午後の日差しが差し込む、開け放った窓枠にひと握りの米をパラパラと撒く。しばらくするとピイピイと鳴き声が聞こえて、白い小鳥が降り立った。
 そのまま小鳥は嬉しそうに鳴きながら一生懸命、米をついばむ。その様子を、窓辺に置かれた寝台から凛風は微笑んで見ていた。
 しばらくすると小鳥は凛風の寝台にチョンチョンと飛び跳ねながらやってきて肩に乗る。礼をするように凛風の頬をくちばしで突いた。
 くすぐったい感覚に、思わずくすくす笑うと、喉が引きつれるような感覚がしてそっとそこを手で押さえる。でももう痛みはなかった。
凛風がホッと息を吐いていると。
「凛風妃さま、陛下の御成にございます」
 部屋の扉が少し開いて、女官から声をかけられる。
 小鳥が、ピピッと鳴いてバサバサと窓の外に飛び立っていった。
 しばらくすると、黒い外衣を纏った暁嵐が現れた。
「凛風!」
 正装姿ということは、政務を抜けてきたのだろう。足早にこちらへやってきて寝台に腰を下ろし凛風を腕に抱いた。
「具合はどうだ? 大事ないか?」
 心配そうに確認する。凛風がにっこり笑って頷くと、安堵したように笑みを浮かべて、凛風の頬に口づけた。
 皇太后が謀反を起こし、都の端の離宮が炎上してから三月が経った。
 あの夜、自ら喉を刺し意識を失った凛風はそれからひと月の間生死の境を彷徨った。
 後から聞いたところによると、凛風が意識を失った後すぐに暁嵐が刻を止める術をかけてくれたという。皇太后たちを一掃し、城へ戻った暁嵐により宮廷医師に預けられ、手厚い治療を受けた。それがなければ、多量の血を失っていた凛風は、ひと晩持たなかっただろう。
 命の心配がなくなってからも、回復には時間を要した。なにせ喉を大きく損傷しているのだ。食べるのも飲むのもままならない。ようやくそれらができるようになり、寝台の中でなら、日中も起きていられるようになったところだ。
 凛風の意識が戻った時には謀反に関する罪人の処分はすべて終わった後だった。暁嵐から聞かされた父と継母の最期と、両親を失った美莉が行方知れずだという話に、これで本当に終わったのだという安堵のような、言葉にしがたい複雑な思いを抱いた。
 兎にも角にも前だけを向いて生きていこうと心に決める。
「なにかあればすぐに呼べ。俺はいつでも来るから」
 暁嵐はそう言って凛風を抱く腕に力を込めた。
 話によると、凛風が昏睡状態だった時は、暁嵐は最低限の政務以外はずっとそばにいてくれたようだ。夢と現を行ったり来たりしていた頃、彼の声を聞いたような気がしたのは、そのおかげだったのかもしれない。
 凛風の意識が戻ってからも、彼は可能な限りそばにいる。それは凛風のためというよりは、彼自身のためのようであった。
 凛風の枕元に座る鎮痛な面持ちは、はじめて見る彼だった。
 今もこうやって一日に何度も政務を抜けて凛風の部屋へやってくる。凛風が生きているのを確認するかのように。
「喉の傷はどうだ? まだ痛むか?」
 この質問も毎日のことだった。
 凛風は首を横に振る。もう傷は痛まないという意味だ。さっきは笑った際も引きつれるような感覚はあったものの痛みは感じなかった。
 喉の傷がひどかった凛風は、医師に傷が完全に治るまでは声を出すのを禁じられている。だから周りとの意思疎通はこうやって首を動かしてする。
 暁嵐は凛風の喉をじっと見る。凛風の言うことが本当か無理をしていないかと確認しているのだ。
 本当なら彼はここでこんなことをしている場合ではない。
 なんと言っても彼はこの国の皇帝なのだ。
 謀反と離宮が炎上したことによって不安定になっている政を立て直し、民を安心させなくてはならないのだから。
 だからいつも凛風は昼間に彼が来ると嬉しいと同時に少し申し訳ない気持ちになる。
 でも今は……。
 自分を見つめる暁嵐に凛風はふふふと笑みを漏らす。今日は彼の訪れを心待ちにしていたのだ。ちょうど報告したいことがあったから……。
「どうした? なにか嬉しいことでもあったのか?」
 暁嵐もつられるように笑みを浮かべ問いかける。
 それに凛風が頷くと、眉を上げて首を傾げた。
「どうした?」
 凛風は彼を見つめたまま、口を開いた。
「暁嵐さ、ま」
 いきなり声を出して彼の名を口にした凛風に、暁嵐が目を見開いた。
 実は今朝の診察で、もう声を出してよいと言われたのだ。だから、凛風は彼が来るのを待っていた。どうしても第一声は彼の名を呼びたかったから。
「……声を出して大丈夫なのか?」
 事情を知らない暁嵐は心配そうに眉を寄せる。凛風は安心させるよう、ゆっくりと説明をする。
「はい、もう声を出していいとさっき医師さまに言われました。だから暁嵐さまをお待ちしていたんです。私、一番はじめは暁嵐さまのお名前を呼びたかったから……やっぱりちょっと掠れてしまいまっ……!」
「凛風!!」
 暁嵐が凛風を抱く腕に強く力を込めて、凛風の肩に顔をうずめた。
「よかった……!」
 そのまま凛風の髪に口づける。それ以上は言葉にならないようだった。凛風も彼の背中に腕を回して精一杯力を込めた。
「暁嵐さま」
 こんなに喜んでくれる彼が愛おしくてたまらなかった。
「まだ無理はできないから、たくさんおしゃべりしては、いけないみたいですけど」
 暁嵐が身を離し、凛風を額に自らの額をくっつける、
「ああ、まだ無理はするな。だけどひと言だけでも声が聞けたのが嬉しい。お前の声はどんなにいい声で鳴く鳥より美しいからな」
 大袈裟に言って心底嬉しそうに笑った。
 その笑顔に凛風が胸をドキドキさせていると。
「だが、そういうことならちょうどよかった。お前に会わせたい人物がいる」
 意外なことを言って立ち上がった。
 この部屋に女官と医師、暁嵐以外の人物が来るのははじめてだ。不思議に思う凛風をよそに彼は控えの間に向かって声をかける。
「入ってよいぞ」
 すると扉が遠慮がちに開いて意外な人物が現れた。
「浩然!」
 無理をするなと言われていたにも関わらず、凛風は声をあげてしまう。
「姉さま!」
 浩然も大きな声で凛風を呼び、凛風のもとへ走り寄りふたり固く抱き合った。
「浩然……! 元気そう。よかった」
 それ以上は涙でなにも言えなくなってしまう。
 浩然の方も同じだった。
 離宮が炎上したまさにあの日、浩然は暁嵐の側近である秀宇によって、皇太后の邸から助け出され、身柄を確保されていた。秀宇は、暁嵐から内密に皇后と凛風の繋がりについて調べるようにと、言われていたからである。
 郭家の者ではあるものの、浩然は、計画をまったく知らなかったという凛風の証言により、罪は逃れ、貴族の身分を剥奪されるだけで済んだ。
屋敷を出ることになったわけだが、彼はむしろ喜んだのだという。以前より科挙に受かり自分で自分の身を立てたいと願っていたからだ。その優秀さを見込まれ、秀宇の実家で本試験に向けて勉学に励んでいる。
 以上のことを凛風はすでに聞かされていた。もちろん会いたいとは思っていたが、おいそれと願うわけにはいかない。
 罪を逃れたとはいえ、ふたりとも世紀の大事件に絡む大罪人をふたりも出した家の出身なのだから。
 元気であればそれでいい、そう思ってはいたけれど。
「浩然……元気そうでよかった」
「姉さまこそ、命が危ないと気かされていた日々は毎日心配でなにも手につかなかったよ。唯一もらったあの手紙が形見になったらどうしようかと……」
 涙を流し、ふたり無事を喜び合った。
 少し離れたところにて、ふたりを見守る暁嵐が口を開いた。
「浩然は、科挙に受かれば正式に秀宇の弟子として召し抱えることになった」
 その言葉に凛風は目を輝かせた。
「秀宇さまの弟子に……? 暁嵐さま本当ですか?」
「ああ、秀宇たっての希望だ。非常に優秀だから俺の側近として育てたいと」
 それについては浩然自身も聞かされているのだろう。希望に満ちた表情で凛風を見ていいる。
「陛下は窮地にいた姉さまを救ってくださった命の恩人です。僕は陛下にこの身を捧げると決めたのです。そのためにまずは、科挙に受かり役人の資格を得ます」
「そう、試験頑張ってね」
 凛風は目尻の涙を拭いた。
「そうなればここへも出入りしやすくなる」
 暁嵐が付け加えた。
 暁嵐は事件後すぐに、後宮を廃止すると宣言した。
 反対する者たちに、少なくとも自分には必要ない残りたい者は残ればいいが、絶対にどの妃も寵愛しないと言い切ったのだという。
 今回の謀反で、暁嵐の凛風への愛の深さ、凛風の暁嵐に対する功績を目のあたりにしていた妃たちは、ひとり残らず後宮を去った。
 だから凛風は今、凛風も一緒にいられるよう改築を施した清和殿にて暁嵐とともに寝起きしているのだ。
 浩然が秀宇の弟子になり、これからも近くで成長を見られるならこんなに嬉しいことはない。
「浩然、秀宇さまのことをよくきくのよ。それからくれぐれも……」
「わかってるって、姉さん」
 凛風の言葉を遮り浩然は立ち上がった。
「僕、昼間は秀宇さまの仕事をお手伝いしてるんだ。そして夜は勉学。しっかりやってるからもう子供扱いしないでよ」
 生意気に言ってニカッと笑った。
「じゃあ、僕、これから仕事があるから。またね。陛下ありがとうございました」
 暁嵐に挨拶をして、部屋を出ていった。
「暁嵐さま、ありがとうございます」
 再び寝台へやってきて、凛風を腕に抱く暁嵐に、凛風は感謝の言葉を口にする。
 彼ははじめから刺客だとわかっていた凛風を愛し、生きる希望と自分で考える力をくれた。のみならず、弟の浩然の将来への道筋も開いてくれたのだ。
 感謝してもしきれないくらいだ。
「いやこれは本人の力だ。お前が命をかけるほど大切にしていた弟は、どうやら相当優秀みたいだからな」
 とそこで、暁嵐は凛風が浩然を思い喉を突いたことを思い出したようだ。眉を寄せて凛風を見る。
「だがなにがあっても、もう命を投げ出すことはせぬように」
 少し厳しい声音で釘を刺した。
「はい」
 ずっと凛風に付き添っていた暁嵐の苦しげな姿を思い出し、凛風は素直に頷いた。
「傷が残ってしまったな」
 暁嵐が、喉の傷にそっと触れる。
「たいしたことはありません。私もともと傷だらけですから」
 ひとつやふたつ傷が増えたとしてもたいして変わらない。そう言おうとした凛風の唇は……。
「少しくらい……ん」
 暁嵐の唇によって塞がれる。唐突に与えられた甘くて深い口づけに、凛風がぼんやりしだした頃、ようやくそっと解放される。
 すぐ近くから凛風を見つめたまま、暁嵐が低い声で囁いた。
「そのように言うのは、たとえお前自身でも許さないと言ったはずだ。傷があってもお前はすべてが美しい。だがこれ以上増やすことは許さない」
「暁嵐さま」
「この後、お前を傷つけた者は俺が厳しく罰する。それはお前自身もだ。わかったな」
 自分になど価値はないと思っていた頃が嘘みたいだった。今はそうするべきだと素直に思う。
 なにより自分を愛しみ大切に想ってくれる彼のために。
「はい、暁嵐さま」
 大好きな彼の優しい目を見つめてそう言うと、額に優しく口づけが降ってきた。