「うっそ、ここどこ……!?」
いつの間に観光地に迷い込んでしまったのだろうか。整然とした煉瓦造りの建物が並ぶ街の中を、教科書でしか見たことがないような古風な洋装姿の男性やバテンレースの日傘を差したお洒落な和装姿の女性たちが歩いている。ショートカットに昔ながらのワンピースを着た女性が、和装姿の男性にエスコートされながら人力車を降りていれば、暖簾が掛かった食事処らしき向かいの建物からは黒い学生服姿の青年が爪楊枝を咥えて出てくる。
空気もどこか違っており、街角にはガス灯らしきものまで並んでいる。何もかも神社の周辺には無かったものばかりで、まるで映画の中にいるようであった。
恐る恐る正面の大きな馬車通りに出れば、肩に天秤を担いだ商売人らしき着物姿の男性とぶつかりそうになる。
「あっぶね~な。気ぃつけな」
男性は端的に文句を言うと、すぐに目の前を走り去っていく。誰も目を留めていないが、ここでの海音は明らかに浮いていた。先程の霞で道を見失って、どこか知らない場所に来てしまったのだろうか……。
来た道を戻ろうにも、後ろも同じような煉瓦街が続いており、神社や石碑は跡形もなく消えていた。
完全に迷子であった。
「そうだ! スマホ!」
ここが観光地なら、スマートフォンの電波が届くはず。そう思って、ロングワンピースのポケットからスマートフォンを取り出したものの、画面にははっきりと「圏外」の二文字が表示されていた。
「ど、どうしよう……」
電波が入らない場所となると、相当な田舎に来てしまったのかもしれない。スマートフォンを胸に抱いたまま、助けを求めて四辺を見渡す。
「あ、あのっ、すみません……」
近くを歩く紳士風の男性に声を掛けるが無視される。他にも老若男女問わず数人に話しかけるが、いずれもそのまま通り過ぎてしまう。中には不審そうに睨みつけてくる者や軽蔑の眼差しを向けてくる者もいたので、やはりここでの海音は周囲とは違う異質な存在らしい。
徐々に焦り出してくる。このまま自宅に帰れなかったらどうしよう。仕事から帰った父親もきっと心配するはず。視線を彷徨わせて右往左往していると、先程学生服の青年が出てきた食事処の暖簾が目に入る。
(あそこに食事処があるよね! 食事処ならきっと電話機が置いてあるはず!)
人力車や馬車が来ないことを確認してから目の前の馬車道を横切った海音だったが、建物の影から猛スピードで走ってきた馬車に危うく轢かれそうになったのだった。
「きゃあ!」
馬を操る御者が馬首を右に逸らしたことで、どうにか紙一重で衝突は免れたものの、腰が抜けてその場に座り込んでしまう。騒ぎを聞きつけて、辺りには野次馬が集まり出すと、海音を見ながら口々に話し始める。
「何、あの子。変な格好。西洋の流行かしら?」
「馬車道に飛び出すなんて、常識知らずだな。阿呆か……」
「よりにもよって、華族の馬車の前に飛び出すとはな。今にも官憲が来るぞ……」
海音を責める心無い言葉の数々に、目を閉じて耳を塞ぐと身を小さくする。息を殺して時間が過ぎるのを待っていると、鈴のような可愛らしい少女の声が真上から聞こえてきたのだった。
「ちょっと、いつまでそこでそうしているつもりなの?」
瞼を開けると、目の前には赤い鼻緒の草履があった。ゆっくりと顔を上げると、橙色の着物を纏った同い年くらいの少女が不機嫌そうに唇を尖らせながら海音を見下ろしていたのだった。
「全く……。ただでさえこれから人嫌いと噂の青龍さまに嫁入りしなければならないのに、こんなところで足止めをくらうなんて」
「あっ……」
「貴女のせいで馬車が脱輪してしまったのよ。どうしてくれるのよ! 冷酷無慈悲な青龍さまに嫁ぐだけでも憂鬱なのに、約束の時間に遅れでもしたら喰われちゃうかもしれないじゃない……」
少女のその言葉で周囲の野次馬がまたしても口々に話し始める。「あの娘が、今代の青龍さまに選ばれた『伴侶』なのか」と。
「わ、私、あの……」
「おまけに何よ、その変な恰好。芝居小屋の役者がこんなところにいるなんて汚らわしい。早く元の場所に帰りなさい……」
「あの! ここはどこなんですか?」
「はぁ?」
声を上げて立ち上がった海音に、少女は訝しむように黒曜石のような目を向ける。腰に流した濡羽色の長髪は少女らしさを、口元の黒子からは妖艶さを感じさせられる。少女と女性の半々の魅力を持った少女は奇妙なものを見るように、海音を頭から爪先までじっくりと凝視しては品定めしたのだった。
「どこって、ここは青龍さまが治める青の地だけど……」
「それは日本のどこですか? 具体的な県名や地名を……」
「ちょっと、何を言っているのか分からないわ。ここは七龍国に七つある土地の一つ、青の地。この国の水の龍脈を司る、青龍さまのお膝元よ」
「しちりゅうこく……? 青の地に……青龍……さま? すみません、何がなんだか分からなくて。もう少し、詳しく教えていただけませんか。ここは日本という国では無いんですか?」
「にほん? 貴女、日本から来たの!?」
「日本を知っているんですか!?」
海音が「日本」と言った瞬間、少女は急に目の色を変えたかと思うと、人懐っこそうな笑みを浮かべる。
「ええ、知っているわ! たまにいるのよ。貴女のように、日本という国からこの国に迷い込んでしまう人」
「それじゃあ、やっぱりここは日本じゃないんですか……?」
「そうよ。詳しく教えてあげるわ。良かったら、うちに来ない? 私は灰簾子爵家の和華よ。貴女は?」
「暮雪海音です。子爵家ということは貴族なんですか? 灰簾さんは……」
「和華でいいわ。灰簾家は華族の一員よ。お父様が貴族院の政治家なの。だから貴女のように、日本という異なる世界からのこの世界に来てしまった人たちのことも知っているわ」
「そうなんですね。私の他にも日本から来た人が……」
「わたしたち華族はそういった人たちを保護する役目も担っているのよ。だから安心して頂戴。何も不自由にはしないわ」
そうして和華に促されるまま、海音は御者が手配した代わりの馬車に乗ると、灰簾家に連れて行かれる。その道中で和華から海音自身のことや日本について、あれこれ聞かれた。家族、生活、お洒落、食文化、学校、恋愛など、少女らしい他愛のないことから政治経済にも関わりそうな質問まで。その幅の広さは、さすが政治家の娘と言ったところだろうか。
灰簾家に到着すると、屋敷には和華の両親が揃っており、嫁入りすると言って屋敷を出て行ったはずの和華がこの世界では不審者も同然の海音を連れて戻ってきたからか驚かれてしまう。それでも海音の代わりに、和華から馬車が脱輪したことや海音が異なる世界から迷い込んでしまったことを説明してもらうと、和華の両親である灰簾夫婦は涙ぐみながら海音を屋敷に迎え入れてくれた。残念なことに、元の世界に帰る方法は和華だけではなく、灰簾夫婦も知らないとのことだったが、その代わりに好きなだけ屋敷に滞在して良いと許可してくれたのだった。
いつの間に観光地に迷い込んでしまったのだろうか。整然とした煉瓦造りの建物が並ぶ街の中を、教科書でしか見たことがないような古風な洋装姿の男性やバテンレースの日傘を差したお洒落な和装姿の女性たちが歩いている。ショートカットに昔ながらのワンピースを着た女性が、和装姿の男性にエスコートされながら人力車を降りていれば、暖簾が掛かった食事処らしき向かいの建物からは黒い学生服姿の青年が爪楊枝を咥えて出てくる。
空気もどこか違っており、街角にはガス灯らしきものまで並んでいる。何もかも神社の周辺には無かったものばかりで、まるで映画の中にいるようであった。
恐る恐る正面の大きな馬車通りに出れば、肩に天秤を担いだ商売人らしき着物姿の男性とぶつかりそうになる。
「あっぶね~な。気ぃつけな」
男性は端的に文句を言うと、すぐに目の前を走り去っていく。誰も目を留めていないが、ここでの海音は明らかに浮いていた。先程の霞で道を見失って、どこか知らない場所に来てしまったのだろうか……。
来た道を戻ろうにも、後ろも同じような煉瓦街が続いており、神社や石碑は跡形もなく消えていた。
完全に迷子であった。
「そうだ! スマホ!」
ここが観光地なら、スマートフォンの電波が届くはず。そう思って、ロングワンピースのポケットからスマートフォンを取り出したものの、画面にははっきりと「圏外」の二文字が表示されていた。
「ど、どうしよう……」
電波が入らない場所となると、相当な田舎に来てしまったのかもしれない。スマートフォンを胸に抱いたまま、助けを求めて四辺を見渡す。
「あ、あのっ、すみません……」
近くを歩く紳士風の男性に声を掛けるが無視される。他にも老若男女問わず数人に話しかけるが、いずれもそのまま通り過ぎてしまう。中には不審そうに睨みつけてくる者や軽蔑の眼差しを向けてくる者もいたので、やはりここでの海音は周囲とは違う異質な存在らしい。
徐々に焦り出してくる。このまま自宅に帰れなかったらどうしよう。仕事から帰った父親もきっと心配するはず。視線を彷徨わせて右往左往していると、先程学生服の青年が出てきた食事処の暖簾が目に入る。
(あそこに食事処があるよね! 食事処ならきっと電話機が置いてあるはず!)
人力車や馬車が来ないことを確認してから目の前の馬車道を横切った海音だったが、建物の影から猛スピードで走ってきた馬車に危うく轢かれそうになったのだった。
「きゃあ!」
馬を操る御者が馬首を右に逸らしたことで、どうにか紙一重で衝突は免れたものの、腰が抜けてその場に座り込んでしまう。騒ぎを聞きつけて、辺りには野次馬が集まり出すと、海音を見ながら口々に話し始める。
「何、あの子。変な格好。西洋の流行かしら?」
「馬車道に飛び出すなんて、常識知らずだな。阿呆か……」
「よりにもよって、華族の馬車の前に飛び出すとはな。今にも官憲が来るぞ……」
海音を責める心無い言葉の数々に、目を閉じて耳を塞ぐと身を小さくする。息を殺して時間が過ぎるのを待っていると、鈴のような可愛らしい少女の声が真上から聞こえてきたのだった。
「ちょっと、いつまでそこでそうしているつもりなの?」
瞼を開けると、目の前には赤い鼻緒の草履があった。ゆっくりと顔を上げると、橙色の着物を纏った同い年くらいの少女が不機嫌そうに唇を尖らせながら海音を見下ろしていたのだった。
「全く……。ただでさえこれから人嫌いと噂の青龍さまに嫁入りしなければならないのに、こんなところで足止めをくらうなんて」
「あっ……」
「貴女のせいで馬車が脱輪してしまったのよ。どうしてくれるのよ! 冷酷無慈悲な青龍さまに嫁ぐだけでも憂鬱なのに、約束の時間に遅れでもしたら喰われちゃうかもしれないじゃない……」
少女のその言葉で周囲の野次馬がまたしても口々に話し始める。「あの娘が、今代の青龍さまに選ばれた『伴侶』なのか」と。
「わ、私、あの……」
「おまけに何よ、その変な恰好。芝居小屋の役者がこんなところにいるなんて汚らわしい。早く元の場所に帰りなさい……」
「あの! ここはどこなんですか?」
「はぁ?」
声を上げて立ち上がった海音に、少女は訝しむように黒曜石のような目を向ける。腰に流した濡羽色の長髪は少女らしさを、口元の黒子からは妖艶さを感じさせられる。少女と女性の半々の魅力を持った少女は奇妙なものを見るように、海音を頭から爪先までじっくりと凝視しては品定めしたのだった。
「どこって、ここは青龍さまが治める青の地だけど……」
「それは日本のどこですか? 具体的な県名や地名を……」
「ちょっと、何を言っているのか分からないわ。ここは七龍国に七つある土地の一つ、青の地。この国の水の龍脈を司る、青龍さまのお膝元よ」
「しちりゅうこく……? 青の地に……青龍……さま? すみません、何がなんだか分からなくて。もう少し、詳しく教えていただけませんか。ここは日本という国では無いんですか?」
「にほん? 貴女、日本から来たの!?」
「日本を知っているんですか!?」
海音が「日本」と言った瞬間、少女は急に目の色を変えたかと思うと、人懐っこそうな笑みを浮かべる。
「ええ、知っているわ! たまにいるのよ。貴女のように、日本という国からこの国に迷い込んでしまう人」
「それじゃあ、やっぱりここは日本じゃないんですか……?」
「そうよ。詳しく教えてあげるわ。良かったら、うちに来ない? 私は灰簾子爵家の和華よ。貴女は?」
「暮雪海音です。子爵家ということは貴族なんですか? 灰簾さんは……」
「和華でいいわ。灰簾家は華族の一員よ。お父様が貴族院の政治家なの。だから貴女のように、日本という異なる世界からのこの世界に来てしまった人たちのことも知っているわ」
「そうなんですね。私の他にも日本から来た人が……」
「わたしたち華族はそういった人たちを保護する役目も担っているのよ。だから安心して頂戴。何も不自由にはしないわ」
そうして和華に促されるまま、海音は御者が手配した代わりの馬車に乗ると、灰簾家に連れて行かれる。その道中で和華から海音自身のことや日本について、あれこれ聞かれた。家族、生活、お洒落、食文化、学校、恋愛など、少女らしい他愛のないことから政治経済にも関わりそうな質問まで。その幅の広さは、さすが政治家の娘と言ったところだろうか。
灰簾家に到着すると、屋敷には和華の両親が揃っており、嫁入りすると言って屋敷を出て行ったはずの和華がこの世界では不審者も同然の海音を連れて戻ってきたからか驚かれてしまう。それでも海音の代わりに、和華から馬車が脱輪したことや海音が異なる世界から迷い込んでしまったことを説明してもらうと、和華の両親である灰簾夫婦は涙ぐみながら海音を屋敷に迎え入れてくれた。残念なことに、元の世界に帰る方法は和華だけではなく、灰簾夫婦も知らないとのことだったが、その代わりに好きなだけ屋敷に滞在して良いと許可してくれたのだった。