【第一部・完結】七龍国物語〜冷涼な青龍さまも嫁御寮には甘く情熱的〜

 海音の足音が遠ざかると、ようやく蛍流は肩の力を抜く。生まれてこの方、女性と関係を持ったことが無いからか、どうしても海音に対する扱い方が分からない。
 初めて会った時から真綿のように軽やかで、雪のようにいつ消えてしまってもおかしくない儚い存在。掴んでいないと本当にいなくなってしまいそうで、つい目が離せなくなる。
 昨日も涙痕が気になって様子を見にいったところ、どこにも姿が見えなくて正直かなり焦った。シロが教えてくれたから良かったものの、下山されていたら追いかけられなかった。
 青龍の半身である自分はこの山から出られない。自分がここから消えてしまったら、この土地を中心として国中に張り巡らされている水の龍脈が乱れ、各地で大雨や洪水といった水害が発生してしまう。蛍流個人の感情で青龍としての務めを蔑ろにして、この世界に生きる全ての人たちの生活を脅かして良いはずがない。多ではなく個を優先したら、七龍の意志に逆らった罪で自分を選んだ青龍――清水に罰せられてしまう。
 青龍に選ばれた蛍流と違って、海音は世界を自由に飛翔する翼を持っている。ここから羽ばたきたいという海音を止める権利は無いのだが、心のどこかではここに残って欲しいとさえ思ってしまう。海音にどこか懐かしさを感じているからだろうか。
 不思議と海音とは初めて会った気がしなかった。特に海音が泣いている姿には心当たりさえあった。まるで過去にも一度見ているような、胸がつかえるような感覚。すっかり忘れてしまった記憶の彼方で会っているのか、それとも()()()()()()()()()()()()海音を過去の自分と重ねているだけなのか。
 いずれにしてもこのまま放っておくことは出来ないが、それでも伴侶じゃない海音をずっとここに置いておくわけにはいかない。そんなことをしたら、海音は青龍の神気に当てられて正気を失い、やがて耐え切れなくなった身体が砕けてしまう。
 青龍の形代である人間と共にいられるのは、青龍に選ばれた伴侶と二人の血を引く子供だけ。それ以外の者は、青龍の神気に当てられて精神が狂ってしまう。
 神気は七龍たちに近ければ近い程、力の波動が強い。そのため、七龍の世話役として女中や使用人を雇ったとしても、短期間で入れ替えをしなければならない。七龍が選んだ伴侶以外の者と関係を持った場合でも、七龍の神気に絶えられなくなって相手の肉体が霧散するとさえ言われている。
 使用人として海音を屋敷に留めておくにしても、ここに居られる期間はそう長くない。伴侶じゃない以上、本当なら海音は今すぐにでも解放しなければならないが、そう思っていてもどうしても伝えられなかった。
 今の海音に必要なものは、安心できる居場所とこの世界での自分の存在価値。そのどちらも無いこの山の外に放り出すことなど出来るはずがない。
 そんなことをしたら海音はますます心身ともに追い詰められてしまう。今でさえ、無理して笑っている時が多いというのに……。
 近くにあった瑠璃色の玉簪を手に取りながら、つらつらと海音のことを考えていると、覗き込んできた雲嵐に笑われてしまう。

「そんなに哀愁を漂わせなくたっていいんじゃない。嫁御ちゃんとの今生の別れってわけじゃ無いんだから」
「雲嵐殿、彼女は伴侶では……」
「分かってるよ。身代わりでしょ、和華って子の」

 今回海音の荷物を依頼した際に、雲嵐には全ての事情を話していた。そもそも青龍の伴侶が和華という名の娘であることを教えてくれたのも、この雲嵐だった。
 雲嵐という男は行商人であると同時に、自分たちが守護する場所から動けない蛍流たち七龍の目や耳の代わりも果たしている。
 行商人として市政に溶け込み、七龍たちの力が隅々まで及んでいるか、自分たちが守護する土地に異変が無いか見聞きしてもらう。そして得た情報を各七龍たちに伝え、七龍はその情報を元に各自が司る七龍の神力を調整、連携を図ることになる。
 政府から派遣されてくる役人たちとは違って個人の感情が入らない分、雲嵐から得られる情報はいずれも客観的で正確。その代わり情報料は高いが、それは政府が賄ってくれるので、蛍流たち七龍には関係ない。
 そんな事情を知る雲嵐だからこそ、今回の調達ついでに依頼したというのもある。
 ここから身動きが取れない蛍流の代わりに、とある()()を仕入れて売って欲しいと――。
 
「それにしても、海音ちゃんは良い子だよね。純朴そうで、優しくて。青龍さまの好みに合いそうな子で。好きでしょう? あんな感じの純粋無垢な子」
「なっ……! おれは彼女をそんな目で見たことは……一度も……無い」

 尻すぼみになった蛍流を雲嵐はほくそ笑む。蛍流がここに住み始めた時にはすでに行商人として出入りしていたこともあり、どうしてもからかわれてしまう。自分は歳を重ねて背も伸びて、声変わりもしたというのに、この雲嵐という行商人は昔から全く変わらない。どこか浮世離れして、掴みどころがない。
 役目を終えた師匠が亡くなって、一人きりになった蛍流を心配してくれるのはありがたいが、小突き回すのだけはなんとかしてくれないものかと、蛍流は常々思っている。
 
「またまた、そんなことを言って~。でもその上であえて聞くよ。青龍さま……」

 急に雲嵐が真顔になったかと思うと、細く開いた翡翠色の目で蛍流の心を見透かすように問い掛けてくる。

「本当にあの海音という娘は、伴侶じゃないんだね?」
「……どういう意味ですか?」

 その場に玉簪を置いた蛍流は、荷物を広げた奥座敷の床の中でわずかに開いている場所に移動すると雲嵐と対峙する形で正座をする。蛍流の後に続いて正座した雲嵐はさも当然のように返す。

「ここに荷物を広げている時に、昨日あったことを話してくれたよね。ボクの記憶に間違いがなければ七龍さまたちの住処に続く道って、それぞれ七龍の神気で隠されているはずだから、只人には見つけられないはずだけど?」

 昨日海音が迷い込んでしまった滝壺は、本来なら青龍である清水に認められた者しか立ち入れられない場所である。
 あの滝壺は清水の住処であると同時に、この国に流れる水の龍脈の根源。謂わば、青龍の力の水源とも言える聖域である。
 青龍が司る水の力はあの滝壺を通じて国中に注いでおり、青の地の農作物に実りをもたらす豊かな水も、あの滝壺から流れる水が水源地から川に流れ込むことで成り立っていた。
 悪意ある者に立ち入られて滝壺と水の龍脈を荒らされるわけにはいかないので、歴代の青龍たちは神力によって道の存在を隠し、自らの神力で生み出した守護獣――蛍流の場合はシロたち番虎によって、あの滝壺を守ってきた。滝壺という性質状、水音も漏れないように細心の注意を払って。
 本来であれば、海音のような七龍の形代や伴侶でもない只人は、あの道の存在にさえ気付けず、鬱蒼とした木々が集まるただの森に見えるはずだった。
 それなのに昨日の海音は滝壺に通じる道を見つけて、滝壺に迷い込んでしまった。
 その直前、昨日の早朝に蛍流が滝壺の様子を見に行った時には、道に張り巡らせた神力を含めて何も問題が無かったというのに。
 
「それについてはおれも不思議に思っていたところです。本来であれば、伴侶ではない海音は清水の住処である滝壺に立ち入ることはおろか、道を見つけることさえ出来ません。それなのに彼女は立ち入ってしまった。これはおれが持つ青龍の神気に何らかの問題があると考えられます」
「さっきも言った通り、青の地に異常は無かったよ。もし青龍さまの力に問題があったら、真っ先に被害を受けるのは青龍さまのお膝元である青の地なんだけど。その青の地はせいぜい季節外れの雨季が多いだけで、水害や干ばつは起こっていなかったよ」

 七龍国には全部で六つの土地があり、国の中心部に位置する白の地を除いて、それぞれの土地を五体の龍と、五龍に選ばれた五人の人間が守っている。各地の呼び名はその地で祀っている七龍に因んだ名前となっており、その七龍の加護と恩恵を最も強く受けるとされていた。
 青龍の清水と清水に選ばれた蛍流が住まう土地を青の地と呼んで、青龍が司る水の豊かな土地となっているように。赤龍と赤龍に選ばれた人間が住まう土地を赤の地と称して、赤龍が司る炎や火の勢いが盛んな火山帯が多い土地、緑龍と緑龍に選ばれた人間が住まう土地を緑の地として、緑龍が司る自然の豊富な木々に囲まれた土地となっているのだった。
 もし蛍流が司る青龍の神気に異常が起こった場合、最初に被害を受けるのは蛍流の神気が直轄する青の地であった。水を司る蛍流の力に何らかの異変があった場合、青の地の水脈や川に変化が訪れる。最たるものは、大雨や洪水などの水害、または川が枯れたことによる干ばつ、水質の変化であった。

「季節外れの雨季が多いというのも問題です。連日、政府の役人たちが嘆願に来ています。菜種梅雨の時期を過ぎても続く降雨をどうにかして欲しいと。これでは播種どころか、春に収穫予定の農作物にも影響が出てしまうそうです。青の地は農作物の売買で得た売上高を税として国に納めている民が多いため、収穫が著しく悪いと税を徴収出来ないと」
「そんなことを言われたって、青龍さまは跡を継いだばかりのまだまだ新米青龍でしょう。ここで無理して気負ったって、事態が好転するとは限らないよ。お役人さんたちには青龍さまの力を借りる以外の方法で、解決の糸口を見つけてもらわないと」
 
 雲嵐は否定してくれるが、当の蛍流からしたらかなり歯痒い話である。
 二年前に師匠から代替わりしたばかりの蛍流だが、未だに青龍の力が安定せず、自分が持つ青龍の神力を制御出来ずにいた。その結果、発生している問題が、季節外れの雨季であった。
 本来であれば、蛍流は人と青龍の仲介者として、青の地を治める政府の役人たちの要請に応じて、青龍の力を調整しなければならない。雨を降らして川の水量を増やし、反対に水量が多い時は雨が降らないように力を抑えなければならないが、蛍流が青龍となってからはそれが上手くいっていなかった。
 青の地は豊かな水源を生かして農業が盛んな地域でもあり、農業で生計を立てている民も多いことから、農作物に効果をもたらすような雨季の調整を頻繁に求められる。今は作付けの時期なので雨が多いと困るらしいが、如何せん未熟な蛍流には雨季の調整が出来ない。
 最近では自分の感情が著しく昂っただけでも雨が降り出すため、感情を抑制しなくてはならなくなった。反対に気持ちが落胆しても、やはり降雨になってしまう。師匠が青龍だった時は、こんなことは一度も無かったというのに。
 何が蛍流に欠けているのか、それを埋めてくれる存在として考えたのが、青龍である蛍流を支えてくれるであろう伴侶の存在であった。

「……伴侶を迎えれば、おれの力も安定すると思っていました。しかし実際に灰簾家から寄越されたのは海音でした。その海音が伴侶では無いことは確かです。彼女の背中に伴侶の証である龍の痣がありませんでした。おれの力も変わりませんし、当然彼女自身からも青龍の神気を感じられません」
「痣と神気について確認したんだ」
「彼女が来た日に。変だと思ったのです。初めて会った時から、海音からは青龍の神気を感知出来ませんでした」

 七龍の伴侶に選ばれた者は、自らを伴侶に選んだ七龍の加護を受けて、わずかながら七龍の神気を纏うようになる。その証が七龍の形をした痣と言われてた。
 七龍の形代は伴侶が纏う神気から、自分の対となる伴侶の存在を感じ取れるようになる。そして伴侶が身に纏う七龍の神気を手掛かりに、七龍の形代たちは自分の伴侶を探し出す。近くにいるのか遠くにいるのか、はたまたこの世界に存在しているのか、それともしていないのか――。
 そうして見つけ出した伴侶に、七龍の形代は政府を通じて婚姻の申し出をする。基本的に七龍の伴侶に選ばれるということは、国の繁栄に貢献する名誉ある役割を任されることを意味するため、余程の事情がある場合を除いて、伴侶は七龍と婚姻を結ぶ。政府から出る多額の支度金を使って嫁入りの用意を整えると、七龍が住まう場所へと輿入れすることになるのだった。
 昔とは違って伴侶の輿入れは強制では無いため、伴侶が見つかったからといって、必ずしも伴侶に迎える必要は無い。実際に蛍流以外の七龍の中には、伴侶の存在を肌で感じていながらも、伴侶の嫁入りを申し出ていない者が少なからず存在する。
 伴侶に選ばれても、七龍の形代との婚姻を七龍が正式に認めない限り、伴侶は人として生涯を終える。伴侶が亡くなると、また七龍が形代に相応しい別の伴侶を選ぶ。そうして形代が伴侶として迎え入れるまで、それは永続すると言われていた。


「神気を感じ取れないことを疑問に思って、鎌をかけて背中を確認したところ、案の定、伴侶の証である龍の痣がありませんでした。それで彼女が偽りの伴侶だと気付いたのです」

 海音が伴侶である和華の身代わりで来たと本人から聞くまで、蛍流は海音が和華をかどわかすか、亡き者にして入れ替わったとばかり思っていた。
 しかし、実際は和華の代わりとして事情も良く知らないままここにやって来た、ただの身代わり。蛍流たち青龍の婚姻に巻き込まれた無関係な異世界人。
 この世界に異世界人が迷い込んでくることは珍しくない。ただこの世界の人たちは、異世界から来た人たちのことをこう考えている。
 ――国に凶兆を及ぼす、不吉な存在である、と。
 異世界人が現れた土地には近い内に不幸が起こる。災厄か災害か、それとも土地を守護する七龍の崩御か。いずれにしても、良い印象では受け取られない。

「だから、青龍さまは昨日の朝早くからボクに調査を依頼してきたんだね。いつもの青の地の視察に加えて、身代わりとして来てしまった海音ちゃんと、本来伴侶としてやって来るはずだった和華ちゃんについて」
「結果はどうでしたか?」
「まず海音ちゃんについてだけど、概ね本人が言っていたことと間違いは無いと思うよ。灰簾家に出入りする使用人や商人にそれとなく聞いたところ、海音ちゃんは六日前に突然和華ちゃんがどこからか連れて来たらしいし。その日から三日間は灰簾家が雇った家庭教師たちに、みっちりと行儀や教養を身に付けさせられていたって。睡眠時間を除いてほぼ一日中」
「六日前……まさに灰簾家から輿入れの日程を遅らせたいと連絡があった日だな」

 その日も刻限を過ぎてもやって来ない和華に気を揉んでいたところ、政府から早馬が届いた。
 内容は、輿入れを予定していた和華が乗っていた馬車の車輪が脱輪して当日中に迎えなくなったこと。加えて、脱輪した衝撃で和華が気分を悪くしたので、体調が整うまで輿入れを遅らせたいという嘆願が和華の父親である灰簾子爵からあったというものだった。
 蛍流としても特に嫁入りを急ぐ理由は無かったので、三日だけならと日程の変更を快諾した。その間に、海音は和華に成り代われるように仕込まれたのだろう。少しでも華族の令嬢に見えるように、寝る間も惜しんでありとあらゆる知識を叩き込まれたに違いない。

「灰簾家には伴侶として娘を貰う代わりに政府から多額の支度金が出ているはずです。その存在を彼女は知りませんでした。知っていれば、嫁入り道具をくすねるような怪しげな地元住民を道中に付けるはずがありませんから。おれが迎えに行かなければ、今頃この山中で凍死していました」
「その嫁入り道具を盗んだ地元民というのも、どうもきな臭いんだよね~」
「どういうことですか?」
「話を聞いた時は、灰簾家が費用を出し惜しみして安い金額で雇った結果、足元を見られた海音ちゃんが荷物を持ち逃げされたとばかり思っていたんだけど。それでも念には念を入れて、海音ちゃんを置き去りにして荷物を盗んだっていう人たちの足取りを調べたら、面白いところに行きついてね。どこだと思う?」
「質屋でしょうか。盗んだ荷物を金に換えようとしたとか」

 至極真面目な答えを返したつもりが、雲嵐からは「残念」と一笑を付されてしまう。

「さすがに良い子な蛍流ちゃんには難しかったかな。答えは海音ちゃんを拾った灰簾家でした」
「灰簾家!? どうして灰簾家が彼女の荷物を盗んで、見捨てるような真似をするのですか!?」
「そんなの簡単でしょう。灰簾家は元から海音ちゃんをこの山に捨てる気だった。とりあえず誰でもいいから年頃の娘を山に送りだしたかったんでしょう。その娘が無事に到着するか、無言の到着となるかなんて関係ない。大切なのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という既成事実なんだから」

 雲嵐は面白おかしく「これだと盗まれたっていう嫁入り道具の中身も怪しいよね」と笑い転げているが、蛍流は自分の腹の底からふつふつと怒りがこみ上げてくるのを感じていた。
 灰簾家はこの世界に来たばかりで何も知らない海音の心細い気持ちに付け入り、温厚な性格を利用した。きっと海音は蛍流の噂を聞いて輿入れを嫌がる和華に同情して、事情を聞かずに身代わりを申し出たのだろう。
 更に蛍流が和華の顔を知らなかったように、和華も蛍流の顔を知らない。お互いに相手の顔を知らない分、入れ替わっても問題ないとでも説得して、ますます和華の身代わりを唆したに違いない。
 そしてどこかで海音と和華の入れ替わりに蛍流が気付いてしまったとしても、伴侶を騙った罪で海音が罰を受けて、灰簾家は「海音が伴侶になりたいと自ら申し出てきたから和華の代わりに行ってもらった」と言って白を切れる。海音を切り捨てて、再度和華の婚姻を申し出たところで、また同じ方法で「和華」を名乗る別の女性を送ってくる。水の龍脈を管理する蛍流がこの山を降りて、直接灰簾家に伴侶を迎えに行けないことを利用した小狡い手だ。この地の守護を任されている蛍流を侮辱しているのも同然と言える。
 海音を利用した灰簾家の行いに激高したからか、外では蒼穹の空を切り裂くような春雷が轟く。間もなく蛍流の感情の昂りに合わせて、雨が降り始めるに違いない。

「灰簾家には伝えてくれたのでしょう。()()()()伴侶を送って欲しいと」
「一応、伝えたよ。灰簾子爵は、『青龍さまからは、青龍の伴侶に選ばれた()を嫁に迎えたいと言われたので、指示通りに()()()()()を送った』の一点張りだったけど。でもこれも想定通りの返答かな。最初に伴侶を迎えたいって言った時に、和華ちゃんを名指ししなかったもんね」
「こちらからは『青龍の伴侶を()()する灰簾子爵家の娘を伴侶として迎えたい』としか伝えませんでした。あの時は灰簾子爵に子供は一人しかいないと聞いていたので。まさかそれが裏目に出てしまうとは思いも寄りませんでした」

 今年に入って、青の地ではとある噂が囁かれるようになったと雲嵐から報告を受けた。それが『灰簾子爵家の娘が青龍の伴侶に選ばれたと自ら触れ回っている』いうものであった。
 当の青龍である蛍流自身は伴侶の存在を感知していなかったので、この噂は寝耳に水の知らせだった。清水からもそんな話は聞かされていない。
 そこで本当に和華が蛍流の伴侶なのか、その噂の真偽を確かめるために、蛍流は和華の嫁入りを願い出たのであった。

「いいんじゃない。つまり灰簾家が海音ちゃんを伴侶として寄越してきた時点で、海音ちゃんも自分の娘だって認めたようなものでしょう。今後和華ちゃんを伴侶に迎えて、海音ちゃんにここを出て行ってもらうことになっても、少なくとも海音ちゃんは灰簾家の後ろ盾を得ていることになる。どこか評判の良い華族の屋敷で女中として働くことも、灰簾家の名前で華族に嫁ぐことだって出来るんだし。異なる世界から来た人たちの中では、随分と待遇が良い方だと思うよ」
「そうですね……。それなら灰簾家には海音と灰簾家との関係を証明する書面を提出するように伝えて下さい。本当に海音を灰簾家の娘として言い張るのなら、彼女の戸籍くらいは用意してもらいましょう。公式な文書として記録を残しておけば、少なくとも今後も灰簾家は海音との関係を証明せざるを得なくなりますから」

 灰簾家の海音に対する仕打ちは到底許されるものではないが、唯一この世界に来たばかりの海音を保護して、形ばかりは丁重に扱ってくれたところだけは感謝しても良いとさえ思っている。そうじゃなければ、今頃海音はもっと酷い目に遭っていた。
 不幸を招く存在としてこの世界の人たちに忌避されている異世界人が辿る末路は、いずれにしても悲しいものばかり。
 元の世界に帰れず、親しい人たちと会えず、一人寂しく最期を迎える。それも布団の中で迎えられたらまだまともな方。
 ほとんどの異世界人は炭鉱や工場などの環境が悪いところで強制労働に従事させられるか、人買いによって遊郭に売られるか。女性の海音は圧倒的に後者の可能性が高い。

「今回の伴侶の件、清水さまは?」
「無言を貫いています。本当に伴侶として和華を選んだのかさえ、答えてくれません」
「清水さまはだんまりか。ボクの方も本当に和華ちゃんが伴侶かまでは断定出来なかったんだよね」
「和華について、新しく判明したことはありますか? 龍の痣を持っているのかどうかだけでも」

 和華に伴侶の申し出をするより前に、一度雲嵐に頼んで灰簾家について調べてもらったが、華族が集まる社交界での灰簾家の評判は悪く、あまり良い噂を聞かなかった。政治家である灰簾子爵は横柄な態度で嫌われ者な上に、政治資金の横領や裏金の噂まである黒い人物。灰簾夫人も女中に手を上げることで有名、娘の和華も身分が低い女学生たちに対して悪質な虐めを繰り返している。
 その噂を聞いた時は、そのような黒い噂を持つ灰簾家の和華を伴侶に迎えることを躊躇ったが、この青の地の安寧のために背に腹は代えられぬと申し出をしたのだった。
 
「和華ちゃんの方がかなり厳しくてね。誰からも情報を得られなかったよ。和華ちゃんの世話役を任されているのは、昔から灰簾家に仕えてきた忠誠心の塊みたいな女中さんだけ。せめて和華ちゃんの背中に何かしらの痣があるかだけでも聞き出したかったんだけど、そういった世話役ほど口を割らなくてさ」

 七龍に選ばれた伴侶が龍の痣を持っていることは、七龍と一部の人しか知らない秘匿事項でもある。
 伴侶を選定した七龍と七龍の形代以外の人たちが、七龍に選ばれた伴侶なのか見極める手掛かりは龍の形をした痣しか無い。そのため、かつてはこの話が広く知られていたが、ある時、自分の娘を七龍の伴侶に仕立て上げて多額の支度金を政府から巻き上げようと、娘の背中に龍の痣に似せた彫り物を施させる者が相次いだ。
 そこで事態の悪化を鑑みた政府が伴侶に関する一切の情報に対して箝口令を敷いて、あたかも痣に関係なく七龍が望んだ者なら誰でも伴侶になれるように見せかけることにした。
 結果、龍の形をした痣の話は時代の移り変わりと共に人々から忘れ去られ、今では知る人ぞ知る言い伝えといった形に落ち着いたのだった。
「痣もそうですが、和華が伴侶なら当然青龍であるおれは和華が持つ青龍の神気を感じ取れるようになります。ですが、未だに自分と清水以外の青龍の神気を感じ取れません。これはおれがどうかしているのか。それとも……」
「和華ちゃんが青龍さまの伴侶を騙っているかだね。どちらにしても、和華ちゃんについてはもう少し情報を当たってみることにするよ。そうそう灰簾家には、今度こそ和華ちゃんを伴侶として青龍さまの元に越させるように、引き続き交渉を続けるから」

 ほとんど反射のように「ありがとうございます……」と答えたものの、海音がここに来た直後と違って、今では和華よりも海音のことが気になってばかりいる。
 和華に輿入れを申し出てからしばらくは、自分と番うことになる伴侶に対する期待で胸を膨らませていた。
 黒い噂を聞いてしまったものの、和華がどんな娘で、何が好きで、ここでこれからどう過ごしたいか。そして一番は夫婦として上手くやっていけるのかどうか。聞きたいことは山ほどあった。
 これから久遠に近い年月を共に過ごす相手に不自由な思いはさせず、たとえどのような女性だったとしても、伴侶にだけには永遠(とわ)なる愛を誓おうと心に決めていた。
 だからこそあの輿入れの日に山道で泣いている海音を見つけて声を掛けた時は、理想通りの伴侶に浮き立った。
 白い頬を流れる涙も、艶のある黒髪も、抱擁力のある柔らかな声さえも。長らく夢を見ていた伴侶の理想像に、本当は肩を抱き寄せるだけではなく、いっそのこと抱き締めてしまいたいとさえ思ってしまった。事前に雲嵐から聞いた黒い噂は全て嘘だったのではないかと疑いもした。
 それでも確かめなければならないと背中を見せてもらえば、龍の形をした痣はどこにも存在せず、ただ傷一つ無い白い柔肌が広がっていただけ。本人を問い詰めれば、あっさりと和華の身代わりだと白状されてしまう。
 あの時の落胆と驚愕、そして動揺があまりにも大きく、手元が滑って喉に傷まで付けてしまった。そんな蛍流に怒り、恐怖するどころか、血を流しながらもただ懇願する姿にますます罪悪感が募った。
 どうにか悔やむ気持ちを落ち着けて、謝罪の言葉と応急処置の用意をして再び部屋を尋ねれば、本人は目尻に涙を残して窓辺で眠っている始末。首と足首に手当を施して、残寒で冷えた身体を布団に寝かせれば、思い出すのは初めて会った山道で掛けた自分の言葉。
 
『初めて来た不慣れな土地で、一人取り残されて心細かっただろう。ここからはもう大丈夫だ。おれが屋敷まで連れて行くからな』
 
 この言葉で流した海音の涙は、嘘偽りのない心からの涙だと気付かされる。
 この世界に来て、元の世界に帰る方法もなく、一人取り残されてしまった少女の涕泣。誰かに掛けて欲しくても、家族や友人もいないこの世界では誰からも掛けられなかったであろう言葉。それを自分は言ってしまい、そして気付かされた。
 自分もかつて同じ言葉を師匠に掛けられて安心したように、海音も自分の言葉に安心したのだと――。
 師匠の言葉で自分がこの世界に居ることが間違いではないと思えたように、海音もこの言葉でようやくここに居る意味を見つけたのかもしれない。途方に暮れていた海音にとって、この伴侶の身代わりになることが唯一の居場所を得る方法だったのだと思い至ったのだった。
 そんな海音を伴侶じゃないという理由だけで、ここから追い出すことは到底出来なかった。もし和華と入れ違いに山から出てもらうにしても、次の居場所の用意をしてやらなければならない。吹けば飛んでしまうような今の状態の海音を外に放り出したら、行き倒れか人買いに攫われて遊郭に売られてしまうのが目に見えている。どちらにしても、そんな海音の話を聞くのは耐えられそうにない。

(いや、それだけじゃない。海音があまりにも似ているのだ。あの日出会った()()()()()()()に……)

 掌に視線を落とせば、十年前に自分の運命を変えたとも言うべき少女と繋いだ手の温もりを思い出す。もう顔を思い出せないが、ただ縋るように蛍流の手を握りしめていた名も知らぬ少女。進む道は分かれてしまったが、あの時に交わした()()の通りに、今は笑っているだろうか。
 また会いたいと思っても、もう叶わない。生きる世界が隔たれてしまった。青龍に選ばれたという、それだけで……。

(おれのことや約束を忘れてしまっても良い。ただもう咽び泣くような悲しい目に合わなければそれで良いと……そう思っていたのだがな)
 
 やはり心のどこかでまた会いたいと思ってしまう。自分のことを覚えていてくれれば良いが、仮に会えたとしても蛍流があの時の少年だと気付かないだろう。あれから蛍流はすっかり様変わりしてしまった。見た目や声だけでは無い。あの日繋いだ掌でさえ、こんなにも大きく皮の厚い手に……。
 沈痛な気持ちになっていると、とうとうポツポツと雨が降り始めた。やはり自分は未熟者だ。青龍の務めも満足に果たせないどころか、女性一人笑顔にさせられずにいる。
 
「こうなると、噂が裏目に出てしまったことを後悔するしかありませんね」
「でもその噂を流して欲しいと頼んだのは、蛍流ちゃん、君でしょ」

 人嫌い、冷酷無慈悲、冷涼者。その噂を青の地の民に流して、誰も二藍山に来ないように仕向けたのは他ならぬ蛍流自身だ。師匠が青龍の役割を担っていた時とは違って、どうしても気軽にこの山に来て欲しくない事情が蛍流にはあった。
 そこで人を遠ざけるような噂を流すように、雲嵐と蛍流との連絡役を担う役人たちに願い出た。その結果、伴侶を自称する和華にも逃げられて、代わりに来たのが海音だった。
 この選択が正しかったのか分からない。頼りになる師匠がいない以上、この青の地と青龍に関する全ては蛍流自身が判断して決めなければならない。
 今は自分が青龍なのだから。

 ◆◆◆

「あれ、もう雨が降ってきた」

 自室で若草色の紬に着替えて、部屋で見つけた子供用玩具に付いた埃を縁側で払っていた海音は、急に降り出してきた糸雨を眺めながら声を漏らす。

「さっきまで快晴だったのに、急にどうしたんだろう。この世界ではこれが普通なのかな……?」

 蛍流たちが話していたように、この紬という着物はさっきまで着ていた振袖よりも断然着付けしやすくて動きやすい。昨日蛍流から借りた紬は袖や裾が余ったので、たすき掛けや帯で調整して着たが、この紬はさほど調整するところが無いので楽に着られた。
 しばらくは部屋で本を読んでいたが途中で飽きてしまい、何か他にやることがないか部屋を眺めていたところで、昨日見つけた玩具が入った行李を思い出した。
 まだ中身を全て見ていなかったので、この際埃を落としながら確認しようかと縁側で行李を開けていると、急に轟音と共に雷光が空を走り始める。しばらくして空が曇り出したかと思うと、ぱらぱらと雨が降り始めたのだった。

「そうだ! 洗濯物!」

 庭に洗濯物が干されていたことを思い出すと、小走りで玄関に向かう。すると、縁側を眺めるように一人の青年が佇んでいるのが視界の隅に映ったのだった。

(誰だろう……。雲嵐さんの連れの人かな?)

 どこか哀切を漂わせる黒曜石のような目、宵闇に紛れてしまいそうな短い黒髪。蛍流や海音と同年代らしき青年は降りしきる雨を物ともせずに庭から屋敷を眺めていたが、その姿が捨てられた子犬のように見えて、どこか目が離せなくなる。
 玄関までやって来た海音は傘立てにあった和傘を二本手に取ると、自分用の傘を開いて青年の元に向かう。草履で水を跳ねながら青年の元に近寄った海音は、静閑な青年にもう一本の傘を差し出したのだった。

「これを使って下さい。そのままでは濡れてしまいます」
「……」

 青年は不思議そうな顔で海音と傘を交互に見比べる。こうして近くで見ると、蛍流に負けず劣らずの美丈夫であった。均整の取れた身体と海音より頭一つ高い身長は、どこか蛍流と雰囲気が似ているが、濁りの無い細水のような蛍流とは違って、悲哀の色を湛えるこの青年からは底知れぬ深い闇が感じられる。
 全てを飲み込むような闇を背負った青年に、どこか背筋が凍るような気さえしたのだった。

「雲嵐さんのお連れの方でしょうか。良ければ、中でお待ちください。雨も降ってきたので、外も寒いと思います。風邪を引く前に屋敷の中に……」
「君は青龍の伴侶か?」

 ようやく発した青年の美声に目を瞬いてしまう。
 抑揚は無いものの、凛として耳に留まる心地良い音色に聞き惚れてしまいそうになるが、その問い掛けにどう答えていいか分からず迷いが生じる。

「私は伴侶では……」
「伴侶では無いのか?」
「えっと……」

 この青年も雲嵐と同じように自分を伴侶と思って接してくれているのだろうか。
 それならここではっきり否定してしまうと、今度は海音が蛍流の側にいる理由を説明しなければならなくなる。使用人と答えるしても、汚れ一つ付いていない新品の紬を着た今の海音は、到底使用人に見える格好をしているとは思えない。
 だからといって伴侶に選ばれた和華の身代わりに来たと素直に答えたのなら、余計に話がこじれてしまうことは想像に難くなく、とはいえ伴侶を騙るわけにもいかない。いずれにしても、ますます面倒な事態になってしまうのは間違いなかった。
 どうしたらいいのか逡巡していると、後ろから「海音?」と呼びかけられたのだった。

「そんなところで何をやっている?」

 その声に振り返れば、唐紅色の和傘を差した蛍流が干していた洗濯物を手に立っていた。
「雨が降ってきたので、洗濯物を取り込みに……。でも庭に人影が見えたので、その前に傘を届けようかと」
「人? 誰もいないが?」

 その言葉で弾かれたように後ろを向くが、蛍流の言う通りにそこには誰もいなかった。跡形もなくいなくなった青年に今度は海音が首を傾げる。

「おかしいですね。確かに今までここに居たのに……」
夢幻(ゆめまぼろし)でも見たんじゃないのか。ここは青龍が住まう地。そういった不可思議な出来事が起こってもおかしくない」

 それだけ言って、屋敷の中に戻る蛍流の後ろをついていく。蛍流は幻だと言うが、海音にはどうしてもそうは思えない。
 今もはっきりと耳に残っている。「青龍の伴侶か?」という泡沫(うたかた)のような青年の問い掛けが。
 青龍の伴侶じゃない自分は、果たして何者なのだろうか。
 元の場所に傘を二本とも戻して、屋敷の中に入った海音だったが、ふと足を止めた蛍流の声に顔を上げる。

「懐かしいな。お前が出したのか?」

 蛍流の視線の先に目をやれば、そこには縁側に出したままになっていた玩具と玩具が入っている行李があった。

「部屋で見つけて、せっかくなので埃を落としていました。蛍流さんのものですか?」
「子供の頃、師匠にもらったものだ。最近どこかで見かけて、後で蔵にでも仕舞おうと思っている内に忘れてしまったのだな。そうか、お前の部屋にあったのか……」

 懐かしむように目を眇めると、蛍流は縁側の行李の側まで行く。黒ずんだサイコロを摘んで、手の平で転がす。
 そんな蛍流を見守っていた海音だったが、埃と寒さで小さなくしゃみをしてしまう。

「雨に濡れたのか?」
「多分、雨が降って気温が下がっただけだと思います。それか玩具に付いた埃か……」

 鼻を啜っていると、不意に手拭いが頭に掛けられる。蛍流が洗濯物として取り込んだものを被せてくれたのだった。

「この青の地は水を司る青龍の影響で雨が多い。特に春先の雨は底冷えもする。少しでも濡れたのなら、身体を拭いた方が良い」
「ありがとうございます……」

 そのまま自分で顔を拭こうとするが、それより先に蛍流が海音の顔や髪を拭ってくれる。力を入れ過ぎて、肌に傷を付けないように気を遣ってくれているのか、どこか不器用な手つきがくすぐったい。
 すると、そこに雲嵐がやって来たかと思うと、「邪魔してごめんね~」と何とも無いように声を掛けてくる。

「悪いんだけど、雨脚が強くなって来たから今日はお暇するね。明日に備えて仕入れもしなきゃだし、下山出来ないとボクも困っちゃうからさ」
「それでしたら次に来るまでに、悉皆屋に依頼する分と返却する分を取り分けるようにします」
「日程が決まったら、また連絡するね。じゃあ後は若い二人で、仲良くごゆっくり~」
「誤解しないで下さい! おれと海音はそういう関係じゃ……!!」

 蛍流は反論するが、雲嵐は足早に去ってしまう。
 片手で顔を覆ってしまった蛍流に、海音は「あの……」とおずおずと話し掛ける。

「雲嵐さんとの話は終わったんですか?」
「ああ。話が終わったところに、丁度雨が降ってきたからな。洗濯物を取り込もうと外に出ただけだ。お前は着替えて、ずっと縁側に居たのか?」
「お借りした本を読んでいましたが、飽きてしまって……行李を持って、縁側に来たところでした。そこで雨が降ってきて、洗濯物を取り込みに行く途中で、庭に人影を見つけて外に出ました。雲嵐さんの連れの方だと思ったのですが……」
「雲嵐殿は基本的に一人で行動している。幻かそうでなければ賊か……。どのような人だった?」
「不思議な人でした。物静かな若い男性で、月の無い夜みたいな雰囲気を持っていました。髪や目は私と同じ黒でした」
「そのような者に心当たりは無いな。地元民か新しく政府から派遣されてきた役人か……。いずれにしても、シロたちが騒いでいないから盗人では無いのだろう」
「そうですか……」
「それはそうと、渡した薬は塗ったのか?」
「はいっ! 一応……」
「その……経過を観察したいから、見せてもらえるだろうか。特に首の怪我は鏡が無いと塗りづらいだろうから、代わりにおれが塗っても良いだろうか?」

 海音の部屋には鏡が設置されていないので、首の怪我については海音も指先の感覚と傷の痛みで当たりを付けながら薬を塗った。蛍流の言う通り、現在傷口がどうなっているかも分からない上に、塗りづらさを感じていたところだった。

「お願いしていいですか? 首の怪我まで診てもらっても……」
「ああ。薬を持って、おれの部屋まで来てもらえるだろうか?」

 そこで先程渡された薬壺を取りに一度戻ると、雲嵐が帰る前に荷物を運んでくれたのか、部屋の内外には山のような着物と日用品の類が並べられていた。その中には鏡台もあったので、明日からはこの鏡を使って薬を塗ればいいのだろうと考える。蛍流の部屋は奥座敷のすぐ隣の部屋だと聞いていたが、初めて訪れるので内心では緊張してしまう。声を掛ければ、すぐに入室を促す蛍流の声が聞こえてきたので、「失礼します……」と学校の職員室に立ち入る学生さながら、おずおずと入室したのだった。
「そこの円座に座ってくれ」

 蛍流の内面を現わすような整理整頓が行き届いた和室を見渡したい気持ちを堪えて、言われた通りに文机前の円座に着座する。行儀が悪いと思いつつも、正座するにはまだ足首が痛むので、膝を曲げて足を横に伸ばした横座であったが、特段蛍流は何も言わなかった。ただ端的に「まだ足が痛むのか?」と聞かれただけで。

「本当はおれがお前の部屋に行くべきだが、先程奥座敷の荷物を運んでしまったからな。今は足の踏み場も無かっただろう」
「蛍流さんが運んでくださったんですか?」
「さすがに量が多かったので雲嵐殿の手も借りた。薬を塗ったらお前を部屋に送りつつ、荷解きを手伝おう」
 
 足袋を脱ぐと、最初に足首の包帯を解いて怪我の具合を見せる。足首は動かす度に軽く痛みつつも青あざに、鼻緒で擦り切れた指の間もかさぶたになりつつあるので、このまま療養すれば数日で完治するだろう。蛍流は目を細めて「良かった」と小声で呟くと、包帯だけではなく足袋まで履かせてくれる。

「目覚ましい回復力だな。昨日あれだけ無茶をしたというのに、もう快方に向かっているとは……」
「そんなことは……。荷解きですが、私一人で大丈夫です。蛍流さんも忙しいですし、私も他にやることが無いので、ゆっくりやれば問題ありません」
「今日の予定は全て済んだ。家のこと以外、取り立ててやることは特に無い。首の包帯を解いてもいいだろうか?」
 
 海音が頷けば、蛍流はあっという間に音もなく包帯を解いてしまう。ガーゼ代わりに当てていた布を取り除いて、傷口を確認した蛍流はほっとしたように安堵の息を吐いたのだった。

「塞がってきているようだが、痛みはあるか?」
「まだ少し水が染みて痛む程度でしょうか。包丁で指を切った時の方がもっと痛かったですし、完治するまで時間が掛かったので、これくらい大したこと無いです」
「お前は痛みに強いのだな。子供の時のおれなんて、あまりに痛くて大騒ぎしたぞ。師匠に手当てしてもらったのが懐かしい」
「意外です。そんな風に見えないので……。なんでもそつなくこなす方だと思っていました」

 薬壺から乳白色の塗り薬を掬った蛍流の冷たい指先が傷口に触れる。最初こそ薬が染みてわずかに痛んだものの、蛍流の端麗な顔がすぐ目の前にある緊張感の方があまりにも大きく、やがて痛みを感じなくなったのだった。
 
「おれだって最初から何でも出来ていたわけではない。全て師匠に仕込まれたのだ。青龍としての心構えから生活に関する知識や技術まで……。趣味の書道と居合術だってそうだ」
「居合って、刀を抜いて藁の束を一刀両断する、あの……?」
「そうだ。元々書道と居合術は師匠の趣味だった。それを真似したのだ。師匠は憧れであり、おれにとっての青龍そのもの。あの方のような青龍になりたいと、常に邁進している」

 師匠との思い出を追懐して小さな笑みを浮かべる蛍流に、海音はふと気になったことを尋ねる。

「あの、師匠さんのお話は昨日も伺いましたが、蛍流さんのご両親っていうのは……」
「……両親とはもう十年会っていない。十年前青龍に選ばれたことで、この山に連れて来られて、それきりだな」
「すみません。余計なことを聞いてしまって……」
「謝る程のことでも無い。包帯を巻き直すぞ」
 
 すぐに慣れた手付きで元通りに包帯を巻いてくれる蛍流を観察する。雪を欺くような白く美しい肌、居合術を習っていたからか、包帯を巻く指先は長く、掌は海音よりも大きい。改めて近くで見れば、美麗な見た目に反して程よく鍛えられた身体つきをしている。どうりで振袖姿の海音を背負って、軽々と山道を登れたわけだと、今更ながら合点がいく。
 春の朝明け空のようなさらさらした浅葱色の髪と清らかな森の泉のような藍色の目は、いずれも元の世界では見たことが無い色だが、どちらも清楚な蛍流らしい色合いをしている。元の世界に連れて行ったら、さぞかしモテるに違いない。
 そんなことを考えていたからか、包帯を巻き終えた蛍流に「どうかしたのか?」と怪訝そうに尋ねられてしまう。

「蛍流さんの手が大きくて、綺麗だなって思って……」
「そうだろうか? おれからしたら、お前の手の方が余程綺麗に見える」

 手を貸すように言われて両手を差し出せば、海音の両掌に蛍流は自分の両掌を重ねる。ハイタッチをするかのように身体の前でお互いの両掌を合わせれば、大きさの違いは一目瞭然だった。

「ほら、おれとお前では第一関節分も指の長さが違う。皮膚の硬さや指の太さ、掌の大きさまでも……このまま握ったら、お前の美しい手を潰してしまいそうだ」
「潰れませんよ。見てて下さい……」

 何気なく海音が蛍流の両掌を握りしめれば、安心したのか蛍流も優しく握り返してくれる。本当の恋人のように指を絡めて手を繋いでいると、やがて蛍流の掌からほんのりと熱が伝わってきたのだった。

「蛍流さんの手、温かいですね……」
「お前の手が温かいからだろう」
「私よりも蛍流さんの手が温かいから、温かいように感じるんです」

 掌を通じて身体中が熱に包まれているかのように、安堵の息を吐いて小さく笑みをこぼす。不思議とどこか昔懐かしささえ覚える。海音の父親の手はもう少しひょろりと細いので、もしかすると過去にもこうして蛍流のような手をした人物と手を繋いだことがあるのかもしれない。覚えがあるとすれば、十年前の男の子ぐらいだが……。
 そんなことを考えながらも、この世界に来てから久しく得られなかった誰かと心を通わせる幸福な瞬間に、海音はすっかり酔い痴れてしまったのだった。
 どこか名残り惜しい気持ちになりながらも、お互いにそっと手を離す。この温かさを忘れたくないと思った海音は、蛍流の体温が残っている内に掌を自身の胸元に当てる。そんな海音の様子に圧倒されたのか、蛍流は終始頬を赤くしながら見守っていたのだった。

「そろそろ良いだろう。お前の部屋に行こう」

 そう言って、照れ隠しなのか顔を隠しながら立ち上がった蛍流の後に、「はっ、はい!」と咄嗟に返事をした海音も続く。その弾みで、文机に置かれていた紙が足元に落ちてくる。何気なく拾って目を通した海音は、蛍流の流麗な墨字で書かれた内容に冷水を浴びせられたような衝撃を受けてしまう。

『身代わりの彼女に次の居場所と、伴侶の手配を引き続き依頼』

 胸が苦しくなって、息が出来なくなる。胃がキリキリと痛みだすのを感じながら、何事も無かったかのように紙を拾って元の場所に戻す。
 蛍流の数歩後ろを歩いていると、自分の中から全てを否定するような冷たい声が聞こえてくる。わかっていたでしょ、と。

(あくまでも私は伴侶の身代わり。蛍流さんの伴侶にはなれない。だから……想いを寄せてはいけない)

 たとえ蛍流がどんなに優しい好青年であっても、伴侶になれない海音と結ばれることは決してない。いずれ本来の伴侶である和華が嫁いで来たら、蛍流がくれるこの優しさと温もりは和華のものとなる。
 本来であれば伴侶じゃないと蛍流に知られた時点で、海音は身代わりの役割を失敗したことになる。そんな海音に蛍流が優しく接する理由は無いので、この幸福は本当なら得られるはずが無かったもの。それを身代わりの海音は忘れてはならない。
 この幸せはあくまで和華が来るまでの一時的なもの。勘違いして想いを寄せるようなことがあってはならないのだから――。
 
(この時間が永遠に続けばいいのに……)

 蛍流と過ごす穏やかで幸せな時間。恋慕の気持ちを寄せてはいけない相手なら、せめてこの二人きりの時間が少しでも長く続くことだけを祈らせて欲しい。
 そう海音は願ったのだった。

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