸び、見た目や声も変わって、精悍な顔立ちになったものの、繋いだ手の温もりや笑った拍子に右目下の黒子がわずかに動くところは変わらない。困っている人に手を差し伸べる勇敢な性格や愛情深い心さえも。
「だから今度は私が蛍流さんを助けます。一緒に方法を考えましょう。これまでも師匠さんに恥じないように、青龍としての務めを一人で果たせていたんです。これからも成し遂げられます。私の青龍は蛍流さんなんですから」
たとえ全てを救った先に待ち受けているのが海音の最期だとしても後悔は無い。最後の最後に最愛の蛍流を守ることが出来るのなら。
蛍流に本当の気持ちを告白して、十年前に助けてくれた男の子に感謝も伝えられた。もう心残りは無い。
とうとう鱗の侵食が顔にまで達したのか、いつもより表情筋が固いような気さえしてくる。上手く笑えているかは分からないが、海音は顔に力を込めると口元を綻ばせたのだった。
「私はもう逃げません。ずっと蛍流さんと一緒にいます。この命が続く限り……愛しています、蛍流さん」
「みっ……」
泣き笑い顔になった蛍流ではあったが、その瞬間足元から間欠泉のように幾つもの水が噴き出す。二人を遮るように溢れ出した水の柱は地面を揺らし、地盤が緩んだ渓谷にがけ崩れを発生させる。それは海音たちが立つ足元にも広がり、二人を別つようにあっという間に崩れさせたのだった。
「蛍流さんっ!!」
「海音っ!!」
激しい水の中にどちらともなく飛び込み、互いに手を伸ばす。腕が砕けそうになるような水圧の中にあってもお互いに指を絡ませて手を繋ぎ、そうして土煙を上げて崩壊する大地と共に落下したのであった。