「それは青龍の神気を間近で受けた影響だ。警告と言ってもいい」
「昌真さん……」

 海音が呟けば、暗夜に溶け込みそうな漆黒色の青年は小さく頷く。朝陽を背に立っていることで逆光になっているからか、今朝の昌真はこれまでよりも影を帯びているような気さえした。それとも光を受けたことで、昌真が抱えている闇が姿をはっきり現わしたと言えばいいのか――。

「警告ってどういうことですか?」
「青龍に近付き過ぎているということだ。心身ともに。早くここを立ち去らないと、やがて塵となって世界から消滅してしまうことを伝えようとしている」

 蛍流と雰囲気が似通っているからか、憂いを湛えた黒い瞳を見ていると昨日の取り乱した蛍流を見ているようで、どこか落ち着かない気持ちになる。

「前に蛍流さんが言っていました。普通の人にとって、神気とは毒でしかないって。身体を蝕んでしまう前にこの山から降りた方がいいと……。この鱗は青龍の神気が身体を蝕んでいるということですか?」
「……恐らくは。七龍の神気に蝕まれた者がどうなるのかは俺も知らない。だがこれだけは言える。誰一人として生き残れた者はいない。塵芥となる前に君も早くここを離れた方が良い」
「今日中にはここを出て行きます。嫁入りすることになったんです。華族の娘として」
「その割には随分と浮かない顔のようだが」
「それは……望んだ相手では無いですから。華族の娘の義務だから嫁ぐだけであって、本当は心に決めた相手がいます。決して結ばれない相手ではありますが……」
「ほう。それでここに涙筋が残っているわけか」

 海音の頬に残る涙筋を昌真が下から上に向かってなぞっていく。指先が辿り着いたのは、海音の目尻であった。残っていた雫を指で掬うと、海音の頬を包むように手を添える。

「徒恋とは虚しいな。その原因がこの国に古くから続く因習によるものだというのも」
「家同士の繋がりのために、女性が身を捧げることは珍しくないですから。私を受け入れてくれた人たちの役に立てるのなら、これくらい我慢できます」
「そっちでは無い。徒恋の方だ。君が恋煩っている相手というのは、この地を守護する青龍の形代――蛍流のことだろう」

 その言葉に海音の肩が大きく震える。晶真が蛍流の名前を呼んだ時、底知れぬ闇を感じた。
 深い怒りや憎悪に似た負の感情。どこまでも広がる常闇のような遺恨の大きさに、どことなく悪寒まで走ったような気さえする。
 この晶真という青年と蛍流はいったいどのような関係なのだろうか。

「……徒恋だからって、想ってはいけないということはありません。誰に恋するかなんて、その人の自由です」
「そうだな。だが君の場合は相手が悪かった。この国を守護する七龍が選んだ人間――青龍の形代だった。只人が唯一恋してはならない相手に恋し、そして青龍の形代もまた君のことを愛してしまった。それ故に君は青龍の怒りを買ってしまったのだ」
「清……どうして青龍さまは怒ってしまったんですか?」
「古の時代より、七龍が選んだ人間と結ばれていいのは、同じく七龍が選んだ人間のみ――すなわち伴侶だけだ。それ以外の人間は七龍と身体を交わすことさえ許されぬ。七龍とはこの国の至宝にして、神にも匹敵する存在。そうやすやすと只人の手の届くところに居てはならない。常に畏敬と崇拝の存在でいなければ」

 元の世界で聞いたことがある。太古の昔、高い建築技術を得たことで慢心していた人間たちが、自分たちの名声を天地に轟かせようとして神に罰せられたという伝説。
 かつて同じ言語で会話し、一ヶ所で暮らしていた人間たちだったが、新しい建築技術を得たことで神と同列になったと自らを過信するようになった。
 それまで守ってきた神の命令を無視して崇拝すべき神を畏れなくなった人間たちは、やがて天へと続く塔と街を建て始める。しかしそんな身勝手な人間たちに神は怒りを覚え、とうとう彼らに罰を与えた。言語を分けて言葉を通じなくさせることで塔と街の建設を諦めさせ、やがて言語ごと各地に人間たちを散らせたのだった。傲慢は身を滅ぼすという教訓話としても有名な物語である。

「つまり知らず知らずのうちに、青龍の形代である蛍流さんや伴侶である和華ちゃんと同じ存在だと思い込んでいて、そんな私の姿に青龍さまは怒って罰を与えた。その結果、こんな鱗の生える奇妙な身体にしたということですか?」

 今の海音もこの国の神である青龍の清水と蛍流に近付きすぎたことで罰を与えられ、その結果として身体中に浅葱色の龍の鱗が生えてきたのだろう。青龍と同じ色の鱗が……。
 蛍流が自分と同じ世界から来て、同じ痛みを抱えていると知ったことで、仲間意識を愛情と勘違いした。蛍流が寄せてくれる情を自分だけのものだと過信して、どこかで驕り高ぶっていたのかもしれない。ともすれば身代わりの分際で伴侶になった気でいた海音の馴れ馴れしい態度に清水が激怒したか。

「七龍に限らず、神というものは伝統と掟を守りたがる。慣習に従わない者たちに罰を下すのもおかしなことではない。だが俺なら解決できる。その身体を侵食する鱗も、君が抱える虚しい恋さえも」
「どういうことですか……?」

 昌真の言葉に海音は目を瞬かせる。決して実らないと思っていた身分違いのこの恋を叶えられるというのだろうか。不思議と全身がうずうずしてしまう。