その瞬間、何が起きたのか分からず、海音の思考が停止してしまう。時間の流れがゆっくりと感じられる中、何も答えられずにいると、蛍流はますます小刀をぐいと押し付けて「答えろ」と催促してくる。
「な、何を言って、いるんですか……。私は和華です。青龍……さまの伴侶に選ばれた」
「七龍の伴侶に選ばれた娘の背中には、龍の形をした黒い痣があると聞く。だが、お前の背中に痣は無い。そして七龍の伴侶は、自らを伴侶に選んだ七龍の神気を帯びるが、お前からは青龍の神気が一切感じられない。出会った時からずっとな」
「あっ……」
そんな話は誰からも聞かされていない。和華の背中に伴侶の証である龍の痣があることも、青龍の気を纏っていることさえも。ただ和華の振りをして蛍流の元に行けばいいと言われた。そうして夫婦の契りさえ結んでしまえば、たとえ和華じゃないと後に知られたとしても、この地を統べる青龍の蛍流は海音を伴侶として迎え入れざるを得なくなると――。
「どこで成り代わったのかは知らんが、和華はどうした? 答えなければ命の保証は無い。青龍の財宝を狙った盗人が」
「違います……。私は泥棒じゃなくて、ただ伴侶になりたくない和華ちゃんの代わりに来ただけで……」
「言い訳をするなっ!」
蛍流が声を荒げたのと同時に喉元がピリッと痛んだ。おそらく小刀で切ってしまったのだろう。このままでは命が危ないと思うものの、激昂している蛍流に下手なことを言えば、それこそ海音に明日は無い。相手を刺激せずに事情を説明するにはどうしたらいいのか。早鐘を打つ心臓を抑えようと、海音は深く息を吸い込む。
「……和華ちゃんは青の地にいます。灰簾家の屋敷に今もなお」
「何だと?」
「騙して申し訳ありません。言い訳に聞こえるかもしれませんが、和華ちゃんは青龍さまの伴侶になりたくないそうです。ですので、私が代わりに来ました。どうか私を伴侶として迎えて下さい。夫婦になった後、私はどうなっても構いません。罪人として処罰されても、奴隷のように使われても、慰み者として扱われて生涯を終えたしても」
どうにか震え声を隠して真っ直ぐに蛍流を見つめれば、何故か蛍流は面食らったように長い睫毛にふちどられた藍色の目を瞬かせる。
「そこまで和華に忠義を尽くす理由はなんだ? 金か、それとも主人への情か?」
「情かもしれません。私には灰簾家の皆さんに恩があります。それを返すために、こうして身代わりを申し出ました」
「恩?」
「信じてもらえないかもしれませんが、私は今から三日前にこことは違う世界――『日本』からやって来ました。当てもなくこの世界を彷徨っていた私を、和華ちゃんを始めとする灰簾家の人たちが屋敷に迎え入れてくれたんです」
今度こそ斬り捨てられるかもしれないと覚悟を決めるが、蛍流はハッと息を呑んだだけであった。それを隠そうとしているのか、どこか焦点が定まらない顔を背けると「続けろ」と促してくる。
「何がきっかけでこの世界に来て灰簾家と出会い、そして和華の身代わりになったのか、全てを包み隠さず話せ。もし少しでも怪しいところがあれば……この場で切り捨てる」
そこでようやく海音の喉元から小刀の鋭利な刃先が離れたので、咄嗟に蛍流から距離を取って窓辺まで行くと乱れた着物を着直す。その間も蛍流の疑いの眼は海音に向けられたままであった。
「三日前、子供の頃に参拝した神社を訪ねたら、どこか懐かしさと不思議な雰囲気を纏った男の子と出会ったんです。それがこの世界に来たきっかけでした……」
◆◆◆
「間違いない。この神社だ……!」
その日、高校生活最後の春休みを利用して、海音は思い出の神社を探していた。
訪れたのはたった一度だけ、それも街頭がまばらな夜更けの時間帯。闇夜に紛れて朧気なところもあったものの、外観や雰囲気は記憶の中と寸分違わなかった。鳥居を通った時から感じられる厳かな空気に、古ぼけた木製の拝殿と年季の入った賽銭箱でさえも、あの時と何も変わらなかった。
ベージュ色のロングワンピースの裾を踏まないように気を付けながら、雑草が伸び放題になった石段を上って賽銭箱の前まで行くと、長財布を開けて大切に取っていた五円玉を迷わず投げ入れる。鈴を鳴らして海音の来訪を伝えた後、祀られている神への敬意と感謝を込めて二礼、そして邪気を払って拍手を二回。
そうしてわずかにずらして柏手を打った両手をぴったりと合わせると、ずっと言おうと決めていた言葉を頭の中で唱えたのだった。
(神様、お礼が遅くなってすみません。十年前はお母さんを助けてくれてありがとうございました。お母さんと最期に楽しい一年を過ごせました。今度は私が看護師になって、お母さんのように病気で苦しんでいる人たちを助けていきます……)
海音の母親は十年前に癌を発症すると、治療のために何度も転院を繰り返して、最期にこの神社から程近い大学病院に搬送された。そこで一年間の闘病生活を送った後、ほんの数日間だけ自宅で家族水入らずの時間を過ごして、永遠に帰らぬ旅に出たのだった。
気付いた時には手遅れだったらしいが、それでも母親は少しでも長く海音や父親と時間を過ごそうと、辛く苦しい闘病生活を耐え続けた。結局、癌は完治せず、最期の日をほんの少し伸ばしただけであったが、最期の瞬間まで母親は一切の希望を諦めなかった。
だがそれはあくまでも実際に治療を受けていた母親の話。それに付き添っていた海音の父親は、日に日に容態が悪化する母親とまだ幼かった海音の育児で、心身共に不安定な状態が続いており、大学病院に転院した時はげっそりと面やつれしてしまった。
癌の名医がいるという噂を聞き、わずかな望みにかけてはるばる遠くから転院してきたものの、その医師からも手の施しようが無いと匙を投げられてしまった。更に母親の容体が急変したと連絡を受ける度に、仕事を抜け出して病院に駆けつけなければならない日々。身も心も擦り切れて摩耗していた。
海音も次第にやつれていく母親の姿を見ていられず、何度もその場から逃げ出したくなった。たった一度を除いてそれをしなかったのは、生にしがみつこうと必死な母親と、そんな母親を支えていた看護師たちの姿から目を離せなかったから。大人になった今なら理解できる。看護師たちも母親が長くないと気付いていたが、それでも母親の意志を尊重して最期まで最善の方法を考えて、海音たち家族のために手を尽くしてくれたのだと。
父親が医師と話している時や心が耐えられなくなって席を外した時は、待合室で暇を持て余していた海音の話し相手にもなってくれた。本当なら仕事で忙しくて、海音の相手までする余裕は無かっただろう。それでも父親と共に母親に付き添う子供の海音を気に掛けて、他愛の無い話で笑わせてくれただけではなく、こっそり飴やガムまでくれた。
そんな看護師に海音もなりたいと思うようになり、独学で猛勉強をした。そして奨学金制度を利用して、来月から他県にある四年制の看護学校への進学が決まったのだった。
そうなると心残りは、一度だけ病院を抜け出して神頼みをした神社とそこに祀られている神様への礼だけであった。
大学病院に転院した直後、一回だけ母親の容態が著しく悪化したことがあった。その連絡を受けたのは、夕食を終えた海音が床に入ろうとしていた時。父親に連れられて慌てて駆け付けると、集中治療室の前で「今夜が峠かもしれない」と医師から告げられて、絶望した父親が泣き崩れたのを見た。
力なくベンチに座って経過を待つ父親と一緒にいるのが辛く、だからといって夜半なので他に誰もいなければ、どこにも行き場が無かった海音は病院を抜け出して、当てもなく走り出したのだった。
(それでもし叶うのなら、あの時、助けてくれた男の子にもう一度会わせてください。私が看護師になってからでも良いんです。あの時のお礼を言って、今度は友人としてその子が困っているのなら力になりたいです。あの日、私を助けてくれたように、今度は私がその子を助けたいです……)
母親との別れを恐れて逃げている途中で自分と同い年くらいの男の子と出会って事情を話すと、男の子に手を引かれるまま二人でどこかの神社に行った。そこで神社での神頼みを提案されたのだった。
神様にお願いをして、しばらく男の子と何かを少し話した後、男の子を探していたという家族の人の車に乗せてもらって、病院へと送り届けてもらった。
病院の入り口には海音がいなくなったことに気付いた父親が、紙のように顔面を蒼白にして立っていた。そうして男の子に礼も言えないまま、有無を言わさず院内へと連れて行かれたのだった。
その男の子の名前を聞いておらず、また顔形や話した内容も覚えていないが、その子が神頼みを提案してくれたおかげで母親は峠を越えて、一年間も生きてくれた。男の子にはもう会えないだろうが、せめて大学生活が始まる前に神様には礼をしたい。
そう一念発起すると、大学病院周辺の地図とその時の記憶を頼りに近隣の神社を探し回り、ようやくこの神社を見つけたのだった。
最後に海音の願いを聞き届けてくれた礼を込めて深く頭を下げると、来た道を戻ろうとする。その途中、拝殿の影から顔を覗かせる甚平姿の男の子と目が合ったのだった。
(この神社の子かな……)
幼さをまだ残す小学生くらいの男の子は海音に向かってにっこりと笑みを浮かべたが、その笑顔にどこかで会ったような懐かしさを覚えて目が離せなくなる。口角を上げた拍子に動く右目下の泣き黒子と頬に出来る小さなえくぼが愛らしい男の子を驚かせないように、海音はそっと話しかける。
「ねぇ、君はこの神社の子……? どこかで会ったことって……」
海音が声を掛けると、男の子は拝殿の影の中に引っ込んでしまう。恥ずかしがっていなくなったのかと思えば、またすぐに顔を出して海音をじっと見つめる。その様子はまるで海音を誘っているようでもあった。
(この先に何かあるのかな……)
まだ時間もあるからこの先に行ってみようかと、海音は男の子の後を追いかける。数歩先を歩く男の子の背に向かって、「君はここに住んでいるの?」や「この先に何があるの?」と聞いても何も答えてくれなかった。
男の子は一言も話さなかったが、時折足を止めては海音がついて来ているか確認するので、やはりどうしても海音に見せたい何かがこの先にあるらしい。
やがて根元に古びた石碑が建つ大きな大木の前までやって来ると、立ち止まった男の子は石碑を呼び差して海音を振り向く。石碑を読むように伝えようとしているのだろう。男の子に促されるまま、海音は石碑の前で中腰になる。
「これ、何って書いてあるんだろう……」
長い間、風雨に曝されたのか石碑の文字は掠れて全く読めなかった。どうにか読める文字だけ拾って、海音は読み上げる。
「えっと……『七龍が一柱……水を司るは……青龍……也……』。ねぇ、これってどういうこと……?」
聞いたつもりが、後ろにいたはずの男の子はどこにもいなかった。それどころか先程まで雲一つ無かった晴天の春空には大きな暗雲が立ち込め、どこからか生温い風が吹き始めたのだった。
「ねぇ、どこに行ったの?」
暗くなってきた辺りを見渡しながら、海音は男の子の姿を探す。木々が騒めき出して、海音をますます不安な気持ちにさせる。雨が降る以上に、嫌な予感がする。かき乱れた心をどうにか落ち着かせようと大きく息を吸うが、寒気がしただけであった。家を出る時に見た天気予報が晴れだったのをいいことに、上着を着ないで来たから身体を冷やしてしまったのかもしれない。
男の子を探すのを諦めて一雨来る前に歩き出した海音だったが、突如として背を向けた石碑から白い光が溢れたかと思うと、周囲に白い霞が生じる。
(な、なに……っ!?)
瞬時に石碑周りが霞に覆われると、濃い霞で先が見えなくなる。一霞を掻き分けるようにして、どうにか元の道に戻ったつもりでいた海音だったが、霞が晴れた時に立っていたのは、馬の嘶きと共に絶えず馬車が行き交うどこかの煉瓦街であった。
「うっそ、ここどこ……!?」
いつの間に観光地に迷い込んでしまったのだろうか。整然とした煉瓦造りの建物が並ぶ街の中を、教科書でしか見たことがないような古風な洋装姿の男性やバテンレースの日傘を差したお洒落な和装姿の女性たちが歩いている。ショートカットに昔ながらのワンピースを着た女性が、和装姿の男性にエスコートされながら人力車を降りていれば、暖簾が掛かった食事処らしき向かいの建物からは黒い学生服姿の青年が爪楊枝を咥えて出てくる。
空気もどこか違っており、街角にはガス灯らしきものまで並んでいる。何もかも神社の周辺には無かったものばかりで、まるで映画の中にいるようであった。
恐る恐る正面の大きな馬車通りに出れば、肩に天秤を担いだ商売人らしき着物姿の男性とぶつかりそうになる。
「あっぶね~な。気ぃつけな」
男性は端的に文句を言うと、すぐに目の前を走り去っていく。誰も目を留めていないが、ここでの海音は明らかに浮いていた。先程の霞で道を見失って、どこか知らない場所に来てしまったのだろうか……。
来た道を戻ろうにも、後ろも同じような煉瓦街が続いており、神社や石碑は跡形もなく消えていた。
完全に迷子であった。
「そうだ! スマホ!」
ここが観光地なら、スマートフォンの電波が届くはず。そう思って、ロングワンピースのポケットからスマートフォンを取り出したものの、画面にははっきりと「圏外」の二文字が表示されていた。
「ど、どうしよう……」
電波が入らない場所となると、相当な田舎に来てしまったのかもしれない。スマートフォンを胸に抱いたまま、助けを求めて四辺を見渡す。
「あ、あのっ、すみません……」
近くを歩く紳士風の男性に声を掛けるが無視される。他にも老若男女問わず数人に話しかけるが、いずれもそのまま通り過ぎてしまう。中には不審そうに睨みつけてくる者や軽蔑の眼差しを向けてくる者もいたので、やはりここでの海音は周囲とは違う異質な存在らしい。
徐々に焦り出してくる。このまま自宅に帰れなかったらどうしよう。仕事から帰った父親もきっと心配するはず。視線を彷徨わせて右往左往していると、先程学生服の青年が出てきた食事処の暖簾が目に入る。
(あそこに食事処があるよね! 食事処ならきっと電話機が置いてあるはず!)
人力車や馬車が来ないことを確認してから目の前の馬車道を横切った海音だったが、建物の影から猛スピードで走ってきた馬車に危うく轢かれそうになったのだった。
「きゃあ!」
馬を操る御者が馬首を右に逸らしたことで、どうにか紙一重で衝突は免れたものの、腰が抜けてその場に座り込んでしまう。騒ぎを聞きつけて、辺りには野次馬が集まり出すと、海音を見ながら口々に話し始める。
「何、あの子。変な格好。西洋の流行かしら?」
「馬車道に飛び出すなんて、常識知らずだな。阿呆か……」
「よりにもよって、華族の馬車の前に飛び出すとはな。今にも官憲が来るぞ……」
海音を責める心無い言葉の数々に、目を閉じて耳を塞ぐと身を小さくする。息を殺して時間が過ぎるのを待っていると、鈴のような可愛らしい少女の声が真上から聞こえてきたのだった。
「ちょっと、いつまでそこでそうしているつもりなの?」
瞼を開けると、目の前には赤い鼻緒の草履があった。ゆっくりと顔を上げると、橙色の着物を纏った同い年くらいの少女が不機嫌そうに唇を尖らせながら海音を見下ろしていたのだった。
「全く……。ただでさえこれから人嫌いと噂の青龍さまに嫁入りしなければならないのに、こんなところで足止めをくらうなんて」
「あっ……」
「貴女のせいで馬車が脱輪してしまったのよ。どうしてくれるのよ! 冷酷無慈悲な青龍さまに嫁ぐだけでも憂鬱なのに、約束の時間に遅れでもしたら喰われちゃうかもしれないじゃない……」
少女のその言葉で周囲の野次馬がまたしても口々に話し始める。「あの娘が、今代の青龍さまに選ばれた『伴侶』なのか」と。
「わ、私、あの……」
「おまけに何よ、その変な恰好。芝居小屋の役者がこんなところにいるなんて汚らわしい。早く元の場所に帰りなさい……」
「あの! ここはどこなんですか?」
「はぁ?」
声を上げて立ち上がった海音に、少女は訝しむように黒曜石のような目を向ける。腰に流した濡羽色の長髪は少女らしさを、口元の黒子からは妖艶さを感じさせられる。少女と女性の半々の魅力を持った少女は奇妙なものを見るように、海音を頭から爪先までじっくりと凝視しては品定めしたのだった。
「どこって、ここは青龍さまが治める青の地だけど……」
「それは日本のどこですか? 具体的な県名や地名を……」
「ちょっと、何を言っているのか分からないわ。ここは七龍国に七つある土地の一つ、青の地。この国の水の龍脈を司る、青龍さまのお膝元よ」
「しちりゅうこく……? 青の地に……青龍……さま? すみません、何がなんだか分からなくて。もう少し、詳しく教えていただけませんか。ここは日本という国では無いんですか?」
「にほん? 貴女、日本から来たの!?」
「日本を知っているんですか!?」
海音が「日本」と言った瞬間、少女は急に目の色を変えたかと思うと、人懐っこそうな笑みを浮かべる。
「ええ、知っているわ! たまにいるのよ。貴女のように、日本という国からこの国に迷い込んでしまう人」
「それじゃあ、やっぱりここは日本じゃないんですか……?」
「そうよ。詳しく教えてあげるわ。良かったら、うちに来ない? 私は灰簾子爵家の和華よ。貴女は?」
「暮雪海音です。子爵家ということは貴族なんですか? 灰簾さんは……」
「和華でいいわ。灰簾家は華族の一員よ。お父様が貴族院の政治家なの。だから貴女のように、日本という異なる世界からのこの世界に来てしまった人たちのことも知っているわ」
「そうなんですね。私の他にも日本から来た人が……」
「わたしたち華族はそういった人たちを保護する役目も担っているのよ。だから安心して頂戴。何も不自由にはしないわ」
そうして和華に促されるまま、海音は御者が手配した代わりの馬車に乗ると、灰簾家に連れて行かれる。その道中で和華から海音自身のことや日本について、あれこれ聞かれた。家族、生活、お洒落、食文化、学校、恋愛など、少女らしい他愛のないことから政治経済にも関わりそうな質問まで。その幅の広さは、さすが政治家の娘と言ったところだろうか。
灰簾家に到着すると、屋敷には和華の両親が揃っており、嫁入りすると言って屋敷を出て行ったはずの和華がこの世界では不審者も同然の海音を連れて戻ってきたからか驚かれてしまう。それでも海音の代わりに、和華から馬車が脱輪したことや海音が異なる世界から迷い込んでしまったことを説明してもらうと、和華の両親である灰簾夫婦は涙ぐみながら海音を屋敷に迎え入れてくれた。残念なことに、元の世界に帰る方法は和華だけではなく、灰簾夫婦も知らないとのことだったが、その代わりに好きなだけ屋敷に滞在して良いと許可してくれたのだった。
「良かったわね。お姉さま。お父様とお母様も受け入れてくださって」
腕に絡み付く和華の案内で用意してもらった部屋に入ると、和華はますます人懐っこい笑みを浮かべる。馬車の中ですっかり意気投合した和華は、海音が一歳年上だと知るなり、当たり前のように「お姉さま」と親しみを込めて呼んでくるようになった。聞いたところ、この世界の女学校では同性の先輩のことを「お姉さま」と呼ぶのが普通らしい。一人っ子の海音にはこそばゆい文化であった。
「これも全部和華ちゃんのおかげだよ。ありがとう」
すっかり警戒心を解いた海音も和華を妹のように愛おしく見つめる。ここでは家族のように振る舞っていいと灰簾家の人たちに言われたので、敬語も畏まるのも止めていた。その上で、気になっていたことを和華に尋ねる。
「ところで和華ちゃん、さっき青龍さまに嫁入りするって話していたけど、出発しなくていいの……?」
「その話なんだけどね。お姉さま……」
腕を掴む手に力を込めたのか、顔を上げた和華は目に涙を溜めながら訴えてきたのだった。
「わたし、わたしっ……。青龍さまに嫁ぐのが怖いの。今代の青龍さまはとても怖くて厳しいって噂の人で、お仕事で青龍さまと会ったっていうお父様の同僚の人たちも、みんな酷い目に合ったんですって。そんな青龍さまがわたしを伴侶に迎え入れたいって、急に婚姻の申し出をされてきたみたいで……」
「そんなに恐ろしい人なの? 青龍さまって……」
「歳はお姉さまと同じくらいの男の人よ。人なんだけど、この国と青の地を治める守護龍さまで、ずっと二藍山という山の山頂に一人で住んでいるの。人嫌いで滅多に人を家に招き入れないし、政府から手伝いの女中や使用人を紹介されても、すぐに追い返してしまうような気難しい人なの。会ったことが無いから顔も知らないし、話したことも文通をしたことも無いから、噂しか知らないし……もう、わたし怖くて……。でも七龍さまの伴侶に選ばれるということは、とても名誉あることだから、お父様やお母様にも相談出来なくて……」
事情を聞いたところ、和華には相思相愛の華族の男性がいるそうで、ゆくゆくは両親から許可をもらって婚姻を結ぶつもりでいたらしい。そんな矢先にこの青の土地の守り神にして、国の守護龍の一柱である青龍の伴侶に突然選ばれてしまったという。
青龍に限らず、七龍の伴侶に選ばれた者は、政府の命令で七龍と婚姻を結んで、生涯七龍と添い遂げなければならない。七龍たちは人里を離れた自然の中に暮らしており、人里に降りてくることは決してないため、当然七龍に付き従う伴侶も七龍と共に自然の中で暮らして、滅多なことで七龍から離れられない。嫁いだ後の生活は全てこの国の政府が補償してくれるが、その代わり伴侶に乞われた以上、それを拒否することは許されないという。
また伴侶を輩出した家系には、国の繁栄に貢献した名誉として相応の身分と財産を与えられるため、昔は富と名誉を狙って、自分の娘を七龍の伴侶として偽る者が後を絶たなかったらしい。今は政府が各地の七龍と連携して内密に七龍の伴侶を選定して、ある日突然、伴侶に選ばれた娘とその家族に通達が届く仕組みに変わったという。
「そっか。それは辛いね……」
「だからね、お姉さま。お願いがあるの……。わたしの代わりに、七龍の伴侶として青龍さまに嫁いで欲しいの。我が儘って思われるかもしれないけれども、他に頼める人がいなくて……。他の女中たちは青龍さまの噂を知っているからみんな怖がってしまって、親類にも年頃の娘はいないから、頼めるような身内もいないし……。もうお姉さまにしか頼めないの」
「身代わりってこと? でもそんなことをしたら……」
目尻に溜まった涙を拭いながら心細そうにしがみついてくる和華に胸が苦しくなる。この世界、いやこの時代は、顔も知らない人にある日突然嫁入りが決まるのは珍しくないのかもしれない。それでもここまで怯えている和華を放っておくこともできない。和華はこの世界に突然迷い込んでしまった海音を救ってくれた恩人だ。そんな海音を受け入れてくれた灰簾家の人たちも……。
それに亡くなった母親とも最期に約束を交わした。『人の心や痛みを知って、思い遣れる人になる』と。
人嫌いで冷酷無慈悲な青龍さまに嫁ぐことが和華にとっての「痛み」なら、海音はそれを思い遣らなければならない。この場合、和華のために海音が出来ることは一つしかない……。
「私に……和華ちゃんの身代わりって務まるかな。その……顔も似てないし、この世界のことを何も知らないけれども……」
「本当!? お姉さま、わたしの代わりに青龍さまの元に嫁いでくれるの!?」
ぱあっと顔を輝かせる和華に、海音は「でもねっ!」と慌てて付け加える。
「いま行ってもきっとすぐに和華ちゃんじゃないってバレちゃうと思うの! 着物も着たことが無いし、この世界の勝手やしきたり、国とか青龍さまのこともよく分かってないし……。それよりまずは和華ちゃんのご両親にも許可をもらわないとだし……!」
「それは大丈夫よ。お父様とお母様はわたしに甘いのよ。わたしがお願いすれば、お姉さまに代わってもらうことは出来ると思うの」
「青龍さまは……?」
「それもお父様に任せておけば大丈夫。どうせ今から二藍山に行っても日没までには辿り着けないし、馬車が脱輪して再度支度を整えるのに時間が掛かっているってことにすれば、青龍さまもきっと理解してくださると思うの。相手もわたしの顔を知らないから、歳が近いお姉さまと入れ替わっていても気付かないわ!」
子供のように抱きついてきた和華に、「ありがとう、お姉さま。大好き!」とまで言われて、悪い気は全くしなかった。和華の両親である灰簾夫婦も、やはり良くない噂ばかりの青龍に一人娘の和華を嫁がせることが気掛かりだったようで、和華の身代わりに嫁ぐという海音の提案を快く受け入れてくれたのだった。
その日のうちに灰簾家の伝手を使って、和華の嫁入りの日程を変更したい旨を伝えたところ、青龍である蛍流は理由も聞かずにあっさりと輿入れの日程を三日遅らせることを承諾してくれた。
そして灰簾家が海音の嫁入りの支度を整えている間、海音は少しでも「和華」に見えるように、華族の令嬢としての最低限の知識やこの世界の常識を叩き込まれた。勉学や行儀作法、着物の着付け方から化粧、話し方や笑い方まで。
その中で和華と灰簾夫婦から教えられた。『青龍の伴侶になるには、青龍と一夜の夢を結ぶだけでいい。一度でも床を共にしてしまえば、青龍は体裁を保つために、身代わりでも伴侶として海音を迎えざるを得なくなる』と。
その言葉を信じて、海音は「和華」として蛍流の元に嫁入りしてきた。
全てはこの世界に来たばかりの海音を助けてくれた和華と、そんな海音を受け入れてくれた灰簾家の人たちの役に立つために……。
◆◆◆
「……そうして、私はこの和華ちゃんの代わりとして、二藍山にやって来ました。灰簾家が雇ってくれた日雇いの地元住民に道案内と荷運びを依頼して……」
「そうだったのか……」
海音の話を聞いた蛍流の呟きが、室内を包む雨音に紛れて消える。いつの間に本降りになったのか、外からは絶えず窓に打ち付ける甚雨の音が聞こえていた。
「お願いします。どうか私を和華ちゃんの代わりとして置いて下さい。伴侶として必要なことは何でもします。私のことはどう扱っていただいでも構いません。背中に龍の痣が必要なら刺青でも何でも入れます。なので、どうかこの通り……」
畳に指をついて深々と頭を下げる。しばらく海音はそのまま土下座をし続けていたが、やがて独り言ちた蛍流の微かな声が耳を打つ。
「お前もか……」
「えっ……」
「もういい。……頭を上げろ」
怒りを堪えているような冷ややかな声に、おっかなびっくり身を起こす。顔を上げた瞬間、首元から水が滴り落ちているような気がしてそっと指先で触れると、先程切った首の傷から血が流れていたのだった。
「すっ、すみませんっ……!」
藍色の目を見開いて、何か言いたげな顔をする蛍流から目を逸らして、海音は傷口を押さえると畳に垂れてしまう前に何か拭くものを探す。羞恥で頭が回っていなかったが、辺りを見渡してここまで着ていた薄青色の着物を見つけると、袖から汚れた手巾を取り出す。
汗と泥を吸って色が変わった手巾で首筋を流れる血を拭くと、止血を兼ねて傷口に当てたのだった。
「本当にすみませんっ……! あの、傷のことは気にしないでくださいっ! お借りした着物や部屋を汚す前に自分で何とかしますからっ!」
手巾から血が溢れないように気をつけながら、先程よりも軽く頭を下げる。
出血の量はさほど多くなく傷も浅い。止血さえ出来れば数日で塞がるだろう。蛍流の手を煩わせるまでも無い。
それ以前に正体を知られてしまった以上、身代わりの海音に蛍流がそこまで気を使うはずが無い。
その証拠に蛍流はおにぎりが載っていた皿や小刀を持つと、海音に背を向けたのだった。
「今夜はもう遅い。疲れただろうから、早く休むといい。……こんな時間まで付き合わせて悪かった」
「ここに居てもいいんですか? 私は和華ちゃんじゃ無いのに……」
「お前のことは明日決める。今は何も考えなくていい。こんな時間に追い出しても、遭難して獣に喰われるか、凍死するかのどちらかだからな」
音を立てて襖を閉めた蛍流が遠ざかると、ようやく海音は肩の力を抜けたのだった。
(切り捨てられなかったということは、話を信じてもらえたのかな……)
あの時、確かに蛍流は「お前もか」と呟いた。もしかしたら海音のように、異なる世界から来た人のことを知っているのかもしれない。
それでも本来嫁入りするはずだった和華ではなく、海音が来てがっかりしてしまっただろう。日没を過ぎて足元が悪くなった中、わざわざ和傘を差してまで迎えに来てくれた蛍流の様子を見る限り、きっと和華が嫁いでくるのを楽しみにしていたに違いない。
(全て明日決まる。追い出されるのも、和華ちゃんの代わりでも伴侶として認められるのかも)
息を吐き出しながら窓辺に寄りかかると、寒々とした外気が身体に当たる。体温が奪われていくのを感じながら、春の雨音に耳を傾けつつ、そっと目を閉じたのだった。
◆◆◆
次に目を開けると、雨はすっかり晴れていた。春の柔らかな陽気が澄んだ碧空から室内に射し込んで、海音が横になっていた布団を優しく照らしていたのだった。
(あれっ……?)
寝ぼけ眼を擦ってゆっくりと起き上がると、いつの間に運ばれたのかお日様の匂いがするふかふかの布団に寝かされていた。昨晩目を瞑った時は窓辺にいたはず。そこから先の記憶が無いので、窓辺に寄りかかったまま、眠ってしまったのだろう。身代わりがバレて、和華になりすました罪で自分の命が脅かされているというのに、緊張感の欠片も無い。
風邪を引かないように気を遣ってくれたのか、足元には布に包まれた湯たんぽまで入っている。海音が眠った後、蛍流が持ってきてくれたのだろうか。挫いた足首には見覚えのない白い布が巻かれていた。
「あっ、首の怪我……」
慌てて首に触れれば、足首と同じように包帯らしき白い布で覆われていた。やはり海音が寝た後に蛍流が部屋を訪れて手当てをして、布団まで運んでくれたに違いない。昨晩は怒りと落胆を堪えるような様子だったのに、いったいどうして――。
(部屋から出ても良いよね……?)
監禁されているわけでは無いので部屋から出ても良いだろうが、なんとなく蛍流と会うのが気まずい。騙していた上に風呂や食事、傷の手当てまでさせてしまったからだろう。蛍流の手を煩わせてしまったという罪悪感に苛まれるが、このままここでじっとしている訳にもいかない。布団から起き上がって着替えようと、薄青色の着物を探すが昨晩置いた場所に見当たらなかった。荷物入れと思しき行李を開けても中身は空っぽ。首に当てていた泥だらけの手巾も無いので、着物と一緒に蛍流がどこかに持って行ったのだろうか。
替えの着物が入っていた荷物を持ち逃げされた以上、今の海音にとってあの着物が一張羅だ。多少の泥汚れは気にしないので、どうかして取り返したい。これからどうなるか分からない以上、今後も使えそうなものはなるべく手元に残しておいた方が良いだろう。
あの着物だって、汚れた部分さえ洗って目立たなくするか、汚れだけ切り取りさえすれば、売って生活の足しにすることもできる。金になる可能性がある以上、せめて捨てられることだけは避けたい。
替えの着物が他に無かった以上、海音は寝巻として借りている蛍流の着物の衿を正して――今度こそ左右の合わせを間違えていないか再度確認すると、手櫛で髪を整えながら、部屋を後にしたのだった。
昨晩は夜半だったこともあり、隅々まで観察できなかったが、蛍流の屋敷の内部は思っていたよりもあまり部屋数が多くなかった。青龍とその伴侶、そしてその子供たち、あとは使用人が一人か二人くらい住めればいいという前提で建てられたのか、最低限度の部屋しか無かった。家具もあまり多くないので、どこかこざっぱりした雰囲気さえある。この辺りは家主である蛍流のセンスだろうか。ここの世界に来てからお世話になっていた灰簾家は、いかにも贅沢の限りを尽くした資産家の家といった佇まいの大きな屋敷で、和と洋の様式を組み合わせや豪奢な家具や調度品の数々が印象的だった。
蛍流が言っていた通り、海音と蛍流の他に住んでいる者はいないらしい。春光と静寂に包まれた屋敷の中をぺたぺたと裸足で歩いていると、庭から微かに蛍流の声が聞こえてくる。
「……どうしても認めないというのか。彼女をおれの伴侶に……青龍の伴侶に迎え入れたいと頼んでも……」
こんな時間帯に来訪者がいるのは意外だが、国を守る七龍の蛍流にとってはよくあることなのかもしれない。何か深刻そうな話をしているようなので、様子だけ伺ったら部屋に引き返そうか。そんなことを考えながら、蛍流の声を頼りに海音は庭に通じる硝子戸を探していた時だった。
「ここに来て日も浅い。まだ間に合うだろう。どうか彼女を傍に置かせて欲しい。……無論、今のままでは添い遂げられないことを理解している。それでも知ってしまった以上、このままにしてはおけない。彼女のためなら、おれは如何なる代償も罰さえもこの身に受けよう……」
滝壺に流れ落ちる碧水のような蛍流の声が訴える、青龍の伴侶――和華に捧げる羨ましいくらいの純愛。冷涼な蛍流が愛する伴侶に向けて、朗々と語る真っ直ぐな想いはどこまでも清く眩しいが、澄んだ声が和歌への熱情を述懐した分だけ、身代わりの海音を責めているようでもある。
お前は呼んでいない、不要だと言われているようにも聞こえてしまい、自分の内側にぽっかりと穴が空いているのを感じて足を止めてしまう。
(身代わりがバレた以上、分かっていたじゃない。蛍流さんにとって私はお呼びじゃないって。所詮は和華ちゃんの身代わりで、この世界の人間ですらないもの。今度こそ本当の伴侶である和華ちゃんを連れて来て欲しいと頼むのは当然のこと)
身体の内側が重くなって、息苦しささえ感じられる。硝子戸に反射する自分の姿に目を向ければ、今にも泣きそうな顔をしていた。
(ここでの私はひとりぼっち。この世界に紛れ込んで、この世界の人の振りをしているだけの、ただのまがい物。本当なら行き倒れていたり、乱暴な目に遭っていたり、不審者として逮捕されていてもおかしくないところを、灰簾家の皆さんや蛍流さんの温情で生かされているだけの存在なんだから……)
家族や友人もいないこの世界での海音は孤独だ。
仮に灰簾家や蛍流に受け入れられたとしても、異なる世界からやって来た海音がこの世界の一部になれるはずが無く、他所から紛れた異物でしかない。会おうと思えばいつでも会える距離に家族がいて、帰りたい時に帰れる故郷があるような、一人で海外に移住するのとは意味が違ってくる。
異なる世界から紛れ込んだ海音でも、今後の身の振り方次第では蛍流や和華などのこの世界で生まれ育った人たちとの距離が縮まることもあるだろう。それでも異世界からの混ざり者である海音と、この世界の人たちとの間に生じる溝が埋まることは永久に訪れない。この世界と海音を繋ぐ縁は存在せず、共有するような過去や思い出、心の内が湧くような愛着や故郷としての慕情さえ持たないのだから。
自分が生きてきた痕跡がどこにも残っていない、ただの知らない世界である以上、この世界を大切に想う人たちと他所からやって来ただけの海音の間には、見えない壁によって隔たれてしまっている。これまで積み重ねてきた自分の功績や生きてきた証が無い世界に、思い入れなど持てないから。
海音の中でわだかまる言葉にしがたい空虚な思いを、この世界の住人たちに説明することは難しく、そして理解してもらうことも到底出来そうにない。
ある日突然、これまで住んでいた世界とは生活様式や常識も全く違う世界に連れて来られて、元に帰る方法さえ分からないと言われた海音の気持ちを理解できるのは、同じように異なる世界からやって来た人だけ。
蛍流や和華などの生まれた時からこの世界で生きている人たちには、きっと分かってもらえない。
そんな誰にも理解してもらえない孤独感と、自分だけがこの世界の一部では無いという疎外感。そして今まで積み重ねてきたものを全て失ってしまった喪失感。
それこそが海音の心に空いた穴の正体であった。
(もし和華ちゃんの身代わりだって気付かれなかったら、今の言葉は私に向けられたのかな……)
決して「海音」とは呼ばれず、「和華」としての自分に向けられた言葉であっても、蛍流の情熱的な言葉の数々が海音の胸に空いた穴を代わりに埋めてくれただろうか。寂しい、辛い、苦しいといった海音が胸に抱く数々の暗い感情を遠くに洗い流してくれただろうかと、関係ないことばかり考えてしまう。
身代わりとしての役目を果たせなかっただけではなく、せっかく「和華」として愛されるチャンスを棒に振ってしまったような損した気さえしてくる。
どこか落胆した気持ちを抱えて硝子戸から目を離した瞬間、硝子戸が音を鳴らしながら小刻みに震え出す。強風でも吹いたのかと硝子戸に視線を向ければ、獣に似た大きな切れ長の黒目が硝子戸一面を覆っていたのだった。
「きゃあ……!?」
短い悲鳴を上げて後退れば、黒曜石のような黒目が動いて海音に焦点を合わせる。朝になって獣の気配がしなくなったからとすっかり気を抜いていたからか、黒目を見つけた時に足が竦んでしまったようだった。その場から逃げられず、せめて喰われないようにじっと息を止めて黒目を睨み付ければ、黒目も品定めするように海音を見つめ返してくる。長いような短いような沈黙の後、程遠くないところから戸惑うような蛍流の声が聞こえてきたのだった。
「清水。屋敷なんて覗いてどうした? 何かあるのか?」
その声で清水と呼ばれた黒目は興味を失ったように海音から目を逸らすと、蛇のような細長い身体を揺らしながら硝子戸から離れてしまう。庭の奥の方へと飛んで行ったので、おそらく蛍流の元に向かったのだろう。硝子戸越しではあったが、朝陽に照らされて鱗らしき硬質状のものが見えたのも気に掛かった。
(蛇じゃないよね……あんなに大きな蛇なんて見たことがないし……。それなら今の生き物は何だろう?)
硝子戸に近づけば、すぐ近くの沓脱石には草履が置かれていた。海音は硝子戸を開け放つと、サイズが合わないぶかぶかの草履を履いて黒目の後を足早に追う。
手入れが行き届いた庭を抜けると、耕したばかりと思しき小さな畑に出る。慣れない下駄で耕地を踏み進めた先には、海音に背を向ける大きな浅葱色の蛇が鎮座していたのだった。
「わぁ……!」
海音が上げた感嘆の声に、浅葱色の蛇が首をめぐらせて海音を見つめ返してくる。その蛇は絵に描いたような龍の姿をしていた。
目の前に現れた浅葱色の蛇は海音の何倍も大きく、そして屋敷よりも高さがあった。朝陽を浴びた浅葱色の硬い鱗がきらきらと輝く様子は、陽光を反射して水面が揺れて見える水陽炎のように幻想的であり、白銀の毛に覆われた長い尾が動く姿は細波に似て優雅。天に向かって枝葉のように伸びる角は、鹿と似た形をしているが、どこか研ぎ澄まされた鋭さを感じさせられる。人一人を飲み込むくらい容易そうな大きな口からは刃物を彷彿とさせる鋭利な牙が見えているが、恐怖というよりも龍の威厳を体現しているように思えたのだった。
「もう起きたのか?」
元の世界で見聞きしていた浅葱色の龍に見惚れていると、その陰から蛍流が姿を現わす。龍に隠れて姿が全く見えなかったが、ずっとそこにいたのだろう。昨晩とは違って洋装姿の蛍流は、襟付きの白いドレスシャツと黒のスラックスを身に纏い、肩からは昨晩海音が借りた濃紺色の羽織を掛けていたのだった。
「身体は辛くないか? もう少し休んでたっていい」
「足の痛みももうすっかり治ったので大丈夫です。怪我の手当てをしてくださっただけではなく、布団まで運んでいただいてありがとうございます。湯たんぽまで用意していただいて……」
深々と頭を下げれば、ふかふかの作土に覆われた茶色の地面に頭が付きそうになる。すると蛍流は微かな声で「……すまなかった」と謝罪を口にする。
「頭を下げなくていい。和華を拐かした賊と勘違いして刃物を向けただけではなく、か弱い女人に怪我まで負わせてしまった。謝って許されるとは思わないが、この詫びは必ずさせてくれ」
「そっ、そんな大した傷ではありません! 誰も身代わりが来るなんて思わないでしょうし……」
「いや、お前は悪くない。人の世でのおれの噂は知っている。分かっていながら、和華が身代わりを立てることを想定していなかったおれにも非がある。……おれ自身が直接和華を迎えに行ければ良かったのだがな」
ゆるゆると頭を上げれば、蛍流は顔色を失っているようにも見えた。海音に怪我を負わせたことを後悔しているのだろう。和華の身代わりと知った後も、どうしてここまで海音を気にしてくれるのか。蛍流が手当てしてくれた首の傷に触れながら、海音は「あの!」と尋ねる。
「昨晩の私の話を信じてくれたんですか? 作り話とか嘘を吐いているとか思わないんですか?」
「どうしてそうなる?」
「だって、違う世界から来たとか、たまたま出会った青龍の伴侶である和華ちゃんに拾われたとか、そんなの普通はあり得ないって疑うものなんじゃ……」
「事情を話していたあの時のお前は曇りなき目をしていた。今でさえも……。それに本当に悪意のある者なら、とっくに清水が山から追い出している。万が一にもおれの身に何かあったら、この国の水の龍脈は枯れてしまうからな」
「龍脈……?」
「この国のことを何も聞かされていないのか?」
「この世界に来た日に和華ちゃんの身代わりになることを決めたので、この国のことや仕組みを聞く暇も無かったです。昨日までは和華ちゃんと同等の教養や知識を身に付けるのに手一杯でしたし……」
後ろめたさと共におずおずと正直に打ち明ければ、蛍流は呆気に取られた顔をした後に「分かった」と頷く。
「それならこの世界の仕組みが分かる書物を数冊貸そう。これからこの世界で生きていく以上、常識的なことは知っていた方が良い。この地を守護するおれは外出も自由にままならないが、何の制約も持たないお前はこの山を降りて、国中を旅することだって出来る。今後のことを踏まえて、少しでも学んでおいて損は無い」
「えっ!? ここにいていいんですか!? てっきり入れ替わった罪を咎められて、追い出されると思っていましたが……」
「入れ替わりについては昨晩咎めた。あれで充分だ。それそもここから追い出されたところで、行く当てはあるのか?」
「それは……」
一瞬だけこの世界に来て世話になった灰簾家が頭を過ぎったが、身代わりがバレてずこずこと帰った海音を温かく迎えてくれるだろうか。それこそ役に立たなかった罪で制裁を加えられてもおかしくない。それなら住み込みの仕事を見つけて、その日暮らしをするしかないだろう。贅沢は出来ないが、最低限の生活くらいなら送れるに違いない。
「仕事を見つけます。私でも出来るような住み込みの仕事を……」
「この国は余所者に厳しい。何かの拍子にお前がこの国の者じゃないと知られたら、どんな目に遭うか分からない。山を降りて住み込みで働くのなら、もう少し知識を蓄えてからの方が安全だ。それまでここに滞在してもらって構わない。山奥で不便なところもあるだろうが、住んでいる間は好きに寛いでくれ」
「ありがとうございます。でも、せめてお世話になっている間は、屋敷のことを手伝わせてください。掃除とか洗濯とか、何でもやります。居候のままでは申し訳ないですし、今日からでも早速……」
「その必要は無い。少なくとも、今日の分は全て終わっているからな」
「終わっている? あの、どなたがやってくださったのでしょうか……?」
「おれだ。……趣味みたいなものだからな、家事は。勝手に持ち出して悪いと思ったが、お前の振袖も裾や袖の泥汚れが目立っていたので、昨晩染み抜きのため預からせてもらった。止血に使っていた手巾もな。今は衣桁に掛けて、おれの部屋で乾かしている。後で部屋まで届けよう」
「すみません、そこまで気を遣っていただいて……」
気遣いというよりも、むしろ暗にお前は必要ないと言われているようにも聞こえてきて、ますます居たたまれない気持ちになってしまう。分かってはいたものの、これで青龍の伴侶ではない海音の居場所がここにも無いことが明白になる。この先、蛍流の元を離れて一人で生きて行く際に、どこかに身を落ち着けられる場所を見つけられればいいのだが……。
するとモールス信号のように長音と短音が連続する小さな風声が近くで吹いたかと思うと、おもむろに蛍流が背を向けていた浅葱色の龍を振り返る。
海音に対して、何か言いたげな顔をしているように見える龍に向かって話し出したのだった。