「ここは……滝壺だよね?」
 
 やがて虎たちが立ち止まったのを感じて目を開けると、そこはかつて立ち入ってしまったこの山で最も神聖な地とされる滝壺だった。
 これも蛍流が力を暴走させている影響なのか、いつもなら清らかな碧水が絶えず流れる滝壺も、今は底が見えないくらいに黒く濁っていたのだった。

「そんな……」

 七龍たちが形代たちに分け与えるとされる聖なる力――神力。その力が暴走すると、この国を守護する七龍の一体が住まう滝壺でさえ、ここまで変わってしまうものなのか。あまりの変貌ぶりに海音は絶句してしまう。
 虎から降りると海音はそっと水面を覗くが、この中に住んでいるという青龍の姿を見つけることは出来なかった。それでもおずおずと海音は呼びかける。

「し、清水さま……いらっしゃいませんか……?」

 蛍流を形代に選び、自身の力を与えた清水なら、この状況を治められるかもしれないと期待を抱いたものの、未だ黒ずんだ水面には水泡一つ立たない。身勝手な海音たちに呆れてここから去ってしまったのだろうかと、不安が込み上げてくる。それでも海音は唇を噛み締めると、諦めずに声を張り上げたのだった。

「清水さま、お願いです。助けて下さい! このままだと蛍流さんが力に飲み込まれて消えてしまいます! 私の代わりに蛍流を助けてっ……! 助けて下さい!」

 それからも海音は喉がはち切れそうになるくらいに声を大にすると繰り返し頼むが、清水は返事をするどころか一向に姿さえ見せてくれない。
 とうとう叫び疲れて肩で息を繰り返すようになると、海音の中に諦めの色が浮かんでくる。そんな挫けそうになる心を叱咤するように、海音は大きく頭を振ったのだった。

(ううん。清水さまは間違いなくここに居る。だってこんなに雨が降っているのに、まだ滝壺の水が溢れていないから……)

 斜面を転がり落ちた海音がどれくらい気を失っていたのか正確な時刻は変わらないが、その間もずっと雨が降り続いていたのなら、この滝壺はとっくに水が溢れて氾濫しているはず。海音が立っているこの水際こそ、真っ先に水底へと沈んでいなければならない。
 それなのに未だ海音は雨露で泥濘んだだけの大地に足をつけて、やや水量が増しただけの滝壺の前に立っていられる。洪水の危険を感じずにこうしていられるのも、絶えず清水が滝壺の水を下流に向けて流しているからに違いない。
 たとえほんの僅かな時間であったとしても、どこかで水を堰き止めてしまえば、雨量に比例するように水嵩は増してあっという間に滝壺と川は溢れてしまう。氾濫した水で地盤が緩くなれば、二藍山の各地で大規模な土砂崩れが発生する。山から麓へと土石流がなだれ込み、人里にも被害が及んでしまう。
 そうならないように海音が元いた世界では大雨でダムが越流しそうになると、川下が氾濫しない程度に水を放流していた。これにはダムが貯水できる雨水の量と放出する水量を同じにすることで、ダムの決壊による街への被害を最小限に抑えるという役割を担っているからであった。
 そしてこの山はダムが存在していないにも関わらず、全くと言っていいほどに水辺が溢れ出る気配が無い。それはこの地の水を司る清水が、絶えず川下が溢れない量の水を流し続けているから。つまり清水がダムの役割を果たしていると言えるだろう。
 しかしそれももう限界に近いはず。清水が抑えていたと思しき濁流が川下に押し寄せていたということは、清水の力の限界値を超えたことを意味する。
 それが続けば濁流に巻き込まれた漂流物が川の流れを堰き止め、いずれは停留した水で河川が氾濫してしまう。溢れ出た水は荒波となって山や田畑を飲み込み、やがて潮の如く村里に押し寄せる。
 荒れ狂う狂濤は逃げ惑う人と生き物を跡形も無く洗い流し、遂には青龍の暴走という未曾有の事態に直面した青の地の秩序や統制さえも制御不能に陥らせる。
 いずれにしても青の地に甚大な被害を及ぼすのは想像に難くない。

「清水さま、お願いします! 力を貸して下さいっ! 蛍流さんとこの地を助けたいんです! この世界には蛍流さんが必要なんですっ……! 私はどうなってもいいからっ! 蛍流さんを……助けて下さい……っ! 私の大切な人を……助けて……っ!」

 昨日、蛍流が溢れんばかりの想いを海音に綴ったように、海音も蛍流に対する並々ならぬ熱い想いがある。胸に秘め続けようと思ったが、蛍流が命の危機に直面している以上、もうなりふり構っていられない。
 たとえどのような罰を受けようとも、愛する人を助けるために海音は我が身を捨てる覚悟であった。

「蛍流さん……っ!」

 この瞬間も蛍流がたった一人で苦しんでいるかと思うと、胸が締め付けられる。伴侶じゃない自分にはどうすることも出来ないと分かっていても、やはりこのままにしておけない。

(この中から出て来てくれないのなら……もう、私から会いに行くしかない……っ!)
 
 この滝壺がどれくらいの深さなのか、水底まで息が持つのか、勝手に清水の住処に入ってそれこそ罰を受けないかどうか、そんなことを考えている余裕は無かった。唇をぎゅっと一文字に結んで覚悟を決めて滝壺に足を踏み出した瞬間、頭の中に聞き慣れない声が響く。

 ――よもや、其方が先に目覚めるとはな。

 その声にはたと足を止めると、目の前の滝壺に無数の泡が立ち始める。

「えっ……?」

 マグマのように煮え立つ水面に尻込みする海音を襲うように、湖面からは激しい水飛沫が立ち昇る。そうして豪雨のように降り注ぐ水飛沫と共に浅葱色の鱗を纏った細長い龍――清水が姿を現したのだった。

「きゃあ!?」
 
 激浪のように海音を押し流そうとする水飛沫から身を守っていると、シロたちが色めきたって吠える始める。濡れそぼつ髪と頭上から降り落ちる大量の水毬に気を取られていたからか、気付いた時には清水の尻尾に腰を掴まれていた。
 そうして抵抗する間もなく、海音は滝壺の中に引きずり込まれたのだった。