「灰簾家が『遠出』の資金にするため、出入りしていた商人に買い取らせたものだ。雲嵐殿を通じて、その商人からおれが購入した。明らかにこの世界のものでは無かったからな。お前のものだろうと思った」

 風呂敷に包まれていたのは、綺麗に折り畳まれたベージュ色のロングワンピースと見たことあるような革製のシューズであった。
 この世界では見かけないデザインの洋服と靴はいずれもこの世界に来た海音が身につけていたものであり、他の嫁入り道具と一緒に持ち逃げされてしまったものであった。

「どうして、灰簾家がこれを持って……だってこれは道案内をしてくれた地元の人たちに持って行かれて、売られたか処分されたとばかり思っていて……」
「……その嫁入り道具を盗んだという奴らが灰簾家と繋がっていたんだ。珍しいものだから高値がつくと思ったのだろうな。灰簾夫婦か和華のいずれかが持っていたものを、今回金に換えようと商人に売った。その商人が売り値に困って、手広く商いを営む雲嵐殿に相談したことで、これを見つけることが出来たのだから……雲嵐殿がその商人と懇意の間柄で助かった。丁度、お前が着る婦人用の洋装の入手について相談していたことも、功を奏したのかもしれん」
「偶然が積み重なったということですか……」
「その話が無かったとしても、お前がここに来る際、どんな目に遭ったのかは雲嵐殿も知っている。灰簾家から珍しい品を仕入れたという話を聞いて、おれたちのために取り置きしてくれただろう。盗品の可能性があることを知りながら売買したことを知られたら、取り扱った商人まで罰せられる可能性があるからな」

 今回の場合、この洋服と靴が盗まれた海音の私物だと気付いていたのは雲嵐と蛍流だけだったので、これが盗品であることや詳細を知らずに買い取った商人には愛する伴侶のために洋装を探していた()()()()()()青龍の蛍流が物珍しさから購入したということにしてもらった。
 実際のところ、蛍流が支払った洋装の代金というのは、この件に関する口止め料――商人には「冷涼な青龍さま」と噂の蛍流が、伴侶を溺愛していることを隠したがっているとしてもらった、も含めてそれなりの金額だという。
 ロングワンピースを手に取ってみれば、懐かしい手触りに涙が溢れてくる。シューズについた土汚れもこの世界に来た時と同じまま、まるで時が止まっていたかのように何も変わっていなかった。
 これを着ていた日が遠い昔のように感じられるのは、海音の中で何かが変わってしまったからだろうか。それでも記憶はまだ鮮明で、目を閉じれば元の世界の情景や賑わい、両親や友人たちの顔が頭の中に浮かんでくる。蛍流と生きていくため、元の世界を捨てたと言っても、やはり心のどこかでは恋しく思ってしまう。今はまだ思い出すのも辛いが、いつか笑って話せる日が来るだろうか。
 こういうものがあり、こんな経験をして、こういった人たちと出会えた、と。この世界に来るまでの自分のルーツを語って、遠い世界で生きている両親や友人たちの安寧を祈れるようになるだろうか。
 たとえあの世界で自分が生きていたことを覚えている人がいなくなったとしても、大切な人たちがいつまでも輪廻転生の円環の中で平穏無事に生きられるように。海音はいつまでも願い続けられるだろうか……。
 海音の身体が歓喜で震え、押し寄せる望郷の念に堪えていると、そんな海音の肩を蛍流が慰めるようにそっと抱いてくれた。かつて同じ経験をした蛍流は気付いたのかもしれない。海音が溢れ出る元の世界への郷愁を耐え忍んでいることを。
 しばらく喜びと郷愁を噛み締めていたが、やがて息を吸うと、手で涙を拭きながら蛍流を見上げたのだった。

「ありがとうございます。とても……とても嬉しいです!」
「かつて師匠に教えられた。二度と生まれ育った世界に戻れず、身につけることや使うことが無くなったとしても、あの世界で生まれ育ったという証を手放してはいけない、と。たとえ元の世界との繋がりが消え、あの世界からおれたちが存在していた記録が消えてしまったとしても、おれたちがあの世界で学び得たものまで無くなりはしない。そしておれたちが覚えている限りは、あの世界とは心で繋がっていられる、とな。どんなにこの世界に慣れて深く染まったとしても、生まれ育った世界を忘れてはいけないと」

 蛍流は海音との約束を果たしたことで、あの世界との繋がりが切れてしまった。そして恐らくは海音も。
 それでもこうして元の世界に由来するものがあれば、目には見えないどこかで繋がっていられるかもしれない。人々が持つ(えにし)を断ち切ることは、神でさえきっと出来ないのだから――。

「そうですね……でも蛍流さんから手渡されたことで、私にとっては元の世界との繋がり以上の意味が生まれました。これ、どっちも思い入れがあるものでも、高級ブランド品ってわけでも無いんですよ。ワンピースは春物の処分品として値引きされていたものですし、シューズは閉店セールで安くなっていた展示品でしたし。それでも高級ブランド品以上の価値を持つものになりました。これも蛍流さんのおかげです!」
「そ、そうか……だが、そこまで言われてしまうと、これから話すことに自信が無くなってしまうのだが……」
「和華ちゃんのことだけじゃないんですか?」
「おれたちの今後の話……まずはさしずめ祝言の話だ」
「祝言って……結婚のことですよね? まだ心の準備が……」
「本当は良き日を選んで挙げたかったのだが、悠長なことを言っていられない状況になった。和華と灰簾子爵家の悪事が暴かれたことで、灰簾家の娘ということになっているお前にまで疑いの眼差しが向けられてしまった。親が憎ければ子も憎いと言うからな。このままでは関係ないお前まで、灰簾家がこれまで犯してきた罪の責任を問われるかもしれん」

 以前にも蛍流や和華から聞いたが、この世界での海音は灰簾子爵家の娘ということになっていた。ただそれもあくまで書類上のことであり、海音自身は全く華族の一員になったという自覚を持っていなかった。
 和華から灰簾家の娘として別の華族に嫁入りすると言われた時も正直ピンと来ていなかったが、あの時は蛍流から離れなければならないという焦りもあって深く考えている余裕は無かった。この世界で生きていくにあって海音が困らないように蛍流が灰簾夫婦に頼んだことで戸籍を得たらしいが、蛍流が海音のために裏で手を尽くしてくれていたことさえも寝耳に水であり、感謝を通り越して驚きを隠せなかった。