満天の星が輝く夏の夜空の下で、私は彼と踊っている。
スマホから流れる静謐でリズミカルな音楽に乗って、華麗にステップを踏む。
ダンスで大事なのは呼吸だ。相手の呼吸を見て、それに合わせて自分の身体を動かしていく。
風を感じる蝶のように、私を見つめる彼のリズムを肌で感じてスマートなダンスを……
「のわあっ!」
すってーん、という効果音がお似合いな勢いで、私はそれはそれは盛大にこけた。その拍子に舞った砂埃が目や口に入り、思わず涙が出る。いや、涙が出るのはそれだけじゃないか。
「だ、大丈夫? 怪我はない?」
「ううっ……ごめんなさい」
優しい声とともに差し出された手を、私はおもむろに握って立ち上がる。
これが初めてだったり、二回目ならまだいい。少女漫画みたいに、男の子らしい硬くてがっしりとした手の感触にドキドキして、心の高鳴りを楽しむ余裕もあったのかもしれない。
けれど、既に十回以上同じ現象が起こっているともなれば話はべつだ。申し訳なさとみじめさと恥ずかしさのハイパーミックスパンチが最高速度で私の心に突き刺さってくる。もうとっくの昔に私は満身創痍のズタズタボロボロになっていた。
「転んじゃったけど、すごく良くなってるよ。最初のほうとかもう完璧!」
しかも、彼は優しいのだ。
それはもうとにかく優しいのだ。
呆れたり怒ったりといった様子は微塵もなく、柔らかな笑顔を浮かべて私の手をとってくれる。もっとも、そんな優しさがあるせいもあって、ハイパーミックスパンチは段々と加速しているのだけれど。
「ほんとにごめんね、岡本くん」
「ううん。ぜんぜんだよ、佐々木さん。ほら、もう一度やろっか」
誰もいない夜の公園。
こんなことになったのは、奇跡みたいな偶然の巡り合わせだった。
あれはそう、六時間ほど前のこと。お昼ごはんを食べて微かな午後の眠気を感じていた、五限目が始まる直前のことだった。
「はーい、皆さん聞いてください。五限目は古典の予定でしたが、先生の急用により授業ができなくなりました。ということで、明日の三限目と入れ替えてこれから四組と合同で体育祭のフォークダンスに向けた練習をします」
眠気は一瞬で吹っ飛んだ。続けて心に湧き上がってきたのは疑問と不満の嵐。
なんで!
急用で入れ替えってどうして!
しかもよりもよってなんでフォークダンスの練習と入れ替えなの!
今日は練習のない日だって安心してたのに!
といっても口にするだけの度胸はまるでなく、「えーだるー」と沸き立つクラスメイトの不満に同調するように頷くだけだった。
もちろんそれだけで練習がなくなるはずもなく、私も含めたクラスメイトはさっさと着替えて四組とともに運動場へと集められた。
「はい、じゃあいつも通り最初に踊る人とペアを組んでね〜」
体育祭のフォークダンスは男女で踊ることになっている。それぞれが出席番号順で並び、音楽に合わせて一定のところまで踊ったら順番に相手を変えていくシステムだ。
私の出席番号は十二番。女子だと前から五番目。つまりは男子で前から五番目の人と最初に踊ることになるのだけど……
「あれ?」
そこで気づいた。そういえば、いつも最初に踊っている男子は今日欠席していた。私のクラスは偶数なので普通余ることはなく、必然的に私ひとりがあぶれることになる。
もしかして、見学!
ありえない期待を胸に抱きながら先生のところに行くと、ちょうど四組にも同じ理由で余った人がいると言われた。それが、岡本くんだった。
「はじめまして。岡本凖です」
「あ、どうも。佐々木みちるです」
岡本くんはとても穏やかそうな人だった。身長は高くも低くもなく平均的で、私より頭ひとつ分ほど大きい。フォークダンスは身長差がありすぎると踊りにくいので、ちょうどいいくらいだ。
まあ、私にはそんな身長差の適切さなんてまるで関係ないのだが。
「きゃっ!?」
「わっと!」
ダンスの練習が始まると、私たちのペアはそれはもう散々な有り様だった。テンポはズレるわ、相手の足を踏むわ、慌てていて転ぶわで目も当てられないほどに。しかもそのほとんどは私が原因だ。
というのも、私は筋金入りの運動音痴なのだ。足は遅いし、リズム感はまるでないし、球技に至っては見ているほうが恥ずかしくなるほどの致命的具合。運動することが最初から想定されていないんじゃないかと思うほどだ。
だからこそ、フォークダンスの練習がない今日は心穏やかにのんびり過ごせると思っていた。思っていた、のに……。
「本当にごめんね、岡本くん」
「大丈夫だよ、佐々木さん。ほら、もう一回やってみよ」
けれど、岡本くんはまったく怒らずに根気よく私が上達するまで合わせてくれた。クラスで顔を合わせ、私の運動音痴を知っている人なら百歩譲ってともかくとしても、今日初めて顔を合わせた他クラスの男子に恥ずかしい思いをさせるなんて申し訳なさすぎる。しかも今日の練習はペアが変わらない細かなステップや振り付けの練習だった。とにもかくにも早く終わってほしいと、私は心から願いながら踊り続けた。
そうして長い長い五十分が終わったとき、私は心の底からホッとしていた。
「最後までほんとーにごめんなさい。それと、ありがとう」
「ううん、どういたしまして。来週の体育祭本番まで頑張ろうな」
そんな言葉を予鈴が鳴り響く中交わして、私と岡本くんの最初で最後のダンス練習は終わった……はずだった。
つい一時間ほど前の放課後。委員会の仕事が予想よりもはるかに遅くなり、茜色から群青色に変わり始める空の下を急ぎ帰ろうとしていた校門前で、ばったり岡本くんと会ってしまったのだ。
「あれ、佐々木さん?」
「えっ、岡本くん? どうしたの、こんなところで」
その時の岡本くんはフォークダンスの時とは違って制服姿であり、髪も整っていて一瞬誰かわからなかった。そしてすぐに、五限目に髪が乱れていたのは私が何度も転ばせたせいだと思い当たって、内心で羞恥心に悶えた。
もっとも、当の岡本くんはまるで気にした様子はなく、変わらない穏やかな表情で笑いかけてきた。
「僕は学校に忘れ物を取りに来たんだ。佐々木さんは部活? 遅くまで頑張ってるんだね」
「ううん、今日は委員会の仕事が長引いちゃって」
「あーそうなんだ。それはお疲れさまだったね。佐々木さんは帰り、駅のほう?」
「うん、そうだよ。といっても、そっち方面なだけで徒歩通学なんだけどね」
「そっか。じゃあ暗くなってきたし、僕は電車通学だから途中まで一緒に行かない?」
「うん、いいよー」
本当に優しい人だと思った。
あんなにフォークダンスで恥をかかせた女子に、こんなセリフを言えるだなんて。私は一組だし、四組の内情は知らないけれど、きっとモテているんだろうな。
そんなことを考えながら、私たちはどちらともなく歩き出した。街灯の光が、まばらに点き始めた頃だった。
「あの、何度も言ってるけど、ほんとに今日はごめん。岡本くん、怪我とかしなかった?」
「あははっ、確かに何度も言われてるや。僕は大丈夫だよ。佐々木さんのほうこそ、怪我はなかった?」
「うん。私はいつもこんな感じだし。嫌になっちゃうくらい運動音痴なんだよね」
「まあ、そもそもフォークダンスなんてやったことないし、運動部の友達も難しいって言ってたから仕方ないよ」
「だ、だよね! フォークダンスがない高校もあるらしいのに、なんで私たちの高校はあるのって感じ!」
道中の話題はやっぱり五限目のことで、意外にも話は盛り上がった。なんでも岡本くんは文化系で、私と同じくあまり運動は得意ではないらしい。そのわりには上手く踊れていたと思うと言ったら、中学校でもやったことがあってコツを知ってるからだと笑っていた。なるほど、経験の差か。羨ましい。
でももしそうなら、私もコツを掴めばもう少し上手く踊れるようになるだろうか。体育祭は全校生徒が参加するので、せめて公開処刑にはならないレベルで踊れるようになりたい。
そんなことを何気なく口にした時、岡本くんは少し考える素振りを見せてから言ったのだ。
「じゃあ、少し練習していく?」
と、相変わらず穏やかな笑顔を浮かべて。
僅かな押し問答がありつつも、公開処刑への恐怖がわりと本気であった私は、一夜限りの居残り練習を承諾した。
そうして、冒頭に戻る。
「とわぁっ!」
「わっと!」
今度は岡本くんの足を踏んでしまい、私はバランスを崩して尻もちをついた。しかも今回は彼も道連れ。いや今回だけじゃないな。
「ご、ごめん」
「気にしないで。ほら」
差し出された手を握って、私はまた立ち上がる。みじめだ。みじめすぎる。
そもそもフォークダンスの振り付けが難しすぎるのだ。なんだターンって。こちとらリズムに合わせてステップを踏むだけで精一杯なんだよ。クルッと華麗になんて回れるか。
心の中の愚痴がどんどんと積もっていき、私は小さくため息をつく。体育祭は来週だ。もう何回か練習はあるけれど、このままだと公開処刑まっしぐらだろう。
そんな日を想像して、私は憂うつのあまりもう一度ため息をつきそうになる。けれど、その重苦しい息を吐く前に軽く肩をたたかれた。
「ねっ、ちょっと休憩しない? 気分転換にさ」
柔らかな笑顔を浮かべて、岡本くんは街灯の近くにあるベンチを指差した。
「う、うん。そうしよっか」
確かにそれがいいかもしれない。このまま踊り続けても成功するイメージが湧かないし。私は服についた砂を払ってから、こくりと頷いた。
近くにあった自販機でそれぞれ飲み物を買い、ベンチに腰を下ろす。
「どう? 私のダンス。致命的な運動音痴でしょ」
街灯に照らされた彼に向かって、私は乾いた笑い声を投げる。なるべく空気は重くしたくなかった。せっかく彼が気を遣って休憩を提案してくれたんだから、そのあとの雰囲気まで気を遣わせるわけにはいかない。ここはひとつ、当人の私が自分でいじるしかない。
「もう半分諦めてるんだけどねー。昔っからこうだし。ダンスでリズム感がとれないとか終わってるよね、あははっ」
やや変なテンションになっているのを自覚しながら、私は言葉を続ける。表の通りも含めて人の気配はなく、名前も知らない虫の泣き声ばかりが聞こえていた。
「まあでも、本番で失敗したからって死ぬわけじゃないし、割り切っていくことにするよ。岡本くんのおかげで、最初のほうは結構慣れてきたし!」
心の中に積もった愚痴や不安を飲み込むように、私は買ったジュースを口に含んだ。
うん、そうだ。失敗したっていっときの恥だ。その恥ごと笑い飛ばせば、きっとそれもいつかいい思い出になる。
そんなふうに言い聞かせて、私は小さく息をついた。
「でもさ、僕は佐々木さんのダンス、わりと好きだけど」
「へ?」
そこへ思いもよらない言葉が飛んできた。驚いて、私は岡本くんのほうを見る。
「今日の五限目の時もそうだけど、佐々木さんは一生懸命踊ってるよね。それに足を踏まないようにとか、ちゃんと相手のことも気にしてくれてる。付いていくので精一杯なはずなのに、なかなかできることじゃないよ」
「そ、れは……」
岡本くんは、やっぱり穏やかに笑った。そこには、気を遣って言ってくれているような感じはなかった。本当に、心に思ったことを伝えてくれていた。
「ただひとつ言うとするなら、もっと楽しく踊ってほしいかな」
「たの、しく?」
「うん。僕の想像だけど、きっと佐々木さんは失敗しないように踊ろうとか、上手くステップを踏まないといけないとか思ってるんじゃないかな」
当たりだった。私は目を見開く。
「それももちろん大切だけど、せっかくなら楽しんだほうがいいと思うんだ。上手くやろうとして失敗するとへこむけど、楽しんでやっていたらあまり気にならないんじゃないかなって」
微かに頬を赤くしながら、彼はにへらと笑った。
もし、同じことを先生から言われたら私は内心で反発していたと思う。
ダンスを楽しめるのは、あなたが上手いからだろって。
ダンスが下手な人は、そもそも楽しもうって思えないんだって。
けれど、岡本くんから言われた時、そんな反発はまったく心になかった。なぜだろうと考えて、ふと思い当たる。
今回のダンス練習で、少なからず岡本くんも失敗していた。私と同じところで振り付けを間違えたり、ステップが乱れたり。岡本くんも、私と同じように試行錯誤していた。そして。
「ほら」
彼は立ち上がると、私のほうを振り返って手を差し出してきた。ほとんど無意識に、私はその手をとる。
「フォークダンス、一緒に楽しもう?」
朗らかな笑顔に、私の心はトクンと音を立てた。
いつの間にセットしたのか、彼のスマホから音楽が流れ始める。
最初は簡単な足の動き。ここはできる。岡本くんが根気強く教えてくれたから。
「佐々木さん、その調子」
優しい声が聞こえる。足先を見ていた視線が自然と外れて、誘われるように彼のほうを見る。
「上手上手」
朗らかな笑顔がすぐ近くにあった。トクトクと心地良い音が耳の奥に響く。
「いっちに、さん、し」
彼の声に合わせてステップを刻む。
「あっ!」
右の足先が左のかかとにぶつかった。ぐらりと姿勢が崩れる。
「大丈夫。落ち着いて」
彼の手に支えられて、どうにか転ぶのは免れる。音楽は、止まることなく流れていく。
「ほら、もう一度」
けれどダンスは止めずに、次のステップのところから再開する。
「いっちに、さん、し」
いっちに、さん、し。
「にーに、さん、し」
にーに、さん、しっ。
「そうそう。いいね」
彼を見上げる。穏やかな笑顔に、私の心が包まれていく。
「右足を前に出して。そして、ターン右」
くるっと、私は回った。
無我夢中で、身体が勝手に回った感じだった。
「そうそう。どう? 僕とのフォークダンス」
ひときわ大きく、心臓が跳ねた。
優しい声。耳心地のいい声。
そんな声に訊かれて……答えは、考えるまでもなかった。
「た、楽しい……!」
自然と頬が緩んだ。握る手に力がこもる。けれど、身体の固さや動きにくさはぜんぜんない。足は軽くて、彼のテンポに合わせて私もステップを刻んでいく。
「良かった。僕も楽しいよ」
「ふふっ!」
私は踊っていた。
心も踊っていた。
フォークダンスが、初めて心から楽しいと思えた。
きっとそれは、決して上手なダンスではなかった。
ステップはやっぱり間違えるし、ターンだってぜんぜん綺麗じゃない。
けれど、流れる音楽にリズムを乗せて、岡本くんの呼吸に合わせて身体を動かすその時間は、とても充実していた。
ずっと踊っていたい。
そんな気持ちが脳裏によぎったその瞬間に、音楽が止んだ。
「……」
「……」
静寂が戻る。
手を繋いだまま、私たちは見つめ合っていた。
胸のあたりにはまだ、リズムが残っている。
「……ははっ」
「……ふふふっ」
私たちは顔を見合わせて笑った。一度笑うとそれは止まらなくて、夜という事実にどうにか声だけは抑えて二人して笑い合った。
ひとしきり笑うと、私たちはどちらからともなく手を離した。
「踊れたな」
「うん。踊れた!」
穏やかな声に私は大きく頷く。
それと同時に、私は自分の中に芽生えた感情を自覚した。
けれど、その気持ちは口にしない。だって、私たちは……
「じゃあ、もういい時間だし、帰ろうか」
彼はさっきまでと変わらない声色で言った。
心を満たしていた温もりが、ゆっくりと冷えていく。
「うん……そだね」
そう。私たちのダンスは、今日が最初で最後だ。
もともと、一組の私と四組の岡本くんはまるで接点がない。高校に入ってかなり経つのに、今日が「はじめまして」だったくらいだ。
今向かい合っているこの瞬間は、偶然がいくつも重なってできた奇跡みたいなもので、きっとそれはもう訪れない。
「お互い、本番も楽しもうな」
ベンチに置いた鞄を手にとり、彼は笑いかけてくる。
私は小さく頷くけれど、きっと今日以上には楽しめないだろうなと思った。だって私がこんなにも楽しめたのは、パートナーが岡本くんだったからだ。
「今日は本当にありがとうね、岡本くん」
私も鞄を肩にかけて、彼の隣に並ぶ。
今日以上は無理かもだけど、本番はもちろん、体育祭までの練習もなるべく楽しもう。そうすることが、きっと岡本くんと楽しく踊れたことの証になるはずだから。
「こちらこそ、楽しい時間をありがとう、佐々木さん」
心に渦巻く寂しさを噛みしめながら、私は「どういたしまして」と精一杯の笑顔を浮かべた。
たった一夜の情熱的なダンスが、終わった瞬間だった。