三月も下旬だというのに吐いた息は白く、そして余寒の空へと吸い込まれるように消えてしまう。
(さむっ……!)
もう何度目になるか分からない身震いをして、海音は両手を擦り合わせると掌に息を吐いて温める。新品の草履と白い足袋は泥水を吸ってぐっしょりと湿っており、夜風に体温を奪われていた。
せっかく用意してもらった豪奢な花菱柄の振袖も、歩く度に飛び跳ねる山道の泥濘によって、綺麗な薄花色の生地に染みを増やしていたのだった。
(どうしよう。今日中に辿り着くかな……)
締め付けられたように胸が痛み、自然と呼吸が速くなる。後ろを振り向いても、明かりを持たない海音の背に広がっているのはどこまでも深い闇のみ。今から下山しようにも、どの道を歩いてきたのか分からない。そもそもこの道で合っているのかさえ、自信が無かった。
(本当にこの先にあるんだよね……?)
屋敷を出る前に聞いた話では、この二藍山の山頂に目的地である海音の嫁ぎ先があるとのことだった。山の頂にあるのなら道なりに山を登って行けばいいと思っていたが、半日以上歩いたにも関わらず目的地が見える気配すら無い。人が住んでいるのなら、明かりくらい見えてもおかしくないというのに……。これはもう遭難したと言ってもいい。
「うわぁ……っ!?」
先の見えない不安ばかり考えていたからか、足元が疎かになっていた。山道まで伸びた太い木の根に足を取られて転倒してしまう。
「いたぁ……!」
両手をついたのでどうにか着物が泥まみれになるのは避けられたが、転んだ拍子に足を捻ってしまったのだろう。立ち上がれたものの、足がふらついてしまう。足を引きずるようにして歩を進めるものの、じんじんと痛む足首を庇うような歩き方になったからか、先程よりもスピードは落ちてしまう。
(このまま歩いていたら、今夜中に辿り着けないかも……)
とうとう心が挫けそうになって、涙で視界が歪み始める。乱暴に目元を擦るが、その拍子に化粧が取れて手の甲に付いてしまう。こんな状態で嫁入りなんて、失礼に違いない。名家と噂の灰簾子爵家の顔に泥を塗ってしまうことになる。
こんな身元が不確かで不審者も同然の海音に優しくしてくれた、この世界の人たちに――。
顔合わせすらしたことが無い相手だが、さすがに涙で化粧が剥がれて化け物のような顔になっている花嫁なんて要らないだろう。一度下山して身なりを整えたいが、今の海音には助けを呼ぶ方法が無い。
スマートフォンや電話機なんて便利なものはここには存在しないので、救援を請うことさえ出来ない。
(やっぱりあの人たちを追いかけて、一度山を降りるべきだったのかな……。運が良ければ、助けも呼べただろうし……)
荒い息を整えようと、大きな木の幹で身体を支えながらふと思い返す。屋敷の者がこの二藍山に詳しいという地元民を雇ってくれたものの、昼休憩で目を離している隙に、嫁入り道具を含めた海音が持って来た荷物一式を全て持ち逃げされてしまった。
途中まで走って後を追いかけたものの、山道を歩き慣れていない海音では到底追いつけず、結果的に木々が生い茂る深い山の中に一人取り残されることとなったのだった。
そこからは仕方なく道案内も無しに一人で山を登り始めたが、やがて帳のように深い闇夜が降りてくると、月明りさえも届かない陰鬱とした暗い道を前にして、急に足が竦みだした。先の見えない奥深い森に加えて、草木が眠り始める日没を迎えたことで、獣の気配を濃く感じるようになったというのもあるのだろう。先程からあちこちで狼に似た遠吠えが聞こえていた。道端の木の葉が揺れただけでも、獣のように感じられて膝が震える。
また一歩踏み出した時、遠くから一際大きく咆哮が聞こえてくる。悲鳴を上げたい衝動を堪えて身震いすると、耳を覆ってその場で蹲る。
このまま山に住む獣の餌になるか、野宿して凍死するか、今の海音にはその二択しか存在しない。そうは思っても、歩く度に挫いた足が痛んで、疼痛がより悪化している気さえする。間近に迫る死の気配に、より一層身体の震えが大きくなる。
(怖い……。誰か、助けて……っ!)
木の根元に座り込んだ海音が祈るように顔の前で両手を握りしめていると、ぽつぽつと雨が降り始める。空を見上げれば、枝葉の隙間から見える空は灰色の雲に覆われていた。小学生の遠足の時に聞いた、山の天気は変わりやすいという話を今更ながら思い出す。夕暮れ時は雲一つ無い空だったこともあって油断していた。荷物を持ち逃げされた今の海音には傘は当然のこと、雨避けになりそうなものを何も持ち合わせていない。
木の根元で身を小さくして雨宿りをしていると、やがて山を下りてくる足音が聞こえてきたのだった。
「ここにいたのか」
その歳若い青年の声に上を見れば、唐紅色の和傘を差した海音と同年代と思しき青年が近くに立っていた。濃紺色の羽織から見える白皙の肌は人間離れしているかのように白く、それを際立たせるかのように浅葱色の短髪と長めの前髪から見える切れ長の藍色の目は神秘的な色合いをしていたのだった。
(さむっ……!)
もう何度目になるか分からない身震いをして、海音は両手を擦り合わせると掌に息を吐いて温める。新品の草履と白い足袋は泥水を吸ってぐっしょりと湿っており、夜風に体温を奪われていた。
せっかく用意してもらった豪奢な花菱柄の振袖も、歩く度に飛び跳ねる山道の泥濘によって、綺麗な薄花色の生地に染みを増やしていたのだった。
(どうしよう。今日中に辿り着くかな……)
締め付けられたように胸が痛み、自然と呼吸が速くなる。後ろを振り向いても、明かりを持たない海音の背に広がっているのはどこまでも深い闇のみ。今から下山しようにも、どの道を歩いてきたのか分からない。そもそもこの道で合っているのかさえ、自信が無かった。
(本当にこの先にあるんだよね……?)
屋敷を出る前に聞いた話では、この二藍山の山頂に目的地である海音の嫁ぎ先があるとのことだった。山の頂にあるのなら道なりに山を登って行けばいいと思っていたが、半日以上歩いたにも関わらず目的地が見える気配すら無い。人が住んでいるのなら、明かりくらい見えてもおかしくないというのに……。これはもう遭難したと言ってもいい。
「うわぁ……っ!?」
先の見えない不安ばかり考えていたからか、足元が疎かになっていた。山道まで伸びた太い木の根に足を取られて転倒してしまう。
「いたぁ……!」
両手をついたのでどうにか着物が泥まみれになるのは避けられたが、転んだ拍子に足を捻ってしまったのだろう。立ち上がれたものの、足がふらついてしまう。足を引きずるようにして歩を進めるものの、じんじんと痛む足首を庇うような歩き方になったからか、先程よりもスピードは落ちてしまう。
(このまま歩いていたら、今夜中に辿り着けないかも……)
とうとう心が挫けそうになって、涙で視界が歪み始める。乱暴に目元を擦るが、その拍子に化粧が取れて手の甲に付いてしまう。こんな状態で嫁入りなんて、失礼に違いない。名家と噂の灰簾子爵家の顔に泥を塗ってしまうことになる。
こんな身元が不確かで不審者も同然の海音に優しくしてくれた、この世界の人たちに――。
顔合わせすらしたことが無い相手だが、さすがに涙で化粧が剥がれて化け物のような顔になっている花嫁なんて要らないだろう。一度下山して身なりを整えたいが、今の海音には助けを呼ぶ方法が無い。
スマートフォンや電話機なんて便利なものはここには存在しないので、救援を請うことさえ出来ない。
(やっぱりあの人たちを追いかけて、一度山を降りるべきだったのかな……。運が良ければ、助けも呼べただろうし……)
荒い息を整えようと、大きな木の幹で身体を支えながらふと思い返す。屋敷の者がこの二藍山に詳しいという地元民を雇ってくれたものの、昼休憩で目を離している隙に、嫁入り道具を含めた海音が持って来た荷物一式を全て持ち逃げされてしまった。
途中まで走って後を追いかけたものの、山道を歩き慣れていない海音では到底追いつけず、結果的に木々が生い茂る深い山の中に一人取り残されることとなったのだった。
そこからは仕方なく道案内も無しに一人で山を登り始めたが、やがて帳のように深い闇夜が降りてくると、月明りさえも届かない陰鬱とした暗い道を前にして、急に足が竦みだした。先の見えない奥深い森に加えて、草木が眠り始める日没を迎えたことで、獣の気配を濃く感じるようになったというのもあるのだろう。先程からあちこちで狼に似た遠吠えが聞こえていた。道端の木の葉が揺れただけでも、獣のように感じられて膝が震える。
また一歩踏み出した時、遠くから一際大きく咆哮が聞こえてくる。悲鳴を上げたい衝動を堪えて身震いすると、耳を覆ってその場で蹲る。
このまま山に住む獣の餌になるか、野宿して凍死するか、今の海音にはその二択しか存在しない。そうは思っても、歩く度に挫いた足が痛んで、疼痛がより悪化している気さえする。間近に迫る死の気配に、より一層身体の震えが大きくなる。
(怖い……。誰か、助けて……っ!)
木の根元に座り込んだ海音が祈るように顔の前で両手を握りしめていると、ぽつぽつと雨が降り始める。空を見上げれば、枝葉の隙間から見える空は灰色の雲に覆われていた。小学生の遠足の時に聞いた、山の天気は変わりやすいという話を今更ながら思い出す。夕暮れ時は雲一つ無い空だったこともあって油断していた。荷物を持ち逃げされた今の海音には傘は当然のこと、雨避けになりそうなものを何も持ち合わせていない。
木の根元で身を小さくして雨宿りをしていると、やがて山を下りてくる足音が聞こえてきたのだった。
「ここにいたのか」
その歳若い青年の声に上を見れば、唐紅色の和傘を差した海音と同年代と思しき青年が近くに立っていた。濃紺色の羽織から見える白皙の肌は人間離れしているかのように白く、それを際立たせるかのように浅葱色の短髪と長めの前髪から見える切れ長の藍色の目は神秘的な色合いをしていたのだった。