「ほぅ。死を恐れぬのか?」
「……それで愛する人を助けることが出来るのなら」
それに逃げたところで結末は変わらない。それなら最善の方法を選ぶべきであろう。
蛍流を救って、この国を守る。これまで蛍流が守り、そしてこれからも守り続けるであろうこの国を。
「たとえ身体は砕けても、心はこの世界に残ります。私が蛍流さんを想い、蛍流さんが私を覚えていてくれる限り。だから死ぬのは怖くないんです。それより怖いのは蛍流さんが――愛する人が、この世界から消えてしまうことです」
鱗に覆われたこの身体はいずれ塵芥となってしまうが、海音の心は風と共にこの世界に流れて大地に溶け合う。蛍流が守るこの世界の一部となって、蛍流と共にこの世界を守り、あわよくば孤独に喘ぐ蛍流に降り注ぐ恵雨となる。
大地から染み出した水が川から海へと流れ、長い時間を掛けて世界を循環するように、大地と混ざり合った海音の想いも蛍流が司る水の龍脈を通って、何度でも巡り合う。
この閉ざされた山の中で、たった一人で世界を守護する蛍流の心を守るために。
「蛍流さんさえ無事なら、私はどうなっても構いません。蛍流さんが幸せになること。それが私の本望です。そのために必要な対価なら何であろうとも惜しくありません。蛍流さんの熱い想いとは全く比べものにならないですし、こんな形でしか返せないのが残念ですが……」
清き冬の氷水が燦と輝く夏の日華によって優しき温水となるように、海音に対する蛍流の激情も並々ならぬ熱を帯びた情熱的なものであった。
これまで生きてきて蛍流ほどに誰かを深く想ったことも無ければ、想われたことも無かった。愛し愛されることがこんなにも心地良いものだと知り得たのも蛍流のお陰。蛍流と出会って恋に落ちなければ、元の世界ではきっと知り得なかった感情であろう。
そんな蛍流に少しでもお返しをしたい。これは蛍流が求める形では無いかもしれないが、海音には蛍流の想いに匹敵するような返礼を他に持ち得ない。
ただ自分自身を除いて――。
「……随分と謙虚なことよ。だが、あい分かった。其方の覚悟と願いをしかと受け取った。行くが良い、我が愛しき半身の恋われ人よ。その御身をもって、絶望と孤独の檻に囚われたあの子を止めてみせよ」
その言葉が合図になったのか、海音の足元が渦巻き出す。水底から水面に向かって押し上げられそうになった時、咄嗟に海音は「あの!」と声を上げる。
「力が暴走する直前に蛍流さんが言ったんです。『未来じゃなくて、今が欲しい』って。あれはどういう意味なんですか?」
「かつてあの子を育てた先の半身はこう言っていた。『老わず病めない七龍に選ばれた人間たちは、今日という時間の中に取り残されている』と。あの子はその言葉を覚えているのだろう。時間とは絶えず流れる川のようなもの。今日は昨日へと去り、明日が今日へと流れくる。一定の流れの中で全ての生き物は生まれ育ち、そうして死を迎えるのだ。だが我ら七龍に選ばれた者たちというのは、その流れに逆らう存在となる。生きとし生ける全ての生き物が明日へと流れていく中で、我らと共に今日という時間の中に永劫取り残されるのだ。それは即ち、未来を失うことをも意味する」
形代に選ばれた者たちと同時期に生まれて、同じように成長した者たちも、いずれは形代たちより先に年老いて死没する。後から生まれた者たちにも追い抜かされて、木々や動物たちでさえも自分の横をすり抜けて時間の先に行ってしまう。形代たちだけが何も変わらないまま――。
七龍の加護を受けて老いることも無ければ、病気や怪我で病めることも無い。それは一刻も進まない時の中にいるのと同じこと。
時間が進まないということは、変化が起こらないということ。ひいては未来が訪れないということでもある。
「いずれはそうなるであろうが、あの子はまだ成長の途上にいる。あの子の未来はもうしばらく続くであろう。その間は人である其方と同じ時間を歩める。置いていかれる心配や恐れはまだ要らぬ」
「蛍流さんもいずれ私と死に別れるって分かっていたからこそ、今が欲しいと言ったってことですか……?」
「……あの子は親しき者との離別を恐れている。この地で唯一心を許した先の半身は、何も語らぬままあの子を置いて時間の彼方へと行ってしまった。その時の経験と後悔があるからこそ、其方と過ごす今を求めてしまう。其方にとっての未来は、あの子の今でしか無いのだからな。喪ってから後悔をしたく無いのだろう」
形代として数百年という長い時間を生きる蛍流からしたら、百年そこそこしか生きられない人間の海音と過ごせるのは、瞬くほどの刹那の時間でしかないだろう。ようやく胸襟を開いて胸のうちを語ったところで、いずれは海音が先に年老いて死んでしまう。数少ない心を許せる者との死別ほど辛く苦しいものは無い。
海音はそんな痛苦を蛍流に経験して欲しくないからと蛍流の想いに背を向けた。限られた時間しか生きられない海音の存在を忘れて、果てしない時間を生きられる伴侶のことを想って欲しいと。長く過ごした相手との別れより、たった数日しか過ごしていない相手との別れの方が、心に傷を負わなくて済むと思ったからであった。
けれども蛍流が願っていたのが、海音と真逆のことだったとしたら。
蛍流が生きる永久の時間の中でたとえ刹那の一瞬しか共に過ごせないとしても、海音と過ごす時間を一分一秒でも長く得たいと願っていたとしたら。
形代としていずれ閉ざされてしまう未来よりも、海音と過ごせる今しか得られない時間を望んだのなら、未来を見据えて永別を選択した海音とは正反対のことを考えていたことになる。
「私、知らなかったんです。歳を取らないということは未来が存在しないということを。蛍流さんが私と過ごす限られた時間を大切にしたいと思っていたことも……」
「限りある命を持つ其方と限りない命を持つあの子。違う命を持つが故に、考え方が違うのかもしれん。腹を割って話してみると良い……時間は有限。我が抑えるにも限界がある。その片鱗を其方も先程目にしたであろう」
その言葉に弾かれたように顔を上げるが、すでに海音の身体は湖面に向かって浮上していた。エレベーターに乗っているかのようにゆっくりと地上に向けて上昇しながら、海音は我が子を旅に送り出す親のような穏やかな表情を浮かべる清水に目を向ける。
この滝壺で蛍流の暴走が青の地に及ばないように食い止めている清水も、徐々に限界が近づいているのだろう。斜面を転げ落ちた先で海音が目にした濁流がその証。
理を曲げてまで海音を伴侶にしたのも、ここを動けない清水に代わって蛍流を助けてもらうため。それは清水から蛍流を託されたのも同然であろう。
(絶対に蛍流さんを助けてみせる! この青の地とこの国、そして蛍流さんを想う皆のためにも……!)
これ以上は悲観しないように、海音は頭を振ると余計な雑念を払う。蛍流がいなくなって困るのは清水や海音だけではない。この青の地に住まう人、そしてこの国に住まう全ての人たちも、水の龍脈を司る青龍の蛍流がいなければ平穏な暮らしを送れない。
その蛍流が必要なのは、青龍の役目を背負わせるためではない。清水と共に護国という重責を自ら果たし、誰よりもこの青の地の平穏を深く思い遣っている蛍流こそ、青龍を名乗るのに相応しい人物であるから。そしてそんな蛍流を尊敬して心から慕っているからこそ、海音も青龍の役目を担う蛍流の力になりたいと思える。
たとえこの国で一目置かれる七龍であろうとも、蛍流も人の心を持つ以上、時には心が挫けて、涙したくなる時もあるだろう。そんな時に遥か下方から見上げているのではなく、隣で蛍流を支えられる存在でありたい。
今は似た境遇を抱えた友人として、これからは同じ時間の中で生きる伴侶として。命ある限り――。
海音は覚悟を決めて唇をぎゅっと結ぶと、天を見据えたのだった。
◆◆◆
「……それで愛する人を助けることが出来るのなら」
それに逃げたところで結末は変わらない。それなら最善の方法を選ぶべきであろう。
蛍流を救って、この国を守る。これまで蛍流が守り、そしてこれからも守り続けるであろうこの国を。
「たとえ身体は砕けても、心はこの世界に残ります。私が蛍流さんを想い、蛍流さんが私を覚えていてくれる限り。だから死ぬのは怖くないんです。それより怖いのは蛍流さんが――愛する人が、この世界から消えてしまうことです」
鱗に覆われたこの身体はいずれ塵芥となってしまうが、海音の心は風と共にこの世界に流れて大地に溶け合う。蛍流が守るこの世界の一部となって、蛍流と共にこの世界を守り、あわよくば孤独に喘ぐ蛍流に降り注ぐ恵雨となる。
大地から染み出した水が川から海へと流れ、長い時間を掛けて世界を循環するように、大地と混ざり合った海音の想いも蛍流が司る水の龍脈を通って、何度でも巡り合う。
この閉ざされた山の中で、たった一人で世界を守護する蛍流の心を守るために。
「蛍流さんさえ無事なら、私はどうなっても構いません。蛍流さんが幸せになること。それが私の本望です。そのために必要な対価なら何であろうとも惜しくありません。蛍流さんの熱い想いとは全く比べものにならないですし、こんな形でしか返せないのが残念ですが……」
清き冬の氷水が燦と輝く夏の日華によって優しき温水となるように、海音に対する蛍流の激情も並々ならぬ熱を帯びた情熱的なものであった。
これまで生きてきて蛍流ほどに誰かを深く想ったことも無ければ、想われたことも無かった。愛し愛されることがこんなにも心地良いものだと知り得たのも蛍流のお陰。蛍流と出会って恋に落ちなければ、元の世界ではきっと知り得なかった感情であろう。
そんな蛍流に少しでもお返しをしたい。これは蛍流が求める形では無いかもしれないが、海音には蛍流の想いに匹敵するような返礼を他に持ち得ない。
ただ自分自身を除いて――。
「……随分と謙虚なことよ。だが、あい分かった。其方の覚悟と願いをしかと受け取った。行くが良い、我が愛しき半身の恋われ人よ。その御身をもって、絶望と孤独の檻に囚われたあの子を止めてみせよ」
その言葉が合図になったのか、海音の足元が渦巻き出す。水底から水面に向かって押し上げられそうになった時、咄嗟に海音は「あの!」と声を上げる。
「力が暴走する直前に蛍流さんが言ったんです。『未来じゃなくて、今が欲しい』って。あれはどういう意味なんですか?」
「かつてあの子を育てた先の半身はこう言っていた。『老わず病めない七龍に選ばれた人間たちは、今日という時間の中に取り残されている』と。あの子はその言葉を覚えているのだろう。時間とは絶えず流れる川のようなもの。今日は昨日へと去り、明日が今日へと流れくる。一定の流れの中で全ての生き物は生まれ育ち、そうして死を迎えるのだ。だが我ら七龍に選ばれた者たちというのは、その流れに逆らう存在となる。生きとし生ける全ての生き物が明日へと流れていく中で、我らと共に今日という時間の中に永劫取り残されるのだ。それは即ち、未来を失うことをも意味する」
形代に選ばれた者たちと同時期に生まれて、同じように成長した者たちも、いずれは形代たちより先に年老いて死没する。後から生まれた者たちにも追い抜かされて、木々や動物たちでさえも自分の横をすり抜けて時間の先に行ってしまう。形代たちだけが何も変わらないまま――。
七龍の加護を受けて老いることも無ければ、病気や怪我で病めることも無い。それは一刻も進まない時の中にいるのと同じこと。
時間が進まないということは、変化が起こらないということ。ひいては未来が訪れないということでもある。
「いずれはそうなるであろうが、あの子はまだ成長の途上にいる。あの子の未来はもうしばらく続くであろう。その間は人である其方と同じ時間を歩める。置いていかれる心配や恐れはまだ要らぬ」
「蛍流さんもいずれ私と死に別れるって分かっていたからこそ、今が欲しいと言ったってことですか……?」
「……あの子は親しき者との離別を恐れている。この地で唯一心を許した先の半身は、何も語らぬままあの子を置いて時間の彼方へと行ってしまった。その時の経験と後悔があるからこそ、其方と過ごす今を求めてしまう。其方にとっての未来は、あの子の今でしか無いのだからな。喪ってから後悔をしたく無いのだろう」
形代として数百年という長い時間を生きる蛍流からしたら、百年そこそこしか生きられない人間の海音と過ごせるのは、瞬くほどの刹那の時間でしかないだろう。ようやく胸襟を開いて胸のうちを語ったところで、いずれは海音が先に年老いて死んでしまう。数少ない心を許せる者との死別ほど辛く苦しいものは無い。
海音はそんな痛苦を蛍流に経験して欲しくないからと蛍流の想いに背を向けた。限られた時間しか生きられない海音の存在を忘れて、果てしない時間を生きられる伴侶のことを想って欲しいと。長く過ごした相手との別れより、たった数日しか過ごしていない相手との別れの方が、心に傷を負わなくて済むと思ったからであった。
けれども蛍流が願っていたのが、海音と真逆のことだったとしたら。
蛍流が生きる永久の時間の中でたとえ刹那の一瞬しか共に過ごせないとしても、海音と過ごす時間を一分一秒でも長く得たいと願っていたとしたら。
形代としていずれ閉ざされてしまう未来よりも、海音と過ごせる今しか得られない時間を望んだのなら、未来を見据えて永別を選択した海音とは正反対のことを考えていたことになる。
「私、知らなかったんです。歳を取らないということは未来が存在しないということを。蛍流さんが私と過ごす限られた時間を大切にしたいと思っていたことも……」
「限りある命を持つ其方と限りない命を持つあの子。違う命を持つが故に、考え方が違うのかもしれん。腹を割って話してみると良い……時間は有限。我が抑えるにも限界がある。その片鱗を其方も先程目にしたであろう」
その言葉に弾かれたように顔を上げるが、すでに海音の身体は湖面に向かって浮上していた。エレベーターに乗っているかのようにゆっくりと地上に向けて上昇しながら、海音は我が子を旅に送り出す親のような穏やかな表情を浮かべる清水に目を向ける。
この滝壺で蛍流の暴走が青の地に及ばないように食い止めている清水も、徐々に限界が近づいているのだろう。斜面を転げ落ちた先で海音が目にした濁流がその証。
理を曲げてまで海音を伴侶にしたのも、ここを動けない清水に代わって蛍流を助けてもらうため。それは清水から蛍流を託されたのも同然であろう。
(絶対に蛍流さんを助けてみせる! この青の地とこの国、そして蛍流さんを想う皆のためにも……!)
これ以上は悲観しないように、海音は頭を振ると余計な雑念を払う。蛍流がいなくなって困るのは清水や海音だけではない。この青の地に住まう人、そしてこの国に住まう全ての人たちも、水の龍脈を司る青龍の蛍流がいなければ平穏な暮らしを送れない。
その蛍流が必要なのは、青龍の役目を背負わせるためではない。清水と共に護国という重責を自ら果たし、誰よりもこの青の地の平穏を深く思い遣っている蛍流こそ、青龍を名乗るのに相応しい人物であるから。そしてそんな蛍流を尊敬して心から慕っているからこそ、海音も青龍の役目を担う蛍流の力になりたいと思える。
たとえこの国で一目置かれる七龍であろうとも、蛍流も人の心を持つ以上、時には心が挫けて、涙したくなる時もあるだろう。そんな時に遥か下方から見上げているのではなく、隣で蛍流を支えられる存在でありたい。
今は似た境遇を抱えた友人として、これからは同じ時間の中で生きる伴侶として。命ある限り――。
海音は覚悟を決めて唇をぎゅっと結ぶと、天を見据えたのだった。
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