晴れ渡った空の下、草原の中を黒い馬が駆け抜ける。
 凛風はその馬に乗り風になったように感じていた。黒い髪を風になびかせて、目を輝かせて。
 目の前に広がるのは、どこまでも続く緑色の大地。その向こうには海が広がっているのだという。凛風の胸は高鳴った。
 早く見たい、あそこへ行こうと、黒翔に合図を送ろうとした時。
「凛風!」
 自分を呼ぶ声に振り返る。黒翔に止まるよう合図を送り振り返ると、白い馬に(またが)った暁嵐が追いついてきた。彼の後ろ遥か向こうに、彼と自分の従者たちの一団がいる。
 もうすぐ海が見えると耳にしてたまらずに駆け出しているうちに、いつのまにかずいぶん離れてしまったようだ。
 手綱を引き、暁嵐を待った。
「勝手に先に行くなと言っているだろう。なにかあったらどうする」
 暁嵐が渋い表情で小言を言った。
「ごめんなさい。早く海まで行きたくて」
 凛風は眉尻を下げて謝った。
「ったく……。乗り手も馬も、じゃじゃ馬だ。黒翔も黒翔だ。凛風がいる時は凛風しか乗せないとは……。白竜を見習え」
 ぶつぶつと言う彼に、黒翔がヒヒンヒヒンといなないた。
 今暁嵐が乗っているのは、凛風の実家にいた白竜だ。郭家が解体された後はるばる都へ連れてこられた。もちろん凛風の希望である。
 感激の再会を果たした後、凛風を乗せるための馬として城へ迎え入れられた。今では黒翔のよき伴侶となった。
 療養を終えた凛風は暁嵐に馬の乗り方を教わった。乗馬に欠かせない馬との信頼関係はすでにあったから、すぐに習得し、皇后としての役割の合間に楽しんでいる。
 黒翔が凛風を乗せたがるため、暁嵐とふたりで騎馬で出かける時は、暁嵐は気性の穏やかな白竜に乗ることが多かった。
 凛風の毎日は、黒翔と白馬の世話ではじまる。普通、皇后は馬の世話をするものではないとわかっているが、これだけは譲れなかった。
「ごめんなさい、暁嵐さま。海が見えると聞いて我慢できなくなってしまって……」
 しょんぼりと肩を落として凛風は言う。彼に心配かけることは、凛風がもっともしないように気をつけてことのひとつだ。
 暁嵐が前方を見て口を開いた。
「焦らずとも、かの町へはもうすぐ着く。あの丘を越えたら見えてくるだろう。町へは俺たちが行くと前もって知らせてあるから皆待ちかねているだろう」
 皇太后が謀反を企てて離宮が炎上するという事件から、一年が過ぎた。
 しばらくは宮廷も民も騒がしかったが、ようやく落ち着いたこの日、凛風と暁嵐は都を離れ、かの町を目指している道中にいる。
〝かの町へいつか連れていく〟という約束を、果たしてくれるためである。
 かの町へは馬で駆けて二十日ほど。凛風と従者を連れている状況では三十日ほどかかる。だが今日は、都を出て四十日目、日程が予定より遅れてしまったのには事情があった。
 凛風が立ち寄った町にて、ちょくちょく寄り道をしたからである。観光をしたわけではない。町の人々の話を聞いていたのである。
 皇后になってからはじめて城を出た凛風が、どうしてもしたかったことのひとつだった。
 暮らし向きはどうか。
 つらいことはないか。
 誰かに酷い目に遭わされていないか。
 今の炎華国が、己の心のままに生きられる世になっているのかということを自分の目で確認したかったのだ。
 町の人々の話を聞く際は、皇后だと名乗ることもなく徒歩で町を歩き、話を聞いて回った。民の気持ちそのままを耳にしたいからだ。
 今のところおおむね、凛風が望んだ世が実現しつつあると感じていて、とても嬉しかったけれど、そのために日程がずいぶん遅れてしまったというわけだ。
 かの町の人たちが待ちかねていると聞き、凛風は申し訳ない気持ちになる。
「着くのが遅くなったのは私のせいですよね。申し訳ござません」
 凛風が旅の日程について詳しく聞かされ、予定が遅れていることを知ったのは昨日だった。それまでは町の人々に話を聞いて回る凛風を誰ひとり急かさなかったからだ。
 とはいっても、だからそれでいいとは言えないだろう。
 この旅は私的なものではなく皇帝の視察。ただ日程が遅れたというだけで済むことではない。
今のところ治世が安定しているとはいえ、都に皇帝が不在の状態が長く続くのはよくないことに違いない。
 立后して一年ほど経つのに、自分の行動で暁嵐に迷惑をかけてしまったのが情けなかった。
 肩を落とす凛風に、暁嵐がふっと笑った。
「謝ることではない。むしろ礼を言うべきだろう。やはり、俺が末長く正しい政をするためにはお前が必要だと確信したよ。だから日程が遅れていることを、昨夜まで黙っていたんだ」
「お礼?」
 言葉の意味がわからずに凛風が首を傾げると、暁嵐が理由を説明する。
「民の思いを聞くのは政には必要不可欠だ。今回の旅ではそれを存分にすることができた。日程が遅れるくらいどうということはない」
「でもそれは私がいなくとも……。暁嵐さまも町の人たちの言葉に耳を傾けていたじゃないですか」
 町へは凛風ひとりで行ったわけではない。暁嵐もそばにいて一緒に話を聞いていた。
「いや、お前がいたからだ。町に行く時は身分を明かさなかったが、俺は威圧感があるからな。どうしても警戒されてしまう。凛風、お前の持つ柔らかい空気が、相手の心を開かせる。民の本音がたくさん聞けた」
 それはきっと凛風が貴族の娘としての教育を受けておらず、贅沢な暮らしも知らなかったからだ。町の人々の困りごとには共感できることも多かった。
 いつかの日の宴では、そんな自分を他の妃と比べて引け目に感じたこともあった。でもそれが彼の役に立っているのだと思うと嬉しかった。
「皆、暁嵐さまが即位されてから、安心して暮らせていると言っていましたね」
 弾んだ声で凛風は言う。
 都へ帰ったらこの旅の経験を存分に活かして、皇后の仕事に邁進しようと決意する。
 謀反の夜、もう自分のような悲しい思いをする人が出ないような世の中になってほしいと強く願った。
その願いを暁嵐と一緒に実現できる立場にいることが嬉しかった。
 凛風の言葉に暁嵐が頷いて、青い空を見上げ、少し感慨深げな声を出した。
「凛風、お前と出会う前の俺が、穏やかな世を作ろうと心に決めていたのは、本当のところ民を思っていたのではなく、自分のためだったのだと思う」
「自分のため……?」
「ああ、母上を失った悲しみと行き場のない怒りを、先の皇太后を追い出し平穏な世を作ると決意することで乗り越えようとしたのだろう」
 少し寂しげな眼差しで空を見つめる暁嵐に、凛風の胸がギュッとなった。
 笑わない母を失った少年は、倒すべき相手を憎み目標を持つことで、自らの心を守っていた。
「だが今は民のためだと心から言える。凛風、お前のおかげだ。お前の澄んだ心に触れたおかげで、俺は人を好きになった。この国の民がすべからく幸せであるよう、力を尽くしたいと思う。皇太后は俺から大切なものを奪ったが、お前との出会いを作ったことだけは、感謝している。末長く国を治めるために、俺には凛風が必要だ」
「暁嵐さま……」
 自分にそれほどの力があるとは思えない。
 凛風の方こそ、彼からたくさんのものをもらった。今こうしてここにいられるのはすべて彼のおかげなのだから。
 それでも、凛風がそばにいることを彼が望むというならば、永遠に一緒にいる。この出会いは必然だと思うくらいだった。
「暁嵐さま、私、ずっと暁嵐さまのおそばにいます」
 言葉に力を込めてそう言うと、暁嵐が目を細めて微笑んだ。
 そこへ、ようやく従者たち一団が徒歩でふたりに追いついた。
「こ、皇后さま……! おひとりで駆けていかれては困ります! 御身大切にしていただきませんと!」
 秀宇が青筋を立てて凛風に意見した。
「本当ですよ! 陛下にご心配をおかけするのはやめてくださらないと、皇后さま!」
 秀宇の弟子となった浩然も小言を言って凛風を睨んでいる。
 無事科挙に合格した彼は最年少で役人となり、今は城で働いている。今回の旅にも秀宇の弟子として参加しているのだ。
 姉弟で旅をしたことのないふたりへの暁嵐からの心遣いでもある。
「申し訳ありません……」
 凛風は素直に謝る。心の中でまたやってしまったと思いながら。
 秀宇は、凛風に対して非常に丁寧に接してくれる優秀な側近なのは確かだが、やや心配症で口うるさいところがある。皇后らしくないと叱られることも多かった。
 しかも浩然は、彼に輪をかけて口うるさい役人になってしまった。特に凛風が暁嵐に心配をかけるようなことをすると、こうやって(よう)(しゃ)なく叱られる。
 弟が立派になるのを見たいという凛風の夢は叶ったけれど、それにしても立派になりすぎでは?と思うくらいだった。
「そのくらいにしてやってくれ。凛風は海を見るのがはじめてなのだ。気がはやるのも仕方がない」
 とりなすようにそう言って、暁嵐が秀宇に指示をする。
「俺と凛風は先に行く。お前たちは、焦らずゆっくり来るがいい。日暮れまでに町に着けばいい。凛風、先に行こう。海に陽が沈むところを見せてやる」
「はい!」
 一刻も早く花の町と海を見たい凛風は張り切って答える。
 一方で、秀宇は目を剥いた。
「なっ!? いけません暁嵐さま。おふたりだけで行かれるなど……! この辺りは山賊はおりませんが……」
「案ずるな、俺が一緒なら大丈夫だ。ほら、凛風行くぞ!」
 そう言って彼は手綱を握り直し、先ほど指差した丘に向かって走り出す。
 凛風も黒翔に合図をして彼を追った。
 頬にあたる風と草の香りが心地いい。
 暁嵐が振り返り、凛風を優しい目で見つめた。この眼差しに導かれてここまで来たのだと凛風は思う。
 そしてこれからもずっと彼について行きたい。彼に救ってもらったこの命が尽きる日まで。
 小高い丘を駆け上がると目の前が開ける。
 眼下にどこまでも続く青い海と、凛風が憧れ続けた花の町が広がっていた。