家族や友人もいないこの世界での海音は孤独だ。
 仮に灰簾家や蛍流に受け入れられたとしても、異なる世界からやって来た海音がこの世界の一部になれるはずが無く、他所から紛れた異物でしかない。会おうと思えばいつでも会える距離に家族がいて、帰りたい時に帰れる故郷があるような、一人で海外に移住するのとは意味が違ってくる。
 異なる世界から紛れ込んだ海音でも、今後の身の振り方次第では蛍流や和華などのこの世界で生まれ育った人たちとの距離が縮まることもあるだろう。それでも異世界からの混ざり者である海音と、この世界の人たちとの間に生じる溝が埋まることは永久に訪れない。この世界と海音を繋ぐ縁は存在せず、共有するような過去や思い出、心の内が湧くような愛着や故郷としての慕情さえ持たないのだから。
 自分が生きてきた痕跡がどこにも残っていない、ただの知らない世界である以上、この世界を大切に想う人たちと他所からやって来ただけの海音の間には、見えない壁によって隔たれてしまっている。これまで積み重ねてきた自分の功績や生きてきた証が無い世界に、思い入れなど持てないから。
 海音の中でわだかまる言葉にしがたい空虚な思いを、この世界の住人たちに説明することは難しく、そして理解してもらうことも到底出来そうにない。
 ある日突然、これまで住んでいた世界とは生活様式や常識も全く違う世界に連れて来られて、元に帰る方法さえ分からないと言われた海音の気持ちを理解できるのは、同じように異なる世界からやって来た人だけ。
 蛍流や和華などの生まれた時からこの世界で生きている人たちには、きっと分かってもらえない。
 そんな誰にも理解してもらえない孤独感と、自分だけがこの世界の一部では無いという疎外感。そして今まで積み重ねてきたものを全て失ってしまった喪失感。
 それこそが海音の心に空いた穴の正体であった。

(もし和華ちゃんの身代わりだって気付かれなかったら、今の言葉は私に向けられたのかな……)

 決して「海音」とは呼ばれず、「和華」としての自分に向けられた言葉であっても、蛍流の情熱的な言葉の数々が海音の胸に空いた穴を代わりに埋めてくれただろうか。寂しい、辛い、苦しいといった海音が胸に抱く数々の暗い感情を遠くに洗い流してくれただろうかと、関係ないことばかり考えてしまう。
 身代わりとしての役目を果たせなかっただけではなく、せっかく「和華」として愛されるチャンスを棒に振ってしまったような損した気さえしてくる。
 どこか落胆した気持ちを抱えて硝子戸から目を離した瞬間、硝子戸が音を鳴らしながら小刻みに震え出す。強風でも吹いたのかと硝子戸に視線を向ければ、獣に似た大きな切れ長の黒目が硝子戸一面を覆っていたのだった。

「きゃあ……!?」

 短い悲鳴を上げて後退れば、黒曜石のような黒目が動いて海音に焦点を合わせる。朝になって獣の気配がしなくなったからとすっかり気を抜いていたからか、黒目を見つけた時に足が竦んでしまったようだった。その場から逃げられず、せめて喰われないようにじっと息を止めて黒目を睨み付ければ、黒目も品定めするように海音を見つめ返してくる。長いような短いような沈黙の後、程遠くないところから戸惑うような蛍流の声が聞こえてきたのだった。

清水(しみず)。屋敷なんて覗いてどうした? 何かあるのか?」

 その声で清水と呼ばれた黒目は興味を失ったように海音から目を逸らすと、蛇のような細長い身体を揺らしながら硝子戸から離れてしまう。庭の奥の方へと飛んで行ったので、おそらく蛍流の元に向かったのだろう。硝子戸越しではあったが、朝陽に照らされて鱗らしき硬質状のものが見えたのも気に掛かった。

(蛇じゃないよね……あんなに大きな蛇なんて見たことがないし……。それなら今の生き物は何だろう?)

 硝子戸に近づけば、すぐ近くの沓脱石には草履が置かれていた。海音は硝子戸を開け放つと、サイズが合わないぶかぶかの草履を履いて黒目の後を足早に追う。
 手入れが行き届いた庭を抜けると、耕したばかりと思しき小さな畑に出る。慣れない下駄で耕地を踏み進めた先には、海音に背を向ける大きな浅葱色の蛇が鎮座していたのだった。