「この山に来たばかりの頃、おれにはこの山が牢獄のように思えた。出ることは決して許されない、青龍を捕らえるためだけの檻。この山で途方も無い長久の時間を過ごすのかと思うと、絶望しか感じられなかった。師匠を喪ってからは、ますますそう思わざるを得なかった」
「……今もそう思っていますか?」
「まさか。今ではこの山で師匠や兄さんと出会えて良かったと心から思える。無論、お前とも。おれにとっての青龍は師匠だから、何でも師匠の真似をしなければならないと思っていた。姿や話し方、考え方でさえも。でも師匠と同じにはなれなかった。結局のところ、おれはおれだからな」
海音が来るまでの蛍流は師匠と寸分違わず同じようにこの国を守らなければならないと、自分を追い詰めていたのだろう。
周りを見つめる余裕もなく、溢れる自分の力をコントロールすることも出来ず、焦りばかりが募り続け、いつの間にか視野が狭くなっていた。
いつ自分の力に飲み込まれて、取り返しがつかない事態になってもおかしくなく、そんな一触即発の蛍流の前に現れたのが一番の理解者にして生涯を共にする青龍の伴侶――海音だった。
「おれはおれのやり方で青龍になればいいのだと、お前が気付かせてくれた。おれはおれのままでいいのだと。そう考えると、この山はこの国を託される者たちが本当の自分と向き合うための修練の場なのかもしれない。きっと元の世界にいても、父の真似をしていただろう。そして人真似していることに気付けないまま、父の跡を継いでいた。人の上に立つということがどのようなことなのか覚悟を持てぬまま……お前とこうして夫婦の関係になることも無かったに違いない」
蛍流は海音の手を取ると、掌を自身の唇にあてがって深く口付けを落とす。その瞬間、海音の胸がドキリと高鳴り、みるみるうちに頬が熱を帯びていく。
あの時、蛍流もこんな打ち震えるような気持ちになったのだろうか。この浮き立つような激しい鼓動と昂る深い愛に。
「おれは青龍に限らず男としてもまだまだ未熟だから、出来ることより出来ないことの方が圧倒的に多い。だがこれからはお前に恥じない男に、そしておれを選んでくれたお前のためにも師匠を超える青龍になる。永久にお前だけを愛し抜くと誓おう。こんなおれだが……これからもついて来てくれないか?」
熱を帯びた藍色の目にじっと見つめられて断れるはずがない。そもそもそんなことを聞かれなくても、海音の心はすでに決まっていた。
どこか不安そうな、それでも確かな信頼を向けてくる愛する人に向かって、海音は顔を綻ばせたのだった。
「私もまだまだ知らないことや出来ないことの方が多いです。不束者ではありますが、これからもよろしくお願いします」
「ありがとう。おれたちは一蓮托生の間柄、これからは決して切れない夫婦の契りを結ぼう。もしまた世界を隔てて別れてしまっても、この契りを道標として必ず巡り合えるように」
「約束ですよ」
「約束だ。そして約束と言えば――これだな」
そう言って、蛍流が小指を差し出してきたので、海音は唇の感触が残る掌を握り締めると、蛍流と小指を絡める。
反対の手で腰を引き寄せられたかと思うと、海音の頬が蛍流の温かな胸に触れたのだった。
「嘘をついたからと言って、お前に針を千本も飲ませるのは可哀想だ。別のものを考えよう」
「たとえば?」
「その端麗な身体の至るところに消えない痕を残そう。おれたちの愛の証。例えるのなら……接吻の雨跡を」
耳朶に唇が触れるかどうかの距離で囁かれた甘い吐息にどきりと胸が高鳴る。頭を上げれば、すぐ目の前には艶麗な笑みを浮かべた蛍流の顔があったのだった。
「それ、蛍流さんが破ったら、私が降らせるんですよね?」
「当然だ。お前以外からの雨には降られたくないからな。無論……破るつもりは毛頭ないが」
そして十年前と同じようにどちらともなく約束の言葉を唱えるが、唱え終わっても手を離すことは無かった。
その代わりに小指を絡めたまま額を合わせると、互いに身を寄せ合ったのだった――。
◆◆◆
澄んだ碧空に桜吹雪が舞う中、婚礼衣装に身を包んだ若き青龍とその伴侶は、この国の水を司る青き守護龍から清めの祓いを受ける。
一人の形代と一柱の龍、そして五体の守護獣たちに見守られながら、守護龍の加護を受けた二人は夫婦の盃を交わす。
そして清き水に似た澄んだ美声が宣誓したのであった。
「この命尽きるまで、この国に賭すと誓う。この身は青龍に。そして――この心は最愛の伴侶に。永遠に変わらぬ愛で添い遂げよう」
誓詞を奏上せし若き青龍を守護龍は言祝ぎ、そして新たな夫婦の誕生を祝福する。
この日、夫婦の契りで結ばれた二人は、永遠へと続く真の愛を誓い合ったのだった。
第一部・完
「……今もそう思っていますか?」
「まさか。今ではこの山で師匠や兄さんと出会えて良かったと心から思える。無論、お前とも。おれにとっての青龍は師匠だから、何でも師匠の真似をしなければならないと思っていた。姿や話し方、考え方でさえも。でも師匠と同じにはなれなかった。結局のところ、おれはおれだからな」
海音が来るまでの蛍流は師匠と寸分違わず同じようにこの国を守らなければならないと、自分を追い詰めていたのだろう。
周りを見つめる余裕もなく、溢れる自分の力をコントロールすることも出来ず、焦りばかりが募り続け、いつの間にか視野が狭くなっていた。
いつ自分の力に飲み込まれて、取り返しがつかない事態になってもおかしくなく、そんな一触即発の蛍流の前に現れたのが一番の理解者にして生涯を共にする青龍の伴侶――海音だった。
「おれはおれのやり方で青龍になればいいのだと、お前が気付かせてくれた。おれはおれのままでいいのだと。そう考えると、この山はこの国を託される者たちが本当の自分と向き合うための修練の場なのかもしれない。きっと元の世界にいても、父の真似をしていただろう。そして人真似していることに気付けないまま、父の跡を継いでいた。人の上に立つということがどのようなことなのか覚悟を持てぬまま……お前とこうして夫婦の関係になることも無かったに違いない」
蛍流は海音の手を取ると、掌を自身の唇にあてがって深く口付けを落とす。その瞬間、海音の胸がドキリと高鳴り、みるみるうちに頬が熱を帯びていく。
あの時、蛍流もこんな打ち震えるような気持ちになったのだろうか。この浮き立つような激しい鼓動と昂る深い愛に。
「おれは青龍に限らず男としてもまだまだ未熟だから、出来ることより出来ないことの方が圧倒的に多い。だがこれからはお前に恥じない男に、そしておれを選んでくれたお前のためにも師匠を超える青龍になる。永久にお前だけを愛し抜くと誓おう。こんなおれだが……これからもついて来てくれないか?」
熱を帯びた藍色の目にじっと見つめられて断れるはずがない。そもそもそんなことを聞かれなくても、海音の心はすでに決まっていた。
どこか不安そうな、それでも確かな信頼を向けてくる愛する人に向かって、海音は顔を綻ばせたのだった。
「私もまだまだ知らないことや出来ないことの方が多いです。不束者ではありますが、これからもよろしくお願いします」
「ありがとう。おれたちは一蓮托生の間柄、これからは決して切れない夫婦の契りを結ぼう。もしまた世界を隔てて別れてしまっても、この契りを道標として必ず巡り合えるように」
「約束ですよ」
「約束だ。そして約束と言えば――これだな」
そう言って、蛍流が小指を差し出してきたので、海音は唇の感触が残る掌を握り締めると、蛍流と小指を絡める。
反対の手で腰を引き寄せられたかと思うと、海音の頬が蛍流の温かな胸に触れたのだった。
「嘘をついたからと言って、お前に針を千本も飲ませるのは可哀想だ。別のものを考えよう」
「たとえば?」
「その端麗な身体の至るところに消えない痕を残そう。おれたちの愛の証。例えるのなら……接吻の雨跡を」
耳朶に唇が触れるかどうかの距離で囁かれた甘い吐息にどきりと胸が高鳴る。頭を上げれば、すぐ目の前には艶麗な笑みを浮かべた蛍流の顔があったのだった。
「それ、蛍流さんが破ったら、私が降らせるんですよね?」
「当然だ。お前以外からの雨には降られたくないからな。無論……破るつもりは毛頭ないが」
そして十年前と同じようにどちらともなく約束の言葉を唱えるが、唱え終わっても手を離すことは無かった。
その代わりに小指を絡めたまま額を合わせると、互いに身を寄せ合ったのだった――。
◆◆◆
澄んだ碧空に桜吹雪が舞う中、婚礼衣装に身を包んだ若き青龍とその伴侶は、この国の水を司る青き守護龍から清めの祓いを受ける。
一人の形代と一柱の龍、そして五体の守護獣たちに見守られながら、守護龍の加護を受けた二人は夫婦の盃を交わす。
そして清き水に似た澄んだ美声が宣誓したのであった。
「この命尽きるまで、この国に賭すと誓う。この身は青龍に。そして――この心は最愛の伴侶に。永遠に変わらぬ愛で添い遂げよう」
誓詞を奏上せし若き青龍を守護龍は言祝ぎ、そして新たな夫婦の誕生を祝福する。
この日、夫婦の契りで結ばれた二人は、永遠へと続く真の愛を誓い合ったのだった。
第一部・完