大極殿の裏に位置する清和殿と呼ばれる建物が、皇帝が普段過ごす場所である。
建物全体に人間にはわからない結界が貼ってあり、不審な者が足を踏み入れると皇帝である暁嵐にわかるようになっている。
暁嵐が外廊下を足早に進み私室へ入ると、側近の秀宇が首を垂れて待っていた。
扉が閉まると同時に、漆黒の外衣を脱ぎ捨てる。腰掛けに身を預け、長い脚を組む。黒い髪をかき上げ、切れ長の目で側近を見ると、彼は口を開いた。
「暁嵐さま、お妃さま方との顔合わせ、お疲れさまにございます」
「ああ」
「いかがでしたか」
「べつにどうということはない。いたのはわずかな時間のみだ」
顔を合わせといっても、暁嵐は妃たちに興味があるわけではない。ただ国の慣例に則って足を運んだまでのこと。
「ですが、少々意外でした。皇太后さまがご用意された後宮の儀式に暁嵐さまが参加されるとは」
含みのある側近からの言葉に、暁嵐はふっと笑った。
「茶番に付き合うくらいはするさ、相手は一応皇太后だ」
「ですが、これまでのいきさつを考えると、なにもないわけがありませぬ」
「まぁな」
暁嵐は肘をついて頷いた。
息子を帝位につけたいと願う皇太后が、自分の命を狙っているのは宮廷では知らない者はいない。
皇太后は、先帝の力が衰えた頃からやりたい放題しはじめた。
お気に入りの取り巻きたちを要職につけ、賄賂で私服を肥やし贅沢三昧。宮廷には腐敗が蔓延り国は乱れた。
皇帝の力が弱まったことにより、国の端で魑魅魍魎に人が喰われてもなんの対策も立てなかったのだ。
今も、自分の息子を帝位につけて、さらに権力を維持し続けたいと暁嵐の命を虎視眈々(たん)と狙っている。
暁嵐が即位してまず取りかかったのは、魑魅魍魎の平定だ。
自ら国境へ出向き、結界を張り直した。そちらについては落ち着いたといえるだろう。
そして次に、宮廷内に蔓延っている腐敗の一掃に取りかかっているが、これについては未だ道半ば。たくさんいる家臣のうち、どの人物が皇太后と通じているのか確たる判断がつかずにいる。
皇太后を排除するのが一番手っ取り早いのだが、明確な証拠がない状態ではそれもできない。
のらりくらりやりながら、相手が尻尾を出すのを待っている。
「こちらから潜り込ませている間者からの話によると、昨夜皇太后さまは秘密裏にどこかへ行かれたご様子。この時期を考えると後宮と無関係ではないでしょう。妃の中にあなたさまの命を狙う刺客を紛れ込ませたのではないかと……」
秀宇からの報告に、暁嵐は笑みを浮かべた。
「まぁそんなところだろう」
幼い頃からずっと命を狙われ続けてきた自分が、こうして生きながらえているのは鬼の力が強いからだ。
暁嵐の力は父を遥かに超えていて、だからこそ父は一の妃だった皇太后の意見を退けてでも暁嵐を後継に指名した。
もし皇后の望み通り、弟の輝嵐が即位したらまた国は荒れるだろう。彼はその器ではない。
だがそんな自分でも、妃と褥をともにしている時だけは力が弱まるとされている。
国の中でも皇族とごく近しい者しか知らないことだが、当然皇太后は知っている。その時を見逃すはずがない。
「今、どの妃が皇太后の息がかかった者なのか、調べておりますゆえ、それまでは陛下……」
「わかっている」
暁嵐は、秀宇の言葉を遮った。
「どの妃も寵愛するつもりはない。そもそも女にかまっている暇は今の俺にはないからな。国を立て直すのが先だ」
人間から捧げられる生贄の娘など、無駄な決まりごとだと心底思う。後継を残すことは国にとって必要だが、複数の妃は必要ない。
複数の妃に複数の子があれば、今のような争いごとになるのは目に見えている。
皇帝の寵を争う女たち。
暁嵐がもっとも嫌悪するもののひとつだ。
暁嵐の母は、後宮女官だった人物で父から閨へと望まれたことにより、妃の身分に召し上げられた。
だが本当は、故郷に将来を約束した相手がいたという。女官の仕事を勤め上げ、あとひと月で実家に戻るというところで皇帝の目に留まった。
許嫁がいるからと指名を拒めるはずもなく、閨へはべり子ができた。
その後は、当時一の妃であった皇太后にいじめ抜かれたという。
女官から妃になったことで後宮では厳しい立場に追いやられたのだ。暁嵐は母が笑うのを見たことがない。
その母は、暁嵐が十になる年に亡くなった。表向きは、病死ということになっているが、皇后による毒殺で間違いないだろう。なにせ食事を口にした直後にもがき苦しみ息絶えたのだから。
皇帝の寵を争い、相手の命を狙うなど、心底くだらないと暁嵐は思う。
自分の代では同じ悲劇は起こさせない、後宮の妃は寵愛しないと決めている。
「とはいえ、いずれはお妃さまをお迎えいただかなくてはなりませんが……」
秀宇が遠慮がちにそう言った。
正直なところ暁嵐は、女に興味が持てなかった。いやそれどころかどこかで嫌悪しているようにも感じるくらいだ。
おそらく後宮にて虐め抜かれて命を落とした母を目の当たりにした経験がそうさせるのだろう。
自分が女と心を通い合わせ愛し合うなど、想像もつかない。
そうはいっても、国のために血を残すのは必要だ。
いずれは、信頼できる女性をめとることになる。
その時は、愛することはできなくとも、ただひとりの妃として、大切にすると決めている。信頼できる……そのような女がいれば……の話だが。
「わかっておる。しかるべき時が来たら、しかるべき相手を妃に迎える」
ため息まじりにそう言って、政務に戻るため立ち上がった。
建物全体に人間にはわからない結界が貼ってあり、不審な者が足を踏み入れると皇帝である暁嵐にわかるようになっている。
暁嵐が外廊下を足早に進み私室へ入ると、側近の秀宇が首を垂れて待っていた。
扉が閉まると同時に、漆黒の外衣を脱ぎ捨てる。腰掛けに身を預け、長い脚を組む。黒い髪をかき上げ、切れ長の目で側近を見ると、彼は口を開いた。
「暁嵐さま、お妃さま方との顔合わせ、お疲れさまにございます」
「ああ」
「いかがでしたか」
「べつにどうということはない。いたのはわずかな時間のみだ」
顔を合わせといっても、暁嵐は妃たちに興味があるわけではない。ただ国の慣例に則って足を運んだまでのこと。
「ですが、少々意外でした。皇太后さまがご用意された後宮の儀式に暁嵐さまが参加されるとは」
含みのある側近からの言葉に、暁嵐はふっと笑った。
「茶番に付き合うくらいはするさ、相手は一応皇太后だ」
「ですが、これまでのいきさつを考えると、なにもないわけがありませぬ」
「まぁな」
暁嵐は肘をついて頷いた。
息子を帝位につけたいと願う皇太后が、自分の命を狙っているのは宮廷では知らない者はいない。
皇太后は、先帝の力が衰えた頃からやりたい放題しはじめた。
お気に入りの取り巻きたちを要職につけ、賄賂で私服を肥やし贅沢三昧。宮廷には腐敗が蔓延り国は乱れた。
皇帝の力が弱まったことにより、国の端で魑魅魍魎に人が喰われてもなんの対策も立てなかったのだ。
今も、自分の息子を帝位につけて、さらに権力を維持し続けたいと暁嵐の命を虎視眈々(たん)と狙っている。
暁嵐が即位してまず取りかかったのは、魑魅魍魎の平定だ。
自ら国境へ出向き、結界を張り直した。そちらについては落ち着いたといえるだろう。
そして次に、宮廷内に蔓延っている腐敗の一掃に取りかかっているが、これについては未だ道半ば。たくさんいる家臣のうち、どの人物が皇太后と通じているのか確たる判断がつかずにいる。
皇太后を排除するのが一番手っ取り早いのだが、明確な証拠がない状態ではそれもできない。
のらりくらりやりながら、相手が尻尾を出すのを待っている。
「こちらから潜り込ませている間者からの話によると、昨夜皇太后さまは秘密裏にどこかへ行かれたご様子。この時期を考えると後宮と無関係ではないでしょう。妃の中にあなたさまの命を狙う刺客を紛れ込ませたのではないかと……」
秀宇からの報告に、暁嵐は笑みを浮かべた。
「まぁそんなところだろう」
幼い頃からずっと命を狙われ続けてきた自分が、こうして生きながらえているのは鬼の力が強いからだ。
暁嵐の力は父を遥かに超えていて、だからこそ父は一の妃だった皇太后の意見を退けてでも暁嵐を後継に指名した。
もし皇后の望み通り、弟の輝嵐が即位したらまた国は荒れるだろう。彼はその器ではない。
だがそんな自分でも、妃と褥をともにしている時だけは力が弱まるとされている。
国の中でも皇族とごく近しい者しか知らないことだが、当然皇太后は知っている。その時を見逃すはずがない。
「今、どの妃が皇太后の息がかかった者なのか、調べておりますゆえ、それまでは陛下……」
「わかっている」
暁嵐は、秀宇の言葉を遮った。
「どの妃も寵愛するつもりはない。そもそも女にかまっている暇は今の俺にはないからな。国を立て直すのが先だ」
人間から捧げられる生贄の娘など、無駄な決まりごとだと心底思う。後継を残すことは国にとって必要だが、複数の妃は必要ない。
複数の妃に複数の子があれば、今のような争いごとになるのは目に見えている。
皇帝の寵を争う女たち。
暁嵐がもっとも嫌悪するもののひとつだ。
暁嵐の母は、後宮女官だった人物で父から閨へと望まれたことにより、妃の身分に召し上げられた。
だが本当は、故郷に将来を約束した相手がいたという。女官の仕事を勤め上げ、あとひと月で実家に戻るというところで皇帝の目に留まった。
許嫁がいるからと指名を拒めるはずもなく、閨へはべり子ができた。
その後は、当時一の妃であった皇太后にいじめ抜かれたという。
女官から妃になったことで後宮では厳しい立場に追いやられたのだ。暁嵐は母が笑うのを見たことがない。
その母は、暁嵐が十になる年に亡くなった。表向きは、病死ということになっているが、皇后による毒殺で間違いないだろう。なにせ食事を口にした直後にもがき苦しみ息絶えたのだから。
皇帝の寵を争い、相手の命を狙うなど、心底くだらないと暁嵐は思う。
自分の代では同じ悲劇は起こさせない、後宮の妃は寵愛しないと決めている。
「とはいえ、いずれはお妃さまをお迎えいただかなくてはなりませんが……」
秀宇が遠慮がちにそう言った。
正直なところ暁嵐は、女に興味が持てなかった。いやそれどころかどこかで嫌悪しているようにも感じるくらいだ。
おそらく後宮にて虐め抜かれて命を落とした母を目の当たりにした経験がそうさせるのだろう。
自分が女と心を通い合わせ愛し合うなど、想像もつかない。
そうはいっても、国のために血を残すのは必要だ。
いずれは、信頼できる女性をめとることになる。
その時は、愛することはできなくとも、ただひとりの妃として、大切にすると決めている。信頼できる……そのような女がいれば……の話だが。
「わかっておる。しかるべき時が来たら、しかるべき相手を妃に迎える」
ため息まじりにそう言って、政務に戻るため立ち上がった。