「おにいちゃ! おばあちゃ! あっちは?」

 田畑の見回りの途中でピナレラちゃんが山々を指さした。もなか村の山だ。俺たちは山も川も含めた村ごと転移してきている。

「あっちはばあちゃんの山だあ。ピナレラちゃん、明日早起きするなら連れてくで」
「ほんと? あたちはやおきちゅるうー!」
「……くっ」

 俺は思わず小さく呻いた。する、がちゅる、になってるピナレラちゃんめんこい。
 これがあれか、尊いという感覚か。俺の自分では悪くないと思ってる顔がゆるんゆるんに蕩けているのがわかった。

 ゆっくり村の中を散策して、陽が落ちてくる前に俺たちは帰路についた。
 ばあちゃんと手を繋いでおしゃべりするピナレラちゃんを、俺は後ろから見守りながら歩いた。

 そしてふと考え込んでしまった。
 多分もう元の世界には戻れないんだろうな、と。
 実は昼過ぎに男爵の屋敷から自宅に戻る前、男爵からこっそり教えられていたのだ。

『異世界から転移してきた人で、元の世界に戻れた記録は残ってないんだ。もし君たちがこの世界に骨を埋める覚悟ができたなら教えてくれ。――戸籍はその後で作るからね』

 ……次元の狭間で会った虹色キラキラの宇宙人トリオは帰れるみたいなことを言ってたんだがなあ。
 これが元の世界に帰れる方の異世界転移なのか。帰れないほうなのか。今のところ判断材料がなかった。

 でも、もし本当に帰れないとしたら。そう考えるとどこかホッとした自分がいた。
 多分、ばあちゃんや村長、勉さんも、この新しい生活に覚悟を決めている様子だったからだろう。

「おにいちゃ! おにいちゃもはやおきして! やま、あそびにいきまちょ!」

 ピナレラちゃんが元気いっぱいに駆け寄ってきて、俺の手を引っ張った。小さくて柔らかな手の感触。歩き回ったからお互い汗でちょっとしっとりしている。
 柘榴色の透き通ったお目々をキラキラさせた無邪気な笑顔に、俺は悩みが吹っ飛んでいくのを感じた。

「いいよ、行こうか!」と答えながら、俺はふと思った。
 もう、このままど田舎村に帰化して、ピナレラちゃんを引き取って……そんな未来も悪くないかもしれない。
 だって日本に戻ってもなか村の村長に就任して、それでどうなる? 確かに故郷の村は大切だし村長の給料額は魅力的だったが、待っているのは犯罪すれすれの隠蔽工作に明け暮れる日々だ。
 それで俺、幸せか? と。

 日本に戻ったらきっとまた俺は元カノのことを思い出して、夜中に渡せなかった指輪を見ては泣いてしまうだろう。
 日本とは何もかも違う異世界(ここ)にいれば、辛い記憶も薄れていくんじゃないか? 新しい生活にそんな期待があった。

 異世界転移やこの村は、まるで新しい章に入ったようだった。
 異世界人だからと迫害されることもなく、食うことも寝ることも困らず、人々は優しい。
 悩む時間は無駄じゃないか? このど田舎村で、新たな人生を歩んでもいいんじゃないか?



 その日の夕食はばあちゃんが気合いを入れて米を炊いた。もなか村の特産、ささみやびだ。
 ピナレラちゃんが気に入ってくれるといいけど。

 日本にいたなら炊飯器を使うことが多かったが、ここはいつ電気が途切れるかわからない異世界だ。ばあちゃんは物置から大きな土鍋を引っ張り出してご飯炊き用に決めたようだ。

 俺とピナレラちゃんは台所で料理するばあちゃんを後ろのテーブルから見学だ。ピナレラちゃんはお手伝いしたがったが、まだどこに何があるか把握してないだろうし流し台も高くて危ないからな。
 普段、食事は居間のちゃぶ台で取ることが多いのだが、朝など時短で済ませたいときは台所のテーブルを使う。

 今どきの炊飯器は高機能だしばあちゃんちのも釜炊き機能が付いたものだった。
 が、やはり土鍋炊き最強。外の見回り前に浸水してあった米と水を土鍋に入れ、強火にかける。沸騰してきたらそのまま吹きこぼれてもじっと我慢。はじめちょろちょろなかぱっぱ、のご飯炊きの極意の火加減で何回かに分けてコンロの火を弱火へと調整していく。
 だいたい土鍋炊きだと沸騰から十数分ほどで炊くのは終わる。最後の一分だけまた強火に戻すと……あああああ。チリチリと土鍋の底でご飯が焦げていく匂い。もちろん完全に焦がすわけじゃない。炊飯器では作りにくいお焦げを作っているのだ。

 そこから更に十分そのまま蒸らす。米を炊いて蒸らすその間にささっとばあちゃんは味噌汁とおかずを作っていた。さすが主婦歴半世紀超え。手際がいい。

 蒸らし時間も終わり、土鍋の蓋を開けると……
 ぶわーっとほんのり甘く香ばしいご飯の匂いが台所いっぱいに広がった。これは何回体験しても幸福な瞬間だなあと思う。
 ピナレラちゃんは土鍋から上がる真っ白い湯気にビックリして大きな目をパチパチ瞬かせている。

 ……ふ。異世界の幼女よ、もなかの米、たんと召し上がれ!