【第一部・完結】七龍国物語〜冷涼な青龍さまも嫁御寮には甘く情熱的〜

「ここは……滝壺だよね?」
 
 やがて虎たちが立ち止まったのを感じて目を開けると、そこはかつて立ち入ってしまったこの山で最も神聖な地とされる滝壺だった。
 これも蛍流が力を暴走させている影響なのか、いつもなら清らかな碧水が絶えず流れる滝壺も、今は底が見えないくらいに黒く濁っていたのだった。

「そんな……」

 七龍たちが形代たちに分け与えるとされる聖なる力――神力。その力が暴走すると、この国を守護する七龍の一体が住まう滝壺でさえ、ここまで変わってしまうものなのか。あまりの変貌ぶりに海音は絶句してしまう。
 虎から降りると海音はそっと水面を覗くが、この中に住んでいるという青龍の姿を見つけることは出来なかった。それでもおずおずと海音は呼びかける。

「し、清水さま……いらっしゃいませんか……?」

 蛍流を形代に選び、自身の力を与えた清水なら、この状況を治められるかもしれないと期待を抱いたものの、未だ黒ずんだ水面には水泡一つ立たない。身勝手な海音たちに呆れてここから去ってしまったのだろうかと、不安が込み上げてくる。それでも海音は唇を噛み締めると、諦めずに声を張り上げたのだった。

「清水さま、お願いです。助けて下さい! このままだと蛍流さんが力に飲み込まれて消えてしまいます! 私の代わりに蛍流を助けてっ……! 助けて下さい!」

 それからも海音は喉がはち切れそうになるくらいに声を大にすると繰り返し頼むが、清水は返事をするどころか一向に姿さえ見せてくれない。
 とうとう叫び疲れて肩で息を繰り返すようになると、海音の中に諦めの色が浮かんでくる。そんな挫けそうになる心を叱咤するように、海音は大きく頭を振ったのだった。

(ううん。清水さまは間違いなくここに居る。だってこんなに雨が降っているのに、まだ滝壺の水が溢れていないから……)

 斜面を転がり落ちた海音がどれくらい気を失っていたのか正確な時刻は変わらないが、その間もずっと雨が降り続いていたのなら、この滝壺はとっくに水が溢れて氾濫しているはず。海音が立っているこの水際こそ、真っ先に水底へと沈んでいなければならない。
 それなのに未だ海音は雨露で泥濘んだだけの大地に足をつけて、やや水量が増しただけの滝壺の前に立っていられる。洪水の危険を感じずにこうしていられるのも、絶えず清水が滝壺の水を下流に向けて流しているからに違いない。
 たとえほんの僅かな時間であったとしても、どこかで水を堰き止めてしまえば、雨量に比例するように水嵩は増してあっという間に滝壺と川は溢れてしまう。氾濫した水で地盤が緩くなれば、二藍山の各地で大規模な土砂崩れが発生する。山から麓へと土石流がなだれ込み、人里にも被害が及んでしまう。
 そうならないように海音が元いた世界では大雨でダムが越流しそうになると、川下が氾濫しない程度に水を放流していた。これにはダムが貯水できる雨水の量と放出する水量を同じにすることで、ダムの決壊による街への被害を最小限に抑えるという役割を担っているからであった。
 そしてこの山はダムが存在していないにも関わらず、全くと言っていいほどに水辺が溢れ出る気配が無い。それはこの地の水を司る清水が、絶えず川下が溢れない量の水を流し続けているから。つまり清水がダムの役割を果たしていると言えるだろう。
 しかしそれももう限界に近いはず。清水が抑えていたと思しき濁流が川下に押し寄せていたということは、清水の力の限界値を超えたことを意味する。
 それが続けば濁流に巻き込まれた漂流物が川の流れを堰き止め、いずれは停留した水で河川が氾濫してしまう。溢れ出た水は荒波となって山や田畑を飲み込み、やがて潮の如く村里に押し寄せる。
 荒れ狂う狂濤は逃げ惑う人と生き物を跡形も無く洗い流し、遂には青龍の暴走という未曾有の事態に直面した青の地の秩序や統制さえも制御不能に陥らせる。
 いずれにしても青の地に甚大な被害を及ぼすのは想像に難くない。

「清水さま、お願いします! 力を貸して下さいっ! 蛍流さんとこの地を助けたいんです! この世界には蛍流さんが必要なんですっ……! 私はどうなってもいいからっ! 蛍流さんを……助けて下さい……っ! 私の大切な人を……助けて……っ!」

 昨日、蛍流が溢れんばかりの想いを海音に綴ったように、海音も蛍流に対する並々ならぬ熱い想いがある。胸に秘め続けようと思ったが、蛍流が命の危機に直面している以上、もうなりふり構っていられない。
 たとえどのような罰を受けようとも、愛する人を助けるために海音は我が身を捨てる覚悟であった。

「蛍流さん……っ!」

 この瞬間も蛍流がたった一人で苦しんでいるかと思うと、胸が締め付けられる。伴侶じゃない自分にはどうすることも出来ないと分かっていても、やはりこのままにしておけない。

(この中から出て来てくれないのなら……もう、私から会いに行くしかない……っ!)
 
 この滝壺がどれくらいの深さなのか、水底まで息が持つのか、勝手に清水の住処に入ってそれこそ罰を受けないかどうか、そんなことを考えている余裕は無かった。唇をぎゅっと一文字に結んで覚悟を決めて滝壺に足を踏み出した瞬間、頭の中に聞き慣れない声が響く。

 ――よもや、其方が先に目覚めるとはな。

 その声にはたと足を止めると、目の前の滝壺に無数の泡が立ち始める。

「えっ……?」

 マグマのように煮え立つ水面に尻込みする海音を襲うように、湖面からは激しい水飛沫が立ち昇る。そうして豪雨のように降り注ぐ水飛沫と共に浅葱色の鱗を纏った細長い龍――清水が姿を現したのだった。

「きゃあ!?」
 
 激浪のように海音を押し流そうとする水飛沫から身を守っていると、シロたちが色めきたって吠える始める。濡れそぼつ髪と頭上から降り落ちる大量の水毬に気を取られていたからか、気付いた時には清水の尻尾に腰を掴まれていた。
 そうして抵抗する間もなく、海音は滝壺の中に引きずり込まれたのだった。

「……っ!」

 ザブンという水音が耳を打ち、そのまま黒い水の底に沈んでいくと覚悟していた海音だったが、不思議と肌を刺すような雪代水の冷たさは感じられなかった。それに気付いてゆっくりと目を開けると、息苦しくないどころか声も上げられることに目を瞬かせたのだった。

(どういうこと……?)

 魚にでもなったのだろうかと思ったものの、海音の身体に変化は見られない。それどころか滝壺を満たす玉水が海音を守るように身体を包み、時折渦を巻く滔々とした水の流れが最深部に向かって海音を誘っているようでもあった。

(この下には何があるんだろう……?)

 腰に絡みつく清水の尻尾に委ねるまま、先も見えない暗い水底をただ沈下していく。その間、恐れや不安は無かった。海音を包む玉水が蛍流の心を表したような穢れのない清らかな浄水だからかもしれない。
 滝壺の底近くまで降りてくると、やがて顔を伏せた一人の人間が立っていることに気付く。それが近寄るにつれて、どこかで見たような甚平姿の男の子だと考えていると、不意に男の子が海音を出迎えるように顔を上げる。男の子がにこりと微笑んだ瞬間、海音は「あっ……」と声を漏らしてしまう。
 頬の動きに合わせるように動く右目下の黒子と小さなえくぼ、そうしてまだ幼さを残すその男の子は、海音がこの世界に来るきっかけとなった神社で出会った子供であった。
 その時にも感じたどこか懐かしさを覚えるその男の子は、蛍流ととても似通っていたのだった。

「あの小娘が突飛な行動に出るとは予想外だった。とんだ災難に遭ったな、嫁御寮」

 男の子の目の前で水底に両足を付けた途端、声変わり前の子供特有の愛嬌のある白声が耳に響く。しかしその愛らしい声に反して、堅苦しい話し方と声音は長らく国を守護してきた威厳ある神そのものであった。

「貴方が清水さまですか……?」
「左様。この姿は我が魂を収める器。龍の姿はあくまでも地上に顕現する際の仮初めの姿である」
「つまりここに居るのが、本当の清水さまということですか……?」
「魂を守護する器は我が選びし半身の凋落によって変わる。これは我が半身より窃取した思い出から写した姿。其方をこの地に誘おうと拵えた面影でもある」
「やっぱり私をこの世界に連れて来たのは、清水さまだったんですね……」

 清水は何も言わなかったが、目を伏せたことが何よりの答えであった。
 海音そして蛍流をこの世界に連れて来たのは、間違いなく清水であると。

「どうして私をこの世界に連れて来たんですか? だって私は何の力も持たない、只の人間なのに……」
「果たしてそうだろうか。其方には其方にしか出来ない役割がある。そのために其方をこの世界に連れて来たのだ」
「私にしか出来ない役割ですか?」
「我が半身と悠久の時を生きる存在。往時の中に取り残されし我が子を慈しみ、その孤独に寄り添える者――伴侶だ」
「伴侶ですか……? でもその伴侶は和華ちゃんが……」

 なおも海音が言葉を紡げば、清水はそれを遮るように頭を振る。
 
「あの小娘は偽ったのだ。蝶よ花よと周囲から褒めそやされるためだけに……愚かな小娘よ。(まこと)の伴侶はここにいるというのに」
「ここにいるって、いったい蛍流さんの伴侶は誰なんですか? だってここには私しか……」
「まだ気付かぬのか。其方のことだ、嫁御寮」
「わっ、私……?」

 素っ頓狂な声を上げてしまう。驚愕のあまり固まってしまったが、すぐに反論する。
 
「私のわけがありません! だってこの滝壺に迷い込んだ時、ここを守るシロちゃんたちに侵入者として襲われましたし、背中には龍の痣がありません! それに身体だって、神気の影響でほとんど鱗に覆われています……」
「それも全て我が仕組んだこと。未だ目覚めぬ我が半身と其方を覚醒させるために仕向けたのだ。この神域に立ち入れられるのは、我が半身とその血を継ぐ者、そして我が選んだ半身の伴侶のみ。ここに立ち入れた時点で、其方は伴侶としての資格を得ていることになる。故に試させてもらった。其方が真に我が半身と添い遂げるのに相応しい人間であるか。我が半身の無聊を慰め、孤独の中で心を失くしつつあるあの子を救うことが出来るのかを」
「どういうことですか? 蛍流さんが人の心を失くしかけているって……」

 心臓がバクバクと激しく脈打ち始める。決してなれないと諦めていた蛍流の伴侶が自分だったこと、その蛍流が心を失いかけていること。衝撃的な事実の連続に頭が追い付かない。一連の清水の言葉を理解しようと、海音はしきりに瞬きを繰り返す。

「……我は人心を知らぬ。青龍としてこの地に降り立ち、我が選んだ半身と長らく過ごしながらも、人が脆い存在であることを理解出来ていなかった。ゆえに幾つもの過ちを犯した。一世代前の半身の心を無視して、我に都合の良い伴侶を選定したがために長らく孤独を強いたこと。その結果、長きに渡る孤独の中で、半身は人の心を見失ってしまい、それが要因となって伴侶との仲を違えさせてしまったこと……。半身が人の情愛を取り戻した時には全てが遅きに失した。伴侶は悠遠へと消え、遺された半身は遺愛となった小倅を抱えて悲嘆に暮れることとなった」

 この一世代前の半身というのは、以前蛍流から聞いた伴侶を亡くしたという先代の青龍――蛍流の師匠であった茅のことだろう。
 夫婦の証である幼子の昌真を残して、先立ってしまったという先代の伴侶。青龍と人の間に立つ形代として、人里を離れて空寂な世界に長く一人で生きてきた蛍流の師匠にとって、伴侶というのは唯一無二の光だったに違いない。
 それを失うということがどれほどの痛苦なのか、海音は到底計り知れないが、きっとこの国を守護する清水でさえも推し量れなかったのだろう。

「そんなかつての半身が嘆き憂いたからこそ、我はその力に翳りが見え始めてすぐに新たな半身をこの地に招いた。次の半身を父性愛で慈しみ、ほんの少しでも長く人としての温かみを保てるように……しかしそれさえも間違いだったのだ」
「蛍流さんを連れて来たことが間違いだった……?」
「新たな半身は未熟だった。あの世界から強引に引き離されたことで、心身の調和が取れなくなってしまった。裸足で雪道を駆け、川で溺れ、手足を傷だらけにしながら哭した。そんな三度我が犯した罪過を先の半身は理解し、溢れんばかりの鍾愛で幼き半身を包んだ。深い慈愛に包まれたことで新たな半身はこの地に足を付けて、我の半身としての自覚を持ち始めた」

 まだまだ父母が恋しい時期に両親から引き離されたことで、幼かった蛍流は目には見えない深い傷を心に負ってしまった。
 大人になった今でこそ青龍の形代に選ばれたことでこの世界に連れて来られたと理解出来るだろうが、まだ子供だった蛍流にはそれを理解できるはずも無い。
 家族や友人たちと別れの言葉を交わす間も無く、気付いた時にはこれまでの常識が通用しない場所で、全く知らない人たちに介抱されていたという蛍流の絶望は途轍も無いものだっただろう。
 その結果、両親に捨てられたという悲傷を抱え、成長した今は元の世界への未練や後悔として生涯抱える傷となってしまった。
 そんな蛍流の気持ちを最も理解したのは一番近くで見ていた師匠だったのだろう。蛍流を我が子として慈しみ、実子の昌真と分け隔てなく愛した。
 蛍流も師匠が注いでくれる嘘偽りの無い愛情を受け取ったからこそ、この世界で青龍として生きていく覚悟を決められたに違いない。

「だがそれも先の半身が健在だった頃の話。憧憬を向けし慈父を喪った半身を守るために、我は災厄をもたらすであろう小倅を遠ざけた。しかしそれがより一層、半身の心に傷を負わせてしまった」
「昌真さんを……茅晶さんをこの山から追放したのは蛍流さんを守るためだったんですね。でもそこまでしてでも清水さまが蛍流さんを守ろうとするのはどうしてですか?」
「我が力を与えし半身は我が子も同然。我が子を危険から守るのも、力を供与せし親として当然のこと。七龍に対して疑念を抱く小倅は、いずれ我が半身に害をなす。そう判断した我は、先の半身の崩御に合わせて小倅を外に出した。無論、害悪だからという理由だけでここを去らせたのでは無い。小倅に自由を与えることは先の半身の願いでもあったのだ」
「師匠さんの……?」
「先の半身そして此度の半身には叶わぬが、小倅はこの地を離れられる。我という楔の影響を受けず、広い世界をありのままに生きること。それが先の半身の願いであった。形はどうあれ叶えたつもりが、それがこのような事態を招く要因になってしまった。不安定な半身の力に気を取られているうちに、神域への侵入も許して……またしても我は過ちを繰り返したのだ……」

 青龍の形代である蛍流、そして蛍流の先代の形代だった師匠には、清水と共にこの地を守護する役目がある。二人はこの山から離れられないが、形代では無い晶真はここを出て自由な生き方を選べた。蛍流の師匠は自身の息子である晶真をこの山に縛り付けず、本人が望む好きな生き方をさせたかったのだろう。
 この地に残って蛍流と生きるも良し、この山を降りて好きな生き方をしても良い。
 自分が出来なかった分、息子には自分の思うがまま、自由に生きて欲しいと願ったのかもしれない。

「一人になった半身は我の力を受け継ぎ、形代としてこの地を託された。しかし心に迷いと悲愁を抱える身では形代としての重責を担えるはずもなく、その焦りがますます溢れんばかりの力を不安定にさせた。此度の半身が歴代で最も強い力を持つ形代であったことも少なからず関係するのだろう。結果として心魂が未発達な半身は強い力を操れず、この地の水の力と龍脈を不均衡にさせてしまった」
「それで蛍流さんの感情と連動するように、天気が変わるようになったんですね……」

 蛍流が抑えきれなくなった青龍の神力が外へと漏れ出し、それが蛍流の感情の起伏に合わせて二藍山の一帯や青の地の四辺の天候にまで影響を及ぼしてしまったのだろう。
 加えて、この山は蛍流が管理する水の龍脈の水源でもある。蛍流の溢れる力が七龍国に張り巡らされた水の龍脈にも作用し、その結果として青の地の至るところで季節外れの雨季を生み出してしまった。
 
「先の半身は歴代で最も長く形代の役目を担った。それ故に水の力は安定を保っており、民は数百年もの間、あらゆる災害を恐れることなく平穏な暮らしを送れた。当然、民は跡目を継いだ半身にも先の半身と同等であることを求めた。それも少なからず原因だったのだろう。先の半身と同じでなければならないと、半身は自らを追い立てた」

 周囲の期待を一心に集めた蛍流は焦燥にかられた。師匠と同じように青龍の力を振るい、師匠を見習って青の地に住む民の生活を守らなければならない。
 しかし自分が持つ強い力は安定せず、この山の天候どころか遂には青の地に住む民の暮らしまでも脅かすこととなってしまった。頼りたくても昌真はおらず、自分が異世界人であることを隠し通すためにもこの世界の人間には打ち明けられない。誰にも相談出来ない蛍流は、一人悩むことになる。
 信頼を置ける者どころか頼る者さえいない状況の中で、亡き師匠の後を継いだばかりの蛍流は緊張と責任感で押しつぶされそうな日々を送っていたに違いない。

「焦り、憂い、そして自らの不甲斐なさを慟哭する半身は日に日にやつれていった。その顔からは喜悦が消え、この地は幾日も涙雨に降られた。感情を失い、心さえも凍り付き始めた頃になって、とある娘の話をしたのだ」
「誰の話をしたんですか?」
「生まれ育った世界で契りを交わしたという娘……この地に招かれる直前に出会い、一枚の賽銭で半身と願いを分かち合ったという娘の話であった」
「それって、蛍流さんがこの世界に来る前に出会ったという女の子……?」
「正にその娘よ……」

 パーティー会場を抜け出した蛍流が出会い、共に神社で神頼みをして約束を交わし、そして蛍流がこの世界に来るきっかけを作ったという少女。
 蛍流でさえ顔を覚えていないというその少女がどう関係するというのか。

「半身は自身の先行きよりも娘の身を案じ、そして息災であることを希求した。しかし妙だった。我は半身と娘の願いを叶えた代償として、その娘にまつわる一切の記憶を半身より貰い受けたつもりであった」
「記憶を? どうして……」
「あの世界と半身の繋がりを断ち切り、我の半身として役割を邁進させるために。そこで我は半身より略取した記憶を垣間見た。そしてその理由を見つけたのだ。半身と娘の間に結ばれし縁――契りを。その契りが未だ半身の心をあの世界に繋ぎ止め、そして半身に宿りし我の力を不均衡にさせていたのだ」

 幼い蛍流が泣いていた少女と交わしたという約束――『今日悲しいことでたくさん泣いたら、明日は楽しいことでたくさん笑う』というもの。子供が考える幼稚な約束事ではあるが、約束であることに変わりは無い。それを安易に切ることは、たとえこの国を守護し、神として崇められる清水であっても容易では無かった。
 そしてその約束が続いているということは、蛍流と元の世界が繋がったままであることも意味する。たとえ少女との記憶が朧気でありながらも、蛍流の心は海音たちの世界で暮らす少女に囚われていることになる。少女に関する心残りと二人の間で結ばれた約束事が、蛍流の力を不安定にさせる原因となったのだった。
 
「そもそも蛍流さんたちの願いを叶えるために代償が必要だったのは、賽銭と願い事が釣り合わなかったからですか?」
「左様。一枚の賽銭で二つの願い。それも共に人命に関わるもの。二つ叶えるには賽銭が足りない。故に我は対価を求めた。半身と引き換えに二つの願いを叶え、不足した対価を補う代わりに半身の御身とその記憶を貰い受けた。丁度その時、先の半身の力が衰え始め、我は次なる半身を求めて渉猟していたのだ。国を飛び、世界を越え、そこでようやく見つけた。龍を祭神とする社で肉親の無事を願い、一枚の賽銭で二つの願い事を唱える二人の幼子。その片割れは次なる半身を担うのに申し分のない人の子であった」

 形代としての役割を終えつつある師匠の後継者に相応しい次代の形代を求めて、清水は海音たちの世界にも天来した。そこで偶然にも形代としての素質を持つ蛍流を見つけたのだろう。そして蛍流と少女の願いを叶える代わりに、蛍流は次の形代としてこの世界の二藍山に転移させられた。
 そこで蛍流は師匠と昌真に拾われ、師匠の後継者たる形代として育てられることになったのだった。
 
「この国を守護する我であっても、この時まで半身と娘の間に交わされた契りを知らずにいた。その契りが結ばれている限り、半身は形代として覚醒出来ず、この地は安泰するどころか危急となってもおかしくない。そこで我は半身との契りを途切れさせるために、その娘もこの世界に連れて来ることに決心したのだ」
「わざわざその時の女の子を連れて来なくても、私たちの世界に行って、その子に蛍流さんとの約束を止めるように言えばいいだけじゃないんですか?」
「そう簡単にはいかぬ。約束とは生きとし生ける者同士を繋ぐ結び付き。約定を成就させるか、はたまた当人たちが反故にしない以上は、たとえ神であろうとも簡単に手は出せない。婚姻や親子の縁が良い例であろう」
「そうですね。親子の縁は簡単には切れません。婚姻も……」
 
 たとえ他愛の無い口約であろうとも、約束というものは両者の結び付きを意味する。男女の誓い、親と子の血縁、いずれにしても縁であることに変わりは無く、結び付きなくして全ての生き物は成り立たない。その約束を違えるとどうなるか、良い例が「指切りげんまん」であろう。
 約束を守る証として互いの小指を曲げ絡める「指切りげんまん」をする際に「嘘ついたら針千本を飲ます」と唱えるが、その言葉の通りに約束を一方的に破るということは何らかの懲罰が与えられることを意味する。
 無関係な第三者が約束事の間に割って入るということは、約束に対して信義に背くということ。つまり「嘘ついたら針千本を飲ます」のと同等の罰を受けることを表す。
 どのような罰かは約束の内容によるところが大きいだろうが、いずれにしても背信を犯して全くの無傷で済むはずがない。それは反故にさせた相手が神であったとしても同じ。
 人間同士の結び付きに横槍を入れて縁を途絶えさせるということは、縁を失った人間の存在意義を危うくするのみならず、人々の信仰によって成立する神の身さえも危険に晒すことに繋がる。自らの下位にあたる人間たちの崇拝無くして神は存在できず、信仰を失った神はいずれ塵となって霧散してしまう。それ故に神たちは不必要な人間社会への干渉を避け、約束事については黙認を貫いてきた。
 古の時代よりこの国を守護する七龍も、他の神々と同様に人々の信仰によって成立してきた守り神である。したがって自身の存在を守るためにも、清水は蛍流と少女の約束を手前勝手に切り離すわけにはいかなかった。
 
「娘には半身と会って、結んだ契りを撤回してもらう必要があった。そのためにも我は半身の世界に暮らすという娘を探した。これも全ては我が半身とこの地の安寧のため。そのつもりであった……」

 このまま少女と交わした約束を放っておけば、蛍流の心身に留まらず、この世界のためにもならない。そう判断した清水は、少女を探して約束を反故にさせようと動き出した。
 少女との約束さえなければ、今度こそ元の世界と蛍流の間の繋がりは完全に無くなる。そうなれば蛍流も半身として力を発揮して、真なる力を目覚めさせられるはずであった。

「半身から貰いし記憶を頼りに娘を探す最中、またしても予想外の出来事が起こった。先の半身の遺言に従い、伴侶を迎えたいと半身に打ち明けられたのだ。これで自身の力と民の生活が安定すると、そう検討違いの言と共に」
「蛍流さんの力が不安定なのは、元いた世界で知り合った女の子との約束が原因だとは教えなかったんですね」
「……我の半身として自覚を持ち始めた頃から、半身は何かを心の支えとしていた。それが少女と結んだ約束だというのは知らなかったが、それを奪う愚は避けたかった。それでは心を失い、先の半身の二の舞となってしまう。この時でさえ、孤独の中に置かれた半身は思い詰めた顔をしていたのだからな」

 この国の未来と蛍流の将来のため、秘密裏に蛍流と約束を交わした少女を探していた清水ではあったが、自身の力を安定させるために伴侶を迎えたいと精神的に追い詰められた様子の蛍流を無碍に扱うことは出来なかった。
 清水は真実を黙したまま二つ返事で蛍流の申し出を受け入れると、伴侶の選定を始めた。
 
「そういえば、清水さまは反対されなかったんですね。蛍流さんが和華ちゃん――伴侶を迎えたいと言った時に。蛍流さんの元を訪れる役人さんたちは、あまり良い顔をしていませんでしたが……」
「これまで半身と先の半身について、我は幾つもの過ちを繰り返してきた。人の言が正しいことを学んだ我は半身の言葉を素直に聞き入れることにしたのだ。我は人の心を知らぬからな。人のことは人に任せるのが良いと判断したまでのことよ」

 蛍流が想う追憶の中の娘と半身に相応しき伴侶。二人の娘を清水が探している最中に、またしても蛍流は予期せぬことを言い出した。
 それが蛍流の元を出入りする行商人の雲嵐から、青龍の伴侶を自称する娘の話を聞かされたというものだった。

「市井で交わされる『青龍の伴侶』の噂を耳にした半身が自分の伴侶を見つけたと申してきた。それこそが青の地に住まう華族の娘であり、伴侶を騙る小娘であった。其方もよく知る者であろう。其方を騙して代わりに罰を受けさせようと目論み、しまいには崖下へと転落させたあの小娘よ」
「やっぱり和華ちゃんは伴侶じゃ無かったんですね……」

 ようやく海音は自分がこの世界について何も知らなかったのを良いことに、和華の都合の良いように利用されていたことを実感する。
 この世界に来た日、見知らぬ場所で全く知らない人たちから常識知らずとして非難される海音を庇ってくれた和華。手厚く保護し、住む場所を与えることで、施しを与えられた海音が和華に情を湧くように仕向けた。心を許した海音が自ら身代わりを申し出ることさえ、和華の計算のうちだったのだろう。そんな和華の思惑に全く気付くことなく、ともすれば妹のように肉親の情を抱いてしまった自分の浅慮さえに悔しさがこみ上げてくる。
 そして和華の身代わりになれるよう、海音のために淑女としての教育や婚姻の用意を整えてくれた灰簾夫婦も娘の企みに気付いて協力した。海音が逃げ出さないように屋敷に留めおき、家族として受け入れたように見せかけることで、海音が和華に疑いを持たないように油断させたのだった。
 この世界に来たばかりで心許なかった海音を家族ぐるみで謀り、自分たちにとって都合の良いように利用した。それがより一層、海音を悲痛な気持ちにさせる。
 
「偽りの伴侶を迎えるという半身を、我はどうにかして止めなければならない。しかし半身と約束を交わした娘と伴侶に相応しい娘は見つからぬ。業を煮やすばかりで何も出来ないまま、しかし偽りの伴侶の輿入れの日になって、ついに我はその両方に当てはまる娘を見つけた。後は其方も知る通り。偽りの伴侶に輿入れを邪魔する形で、其方をこの山では無く、青の地に降ろしたのだ」
「それじゃあ私がこの世界に来た日、嫁入りに向かう和華ちゃんと出会って伴侶の身代わりになったのも、全て偶然じゃなくて清水さまの計算通りだったということ……っ!?」

 どこか信じられない思いで激しく瞬きを繰り返しながら清水を問い詰めれば、その姿に似合わない深いため息を吐きながら「左様」と短く肯定されてしまう。
 
「其方には半身との()()()がある。それでいて純真かつ邪心なき高潔なその心は、伴侶としての素質を持つに値する。其方が伴侶に相応しい人間で無ければ、半身との繋がりが切れた後、守護獣たちに命じてこの山に住まう獣の餌にでもするつもりだった。しかし其方の曇りなき心と、我が未熟な半身の内なる孤独を慈しむ姿は、伴侶として選ぶにも申し分無い。そして我が半身も、其方に愛情を抱き始めた。其方を伴侶に迎えたいと、熱心にも我を口説いてきたのだ。其方が同じ世界から来たと知った時の半身の熱意には、我でさえ舌を巻いた」
「同じ世界から来たと知った時って、この山に来たばかりの時ですよね。ということは、あの日の朝に庭から聞こえていた蛍流の熱心な頼み事って……」
 
 初めて清水と会った時、蛍流はどこまでも真っ直ぐな純愛を清水に伝えていた。あの時は和華に対するひたむきな想いを話し、海音と引き換えに伴侶となる和華を連れて来て欲しいと頼んでいるだけだと思っていたが、本当は海音のことを熱心に話していたらしい。
 あの時に蛍流が口にした数々の愛に溢れた言葉は、今でも海音の中に残っている。蛍流に心恋われる想われ人――あの時は和華だと信じ込んでいた、が羨ましいと、妬んでしまった気持ちも含めて……。
 碧水の如く流れ落ち、心に大きな細波を立てた熱い言葉の数々が蘇ってきたからか、急に恥ずかしさが込み上げてきて、落ち着かない気持ちになる。
 赤くなった頬を手で押さえながらあたふたする海音を清水は小さく笑う。

「半身が抱く愛は一途にして愛着的。我の許しを得ようものなら、半身はすぐに其方とまぐわい、一夜の夢を結ぼうとするだろう。力加減を知らぬ半身が与えてくる苛烈な愛欲に、初心なる其方が耐えられるはずも無い。男女の関係を知らぬ其方が激しい情愛に揉まれたのなら、すぐに身体が限界を迎えてしまうだろう。下手をしたら身体より先に其方の心が壊れてしまうかもしれない」
「そこまで蛍流さんの愛が激しいんですか……?」
「あの半身は先の半身とよく似ている。其方に盲目的なまでに懸想している半身は今や我の訓告も忘れて、すでに盲愛の片鱗を見せ始めている。それではまたしても先の半身とその伴侶の繰り返しとなってしまう。其方らが苦しむ姿は、我も見たくない」

 七龍の形代たちは無意識のうちに自身と同じ神気を纏う伴侶を求める。
 それは他者と違う時間を生きる形代たちにとって、伴侶は自分と唯一同じ時間を生きられる存在であり、周囲から隔絶された環境で暮らす形代たちの孤独を慰めてくれるただ一つの光だからとされていた。
 悠久の時の中で人の心を見失わないためにも、形代たちは伴侶を愛することで心を保ち、また伴侶たちも自身を伴侶に迎えた形代を愛し、愛されることで、人としての温もりを維持してきた。
 本来であれば、伴侶に選ばれるということは形代からの純愛を永遠に受けられる幸福な存在であり、市井に暮らすどの夫婦よりも円満な関係を築けるはずであった。
 しかし先の伴侶――蛍流の師匠が愛した伴侶は、師匠からの寵愛が歪な形をしていたことで心が壊れ、両者の夫婦生活は呆気なく終わりを迎えてしまった。
 何百年もの間、家族を始めとして数多の友人や知り合いたちを見送り、喪失感と孤独に苦しんだ師匠にとって、青龍が選んだ伴侶は希望であり、そして唯一愛を捧げる存在となるだった。
 本来であれば二人は円満な夫婦となるはずだったが、二藍山での気の遠くなるような長い隔離の中で、師匠は他者の愛し方を忘れてしまった。
 それにより力加減を忘れた師匠の過度な愛は伴侶を溺れさせ、その偏愛の中で伴侶の心身は少しずつ軋みだした。
 二人の気持ちはすれ違ったまま幾年もの間、狂愛の日々を過ごし、そうして気が遠くなるような愛憎の中で伴侶は限界を迎えてしまったのだろう。
 愛する息子を遺して、とうとう伴侶は二人の前から永久に消え去ってしまったのだった。

「先の半身は伴侶の異変に気付けぬまま、過剰とも呼ぶ愛を注いでしまった。その結果、小倅が誕生した時には伴侶の心は壊れ果て、半身と永久に添い遂げることなく消えてしまった。そうして伴侶を失った時に、ようやく自らが犯した愚に気付いた次第よ。其方もそうなりたくは無いであろう?」
「昨日の蛍流さんの様子でさえ驚いたっていうのに、本気になったらあれよりもっと激しいということですか。普段は冷静沈着な蛍流さんが……」
 
 すでに昨日蛍流から情熱的な想いを打ち明けられているが、正式に伴侶として迎えられたのなら、あれよりもっと熱烈な最愛を向けられるというのか。
 普段大人しい人こそ愛する人を得た途端に変貌するという話を聞いたことがあるが、昨日の様子からしてどうやら蛍流も伴侶に対して様変わりするタイプらしい。
 あの蛍流が冷静さを欠くくらいに人を愛するとどうなるのか、知りたいと思う反面、ほんの僅かな恐ろしささえ感じて、海音の背中が冷たくなる。
 
「其方の心を守るためにも、我が半身の願いをすぐに叶えるわけにはいかなかった。そこで試させてもらった。其方が真に伴侶に相応しく、半身と悠久の時を添い遂げるのに適しているのかどうかを。そのために我は其方の身体に満ちる神気を封じた。半身と守護獣たちの目を欺くために、只人と同じように見せかけたのだ」
「それでシロちゃんたちに襲われかけたんですね」
「よもや其方がここに迷い込むのは想定外ではあったがな。シロが呼びに行った半身の到着が間に合わなければ、我が自ら助けるつもりであったが、結果として半身は間に合った。全てを蹴って駆け付けた其方への愛の深さ故に」
「あの時、蛍流さんが間に合っていなかったら、間違いなくシロちゃんたちに襲われていたか、崖下に落ちていました。それくらいシロちゃんたちの迫力は、凄まじいものだっだんですよ……」
 
 清水によって伴侶の資格たる神気を封じられた海音は滝壺にこそ辿り着けたが、神域を荒らす侵入者としてシロ以外の番虎たちに追い掛けられた。
 結果としてシロに呼ばれた蛍流が駆け付けてくれたが、もしあと少しでも遅かったら、海音は間違いなく虎たちの餌食になっていたか、絶壁の上から突き落とされていただろう。あんな肝を冷やすような思いは、もう二度と経験したくない。
 不服を込めて清水を睨みつければ、子供特有の無邪気な声色で「そうだったか?」と小首を傾げながら、どこか愉快そうな様子で返される。

「だがこれ以上、我が隠し続けるのも難しいようだ。其方の神気は日を追うごとに高まり、今では守護獣たちでさえ感知できる量に達している。半身も知らず知らずのうちに、其方の神気を感じて求め始めた。故に我は最後の試練を与えさせてもらった。其方の半身に対する想いを確かめ、この地に相応しい存在であるかをな。起こりもしない警告夢という形で」
「もしかして、ここ連日見ていた夢というのは……」
「あれは序の口。あの夢で其方が怯え、ここから逃げ去るか、もしくは半身にとって不都合な存在となろうものなら、我が自ら罰を下していた。だが其方は逃げなかった。否、その前にあの小娘が半身の元に現れてしまった。そこで我は更なる試練を課させてもらった。その身体が試練の証。我の神気に耐え切れなくなった御身が鱗と化しているであろう」

 その言葉で弾かれたように袖を捲れば、腕にはガラスのような鱗が隙間なくびっしりと生えていた。今朝方、着替えた時はまだまばらにしか生えていなかったので、斜面を転落して気絶している間に鱗の侵食が進んだのだろう。
 身体中をペタペタ触って確認すれば、いつの間にか首元や肩にも鱗が広がっていた。

「つまるところ、この身体中の鱗の正体は……」
「互いに同じ想いと願いを持ちながらも、進展しない其方らに業を煮やしたのだ。そこで其方の御身に細工を施させてもらった。これを老婆心というそうだな。人の世では」
 
 清水は海音と蛍流の両者に危険が迫った時、海音がどちらを選んでどのような行動を取るのか確かめ、それによって蛍流に対する海音の愛情の深さを計ろうとした。
 そこで蛍流と海音自身に迫る危険の兆候を夢という形で繰り返し見せることで、それがいずれ現実に起こることだと海音に錯覚させた。
 正夢になると信じ込んだ海音がどのような行動を起こし、それに対して蛍流がどう応えるのかで二人の情愛の深さを品定めしようとしたが、ここに至って和華がこの山にやって来てしまった。
 海音が本当の伴侶だと知るはずもない和華が海音をこの山から追い出そうとするのは想像に難くなく、蛍流と添い遂げられなくなった海音が灰簾家に言いくるめられて他の男に嫁いでしまうのも予想がつく。悠長に海音を見極められなくなった清水は次の作戦にでた。
 それが海音の身体に自身の神気を流し込むことで、膨大な神気に耐え切れなくなった海音の身体に鱗を生やさせるというものであった。

「我が細工したのはほんの一片。半身と気持ちを打ち明け、慕情を重ね合わせれば消えるはずのものであった。残された時間が差し迫っていることを知った其方と半身は、お互いの想いを口にするであろうと我は考えたのだ。そうすれば其方の身体から鱗は消え、半身も真の力を目覚めさせるはずだった。あの小娘も恐れをなして立ち去ると目論んだ。だが……」

 清水が吐いた深いため息に呼応するように、海音の胸も締め付けられる。
 海音そして蛍流も、形代と伴侶という逃れられない宿命を前にして、お互いに想いを伝えることなく相手に対する恋慕を封じ込めてしまった。
 そして海音は灰簾家の娘として親子ほどの歳が離れた男への嫁入りを、蛍流は国とこの地のために和華を伴侶として迎えることを決心した。
 それにより海音の身体から鱗は消えず、蛍流は形代として覚醒できないどころか、海音に捨てられたショックで力を暴走させてしまった。
 
(それ)がそこまで広がったのは其方の心に迷いと曇りがある証拠。それは即ち伴侶として不適合ということ。そこまで進行してしまったのなら、我にはどうすることも出来ぬ。ただ朽ち果てるのみ。ここから去ったとしても其方の末路は変わらぬ」
「そんな……」

 震え声で短く呟き、そうして自分の身体を強く抱き寄せる。ここから去れば体中の鱗が消えるかもしれないという望みは、清水の言葉で呆気なく消えてしまった。
 この調子で鱗が生え続ければ、今日の入相には海音の全身が鱗に覆われる。明日の日の出を見ること無く、夢の通りに身体が砕けてしまうだろう。
 蛍流を救うこともできず、海音もこの世界から跡形なく消える。最悪の結末としか言いようがない。
 
「そう驚くこともあるまい。伴侶と半身に対して、其方には何か心当たりがあるのではないか」
「心当たりなんてそんな……」

 蛍流そしてその伴侶に対して海音はいったい何を迷っているというのか、皆目見当がつかない。思案し始めた海音に呆れたのか、清水はやれやれと言いたげに苦笑する。

「其方はずっと口にしていたではないか。『自分は伴侶になれない』、『伴侶ではない』と。何故、最初から諦めるのだ?」
「それは……和華ちゃんが伴侶だって聞いていたからで……」
「そうでは無い。何故、伴侶になれないと最初から決めつけてしまう。本当に半身を慕っているのなら、他者と争ってでも伴侶の座を奪うくらいしたらどうなのだ。半身が其方を伴侶に望んだように、其方も伴侶になりたいと望めばいいだけのこと。かつて母君の病気快癒を神頼みしたように。其方は自身に関する願望は無いのか。何故に我欲を持たぬ?」
「決めつけてなんていません! 青龍の伴侶は青龍さまが決めると聞きました! つまり伴侶を選ぶ基準というのは青龍である清水さま次第であって、自分でどうこう出来るものでは無いからです! 我欲なんてあったって意味無いからで……」
「先程から我はこう言っている。『伴侶としての素質を持つに値する』と。我は誰よりも半身に相応しい其方を伴侶に選びたいところではあったが、其方自身が伴侶であることを否定してしまった。其方の心に巣食う迷いと曇りに呼応して鱗は広がり、とうとう伴侶としての資格を喪失した。無論、其方の意志を曲げて伴侶に選ぶことは容易いが、それでは半身のためにならない。我が求める伴侶は半身の心を理解して、孤独を癒す者。いずれ同じ時間の中に取り残される半身の心身に寄り添い、うら淋しさを温めてくれる者でなければならぬ」

 伴侶自身の気持ちを無視して形代と番わせたところで、関係が上手くいかないのは想像に難く無い。
 重ねた年月の分だけ二人の間に溝や蟠りが生じ、無限にも近い時間を割り切れない気持ちを抱えて夫婦として生きていくのは酷であろう。

「伴侶には誰よりも半身の人恋しさを慰めたいという我情と、そのためならば半身と共に周囲と異なる隔絶された時間の中で生きていくという覚悟を持たねばならぬ。されど其方にはそのどちらも欠けている。それでは我は其方を伴侶には選べない。半身のためにならないからだ」

 清水たち七龍にとって大切なのは自らの力と人の世を繋ぐ形代たち――蛍流たちであって、伴侶はあくまで半身たちが自らの務めを果たすために必要なおまけの存在。
 全てを捨てて人の世から離れ、人でありながらも人とは異なる時間を生き、そして神に最も近い存在となる形代たちが、同じ時間を繰り返す中で目的を見失わず、つつがなく形代の役割を果たすためだけに七龍が用意するいわば道具。本来であれば伴侶はいなくても良いが、何も変化の無い同じ時間を生きる中で形代たちが人の心を見失い、思考を放棄した物言わぬ人形と化さないために、同じ気持ちと孤独を抱える者として形代の対となる伴侶を用意する。
 形代の最たる理解者にして、最愛で結ばれる夫婦となる伴侶は、決して形代を裏切るようなことがあってはならない。一度心を傾けた伴侶に裏切られたのなら、形代は今度こそ心を壊してしまう。それだけならいいが、絶望のあまりに自らが治める地とひいてはこの国の秩序まで破壊しかねない。
 半身とこの国の安寧を思えばこそ、七龍たちは伴侶を選ぶ際には慎重を期して相手を見極めなければならなかった。

「あの小娘が伴侶だと思っていた時、伴侶になれないと諦めてしまうのは理解できる。しかしあの小娘が伴侶を騙っていただけだと知ったのなら、其方も分かっているであろう。現在伴侶の座は空位であり、そしてその伴侶の座に最も近いのは其方であると。ならば願うが良い。伴侶になりたいと。半身と永久に添い遂げたいと」
「でもここまで鱗が生えたのなら助からないって……」
「あくまで我が干渉出来ないというだけであって、助からないとは一言も言っておらぬ。万が一にも助かる方法があるとすれば、半身を覚醒させて、この地の龍脈を正常な状態に戻すほかならない。だがそのためには……荒れ狂う半身を止めねばならない」
「今の蛍流さんには伴侶以外の言葉が届きません。つまり蛍流さんを止めるには……」
「其方が伴侶になるしかない。ならば願え、嫁御寮。真に半身を想うなら、嘘偽りの無い覚悟をもって伴侶を願うが良い。しかし代償として其方の御魂と御身を貰い受ける」
「代償が必要なんですか……?」
「本来であれば対価は不要だが、其方は伴侶として不適格の烙印を押されてしまった。資格を失いながらも、其方を伴侶として拾い上げるのだ。対価が必要なのは当然であろう」

 ぐっと海音は喉を鳴らす。どのみちこのまま蛍流を放って逃げたところで、海音が鱗に覆われて粉々に砕け散るのは変わらない。
 それなら最期の瞬間まで愛する人と共にいた方が幸せでないのか。蛍流に自分の声が届くかどうかは別として。
 それに晶真も言っていたではないか。このままだと蛍流も自分の力に飲み込まれて、消えてしまうと。
 蛍流は海音を慕うあまり力を暴走させた。そして海音も蛍流を大切に想うあまり鱗に覆われている。
 二人揃って消えてしまう運命なら、少しでもお互いにとって益のある最期を過ごしたい。海音の母親が最期に愛する家族と自宅で過ごすことを望んだように……。
 海音も最期は愛する人と――蛍流と同じ時の中で消えたい。蛍流と言葉を交わし、蛍流の隣で風と共に散る。そして願い叶うのなら蛍流だけでも救って、もう一度、蛍流の微笑みを胸に焼き付けたい。
 迫る死への恐怖を、愛する人を置いて先立つ寂しさを、少しでも和らげるために――。

「……伴侶になるのと引き換えに支払う代償は、私だけですか?」

 自分の口から発せられたとは思えない落ち着いた声。眦を決して言葉を口にした瞬間、身体中がムズムズして体温が上昇していくのを感じる。
 清水が短く首肯する声さえも自分の心臓の音に紛れて、どこか遠くから聞こえてくるように思えてしまったのだった。

「ほぅ。死を恐れぬのか?」
「……それで愛する人を助けることが出来るのなら」

 それに逃げたところで結末は変わらない。それなら最善の方法を選ぶべきであろう。
 蛍流を救って、この国を守る。これまで蛍流が守り、そしてこれからも守り続けるであろうこの国を。

「たとえ身体は砕けても、心はこの世界に残ります。私が蛍流さんを想い、蛍流さんが私を覚えていてくれる限り。だから死ぬのは怖くないんです。それより怖いのは蛍流さんが――愛する人が、この世界から消えてしまうことです」
 
 鱗に覆われたこの身体はいずれ塵芥となってしまうが、海音の心は風と共にこの世界に流れて大地に溶け合う。蛍流が守るこの世界の一部となって、蛍流と共にこの世界を守り、あわよくば孤独に喘ぐ蛍流に降り注ぐ恵雨となる。
 大地から染み出した水が川から海へと流れ、長い時間を掛けて世界を循環するように、大地と混ざり合った海音の想いも蛍流が司る水の龍脈を通って、何度でも巡り合う。
 この閉ざされた山の中で、たった一人で世界を守護する蛍流の心を守るために。

「蛍流さんさえ無事なら、私はどうなっても構いません。蛍流さんが幸せになること。それが私の本望です。そのために必要な対価なら何であろうとも惜しくありません。蛍流さんの熱い想いとは全く比べものにならないですし、こんな形でしか返せないのが残念ですが……」

 清き冬の氷水が燦と輝く夏の日華によって優しき温水となるように、海音に対する蛍流の激情も並々ならぬ熱を帯びた情熱的なものであった。
 これまで生きてきて蛍流ほどに誰かを深く想ったことも無ければ、想われたことも無かった。愛し愛されることがこんなにも心地良いものだと知り得たのも蛍流のお陰。蛍流と出会って恋に落ちなければ、元の世界ではきっと知り得なかった感情であろう。
 そんな蛍流に少しでもお返しをしたい。これは蛍流が求める形では無いかもしれないが、海音には蛍流の想いに匹敵するような返礼を他に持ち得ない。
 ただ自分自身を除いて――。
 
「……随分と謙虚なことよ。だが、あい分かった。其方の覚悟と願いをしかと受け取った。行くが良い、我が愛しき半身の恋われ人よ。その御身をもって、絶望と孤独の檻に囚われたあの子を止めてみせよ」

 その言葉が合図になったのか、海音の足元が渦巻き出す。水底から水面に向かって押し上げられそうになった時、咄嗟に海音は「あの!」と声を上げる。

「力が暴走する直前に蛍流さんが言ったんです。『未来じゃなくて、今が欲しい』って。あれはどういう意味なんですか?」
「かつてあの子を育てた先の半身はこう言っていた。『老わず病めない七龍に選ばれた人間たちは、今日という時間の中に取り残されている』と。あの子はその言葉を覚えているのだろう。時間とは絶えず流れる川のようなもの。今日は昨日へと去り、明日が今日へと流れくる。一定の流れの中で全ての生き物は生まれ育ち、そうして死を迎えるのだ。だが我ら七龍に選ばれた者たちというのは、その流れに逆らう存在となる。生きとし生ける全ての生き物が明日へと流れていく中で、我らと共に今日という時間の中に永劫取り残されるのだ。それは即ち、未来を失うことをも意味する」

 形代に選ばれた者たちと同時期に生まれて、同じように成長した者たちも、いずれは形代たちより先に年老いて死没する。後から生まれた者たちにも追い抜かされて、木々や動物たちでさえも自分の横をすり抜けて時間の先に行ってしまう。形代たちだけが何も変わらないまま――。
 七龍の加護を受けて老いることも無ければ、病気や怪我で病めることも無い。それは一刻も進まない時の中にいるのと同じこと。
 時間が進まないということは、変化が起こらないということ。ひいては未来が訪れないということでもある。

「いずれはそうなるであろうが、あの子はまだ成長の途上にいる。あの子の未来はもうしばらく続くであろう。その間は人である其方と同じ時間を歩める。置いていかれる心配や恐れはまだ要らぬ」
「蛍流さんもいずれ私と死に別れるって分かっていたからこそ、今が欲しいと言ったってことですか……?」
「……あの子は親しき者との離別を恐れている。この地で唯一心を許した先の半身は、何も語らぬままあの子を置いて時間の彼方へと行ってしまった。その時の経験と後悔があるからこそ、其方と過ごす今を求めてしまう。其方にとっての未来は、あの子の今でしか無いのだからな。喪ってから後悔をしたく無いのだろう」

 形代として数百年という長い時間を生きる蛍流からしたら、百年そこそこしか生きられない人間の海音と過ごせるのは、瞬くほどの刹那の時間でしかないだろう。ようやく胸襟を開いて胸のうちを語ったところで、いずれは海音が先に年老いて死んでしまう。数少ない心を許せる者との死別ほど辛く苦しいものは無い。
 海音はそんな痛苦を蛍流に経験して欲しくないからと蛍流の想いに背を向けた。限られた時間しか生きられない海音の存在を忘れて、果てしない時間を生きられる伴侶のことを想って欲しいと。長く過ごした相手との別れより、たった数日しか過ごしていない相手との別れの方が、心に傷を負わなくて済むと思ったからであった。
 けれども蛍流が願っていたのが、海音と真逆のことだったとしたら。
 蛍流が生きる永久の時間の中でたとえ刹那の一瞬しか共に過ごせないとしても、海音と過ごす時間を一分一秒でも長く得たいと願っていたとしたら。
 形代としていずれ閉ざされてしまう未来よりも、海音と過ごせる今しか得られない時間を望んだのなら、未来を見据えて永別を選択した海音とは正反対のことを考えていたことになる。

「私、知らなかったんです。歳を取らないということは未来が存在しないということを。蛍流さんが私と過ごす限られた時間を大切にしたいと思っていたことも……」
「限りある命を持つ其方と限りない命を持つあの子。違う命を持つが故に、考え方が違うのかもしれん。腹を割って話してみると良い……時間は有限。我が抑えるにも限界がある。その片鱗を其方も先程目にしたであろう」

 その言葉に弾かれたように顔を上げるが、すでに海音の身体は湖面に向かって浮上していた。エレベーターに乗っているかのようにゆっくりと地上に向けて上昇しながら、海音は我が子を旅に送り出す親のような穏やかな表情を浮かべる清水に目を向ける。
 この滝壺で蛍流の暴走が青の地に及ばないように食い止めている清水も、徐々に限界が近づいているのだろう。斜面を転げ落ちた先で海音が目にした濁流がその証。
 理を曲げてまで海音を伴侶にしたのも、ここを動けない清水に代わって蛍流を助けてもらうため。それは清水から蛍流を託されたのも同然であろう。

(絶対に蛍流さんを助けてみせる! この青の地とこの国、そして蛍流さんを想う皆のためにも……!)

 これ以上は悲観しないように、海音は頭を振ると余計な雑念を払う。蛍流がいなくなって困るのは清水や海音だけではない。この青の地に住まう人、そしてこの国に住まう全ての人たちも、水の龍脈を司る青龍の蛍流がいなければ平穏な暮らしを送れない。
 その蛍流が必要なのは、青龍の役目を背負わせるためではない。清水と共に護国という重責を自ら果たし、誰よりもこの青の地の平穏を深く思い遣っている蛍流こそ、青龍を名乗るのに相応しい人物であるから。そしてそんな蛍流を尊敬して心から慕っているからこそ、海音も青龍の役目を担う蛍流の力になりたいと思える。
 たとえこの国で一目置かれる七龍であろうとも、蛍流も人の心を持つ以上、時には心が挫けて、涙したくなる時もあるだろう。そんな時に遥か下方から見上げているのではなく、隣で蛍流を支えられる存在でありたい。
 今は似た境遇を抱えた友人として、これからは同じ時間の中で生きる伴侶として。命ある限り――。
 海音は覚悟を決めて唇をぎゅっと結ぶと、天を見据えたのだった。

 ◆◆◆

 シロたちの短い咆哮が出迎えてくれる中、滝壺に戻った海音は細かな水飛沫と共にそっと地面に下ろされる。
 エレベーターから降りた直後のように足元がふらついてその場に座り込んでしまうと、胸元近くまで伸びた髪とあらゆる汚れが柄のように点在する破れた袖が川風を纏ってふわりと広がる。そこにすかさずシロが飛びついてきたので、海音はシロを抱き留めながら何度も白と黒の長い毛に覆われた身体を愛撫したのだった。

「ごめんね、シロちゃん、みんな。急に消えたから心配かけちゃったよね。でももう大丈夫。これから蛍流さんを助けに行くからね」

 他の虎たちが許すというように小さく鳴く中、シロだけは心底心配したんだと言いたげに何度も頭を擦り付けてくる。雌虎だけあって同性の海音にとりわけ優しいのか、それとも単に甘えん坊な性格なのか。どちらにしても全く悪い気はしなかった。
 ひとしきりシロを撫で回して立ち上がったところで、水中から青龍の姿をした清水が現れたので海音は表情を引き締めて清水を見つめる。

「嫁御寮。半身の居所まではシロたち守護獣に案内してもらうと良い。守護獣たちなら半身の神気を辿れるであろう」
「屋敷にいるんじゃないんですか?」
「……この荒天を自力でどうにかしようと、其方が気を失っている間に移動したようだ。ここから屋敷に続く道は大木が倒れて封鎖されている。となれば、半身が向かう先はそう多くない。屋敷裏を通って、鬱蒼とした森の中に消えたようだ」
「屋敷裏には蛍流さんが師匠さんから受け継いだ畑がありますが、その先にあるのは森なんですか?」
「左様。外界から屋敷を守るように広がる草深い森を抜けた先には大きな崖に囲まれた渓谷がある。あの辺りは連日の雨で地盤が緩んでおり、いつ崩れてもおかしくない。落下したのなら、半身とてひとたまりも無いだろう……」
「そんなっ……!? 早く止めないと!」
「守護獣たちの力を借りれば、今ならまだ追いつけるはずだ。早く追いかけるといい」

 それだけ告げると、清水の姿は霞のように消えてしまう。夢幻かと思ったが、頭の中で清水の声が反響する。

 ――急げ、嫁御寮。半身がその身を捧げる前に。

 その言葉に全身が総毛立つと、反射的に海音は「シロちゃん!」と傍らの守護獣に叫んでいた。

「蛍流さんの神気を辿って欲しいの。やってくれる?」

 その言葉にシロは「ばふっ」と鳴くと、他の虎たちと一緒に地面をクンクン嗅ぎ出す。そうして蛍流の神気を見つけたのか、虎たちは一点に向かって駆け出していく。海音も後を追い掛けようとしたが、先程背に乗せてくれた虎が袖を咥えて引っ張ってきたので、意図するところを察して黄色と黒色の獣毛に覆われた背に跨る。
 シロたちを追いかけるように駆け出した虎にしっかりと捕まりながら海音は先を急いだのだった。

 ◆◆◆