【第一部・完結】七龍国物語〜冷涼な青龍さまも嫁御寮には甘く情熱的〜

「病院に着いたら、少女を探していたと思しき父親が居てな。少女と合流するとすぐに病院の中に入ってしまったので、結局少女の名前を聞けずに別れてしまった。おれもすぐに清水の車で父の元に戻ったが、夜半だったこともあってすぐ休むように言われた。だがそれでも心のどこかで少女のことが引っかかっていた。翌日には帰ってしまうので、その前にもう一度会えないかと考え、一夜明けた早朝にまた少女と別れた病院に向かったのだ。清水の制止も聞かずに、たった一人で……。そこから先の記憶が曖昧なのだ。おそらく病院に行く途中で何かが起こって、青龍の形代としてこの世界にやって来たのだろうな。気付いた時にはこの山に居て、師匠に介抱されていた」
「ということは、その女の子とは再会出来なかったんですね」
「そうなるな。その少女と少女の母親がどうなったのか気になるが、この世界に来た以上、最早知る術は存在しない。それならただ願うだけだ。あの日交わした約束の通りに、今も少女が笑って暮らしていることを。母親の病気が快癒したにしろ、しなかったにしろ、少女が幸せな日々を送っているようにおれは祈り続ける。青龍として務めを果たしていれば、いつかこの願いは少女に届くかもしれないからな。もっともその少女は約束どころか、おれのことさえ忘れているかもしれないが」
「きっとその子も覚えていると思います。もし忘れてしまったとしても、何かしらは心に残ると思います。私にも似たような記憶がありますよ。お母さんの病気を神頼みしに行った時、一緒に行ってくれた男の子との思い出。その子の顔や話した内容もすっかり忘れてしまいましたが、側にいてくれてとても心強かったです。もしかしたらその相手は蛍流さんだったかもしれませんね」
「お前が追憶の中の少女だったら、忘れるわけがない。こんなにも魅力的で可憐な目もあやなお前のことを……」

 そこまで言い掛けたところで、恥ずかしくなったのか蛍流は顔を逸らすとわざとらしい咳払いをする。水も滴るような絶世の美男子である蛍流からの誉め言葉に海音もじわじわと恥ずかしさがこみ上げてくると、紅葉を散らした顔を見られないように横を向いたのだった。

「可憐なわけありませんよっ! 今まで彼氏さえいませんでしたし、告白でさえ一度もされたことはありません!」
「それは他の男の見る目が無いからだ。だが先程お前が言っていたように、過去にお前と会っていたら何かは心に残るだろうと思う。それかどうかは知らないが、お前とは不思議と初めて会った気がしないのだ。やはりどこかで会っているのかもしれないな」
「そうですか。私は何も覚えていなくて……。でも蛍流さんの手と触れ合う度に、どこか懐かしい気がするんです。安心すると言えばいいのか、落ち着くというのか……」

 これまで蛍流の背に負われ、蛍流と手を繋ぎ、そして頬や頭を触れられもしたが、いずれも不快に感じられなかった。それどころか、とても心地良いとされ思っていた。男らしい大きく皮の厚い手にしては、小動物や真綿に触れる時のような、力を抜いた柔らかな触り方だからだろうか。
 
「もしかすると神頼みをしに行った時に会ったという少年が、お前を心配して手を握っていたのかもしれないな。この時のおれも病院に着くまで、少女の手をずっと握りしめた。車の後部座席に並んで座った時もな。少女が不安そうに震えながらおれの手を掴んでいたというのもあるだろうが、ただ単に頼られて嬉しかっただけかもしれない。それまであまり異性と触れ合うということをしてこなかったからな」
「へえ、意外です。女性の扱いが慣れているように思いましたが……」
「まさか。この間も清水に注意されたのを知っているだろう。生まれてこの方、異性と関係を持ったことはほとんど無いに等しい。自ら迎えると決めたものの、伴侶と上手くいくのかさえ心配していたのだ。お前が伴侶だったら、どれだけ良かったことか……」

 その言葉に海音は声を飲むと瞬きを繰り返す。海音自身はずっと身代わりを哀れに思った蛍流が情けをかけて、ここに置いてくれているとばかり思っていた。いずれは追い出されることも、伴侶を騙った罪人として政府に渡される可能性も考えていた。
 そんな覚悟をしていた分、何でも無い自分を必要としてくれているとは全く思いも寄らなかったので、どう言葉を返していいのか分からない。

「私が伴侶だったら、上手くいっていましたか? その……伴侶との関係を……」
「それだけじゃない。おれはお前に居場所を与えられる。青龍(おれ)の伴侶という誰にも侵されない居場所をな。そうすれば、お前だってこの世界に来た意味と役割が分からないと泣かずに済むだろう」

 和華の身代わりとして蛍流の元に来た次の日。この世界での身の置き場がない不安から泣き出した海音を蛍流が真摯に受け止めてくれた。「今はここがお前の居場所だ」と断言してくれた蛍流の言葉は今も胸に刻まれている。あれほどまでに心強い言葉を掛けられたことは、この世界に来てからこれまで一度たりとも無かった。
 この世界にとっては居ても居なくても問題ないような部外者の海音でも、自分を受け入れてくれる居場所があり、蛍流たちと関わることでこの世界と関係を結べる。元の世界では当たり前のようにあったものが、実は難しいものだったことを知れたのも、ここが海音の居場所だと言ってくれた蛍流のおかげ。感謝しても足りないくらいだ。

「かつてこの世界に来たばかりのおれは、師匠と茅晶がくれた数々の言葉に救われた。時間こそ掛かったものの、青龍そして家族として受け入れてくれたことで、先の見えない不安が消し飛んだ。あの時にもらったものを、今度はお前に与えたい。おれと同じように異なる世界から迷い込み、自分の在り処を探して彷徨い、心許なさから涙を溢す、お前に……。輿入れの日、木の根に座り込んで泣いている姿を見つけた時から、ずっとそんな気持ちでいる」

 蛍流の手が海音の髪を撫で、そして頬に触れる。唇に指先が触れただけで高揚したかと思えば、愛おしむように細められた藍色の瞳と視線が絡み合っただけで心が歓喜で沸き立つ。

「滝壺に迷い込んだお前を探し出し、屋敷まで背負った時だって、師匠はこんな気持ちで逃げ出したおれを探していたのだろうかと考えもした。共に手習いをした時も、お互いの身の内を語り合っているこの瞬間もな」
「もし許されるのなら、蛍流さんと一緒にずっとここで暮らしたいです。伴侶にはなれませんが、これからも使用人として置いて欲しいです。勿論、許されるのならばの話ですが……」
「おれも許されるのなら、未来永劫ここに留めておきたいとさえ思っている。けれどもそれを清水が許されないだろう。ここは青龍が司る神気の根源となる場所。普通の人間にとって神気とは毒でしかない。近い内にお前の身体を蝕み、心身を崩壊させてしまう。そうなる前にこの山から降りて、別の場所に行ってもらった方がいいが、異なる世界から来た人間がどのような末路を辿るのか知っている以上、このままお前を外に放り出すのは忍びない。ここを出たお前がどんな目に遭遇したのか……そしてどんな最期を迎えたのか。この新聞に載っている者たちと同じ目に遭ったと知るのが怖い」
「そうなったとしても、蛍流さんは関係ありません。全てこの世界について私が無知なのと、運の悪さが原因です」
「いいや、ちがう! 元は異なる世界の住人であったとしても、この世界に来た以上は、おれたち七龍が庇護すべき存在なのだ。彼らも守れずして、国を護れるはずがない。それも苦しんでいる相手というのが、恋慕を寄せているお前だぞ! たとえ人の世に私情を挟むことを禁じられている七龍の形代であったとしても、助けてやりたいと思うのが道理だろう!」
「恋慕を寄せている……って、蛍流さんが私にってことですか……?」

 勢いのまま言ってしまったのだろう。海音の指摘に蛍流はしまったという顔をする。バツが悪い顔をした蛍流だったが、やがて観念したのか諦めたように白状したのだった。

「……先日事故とはいえ、互いの唇が重なった時にようやく自覚した。おれはお前に家族以上の特別な感情を抱いている。しかしそれを口にするつもりは無い。青龍に選ばれたおれと夫婦の契りを結んでいいのは、同じく青龍に選ばれた伴侶である――和華だけだ」
「そうですよね……」
「この先、おれは和華を伴侶に迎え入れる。だが心はお前に捧げるだろう。この世界でお前が平穏無事に過ごせるように祈り続ける。青龍として、一人の男として。この山の上からお前を想い続けよう……」

 熱を帯びた藍色の瞳を輝かせながら海音を見つめる蛍流の鶯舌が紡ぐ愛の言葉に、身体だけではなく心まで震える。その告白に対する返事をしなければと口を開こうとしても、気持ちが先走って上手く言葉にならない。
 本当は海音からも蛍流に対する並々ならぬ愛情を伝えたい。けれども「伴侶ではない」という負い目が、止めどなく溢れる蛍流への想いを阻む形で海音の前に立ち塞がる。次いで躊躇いが言葉を奪い、地歩の違いが恋心に蓋を閉じさせる。
 ここで海音の想いを伝えることは簡単だ。その結果、蛍流と相思相愛になれたのなら、この世界での海音の憂いは無くなる。蛍流の腕の中という安心できる居所を得られ、この世界での「家族」が出来る。誰にも関係を認められず、神気によって添い遂げられなくても、心が通じ合っている以上は、「家族」と呼べるだろう。だがその後は?
 蜜月の関係になったとしても、青龍の蛍流と人間の海音は同じ時間を生きられない。何も変わらない蛍流に対して、海音は老いていきやがて数十年には朽ちてしまう。
 永遠に近い年数を青龍の形代として生きる蛍流からしたら、海音と一緒に居られる時間というのは玉響の如く刹那の時間であろう。海音との限りある時間を大切にしたい気持ちも理解出来るが、それでも触れ合った時間だけ、交わした想いの数だけ、残された蛍流を苦しめる。喪ったものの重みにくずおれ、海音を心恋(うらこ)うあまり、哀傷が蛍流の心を蝕もうとするかもしれない。
 そうなれば蛍流の力はますます不安定になり、遠からず青龍の龍脈と青の地にまで影響を及ぼすだろう。ひいてはこの国に暮らす無関係な人たちまで、海音たちの巻き添えを喰らうことになる。
 伴侶にはなれない海音の存在が、青龍としての務めを果たそうとする蛍流の足枷になってしまう。そんなことは海音自身望んでいない。
 ようやく蛍流と心を通わせられそうなのに、立場の違いが二人を阻む。だからこそ七龍と添い遂げられるのは、七龍と同じ時間を生きられる伴侶だけだと気付かされる。
 何度も出会いと別れを繰り返して七龍が心を痛めないように、深い関係を持てるのは七龍と同じ存在のみ。七龍と永遠なる時間を生きられる存在――伴侶だけなのだろう。
 もしかするとこの国の創世にも書かれていた「七龍と同等の歳月を過ごせる伴侶」というのは、周囲と隔絶された時間を生きる七龍の形代の心を守る存在として生み出されたのかもしれない。親兄弟、友、師、そして愛する人。それらを見送り続ける七龍の形代が失意の中で壊れてしまわないように――。
 自分の心のままに気持ちを伝えるか、それとも蛍流の心を優先するべきか。海音の中でせめぎ合う二つの相反する感情と葛藤している間に、興奮は熱が引いたように落ち着く。自分に何度も問い質して逡巡した後に、ようやく口をついて出てきた言葉は「駄目ですよ」という自分の想いとは裏腹の一言だった。

「蛍流さんは伴侶を――和華ちゃんだけを大切にしてください。そうしなければ、別れが辛くなります。同じ時間を生きられないのに……」
「海音……」

 どこか困惑しているように目を見開く蛍流の反応から、もしかすると泣きそうな顔になっているかもしれないと自覚しつつ、海音は表情筋に力を入れて貝の形をしているであろう口元を正すと作り笑いで誤魔化す。
 
「私のことはいずれ忘れてください。本当だったらここにいない人間です。ただの身代わりなんですから、私は……」
 
 蛍流の想いを理解しながら、突き放すような言葉に胸が痛む。これはこの場限りの恋なのだと、一花心(ひとはなごころ)なのだと自分に言い聞かせるが、それでも自分の気持ちに嘘をついているからか、罪悪感と悲愴感がより増して海音をじわじわと責め立てる。
 その言葉に一瞬だけ蛍流は表情を固まらせたものの、すぐにいつも通りのどこか物思いに沈んでいるようにも見える涼しげな微笑みを浮かべたのだった。
「……そうだな。おれたちは互いに大切な存在を喪う悲しみを知っている。同じ時間を生きられない苦しさも」

 海音は母親を、蛍流は師匠を喪った時に、身を切るような痛みを経験している。時間の経過と共にいずれ消えると知ってはいても、それまでは春が来るまで極寒に耐えるのと同じくらい苦しい。
 七龍と人間、生きる時間が違う蛍流と海音にもいつか別れがくる。蛍流には師匠を亡くした時と同じような経験をまた繰り返して欲しくない。それならいっそのこと海音の存在自体を忘れて欲しい。そう思ってしまうのは、海音の我が儘だろうか。

「だがいずれここを出て行くにしても、定期的に便りは寄越してくれ。お前の無事を知りたい。どこでどんな暮らしを送り、何をしているのか。幸せかどうかも含めてな。そして困ったことがあったら、いつでも頼って欲しい」
「ありがとうございます。蛍流さんの代わりにこの山の外の様子をたくさん教えますね。他の土地にも行ってみたいですし、元の世界との違いも知りたいです。絵や写真があれば一緒に送ります」
「そうしてくれ。おれはこの山の外の様子について、見聞きした内容を元に想像を膨らませるばかりなのだ。憧れてはいるものの、この地を離れられないからな。せめてテレビやラジオがあれば良かったのだが、生憎とこの世界には存在していないらしい」
「テレビだけではなくラジオも無いなんて残念です。でも仮にテレビが存在していたとして、こんな山の上まで電波が届くのでしょうか……?」
「その時は政府に頼んで電波が届くように二藍山のどこかに電波塔を建ててもらおう。神域に人の手が入ることを清水は嫌がるかもしれないが、そこは納得してもらえるように形代であるおれから説得を試みるつもりだ」
「山の上に電波塔ですか……。なんだか急に元の世界にありそうな光景になって、親しみを感じられるようになりますね……」

 この自然豊かでどこか厳かな空気に満ちた二藍山の山頂に、鋼鉄で作られた人工の電波塔が建てられるかと思うと、あまりにもアンバランスに感じられてつい相好を崩してしまう。そんな海音に釣られるように蛍流も口元を綻ばせたので、二人は顔を見合わせるとお互いに笑い合ったのだった。

「さて、すっかり話し込んでしまったな。片付けはおれが請け負おう」

 縁側から立ち上がった蛍流が素早く使い終わった食器を集め始めたので、海音は慌てて制止する。

「片付けなら私がやります。カルメ焼き作りに使用した道具を出したままにしていましたし、炊事場の掃除もしなきゃだし……」
「炊事場の後片付けもおれがやろう。ようやく秘め事を明かせたからか、身も心も軽いのだ。お前はもう少しここで寛いでいるといい」
「でも……」
「もし可能なら、残っているあんぱんを分けて貰えるだろうか。師匠の墓前に供えたいのだ」
「勿論です。ぜひお供えして下さい」

 空になった茶器を盆に重ねていた蛍流にあんぱんの紙袋を差し出す。受け取る際に互いの手が触れ合ったが、もうどちらともなく逸らそうとしなかった。それどころか、その一瞬さえも寂しく思えてしまう。蛍流の手を借りて書道をした時は、何とも思わなかったというのに。蛍流に避けられていたこの数日で、海音の心も随分と蛍流に傾いたのだと自覚する。

「ありがとう」

 囁くようにそれだけ言うと、蛍流は炊事場に戻ってしまう。縁側にはどこか夢うつつな海音とカルメ焼きが載った皿だけ。残っていたカルメ焼きを摘まみながら、海音は溜め息を吐く。

(これでいいんだよね。お母さん……)

 蛍流が後に心を痛めるだろうと考えて、今後の蛍流を思い遣った上で慕情に気付かない振りをした。結果的に蛍流が寄せる好意を拒んだ形になってしまったが、これも徒恋となる前に一線を引いただけ。それでもどこか釈然としないのは、自分の感情を偽ったからだろうか。

(蛍流さんが和華ちゃんと夫婦になる姿を見るのが苦しい。身代わりでも伴侶になれない自分が憎い。好きな人と結ばれないことがこんなにも辛いなんて、知らなかった……)

 甘いはずのカルメ焼きがどこかほろ苦く、塩気まで感じられる。焦がしたところでも無ければ、塩を使ってもいない。それにもかかわらず、蛍流と食べていた時と全く味が違っているように思えてしまう。
 実りそうで実らない恋のことを「空なる恋」と呼ぶと古典の授業で聞いたことがある。天上で輝く月に恋をするかのように、儚く、虚しい恋をすることだと。今の海音もそんな「空なる恋」をしているのだろう。決して結ばれない月――蛍流への恋心。悲恋と分かっていながらも、どうしても蛍流への想いを止めることが出来ない。蛍流への密心が胸に溢れて歯止めがきかなくなる。この恋慕の情は誰かに悟られる前に仕舞わなければならない。深い水底に、水籠りしなければ――。
 ふと庭から視線を感じて頭を上げれば、遠くに黒い人影が見える。今日は誰も来ないと聞いていたが、この間の役人たちと同じ急な来客だろうか。使用人という手前、ここは出迎えに行かなければならないだろう。海音は袖で目元を拭うと、沓脱石の上の草履を履いて人影に向かう。
 木々を掻き分けるようにして近寄ると、音も無く佇んでいたのは、初めて雲嵐と会った時に庭で会った青年であった。

「あの……」

 新月の夜を彷彿とさせるような青年は海音に気付くと、「ああ」と低い声で話し出す。

「また君か。青龍の……伴侶」
「私は……私は海音です。伴侶なんて名前ではありません」

 ここで前回と同じように言い淀んでも、また伴侶かどうか問答の繰り返しになるだけ。それなら話の矛先を変えてしまえばいい。すると、青年は遠くを見つめながら「そうか」と返す。その物憂げな顔が蛍流と重なる。

「あの屋敷に暮らしているのだな。今代の青龍と共に」
「そうです。貴方はどなたでしょうか。蛍流さんのお客さん? それとも青龍が見せる幻?」
「俺は……」

 そう言い掛けた青年だったが、不意に海音の口元に指を伸ばす。咄嗟に身を引いたものの、青年が摘まんでいたのは薄茶色の塊だった。それを自身の口に運んで咀嚼しながら、青年が静かに言葉を紡ぐ。

「これは砂糖か?」
「多分、カルメ焼きだと思います。今さっきまで食べていたので」
「カルメ焼き。懐かしい響きだ」

 どこか遥か懐かしむような青年の優しい声色に、海音は「あの!」と声を掛ける。

「ここで待っていてください。すぐに戻ります!」

 海音はつんのめりつつ屋敷の縁側に戻ると、カルメ焼きが残る皿を掴んで青年の元に取って返す。そうして今にも闇夜に紛れてしまいそうな青年に差し出したのだった。

「私が作ったカルメ焼きの余りです。良ければ食べてください」
「君が?」
「焦がしてしまったところもありますが、でも概ね食べられると思います」

 青年は海音とカルメ焼きを交互に見比べた後、やがて「いただこう」とカルメ焼きのひとかけらを摘まむ。細く長い指先はやはり蛍流と似ている。この青年も武術を嗜んでいるのだろうか。ゆっくりとカルメ焼きを食していた青年だったが、やがてほうっと息を吐いたようであった。

「美味いな。味や見た目もそうだが、多少の焦がし具合も懐かしい」
「カルメ焼きがお好きなんですか?」
「……弟が好きだった。俺も好きだったが、弟の方がより好きだったと思う」
「弟さんがいるんですか?」
「歳の近い弟だった。もう何年も会っていない」
「そうですか……」

 抑揚の無い寡黙な青年の話し方からは、それ以上の情報は得られそうになかった。深く踏み込んでいいのか躊躇していると、青年は再び口を開く。

「……弟と父は不仲だった。俺が二人の仲を取り持たねばならないと、幼い頃は張り切っていた。だがある日の夜半、姿が見えない弟を探している時に知ってしまった」
「何があったんですか?」
「弟と父が二人で仲睦まじく話していた。昼間の弟はどこか父に対してよそよそしく遠慮をしていたが、夜間に父の部屋で語らう二人にはそんな様子は微塵も感じられなかった。俺よりも父と親子のようで、俺はそんな弟に……嫉妬してしまった……。それで弟に辛く当たってしまった」
「仲直りはされたんですか?」
「していない。喧嘩別れのように弟の元を出て、それから一度も会っていない……」

 青年の言葉が木々の囀りの中に消える。それが後悔しているようにも聞こえて、つい海音は深入りしてしまう。

「きっと弟さんも仲直りしたいと思っています。早く会えるといいですね」
「……いいや。弟はもう俺のことなどすっかり忘れているだろう。風の噂で聞いたところ、弟はつい先日伴侶を娶って婚姻を結ぶつもりだと聞く。弟にとって俺はもういない存在なのだ」
「そんなことはありません。誰よりも深い絆で結ばれた家族なんですよね? 今もきっとお兄さんの帰還を待ち望んでいます」
「家族か……。そうだな、家族だな。俺と弟は……」

 嘯くような青年に海音は怒りと悲しみがない交ぜになった気持ちになる。異なる世界から来た海音や蛍流は、家族に一目会いたいと冀っても、二度会うことは叶わない。対して、青年はこの世界の住人で家族に会おうと思えば会いに行ける。それがどれだけ素晴らしく、羨ましいことか、この青年は分かっていない。
 言い返そうと口を開きかけた海音だったが、不意に青年が口の前で人差し指を立てる。そうして先程まで蛍流と語らっていた縁側を指し示したのだった。

「そろそろ、()()()が戻ってくる。嫉妬される前に戻った方がいい」
「嫉妬なんてするはずがありません。蛍流さんはそんな器の小さい人では……」
「男というのは一途になると恐ろしい生き物だ。今のアレは君に盲愛している。その盲愛は偏愛となり、やがて愛憎に変貌するかもしれない。そうなる前にアレの想いに答えてやるといい」
「どうしてそんなこと……」
「痴れたこと。独占欲が強いからだ。子供の頃からずっとな」

 まるで子供の頃の蛍流を知っているかのような口ぶりに海音が問う前に、青年が言った通り、蛍流が戻ってきてしまう。風に乗って「海音?」と探す声が聞こえてくるので、このままでは海音を探して外に出て来てしまいかねない。
 仮にこの状況を見られたとしても、精神面が成熟した蛍流がそう嫉妬に駆られるとは思えないが、蛍流の想いを振ったばかりでこの状況を見られるのはさすがに良くない気がする。ここは素直に戻った方がいいだろう。
 青年に一礼をして背を向きかけた海音だったが、青年がぽつりと漏らした低い声を耳にして足を止めてしまう。

昌真(しょうま)
「えっ?」

 何のことか分からず、青年の言葉を頭の中で反芻しながら瞬きを繰り返していると、再度青年は宙空に溶けてしまいそうな小声で言葉を繰り返す。
 
「晶真。それが俺の名だ」
「昌真さん……? それが貴方の名前ですか?」
 
 海音の問いに青年――昌真は頷く。

「……父が生前に付けてくれた名だ」

 どこか悲しみの色を漂わせた黒い瞳に後ろ髪を引かれるが、今もなお海音の名を呼び続ける蛍流を放っておけず、すぐに晶真から目を逸らす。
 そんな海音の姿を晶真が見つめていたことを、海音はついぞ気付かなかった。

『青龍として、一人の男として。この山の上からお前を想い続けよう……』
 
 蛍流に告白されたあの日から、海音は繰り返し同じ夢を見ている。
 それは清水が住むという神域の滝壺の中に、蛍流が身を捧げるように消えてしまう夢。
 清らかな流水を湛えた滝壺にいる海音の目の前で、背を向けた蛍流が吸い込まれるように碧水の中へと消えてしまうものであった。
 蛍流が消えた後には、宙を舞う無数の水飛沫と衝撃で硬直する海音、そして遣る瀬無さだけが残される。無声映画のように何の音も存在しない無音の世界で、蛍流を救えなかった悲嘆と後悔に慟哭を上げながら夢から覚醒する、という実に後味の悪い夢であった。
 顔や着物に掛かる水飛沫の感触が生々しく、空を切って滝壺の流水の中へと沈んでいく蛍流の姿もあまりに現実味を帯びていて、夢にも関わらず海音を不安な気持ちにさせる。これは正夢で、いつか本当に蛍流が人身御供となる日が来てしまうのではないかと――。
 そんな悪夢に為す術も無く、ただ歯痒い気持ちで繰り返し見ている内に、やがて夢の中にも関わらず、身体の自由がきくことに気付いた。
 その時から海音はこの妙にリアルな悪夢の内容を変えて、蛍流を救おうと行動を開始する。
 蛍流が消える前に身を乗り出そうと滝壺へと真っ直ぐに腕を伸ばして蛍流を捉えようとするが、最初はどんなに掴もうとしても紙一重の距離で擦り抜けてしまった。それでも蛍流との距離は日を追うごとに近づいていき、ついには蛍流の衣を掴んで引き止められるまで縮められた。

「蛍流さんっ!」
 
 言葉を発したはずが何も聞こえてこない。それでも蛍流を助けられたことで夢の内容は変わったはず。
 そう安堵したのも束の間、蛍流の衣に触れた指先から氷のような半透明の浅葱色の鱗が生え出す。
 鱗は掌、腕へと広がっていき、やがて全身を覆っていく。

(なにっ……! これ……っ!?)
 
 まるで身体が凍りつくかのように、鱗に覆われた肌からは体温が奪われ、体内を流れる血液や臓器まで凍結する。冷気が肺まで達すると、胸が圧迫されるような息苦しさを覚えて苦悶で身を捩り出す。

(いきっ……が、でき、なっ……!)

 涙目になりながら自分の喉を押さえるが、硬質な冷たい鱗に覆われた喉は張り付いたように息が吸えなくなり、やがて陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクと開閉させることしか出来なくなる。それでもどうにか蛍流の衣を掴み続けるが、とうとう蛍流を掴む指先にひびが入り始める。

(えっ……)

 ガラス製の置物を割ってしまったかのように、ひびは海音の身体全体へと広がっていき、やがて手足からゆっくりと身体が砕け始める。
 粉雪のようにパラパラと鱗が落下し始めると、身体からは力が抜けていく。とうとう視界が崩れ始めた頃、後ろを向いた蛍流が海音に向かって、何かを話し出したのだった。

(何を言っているの……?)

 耳を喪って聴力を持たない海音には、蛍流の口の動きと表情から言葉を拾うしか術が無い。最初こそ全く分からなかったが、何度もこの夢を繰り返すことで、ようやく蛍流の言葉を全て拾う。
 そうして文字を繋げて完成した言葉の意味に気づいた瞬間、心臓を鷲掴みされたかのように全身を悪寒が走ったのだった。
 
 ――コ、コ、カ、ラ、サ、レ。

 信じたくないと思いたいが、それが嘘ではないというように、その言葉を発した後の蛍流の表情が毎回大きく歪むのを見ている。

(そんな……)

 目が砕けて先も見えない真っ暗闇に包まれた時、夢の中の海音は心の中で哀哭する。
 それが悪魔のような不気味な笑みと共に発せられた蛍流からの拒絶の言葉であった。

 ◆◆◆ 

「……んはっ! はぁはぁ……」

 薄明るい部屋の中、掛け布団を跳ね除けるようにして海音は飛び起きる。額や身体は寝汗で湿っており、寝巻は乱れはだけていたのだった。

(またあの嫌な夢……。それにあんな蛍流さん、見たことない……)

 蛍流の顔をした別の生き物。人ならざるもの――そんな単語が頭に浮かぶ。あんな薄気味悪い笑みを浮かべられるのは、悪魔のような人智を超えた存在だけ。
 それとも蛍流が自分を拒絶するはずがないと思いたいだけかもしれない。先日の告白がまだ胸の中に残っているから――。
 きっとここでの生活に慣れて疲れが出始めてきただけだろうと思い直す。布団から起き出して、着替えようと寝巻を脱いだ瞬間、自分の鎖骨に小石サイズの濃い藍色の欠片がついているのを見つける。最初は塵でも付いているのかと思って爪を立てたものの、全く取れる気配が無かった。そこで今度は摘まんで剥がそうとするが、指先に冷たい硬質な感触が当たったところでぞっと鳥肌が立つ。
 転がるように姿見のところまで行って自分の姿を写した時、信じられないものを見つけたのだった。

「なに、これ……」

 海音の鎖骨から生えていたのは、浅葱色の鱗であった。ガラス細工のようにどこか透き通っている浅葱色やひし形状の形、そして肌から生えている様子までもが、夢の中で海音を覆った鱗と瓜二つ。手で触れた時の触感もガラス細工と同じ冷たく無機質で、そこだけ血が通っていないかのようにひんやりとしていた。

「そんな……」
 
 もし夢の中と同じ運命を辿るとしたら、この後の海音、そして蛍流が待ち受けている未来は――。
 嫌な想像を膨らませたところで、身体が大きく身震いする。一筋の熱涙が頬を伝って流れ落ちると、浅葱色の鱗に落下して吸い込まれるように消えてしまう。

(いや……いやっ! 怖い、怖いよ。誰か、誰か助けて……)
 
 室内に差し込む朝の陽気を反射する鱗が、不気味な笑みを浮かべた夢の中の蛍流の姿を重なったのだった。

 ◆◆◆ 

 寝汗で湿った肌を拭き、着替えて部屋を出ると、丁度蛍流が青龍の神域である滝壺から帰ってきたところだった。玄関まで出迎えに行くと、手桶を片付けていた蛍流が海音の姿に気付いて声を掛けてくれる。

「おはよう。今朝は早いのだな。まだ朝日が昇り始めたばかりだぞ」
「おはようございます。なんとなく早く目覚めてしまったので、一足先に朝餉の支度を始めようかと」
「そうか。おれも荷を片付けたら、すぐに行こう」
「いえ、一人でも大丈夫です。蛍流さんは神域に行ってきたばかりですよね。ゆっくりしてください」

 青龍の形代とその伴侶の日課の一つに、早朝の神域の見回りと歴代の青龍の形代とその伴侶が眠る石碑の掃除がある。いわゆる巡邏と墓参のことだが、神域はこの国に流れる水の龍脈の源に当たるため、異常事態が起こらないように管理するのが形代の担う一番大きな役割らしい。
 そんな重要な役目を長らく任じられてきた形代とその伴侶が眠る石碑の管理と掃除は、形代を支える伴侶の務めであるが、蛍流の伴侶は不在のため、今は蛍流が代わりに請け負っていた。
 只人である海音は神域への立ち入りを禁じられているため、こうして屋敷で蛍流の帰宅を待つことしか出来ない。それが非常に歯痒く感じられたのだった。

「ここに来たばかりの時とは違って、もうひと通り自分一人で出来ます。それに使用人の身で、いつまでも蛍流さんの手を借りてばかりいるわけにもいきませんし……」
「そうは言っても、力が必要な時もあるだろう。青龍だからと気を遣わずに、頼ってくれていい」
「ですが……」
「二人で支度した方が早く終わる。そうしたらお互いにゆっくり休めるだろう。そうだ、朝餉の後にひと息ついたら、庭でも散歩しないか。先程見に行ったところ、ようやく梅の花が満開になったのだ。芳しい匂いに心が弾む。お前にも見て欲しい」
「梅が満開に……もうそんな時期なんですね」
「もう少し暖かくなって桜が開花したら、花見をするのもいいかもしれない。昔も師匠や茅晶と三人でしたのだ。大量の桜吹雪に包まれた時は、夢見心地な気持ちになる。あの幻想的な光景を一緒に見たい。お前と共に……」

 藍色の瞳を細めて微笑む蛍流に胸が高鳴る。この間、蛍流の想いを振ったばかりだというのに、未だにどこかで期待してしまう。このままずっと二人きりで、この至福の時間を過ごせるのではないかと……。
 それでもやはり自分と蛍流では住む世界が違う。海音が告白を断った後も、蛍流は変わらずに接してくれるが、海音自身がどこかで居心地の悪さを感じてしまう。今も蛍流に花見を誘われて嬉しい反面、それを素直に喜べない自分がいる。
 別れを惜しんでいるのは蛍流ではなくて、本当は自分自身なのかもしれない。
 けれどもそんな気持ちを蛍流に悟られなくて、海音は「ありがとうございます」とそっと笑みを返す。

「久しくお花見をしていなかったので、楽しみにしています」
「ああ、では一度部屋に戻る。すぐに炊事場に向かうからな」
「あの、蛍流さん……」

 身体に鱗が生え始めたことを相談しようと咄嗟に呼び止めてしまったものの、素直に話してしまったら心配を掛けてしまうかもしれない。そしてここから出て行くように勧められることだって……。
 伴侶になれない自分は、いずれここを出て行かなければならない。いくら頭では分かっていても、やはり蛍流から離れたくないと思ってしまう。
 蛍流が自分と同じ世界からこの世界にやって来た「仲間」であり、道ならぬ恋をしている「想い人」だからだろうか。

「どうした?」

 言い淀んでいると蛍流が不思議そうに首を傾げる。海音は作り笑いを浮かべると、「いえ」と首を振ったのだった。

「お花見ならお弁当を用意した方がいいのかなって、思っただけです」
「そうだな。握り飯を拵えて、重箱におかずを詰めるのもいいかもしれない。昔使っていたものが、炊事場のどこかにあるはずだ。探しておこう」
「楽しみにしていますね」

 そうして蛍流と別れた海音だったが、手は自然と鎖骨を押さえていた。厳密に言えば、着物に隠れる鱗の辺りを。

(きっと大丈夫だよね。桜が咲く頃までは持ってくれるよね……)

 全身が鱗に覆われるまで、どれくらい時間が残されているのかは分からない。それでもせめて蛍流と花見をするまでは、何も起こらないで欲しいと願ってしまう。
 これ以上、心優しい蛍流を悲しませたくない。蛍流の心を守るためなら、自分はどうなってもいい。
 二人で花見をした後はこの山を出て行って、人知れず夢と同じように砕け散ってしまったとしても。

(もし夢の通りにならなかったとしても、ここを離れてしまったら、蛍流さんと会うことはきっともう二度と無い。それならせめてお花見までは一緒に過ごしたい)

 海音が山を降りることになった時、きっと蛍流はいつでも来ていいと言うだろう。だがその言葉に甘えてまた戻って来てしまったら、今度こそ蛍流から離れ難くなる。そんな海音を蛍流は何も言わないだろうが、きっと清水や本来の伴侶である和華たちがそれを許さない。何がなんでも追い返そうとするだろう。
 そうなったら、ますます蛍流を困らせることになってしまう。それならもうここにはもう戻らない方が良い。
 会うことが叶わないのなら、せめて蛍流には最後まで笑っていて欲しい。その笑顔を胸に焼き付けてから、跡形も無く消えられるのなら本望だ。
 好きな人の極上の笑みを手向けとして得られるのなら、この見知らぬ世界で待ち受ける孤独な日々も悪くないと思えてしまう。

(伴侶じゃない自分にはここにいる資格が無い。あの夢とこの鱗はきっといつまでもここに居座っている自分への警告なのかも。この先ますます離れがたくなる前に、早く蛍流を諦めてここを出なさいという……)

 それでもどこかで希望を捨て切れていないのは、未だ蛍流が海音に対する純愛を向けてくるからなのか。それとも海音自身が奇跡を信じているからなのか。
 蛍流が海音を選び、二人で添い遂げられる日を迎えられると――。
 
(もう考えるのは止めよう。それよりも残された時間をどう過ごすか考えないと)

 今のところ、海音にはここから去った後の行く当てが無い。蛍流に話した通り、どこかで住み込みで働くとしても、働き先が見つかるまでは宿などに泊まることになる。それなりの資金を用意しておく必要があるが、蛍流に頼むわけにもいかない。そうなると売れるものを用意するしかないが、売っても良さそうなものは和華の身代わりとして嫁いだ際に仕立ててもらった豪奢な振袖くらい。後は元の世界から持ってきたスマートフォンや財布などの小物くらいだが、この世界では使い道が無いので無価値の可能性がある。
 それ以外のものは蛍流に用意してもらったものだが、政府が捻出する七龍の生活費――おそらく市民から徴収した税金、で購入したものらしいので売るに売れない。必要最低限のものだけもらって、ここに置いていくつもりだ。それなら手に職を付けた方がいいかもしれない。いわゆる内職だが、これから始めて完成品を雲嵐辺りに買い取ってもらえるのなら資金繰りは問題ない。そのためにもこの世界での内職や必要な技術について知る必要があるが、それこそ商売人として顔が広い雲嵐あたりに聞いてみようか。
 そんなことを考えながら、朝餉の支度に取り掛かったのだった。

 ◆◆◆ 

(本当だ。風に乗って、梅の甘い香りがする)

 柔らかな春風に乗って、微かに梅の甘い香りが物干し竿の辺りにも漂う。
 そんな春らしい優しい香りに頬を緩めながら洗濯物を干していると、終わりかけの頃、屋敷裏の畑の様子を見に行っていた蛍流がやってくる。

「もう終わったのか。仕事が早くて助かる」
「いいえ……。最近は天気も良くて、洗い物も少なかったので」

 最後の敷布を物干し竿に掛けてしまうと、麗らかな春の陽気の下で洗いざらしの白い布が風に吹かれて靡く。空になった桶を持とうとするが、すでに蛍流の腕の中に収まっていた。
 
「手伝いに来たつもりだったが無用だったか。ここでの生活にも大分慣れたようだな」
「洗濯機のありがたみを実感しました。ここでは踏み洗いや揉み洗いが普通なんですね。洗濯板の存在は知っていましたが力仕事だったことも知らなかったですし、灰汁や米のとぎ汁で汚れが落ちるのもこの世界に来るまで全く知りませんでした」
「あっちの世界とは違って、洗剤を必要とする油汚れが無いからな。ここで暮らし始めた時は衝撃を受けたものだ。米のとぎ汁なんて捨てるものだと思っていたからな。知らずに捨てようとしたら茅晶には怒られ、師匠にも止められた」
「蛍流さんにもそんな失敗があるんですね」
「元の世界では何もかも使用人がやってくれたというのもあるが、それにしても度を越した世間知らずだったな。最初は着替えさえ自力で出来ず、師匠に着せてもらっていた。湯浴みや布団の敷き方さえも……幼児のように面倒を見てもらってばかりだったな」
 
 そんなことを話していると、玄関口から「ごめんください」と男性の声が聞こえてくる。応対しようと玄関に足を向けたところで、蛍流に手で制止されたのだった。

「どうやら政府からの早馬のようだ。おれが出よう」

 そうして海音の代わりに政府からの使者と話し始めた蛍流だったが、すぐに「なんだと!」と仰天したような声を上げたのだった。

「馬鹿な。そのようなことを急に言われても困る。日時と内容を改めるように先方に伝えてくれ……!」

 政府からの連絡が余程思いがけないものだったのか、蛍流は小さな悲鳴にも似た声を上げる。しばらく使者と言い争っていたが、やがて使者は帰って行ったようだった。心配になった海音が玄関先まで小走りで行くと、そこにはどこか放心したような蛍流が文を片手に呆然と立っていたのだった。

「言い争っているようでしたが、何かあったんですか……?」
「和華が……」
「和華ちゃんがどうかしたんですか?」

 言葉を飲み込んだ蛍流を不安そうに見やる。どこか青くも見える蛍流の横顔を眺めつつ、続く言葉を待っていると、衝撃的な内容を口にしたのであった。

「和華が今日輿入れしてくるそうだ」
「えっ……今日ですか?」
「ああ。本人の希望らしい。ようやくここに嫁ぐ決心がついたと」

 蛍流は心ここにあらずといったように返したが、本当は海音自身も驚愕のあまり動転していた。
 海音が和華の身代わりとして蛍流の元にやって来てから、そこそこの日数が経っている。蛍流は何も言わなかったが、海音が来てからもずっと和華に嫁入りを申し出ていたのだろう。それでもその要請に応えなかったということは、蛍流の元に意地でも嫁ぎたくないからだと思っていた。
 想い人がいて、蛍流が自ら流した悪い噂もあることから、和華は自ら輿入れを承諾するのではなく、最後は蛍流の命を受けた政府の者たちによって、強引に連れて来られるとばかり考えていた。それが何の前触れもなく、本人の意思で蛍流の元に嫁入りするという。そのあまりの心変わりように驚き呆れてしまう。
 
「それは随分と急ですね……」
「それもそうだが、そうではない。これまで和華は頑なに輿入れを拒否してきたのだ。どうして今になって決心がついたなどと……。いや、それは本人の気持ちの問題だから、とやかく言うつもりは無い。だがこの条件は良くない……」
「どんな頼み事をしてきたのですか?」
「和華というよりは、これは灰簾家からの要望だろうな。和華を嫁がせる代わりに海音を返して欲しいと申し出てきたのだ」
「私を? どうして灰簾家の人たちが私のことを……」

 てっきり和華の身代わりを失敗した海音のことを、灰簾家の人たちは用済みと見做しているのだと思っていた。灰簾家に戻ることは叶わず、どこかで細々とした貧しい暮らしを送ることになるのだろうと。そんな海音を灰簾家の人たちは再び迎え入れようとしている。青天の霹靂とはまさにこのことを指すのだろうか。

「理由までは文に書かれていない。使者も知らないと繰り返していた。だが……嫌な予感がする。このままお前を灰簾家に引き渡すのは良くないと直感が告げているのだ。おれが手放したくないと思っているだけかもしれないが……」
「何が起こるのでしょうか……」
「それは分からないが、灰簾家にはもう少し詳細な内容を尋ねてみようと思う。仮にも華族の一員でもある灰簾子爵家が、保護した異世界人を遊女や女工として売り飛ばす真似はしないだろうが、万が一の場合もある。今から政府に早馬を走らせるよりも、これから輿入れするという和華が何か知っている可能性も高いが……」

 蛍流を始めとする形代たちは、自分が統治する土地に暮らす民と直接やり取りすることを禁じられている。彼ら形代たちを選んだ七龍は、この国の守護神であり、この国の崇拝的な存在。人の世に干渉することはこの国のバランスを崩しかねないとして、特定の人間と自ら関係を持つということは禁止されていた。
 そのため、家族を含めて特定の人間と連絡を取りたい時は、一度政府を介して相手に連絡してもらうことになる。
 唯一の例外が伴侶であるが、その伴侶も政府が伴侶と認定しない限りは直接連絡を取り合えない。それまでは他の民と同じように政府を仲介して、文を交わすことになるのだった。
 顔を曇らせる蛍流を安心させようと、海音は首を振ると笑みを浮かべる。
 
「あまり心配しないでください。私は大丈夫です。これまで何とかなってきましたし、これからもきっと何とかなります」
「だが……」
「でもこれで蛍流さんの力は安定しますね。どのみちいつかはここを出て行かなければならなかったんです。それが今というだけです」
「……桜を見に行く約束を交わしたばかりだというのにな」
「残念です。せっかくならその約束は和華ちゃんと果たして下さい。これをきっかけに二人の仲が深まるのなら私も嬉しいです」
「海音……」

 蛍流に左肩を掴まれるが、話題を変えながらそっと手を払う。
 
「和華ちゃんが来るのなら、部屋を明け渡さなきゃですよね。私が使っている部屋は伴侶のために用意された部屋ですから」
「そうだが、今すぐでなくてもいい。和華には客間を使ってもらう。部屋は和華が来てからでも……」
「私も灰簾家に戻らなければならないですから。片付けは早いうちから始めた方が良いと思うんです。そうだ、私の荷物を客間に運ばせてください。そうすればすぐに引き渡せます」
「海音、おれはお前のことを……」

 何かを言いかけた蛍流に気付かない振りをして、海音はなんともないように部屋に戻る。
 これも本来あるべき形に戻っただけ。それなのにまたしてもすっきりしない。蛍流の告白を断った時と同じように心がモヤモヤしてしまう。
 蛍流の側から海音が消えて、代わりに和華が蛍流の隣に行く。たったそれだけのことなのに、どうして得心が行かないのか。
 このままここにいたって、海音が蛍流のために出来ることは何も無いと分かっているのに……。

(きっと勘違いしているだけ。伴侶になれるはずがないのに、どこかでなれるんじゃないかと期待を寄せているだけ)

 その時、左肩の辺りに棘が刺さったかのようなずきりとした小さな痛みが走る。人目の付かないところに移動して帯を緩めて肩を晒せば、鎖骨に生えていた浅葱色の鱗が肩にも広がっていたのだった。
 
(どうして、今朝見つけたばかりなのに……)

 想定よりも鱗が生えだす間隔が短い。このままでは数日中には全身に鱗が覆ってしまう。早ければ、明日か明後日にでも……。
 自分を抱き締めるように両腕をぎゅっと包むと、冷たい床の上にくずおれる。この先に待ち受ける未来を想像して、身体からは血の気が引いていった。

(このままじゃ私だけじゃなくて、蛍流さんもきっと夢の通りに……。でも正直に打ち明けたところで解決するの? ますます蛍流さんを不安にさせるだけかも……)

 蛍流に助けを求めたところで、状況が変わるとは思えない。いたずらに迷惑を掛けるだけだろう。ただでさえ蛍流は自分のことと伴侶のことで手一杯だ。そこに海音の問題を持ち込んでますます手を煩わせたくないが、だからといって、海音一人ではどうすることも出来そうにない。
 身体に生え続ける鱗の色からして海音の身体を蝕もうとしているのが青龍である以上、頼り先は蛍流以外の七龍または七龍に詳しい者に限るだろうが、助力を乞うにしても他の七龍と連絡を取るには伝手が無い。簡単な方法は雲嵐に頼んで他の七龍に言伝をしてもらう方法だろうが、つい数日前に来たばかりで当面の間ここには来ない。雲嵐の代わりに政府経由で七龍と接触を図ろうにも、どれくらい時間が掛かるのか皆目見当がつかなかった。

(私が伴侶だったら、もっと良い方法があったかもしれない。蛍流さんに頼らなくても自分で解決する方法が)
 
 只人の海音にはただ身体を戦慄かせて、最悪の想像を巡らせることしか出来ない。何の力にもなれない自分を嘆き、迫る未来に怯えることしか……。
 どんなに蛍流のことを大切に想っていたとしても、所詮海音は蛍流の伴侶では無いのだから。