「わぁ~。綺麗な着物や小物がこんなにたくさん!」

 蛍流の案内で奥座敷に入った海音は、左右の壁際と床の上に所狭しと並べられた色とりどりの着物を目にして感嘆の声を漏らしてしまう。奥座敷はそこそこの広さがあったが、その全てが女性物と思しき着物や帯、帯留め、足袋、襦袢、草履、バッグ、羽織、髪留めなどで埋まっていたのだった。

「一人でこれだけ持って来るのは大変だったんだよ。嫁御ちゃんの気に入る物が見つかればいいんだけど」
「これを全部持って来てくださったんですか? 私一人のために……?」
「そうだよ。青龍さまのお願いだったからね」

 傍らの蛍流を振り返れば、丁度頬を紅潮させた蛍流が海音たちから視線を外したところであった。照れ隠しのつもりなのか、身体の前で腕組みをしながらもごもごと話し出す。

「いつまでもおれの古着では可哀想だと思ってな……雲嵐殿に無理を言って揃えてもらったんだ……。ただどれがお前に似合うか分からなくて、手に入れられるだけ全て持って来てもらうように頼んだら、この量になってしまって……。急遽、奥座敷を片付けて場所を作る羽目になった」

 その言葉に海音も瞬きを繰り返す。本来なら灰簾家で用意してもらった嫁入り道具を持参するはずが、荷物を持ち逃げされたことで着替えや日用品も無しに身一つで到着してしまった。海音自身は古着であろうと、借りられるならそれで良いと思っていたが、蛍流は気にしてくれていたのだろう。
 蛍流の心遣いが胸に染み入り、自然と口元に笑みが浮かぶ。

「ご用意していただきありがとうございます。とても嬉しいです」
「そ、そうか……。雲嵐殿も言っていたが、好みに合わない物があれば言ってくれていい。また別の物を頼もう」
「そんな悪いです! 私は今着ている着物だけでも充分なんです! これ以上、蛍流さんや雲嵐さんにご迷惑を掛けられません!」

 今日の海音は昨日までと同じ灰簾家で仕立ててもらった薄青色の着物を着ていた。それ以前に蛍流から借りた寝巻以外は替えの着物を持っていないので、これに着替えるしか無かったのだが、昨日今日と自分で着付けているからか、幾分か早く着替えられるようになってきた。この調子で着続けていれば、ますます短時間で着付けられるだろう。元の世界と勝手が違うこの世界で自分に出来ることが増えて、少しだけ自信が持てたところだった。
 そんな海音のちょっとした自負に対して、蛍流は言いづらそうに教えてくれる。

「これまで着物に縁が無い生活を送っていただろうから、知らなくても無理は無いが……。お前が連日着ているその着物はな、振袖という未婚の女人が着る礼装……早い話が余所行き用の着物だ。普段着にするようなものでは無い」
「えっ……。そうなんですか?」
「普段着として着るのは、あの辺りにある紬や小紋、御召になる。どれも通気性が良く、着替えやすいのが特徴だ。帯の締め付けも緩くすれば、振袖よりも断然動きやすい」

 蛍流が示した壁際には海音が着ている振袖よりも、幾分か袖の短い着物が衣桁に掛けられて並んでいた。色や柄が違うが、どれも同型をしていることから、全て同じ種類の着物なのだろう。

「紬は昨日屋敷のことを教えていただいた際に借りたので分かりますが……。小紋や御召は何が違うんですか……?」
「織り方や染め方、染色の順番かな。生地の裏表を見れば、染め方の順番が分かるよ」
「夏場は絽や紗といった生地が薄い薄物を着る。どちらも透けがあるから風通しが良い。今は季節が違うから少ししか手に入れられなかったが、夏になるともっと数が増えるだろう。浴衣をあつらえてもいいかもしれない」

 雲嵐と蛍流の二人に教えられて、自分の無知さに赤恥を掻いてしまう。こういった日常的な知識についても、もう少し勉強するべき必要がある。まだまだ覚えることは山積みらしい。

「まぁ、知らないことはこれから知ればいいんだし。ほら、この辺りなんて似合うんじゃない。嫁御ちゃんと同年代の女の子たちに人気の若草色。今の季節に合うからすぐに着られるよ」

 そう言って雲嵐が衣桁掛けから外したのは、淡い若草色の紬であった。薄っすらと桜らしき白い柄が入っているのも春らしい。勧められるままに袖を通せば長さも問題ないという。

「綺麗な着物ですね……」
「その紬なら帯は桜色あたりが似合いそうだな。春らしさがより引き立つ。帯紐は黄色系、帯留めは貝殻の形なんて良さそうだ」
「帯揚げはどうする? 柄を入れてもいいし、無地でも嫁御ちゃんに映えそうだけど」
 
 話しについていけない海音を置いてけぼりにする形で、二人はあれよあれよと海音の着物を見立てていく。先程までの言い争いはどこにいったのか、その息の合いようにすっかり舌を巻いてしまう。
 しばらくして二人の間で話がまとまったのか、「今すぐこれに着替えて来い」と蛍流から着物一式を手渡されたのだった。

「今すぐですか?」
「しばらく使用人として雇うにも、その恰好では家の用事は何もさせられないからな。来客の応対を頼むにも、常識知らずと笑われるのが目に見えている」

 それで昨日今日と部屋で待機しているように言っていたのかと、ようやく理解する。余所行き用の振袖を着て家事をしている女性が使用人なんて、紹介できるはずもない。屋敷の主人である蛍流が嘲笑されるだけだろう。
 ここは蛍流のために礼を言って素直に受け取るが、何故か蛍流が満足そうに笑みを浮かべる。そうして懐に手を入れると、「これも」と薬壺らしき色が違う小さな壺を二個渡してきたのだった。

「こっちの茶色の壺は足首の捻挫、こっちの蘇芳色の壺は切り傷や擦り傷に効くという。足りなくなったら、また雲嵐殿に頼むから遠慮なく言って欲しい」
「こんなにいただけません。着物だけでも充分なのに……。怪我なんて、時間が経てば自然に治ります」
「お詫びと思って受け取って欲しい。特に首の怪我はおれの不注意で付けてしまったんだ。痕なんて残ったら以ての外。後悔しても悔やみきれない」
「でも……」

 蛍流に手を取られて薬壺を握らされると、そのまま軽く手を引かれる。雲嵐の位置からは抱き合って見えるであろう体勢になると、そっと耳元で囁かれたのだった。

「もし気が引けているというのなら、ここにある着物を着て快復した姿を見せてくれればいい。いずれもここにはお前に似合うものしか置いていない。何を着ても似合うことを請け合おう」

 耳を打つ金玉の声に身体が震える。そのまま顔を真っ赤にして固まっていると、海音の様子に気付いた雲嵐が「どうしたの?」と明るく声を掛けてくる。