「もう朝から最悪! 寝てたら落雷で起こされるわ、風雨で屋敷は嫌な音を立てるわで、何て目覚めの悪い朝なの! おまけに青龍さまがいなければ、あの異邦人までいないなんて……絶対逢引きね! お父さまに言いつけて、酷い目に遭わせてやるんだからっ……!」
「和華ちゃん!」
海音が声を掛ければ、世話役と思しき女中を数名引き連れた和華がハッとしたように顔を上げる。次いで忌々しいものを見たように顔を歪めたのだった。
「お姉さま、女中としての仕事を放り出して、今まで青龍さまと逢引きしていたの? 人の夫に手を出して、平然としているなんて、なんて盗人猛々しいのかしら……」
「お願い、すぐに来て! 蛍流さんが大変なことになっているの!」
和華の手を引いて連れて行こうとするが、音を立てて手を叩かれる。弾かれた手を庇いながら面食らって和華を見つめれば、「嫌よ」と和華は鼻を鳴らしたのだった。
「どうしてわたしが貴女みたいな異邦人に命令されなきゃいけないのよ。何の役にも立たなかった出来損ないが……」
「今はそんなことを言っている場合じゃないの! 蛍流さんが青龍の力を暴走させちゃったの! このままだと青の地で洪水が発生して、皆死んじゃうの! 力を貸して、和華ちゃん! お願いっ!!」
「はぁ!? この天候は青龍さまが原因だっていうの!? 冗談じゃないわ! こんなところにいたら、わたしまで死んじゃうじゃない!」
「和華ちゃん……?」
和華は海音を突き飛ばすと、引き連れている女中を構うこともなく雨の中を駆け出していく。何が起きたのか理解出来ず、しばらく呆然としていた海音だったが、やがて一際強い突風が吹いた際に上がった和華の悲鳴でようやく我に返る。
「待って!!」
海音も慌てて追いかけるが、着物で走り慣れていない海音と違って、生まれながら着物生活を送っている和華の足は段違いに速い。それでも蛍流を救える頼みの綱が和華しかいない以上、みすみす逃すわけにもいかなった。
髪を振り乱して食らいつくような勢いで後追いした海音はとうとう山道の途中で追いつくと、和華の着物の袖を掴んだのだった。
「何するのよっ! 汚い手で触らないで!!」
「このままだと和華ちゃんだけじゃなくて、蛍流さんまで死んじゃうの! 和華ちゃんだって嫌でしょう。自分を選んだ青龍さまがいなくなるのは。それを救えるのは伴侶である和華ちゃんだけなんだよ……」
「まさか本気で言っているの? わたしが伴侶だって……!」
和華の言葉に目が点になる。その隙をついて、海音たちを追いかけてきた和華の女中たちによって引き離されてしまったのだった。
「だって和華ちゃんは伴侶でしょう……? 青龍に選ばれて、蛍流さんと唯一結ばれる存在……」
「だからそれこそが嘘なのよ! 周りにちやほやされたいからちょっと嘘をついただけなのに、青龍さまが本気にして輿入れの申し出をしてきたから困っていたの。本当は伴侶でも何でもないのよ!」
「嘘だったの……? じゃあ私が身代わりになった意味って、いったい……」
「青龍さまに嫁ぐのが怖かったっていうのは本当よ。伴侶を騙ったことを咎められて斬り捨てられるかもしれないじゃない。そうしたら輿入れの途中で異邦人のお前を見つけたの。お姉さまなんて甘えて適当に情人の話をして、身代わりを引き受けたお前に全て押し付けて清々出来るって思っていたのよ! それなのに斬り捨てられるどころか青龍さまに大切にされて、我が家の娘にするように養子縁組まで強要してきて、とんだ拾い物をしたわ!」
「そんなっ……」
「凶兆を招く穢らわしい異邦人の癖して、華族まで名乗ろうなんて図々しい! お前なんて色を売る以外の取り柄が無いのだから、せいぜい色呆けした爺相手に花街で枕を交わしていればいいのよ!」
茫然自失のあまり、和華の言葉が頭に入ってこない。今まで信じてきたものは何だったのか。
自分を慕う和華のためと思って、危険と隣合わせであることを覚悟の上で、身代わりを引き受けた。それをことごとく否定されて、何を信じたらいいのか。海音は自分の身体から力が抜けて、足元が覚束なくなるのを感じる。
「これで分かったでしょう。もうわたしに関わらないで! こんな危険なところに居られないわ! 青龍さまに巻き込まれるなんて冗談じゃない! 死ぬならお前と青龍さまだけにして頂戴!」
「じゃあ、蛍流さんはどうなるの! このままじゃ、蛍流さんが……っ! 待って、和華ちゃん! せめて蛍流さんを助ける方法を一緒にかんがえ……っ!」
「気安く名前を呼ばないで!」
取り押さえる女中たちを振り解いて、和華に腕を伸ばした瞬間、バキバキと近くから嫌な音が聞こえてくる。この嵐に耐えらなくなった木が根本から折れて、海音と和華の二人に向かって倒れてきたのだった。
「ぃやああ!」
「和華ちゃんっ!!」
頭を庇って身を縮める和華を助けようと駆け出したはずだった。気付けば海音の身体は地面から離れて、宙に浮いていた。
(えっ……?)
何が起こったのか理解したのは、山道を外れて木々が生い茂る斜面に落ちた時だった。苦悶の声を漏らしつつ、木に打ち付けられた身体を起こせば、真上には両目を憎悪でぎらつかせながら射抜くように海音を見つめる和華の姿がある。
直感的に、和華に突き飛ばされたと理解したのだった。
「わか、ちゃ……」
未だ信じられない思いで助けを乞うように片手を伸ばしたものの、そんな海音に構うことなく和華は顔を背けてしまう。その直後に倒れてきた木が巻き上げる砂埃と草木に隠れて和華の姿が見えなくなると、倒れた反動で地面が揺れて、枝葉の擦れ合う音が辺りに響く。
横倒しになった木が鞭のようにしなり、鬱蒼とした森が広がる急勾配に海音を弾き飛ばしたのだった。
「きゃあああっ!」
鋭い枝葉と身体が擦れたのか、浅く切れたような細かな痛みがあちこち襲う。勢いよく転がり落ちているうちに細かい石や木の根で顔中を擦りむき、枝葉に髪や着物を引っかけては、その度に嫌な音が耳に入ってくる。
「ぐっ……!」
身体中を襲い掛かる鈍い痛みに耐えつつ、どうにかして起き上がれないか手足を伸ばすが、連日の雨水を吸って泥濘む地面が摩擦力を生み出して、体勢を整えようともがく海音の指先と身体をますます滑らせる。
降り止まない大雨と飛び散る緑葉や泥水の中、海音の身体はどこまでも傾斜を転がり落ちたのだった。
「……っ!?」
口を開いただけで舌を噛みそうになり、海音が悲鳴を飲み込んでいると、やがてゴンッという固い物とぶつかった音に続いて、想像を絶する激痛を感じる。
「んはっ……っ!」
喉の奥から蛙が潰されたかのような引き攣った声が漏れたかと思うと、頭から温かいものが流れていく。
何が起こったのか考える間もなく、海音の視界は斑点に覆われると、徐々に暗くなっていったのだった。
(ほ……た……る……さ……ん……)
和華は伴侶じゃ無かった。もう誰も蛍流を救える者はいない。何の力を持たない自分が恨めしい。
――自分が伴侶だったのなら、たとえ自分と引き換えにしてでも蛍流を救うのに。
どうすることも出来ない絶望感に打ちひしがれながら、海音は意識を失ったのだった。
「和華ちゃん!」
海音が声を掛ければ、世話役と思しき女中を数名引き連れた和華がハッとしたように顔を上げる。次いで忌々しいものを見たように顔を歪めたのだった。
「お姉さま、女中としての仕事を放り出して、今まで青龍さまと逢引きしていたの? 人の夫に手を出して、平然としているなんて、なんて盗人猛々しいのかしら……」
「お願い、すぐに来て! 蛍流さんが大変なことになっているの!」
和華の手を引いて連れて行こうとするが、音を立てて手を叩かれる。弾かれた手を庇いながら面食らって和華を見つめれば、「嫌よ」と和華は鼻を鳴らしたのだった。
「どうしてわたしが貴女みたいな異邦人に命令されなきゃいけないのよ。何の役にも立たなかった出来損ないが……」
「今はそんなことを言っている場合じゃないの! 蛍流さんが青龍の力を暴走させちゃったの! このままだと青の地で洪水が発生して、皆死んじゃうの! 力を貸して、和華ちゃん! お願いっ!!」
「はぁ!? この天候は青龍さまが原因だっていうの!? 冗談じゃないわ! こんなところにいたら、わたしまで死んじゃうじゃない!」
「和華ちゃん……?」
和華は海音を突き飛ばすと、引き連れている女中を構うこともなく雨の中を駆け出していく。何が起きたのか理解出来ず、しばらく呆然としていた海音だったが、やがて一際強い突風が吹いた際に上がった和華の悲鳴でようやく我に返る。
「待って!!」
海音も慌てて追いかけるが、着物で走り慣れていない海音と違って、生まれながら着物生活を送っている和華の足は段違いに速い。それでも蛍流を救える頼みの綱が和華しかいない以上、みすみす逃すわけにもいかなった。
髪を振り乱して食らいつくような勢いで後追いした海音はとうとう山道の途中で追いつくと、和華の着物の袖を掴んだのだった。
「何するのよっ! 汚い手で触らないで!!」
「このままだと和華ちゃんだけじゃなくて、蛍流さんまで死んじゃうの! 和華ちゃんだって嫌でしょう。自分を選んだ青龍さまがいなくなるのは。それを救えるのは伴侶である和華ちゃんだけなんだよ……」
「まさか本気で言っているの? わたしが伴侶だって……!」
和華の言葉に目が点になる。その隙をついて、海音たちを追いかけてきた和華の女中たちによって引き離されてしまったのだった。
「だって和華ちゃんは伴侶でしょう……? 青龍に選ばれて、蛍流さんと唯一結ばれる存在……」
「だからそれこそが嘘なのよ! 周りにちやほやされたいからちょっと嘘をついただけなのに、青龍さまが本気にして輿入れの申し出をしてきたから困っていたの。本当は伴侶でも何でもないのよ!」
「嘘だったの……? じゃあ私が身代わりになった意味って、いったい……」
「青龍さまに嫁ぐのが怖かったっていうのは本当よ。伴侶を騙ったことを咎められて斬り捨てられるかもしれないじゃない。そうしたら輿入れの途中で異邦人のお前を見つけたの。お姉さまなんて甘えて適当に情人の話をして、身代わりを引き受けたお前に全て押し付けて清々出来るって思っていたのよ! それなのに斬り捨てられるどころか青龍さまに大切にされて、我が家の娘にするように養子縁組まで強要してきて、とんだ拾い物をしたわ!」
「そんなっ……」
「凶兆を招く穢らわしい異邦人の癖して、華族まで名乗ろうなんて図々しい! お前なんて色を売る以外の取り柄が無いのだから、せいぜい色呆けした爺相手に花街で枕を交わしていればいいのよ!」
茫然自失のあまり、和華の言葉が頭に入ってこない。今まで信じてきたものは何だったのか。
自分を慕う和華のためと思って、危険と隣合わせであることを覚悟の上で、身代わりを引き受けた。それをことごとく否定されて、何を信じたらいいのか。海音は自分の身体から力が抜けて、足元が覚束なくなるのを感じる。
「これで分かったでしょう。もうわたしに関わらないで! こんな危険なところに居られないわ! 青龍さまに巻き込まれるなんて冗談じゃない! 死ぬならお前と青龍さまだけにして頂戴!」
「じゃあ、蛍流さんはどうなるの! このままじゃ、蛍流さんが……っ! 待って、和華ちゃん! せめて蛍流さんを助ける方法を一緒にかんがえ……っ!」
「気安く名前を呼ばないで!」
取り押さえる女中たちを振り解いて、和華に腕を伸ばした瞬間、バキバキと近くから嫌な音が聞こえてくる。この嵐に耐えらなくなった木が根本から折れて、海音と和華の二人に向かって倒れてきたのだった。
「ぃやああ!」
「和華ちゃんっ!!」
頭を庇って身を縮める和華を助けようと駆け出したはずだった。気付けば海音の身体は地面から離れて、宙に浮いていた。
(えっ……?)
何が起こったのか理解したのは、山道を外れて木々が生い茂る斜面に落ちた時だった。苦悶の声を漏らしつつ、木に打ち付けられた身体を起こせば、真上には両目を憎悪でぎらつかせながら射抜くように海音を見つめる和華の姿がある。
直感的に、和華に突き飛ばされたと理解したのだった。
「わか、ちゃ……」
未だ信じられない思いで助けを乞うように片手を伸ばしたものの、そんな海音に構うことなく和華は顔を背けてしまう。その直後に倒れてきた木が巻き上げる砂埃と草木に隠れて和華の姿が見えなくなると、倒れた反動で地面が揺れて、枝葉の擦れ合う音が辺りに響く。
横倒しになった木が鞭のようにしなり、鬱蒼とした森が広がる急勾配に海音を弾き飛ばしたのだった。
「きゃあああっ!」
鋭い枝葉と身体が擦れたのか、浅く切れたような細かな痛みがあちこち襲う。勢いよく転がり落ちているうちに細かい石や木の根で顔中を擦りむき、枝葉に髪や着物を引っかけては、その度に嫌な音が耳に入ってくる。
「ぐっ……!」
身体中を襲い掛かる鈍い痛みに耐えつつ、どうにかして起き上がれないか手足を伸ばすが、連日の雨水を吸って泥濘む地面が摩擦力を生み出して、体勢を整えようともがく海音の指先と身体をますます滑らせる。
降り止まない大雨と飛び散る緑葉や泥水の中、海音の身体はどこまでも傾斜を転がり落ちたのだった。
「……っ!?」
口を開いただけで舌を噛みそうになり、海音が悲鳴を飲み込んでいると、やがてゴンッという固い物とぶつかった音に続いて、想像を絶する激痛を感じる。
「んはっ……っ!」
喉の奥から蛙が潰されたかのような引き攣った声が漏れたかと思うと、頭から温かいものが流れていく。
何が起こったのか考える間もなく、海音の視界は斑点に覆われると、徐々に暗くなっていったのだった。
(ほ……た……る……さ……ん……)
和華は伴侶じゃ無かった。もう誰も蛍流を救える者はいない。何の力を持たない自分が恨めしい。
――自分が伴侶だったのなら、たとえ自分と引き換えにしてでも蛍流を救うのに。
どうすることも出来ない絶望感に打ちひしがれながら、海音は意識を失ったのだった。