真っ白なキャンバスと数十分もの間、睨めっこをしていたが結局なにも思い浮かばず「はぁ」と溜息をついた。
 気分転換に近くの公園にでも行こうとパレットと筆を置き、外出の準備をする。
 「うわ、やば。酷い顔」
 洗面所の鏡に映る石嶺陶冶(いしみとうや)は、眼の下には濃いクマができ、髪はぼさぼさ。三日間も放置された髭は伸びに伸びきっている。
 普段の何十倍も生気が感じられなかった。
 暑いシャワーを頭から浴びると、先ほどまであった薄靄が汗と共に流されていく。それと同時に凝り固まっていた思考が働き始めた。
 芸術は自由なのだから描きたいものを描けばいい。音楽だって、小説だって、漫画やアニメだってそうだ。
 わかっているつもりだけれど、いざ筆を執ると何を描けばいいのか、どうしたらいいのか、本当にこれで合っているのか。親父が死んでからはいつも不安になってしまい、描いては落胆の繰り返しだった。
 
 暇で始めただけの水彩画だった。親父の影響の方が大きいかもしれないけれど。
 親父の趣味は絵画を集める事だった。自室には風景画や静止画などが幾つも壁に飾られていた。

 「観てみろ陶冶。凄いだろー。これ全部父さんが集めたんだぞ」

 その頃の僕は色の付いた絵のなにが凄いのかわからず「ふーん」と鼻で返事をすることしかできなかった。
 学校のテストで満点を取ったとしても、運動会で一位を取ったとしても親父は「凄いじゃないか」と褒めてはくれたけれど、頭を撫でてはくれなかった。
 
 「……絵ばっかり」
 
 そんなある日、小中学生に向けた年に一度行われる全国絵画コンクールで、僕はまさかの銀賞を獲得した。
 親子で海を優雅に泳ぐ二匹のイルカ。綺麗な群青色の海中に太陽の柔らかな光がイルカ達を優しく照らし、二匹は寄り添いながら楽しそうに泳ぐ。親子をテーマとした絵だった。タイトルは『海とアイ』

 「親父!みてくれよ!僕これ描いたんだよ、そしたらほら!銀賞だったんだよ」
 
 その絵を観た途端、親父は涙を流しながら何も言わずに僕の事を抱きしめてくれた。
 ぎゅっと強く。深海に沈んで冷めきっていた僕を抱き上げるように強く。
 嬉しかった。撫でられる以上の事をしてもらえて、初めて僕の事を見て貰えた気がして。
 親父は絵よりも僕をきちんと愛してくれていたんだ。忘れてなんかいなかったんだ。
 
 「これ母さんにも見せてくるからな!」
 「うん!」
 
 そう言い、仏壇に置かれた母の写真に、僕の絵をあたかも自分が受賞したかのような物言いで語り始めた。
 「観えるか」と返事など帰ってくるはずもない母に「ここが上手い」とか「ここの色が」とか。
 泣きながら話す親父の背中に何とも言い難い気持ちになり、つい僕も涙を流した。
 仏壇に居る笑顔の母はいつも以上に笑っているように見えた。
 
 高二の夏、美術部に所属する僕は夏休みに突入したにも拘らず部室でコンクールに出品する水彩画の作成を行っていた。
 朝食を抜いたせいで十一時頃にはお腹が空き過ぎて集中力が続かなかった。
 
 「丁度いいか。なんにも思い浮かばないし、なんか買いにいこ」
 
 立ち上がったその時、後ろポケットに入れていた携帯が着信音と同時に震え出した。
 知らない番号。暑さのせいではない嫌な汗が噴き出す。何か不吉な事が起こる予感がした。
 今日は早起きをしたんだ、電車では席を譲ったし信号だって点滅した時は珍しく止まった。だから何も無いはずだ。
 固唾を飲み、緊張した震える指先で画面を操作する。
 
 その日、僕の家族は死んだ。