「あの……」
新月の夜を彷彿とさせるような青年は海音に気付くと、「ああ」と低い声で話し出す。
「また君か。青龍の……伴侶」
「私は……私は海音です。伴侶なんて名前ではありません」
ここで前回と同じように言い淀んでも、また伴侶かどうか問答の繰り返しになるだけ。それなら話の矛先を変えてしまえばいい。すると、青年は遠くを見つめながら「そうか」と返す。その物憂げな顔が蛍流と重なる。
「あの屋敷に暮らしているのだな。今代の青龍と共に」
「そうです。貴方はどなたでしょうか。蛍流さんのお客さん? それとも青龍が見せる幻?」
「俺は……」
そう言い掛けた青年だったが、不意に海音の口元に指を伸ばす。咄嗟に身を引いたものの、青年が摘まんでいたのは薄茶色の塊だった。それを自身の口に運んで咀嚼しながら、青年が静かに言葉を紡ぐ。
「これは砂糖か?」
「多分、カルメ焼きだと思います。今さっきまで食べていたので」
「カルメ焼き。懐かしい響きだ」
どこか遥か懐かしむような青年の優しい声色に、海音は「あの!」と声を掛ける。
「ここで待っていてください。すぐに戻ります!」
海音はつんのめりつつ屋敷の縁側に戻ると、カルメ焼きが残る皿を掴んで青年の元に取って返す。そうして今にも闇夜に紛れてしまいそうな青年に差し出したのだった。
「私が作ったカルメ焼きの余りです。良ければ食べてください」
「君が?」
「焦がしてしまったところもありますが、でも概ね食べられると思います」
青年は海音とカルメ焼きを交互に見比べた後、やがて「いただこう」とカルメ焼きのひとかけらを摘まむ。細く長い指先はやはり蛍流と似ている。この青年も武術を嗜んでいるのだろうか。ゆっくりとカルメ焼きを食していた青年だったが、やがてほうっと息を吐いたようであった。
「美味いな。味や見た目もそうだが、多少の焦がし具合も懐かしい」
「カルメ焼きがお好きなんですか?」
「……弟が好きだった。俺も好きだったが、弟の方がより好きだったと思う」
「弟さんがいるんですか?」
「歳の近い弟だった。もう何年も会っていない」
「そうですか……」
抑揚の無い寡黙な青年の話し方からは、それ以上の情報は得られそうになかった。深く踏み込んでいいのか躊躇していると、青年は再び口を開く。
「……弟と父は不仲だった。俺が二人の仲を取り持たねばならないと、幼い頃は張り切っていた。だがある日の夜半、姿が見えない弟を探している時に知ってしまった」
「何があったんですか?」
「弟と父が二人で仲睦まじく話していた。昼間の弟はどこか父に対してよそよそしく遠慮をしていたが、夜間に父の部屋で語らう二人にはそんな様子は微塵も感じられなかった。俺よりも父と親子のようで、俺はそんな弟に……嫉妬してしまった……。それで弟に辛く当たってしまった」
「仲直りはされたんですか?」
「していない。喧嘩別れのように弟の元を出て、それから一度も会っていない……」
青年の言葉が木々の囀りの中に消える。それが後悔しているようにも聞こえて、つい海音は深入りしてしまう。
「きっと弟さんも仲直りしたいと思っています。早く会えるといいですね」
「……いいや。弟はもう俺のことなどすっかり忘れているだろう。風の噂で聞いたところ、弟はつい先日伴侶を娶って婚姻を結ぶつもりだと聞く。弟にとって俺はもういない存在なのだ」
「そんなことはありません。誰よりも深い絆で結ばれた家族なんですよね? 今もきっとお兄さんの帰還を待ち望んでいます」
「家族か……。そうだな、家族だな。俺と弟は……」
嘯くような青年に海音は怒りと悲しみがない交ぜになった気持ちになる。異なる世界から来た海音や蛍流は、家族に一目会いたいと冀っても、二度会うことは叶わない。対して、青年はこの世界の住人で家族に会おうと思えば会いに行ける。それがどれだけ素晴らしく、羨ましいことか、この青年は分かっていない。
言い返そうと口を開きかけた海音だったが、不意に青年が口の前で人差し指を立てる。そうして先程まで蛍流と語らっていた縁側を指し示したのだった。
「そろそろ、アイツが戻ってくる。嫉妬される前に戻った方がいい」
「嫉妬なんてするはずがありません。蛍流さんはそんな器の小さい人では……」
「男というのは一途になると恐ろしい生き物だ。今のアレは君に盲愛している。その盲愛は偏愛となり、やがて愛憎に変貌するかもしれない。そうなる前にアレの想いに答えてやるといい」
「どうしてそんなこと……」
「痴れたこと。独占欲が強いからだ。子供の頃からずっとな」
まるで子供の頃の蛍流を知っているかのような口ぶりに海音が問う前に、青年が言った通り、蛍流が戻ってきてしまう。風に乗って「海音?」と探す声が聞こえてくるので、このままでは海音を探して外に出て来てしまいかねない。
仮にこの状況を見られたとしても、精神面が成熟した蛍流がそう嫉妬に駆られるとは思えないが、蛍流の想いを振ったばかりでこの状況を見られるのはさすがに良くない気がする。ここは素直に戻った方がいいだろう。
青年に一礼をして背を向きかけた海音だったが、青年がぽつりと漏らした低い声を耳にして足を止めてしまう。
「昌真」
「えっ?」
何のことか分からず、青年の言葉を頭の中で反芻しながら瞬きを繰り返していると、再度青年は宙空に溶けてしまいそうな小声で言葉を繰り返す。
「晶真。それが俺の名だ」
「昌真さん……? それが貴方の名前ですか?」
海音の問いに青年――昌真は頷く。
「……父が生前に付けてくれた名だ」
どこか悲しみの色を漂わせた黒い瞳に後ろ髪を引かれるが、今もなお海音の名を呼び続ける蛍流を放っておけず、すぐに晶真から目を逸らす。
そんな海音の姿を晶真が見つめていたことを、海音はついぞ気付かなかった。
新月の夜を彷彿とさせるような青年は海音に気付くと、「ああ」と低い声で話し出す。
「また君か。青龍の……伴侶」
「私は……私は海音です。伴侶なんて名前ではありません」
ここで前回と同じように言い淀んでも、また伴侶かどうか問答の繰り返しになるだけ。それなら話の矛先を変えてしまえばいい。すると、青年は遠くを見つめながら「そうか」と返す。その物憂げな顔が蛍流と重なる。
「あの屋敷に暮らしているのだな。今代の青龍と共に」
「そうです。貴方はどなたでしょうか。蛍流さんのお客さん? それとも青龍が見せる幻?」
「俺は……」
そう言い掛けた青年だったが、不意に海音の口元に指を伸ばす。咄嗟に身を引いたものの、青年が摘まんでいたのは薄茶色の塊だった。それを自身の口に運んで咀嚼しながら、青年が静かに言葉を紡ぐ。
「これは砂糖か?」
「多分、カルメ焼きだと思います。今さっきまで食べていたので」
「カルメ焼き。懐かしい響きだ」
どこか遥か懐かしむような青年の優しい声色に、海音は「あの!」と声を掛ける。
「ここで待っていてください。すぐに戻ります!」
海音はつんのめりつつ屋敷の縁側に戻ると、カルメ焼きが残る皿を掴んで青年の元に取って返す。そうして今にも闇夜に紛れてしまいそうな青年に差し出したのだった。
「私が作ったカルメ焼きの余りです。良ければ食べてください」
「君が?」
「焦がしてしまったところもありますが、でも概ね食べられると思います」
青年は海音とカルメ焼きを交互に見比べた後、やがて「いただこう」とカルメ焼きのひとかけらを摘まむ。細く長い指先はやはり蛍流と似ている。この青年も武術を嗜んでいるのだろうか。ゆっくりとカルメ焼きを食していた青年だったが、やがてほうっと息を吐いたようであった。
「美味いな。味や見た目もそうだが、多少の焦がし具合も懐かしい」
「カルメ焼きがお好きなんですか?」
「……弟が好きだった。俺も好きだったが、弟の方がより好きだったと思う」
「弟さんがいるんですか?」
「歳の近い弟だった。もう何年も会っていない」
「そうですか……」
抑揚の無い寡黙な青年の話し方からは、それ以上の情報は得られそうになかった。深く踏み込んでいいのか躊躇していると、青年は再び口を開く。
「……弟と父は不仲だった。俺が二人の仲を取り持たねばならないと、幼い頃は張り切っていた。だがある日の夜半、姿が見えない弟を探している時に知ってしまった」
「何があったんですか?」
「弟と父が二人で仲睦まじく話していた。昼間の弟はどこか父に対してよそよそしく遠慮をしていたが、夜間に父の部屋で語らう二人にはそんな様子は微塵も感じられなかった。俺よりも父と親子のようで、俺はそんな弟に……嫉妬してしまった……。それで弟に辛く当たってしまった」
「仲直りはされたんですか?」
「していない。喧嘩別れのように弟の元を出て、それから一度も会っていない……」
青年の言葉が木々の囀りの中に消える。それが後悔しているようにも聞こえて、つい海音は深入りしてしまう。
「きっと弟さんも仲直りしたいと思っています。早く会えるといいですね」
「……いいや。弟はもう俺のことなどすっかり忘れているだろう。風の噂で聞いたところ、弟はつい先日伴侶を娶って婚姻を結ぶつもりだと聞く。弟にとって俺はもういない存在なのだ」
「そんなことはありません。誰よりも深い絆で結ばれた家族なんですよね? 今もきっとお兄さんの帰還を待ち望んでいます」
「家族か……。そうだな、家族だな。俺と弟は……」
嘯くような青年に海音は怒りと悲しみがない交ぜになった気持ちになる。異なる世界から来た海音や蛍流は、家族に一目会いたいと冀っても、二度会うことは叶わない。対して、青年はこの世界の住人で家族に会おうと思えば会いに行ける。それがどれだけ素晴らしく、羨ましいことか、この青年は分かっていない。
言い返そうと口を開きかけた海音だったが、不意に青年が口の前で人差し指を立てる。そうして先程まで蛍流と語らっていた縁側を指し示したのだった。
「そろそろ、アイツが戻ってくる。嫉妬される前に戻った方がいい」
「嫉妬なんてするはずがありません。蛍流さんはそんな器の小さい人では……」
「男というのは一途になると恐ろしい生き物だ。今のアレは君に盲愛している。その盲愛は偏愛となり、やがて愛憎に変貌するかもしれない。そうなる前にアレの想いに答えてやるといい」
「どうしてそんなこと……」
「痴れたこと。独占欲が強いからだ。子供の頃からずっとな」
まるで子供の頃の蛍流を知っているかのような口ぶりに海音が問う前に、青年が言った通り、蛍流が戻ってきてしまう。風に乗って「海音?」と探す声が聞こえてくるので、このままでは海音を探して外に出て来てしまいかねない。
仮にこの状況を見られたとしても、精神面が成熟した蛍流がそう嫉妬に駆られるとは思えないが、蛍流の想いを振ったばかりでこの状況を見られるのはさすがに良くない気がする。ここは素直に戻った方がいいだろう。
青年に一礼をして背を向きかけた海音だったが、青年がぽつりと漏らした低い声を耳にして足を止めてしまう。
「昌真」
「えっ?」
何のことか分からず、青年の言葉を頭の中で反芻しながら瞬きを繰り返していると、再度青年は宙空に溶けてしまいそうな小声で言葉を繰り返す。
「晶真。それが俺の名だ」
「昌真さん……? それが貴方の名前ですか?」
海音の問いに青年――昌真は頷く。
「……父が生前に付けてくれた名だ」
どこか悲しみの色を漂わせた黒い瞳に後ろ髪を引かれるが、今もなお海音の名を呼び続ける蛍流を放っておけず、すぐに晶真から目を逸らす。
そんな海音の姿を晶真が見つめていたことを、海音はついぞ気付かなかった。