炎華祭が行われる離宮へは早朝に出発した。
豪華な籠に乗せられて、凛風は都の端にある離宮までの道をゆく。沿道は集まった人たちでごった返していた。
皇帝である暁嵐をひと目見ようと詰めかけた人々だ。
凛風には政のことはわからない。
それでも暁嵐が即位してからは、魑魅魍魎に人が喰われることはなくなった。皆暁嵐を見て口々に感謝の言葉を口にしている。
御簾を下ろした籠の中で凛風はそれをじっと見つめていた。
暁嵐の到着を待ち、離宮ではじまった炎華祭は、まずはじめに皇帝と皇后が鎮座する前で、各地から集められた特産品が捧げられた。民から皇帝への感謝の念が示されるのだ。
それが終わると各地の伝統舞踊が披露される。ここからは、凛風も暁嵐から少し離れた席に座り参加する。
家臣たちにも食べ物や飲み物が振る舞われ、賑やかな雰囲気になる。
目の前で披露される国中から集まった者たちの舞いや、音楽、歌を聞きながら凛風は目を丸くしていた。祭など凛風にとってははじめてだし、そもそも歌や舞を近くで観ることもほとんどない。
そしてつくづく自分は世間知らずだったのだと思い知る。どの演目も、出る人の身につけている衣装は見慣れないし、歌も舞も見たことがない雰囲気のものばかりだ。
その中のひとつ、まさに今はじまったばかりの演目に、凛風は目を奪われていた。
赤い衣装を身につけて、長い髪をひとつにまとめた女性が舞う様子は、まるで花の間をひらひらと飛ぶ蝶のようだ。
この衣装はどこかで見たことがあるような……。
「凛風妃さま」
控えの女官に声をかけられて、うっとりと観ていた凛風は、振り返った。
「はい」
「陛下よりご伝言を賜って参りました」
そう言う彼女は皿に盛られた橙色の果実を手にしている。
凛風は首を傾げた。
「ご伝言?」
「はい。今舞っているのが、以前凛風妃さまにお話しした、町の者たちにございますと……。こちらは、かの地の特産品にございます」
凛風は驚いて、目の前で舞い踊る女性に視線を戻す。
以前話をした町とは、暁嵐が連れていくと約束した花の町のことだろう。では彼女はあの書物に描かれていた町から来たのだ。そう言われれば書物の中で舞っていた女性と衣装がとてもよく似ている。
きっと書物の中の女性もこのように舞っていたのだと思うと、凛風の胸は弾んだ。
「そうですか、この方たちが……」
呟くと、凛風の胸は嬉しい気持ちでいっぱいになる。かの町へ暁嵐とともに行くことは叶わなかった。それでも舞を見ることはできたのだ。
「美しい舞と衣装ですね」
目尻の涙を拭いながらそう言うと女官が微笑んだ。
「炎華祭にて、舞を舞うのは名誉なことにございます。すべての地域のものが披露できるわけではありませんから。毎年選抜された者だけが、この場に呼ばれるのです。今年は陛下たってのご希望で、かの地の者が舞を披露することになったとか……」
では今、かの地の女性が凛風の目の前で舞っているのは、凛風のためというわけだ。
暁嵐からの伝言の内容から女官もそれを察したのだろう。にこやかに笑って果物を差し出した。
「本当に陛下は、凛風妃さまを大切に思われているのですね。こちらはかの地の特産品にございます。どうぞ今お召し上がりくださいませ」
女官の言葉に頬を染めて、凛風は果物に手を伸ばす。食べやすいよう小さく切られた橙色のかけらを口にして、目を見開いた。
「甘い!」
女官がにっこりと微笑んだ。
「古来より、皇帝陛下からご寵姫さまへの贈り物として献上されてきた果物だそうですよ。その甘さは天にものぼる心地がするとか」
「はい、すごく……美味しいです!」
今まで食べたどんな食べ物よりもまろやかな甘さで美味しかった。こんなに美味しい作物がこの世にあることが信じられないくらいだ。
「お気に召したなら、こちらのものはすべて凛風妃さまにお食べいただくようにと陛下がおっしゃっておられます。ささ、どうぞ」
凛風はもうひとつ果物を口にする。そして女官の向こう、玉座に座る暁嵐がこちらを見ていることに気がついた。
声こそ聞こえなくとも、凛風が果物を喜んでいるのはわかるのだろう。はしゃいでしまったのが恥ずかしくて、凛風が口を押さえると、彼はふっと笑って目を細める。そしてまた前を向いた。
その精悍な横顔に凛風の胸はきゅんと跳ねた。
皇帝としての揺るぎない強さを湛える堂々とした風格だ。昨夜寝所で一夜をともにした彼と同一人物だということが信じられないくらいだった。
凛風の胸は愛おしい彼への想いでいっぱいになる。
けれど、その向こう。
皇太后の席に鎮座する皇太后がこちらを見ていることに気がついてどきりとした。口元を扇で隠し凛風を探るように見ている。今宵の計画を忘れていないだろうなと確認しているようだった。
その視線に、凛風の背中が泡だった。身体中の傷痕がじくじくと疼きだす。課せられた使命に背くことに、身体が拒否を示しているのだ。呼吸が浅くなるのを感じて、凛風は慌てて目を閉じた。
心を落ち着けて昨夜の出来事を思い出す。
昨夜、暁嵐は凛風をこれ以上ないくらい大切に扱ってくれた。身体に残る無数の傷痕のひとつひとつに口づけて、愛の言葉をくれたのだ。
――大丈夫、私は私の決めたことを実行する。
心の中で言い聞かせ目を開くと、傷痕の疼きは治まった。
皇太后から目を逸らし、凛風は真っ直ぐに前を向く。晴れ渡った空のもと国中から集まった人たちが、暁嵐を崇め奉っている。
きっと彼らが望むのは、愛する者との平穏な日々。暁嵐の治世が、穏やかであることを願っているのだろう。
青い空を白い鳥が飛んでいくのを見つめながら、凛風は今宵自分が取るべき選択を心の中で確認した。
豪華な籠に乗せられて、凛風は都の端にある離宮までの道をゆく。沿道は集まった人たちでごった返していた。
皇帝である暁嵐をひと目見ようと詰めかけた人々だ。
凛風には政のことはわからない。
それでも暁嵐が即位してからは、魑魅魍魎に人が喰われることはなくなった。皆暁嵐を見て口々に感謝の言葉を口にしている。
御簾を下ろした籠の中で凛風はそれをじっと見つめていた。
暁嵐の到着を待ち、離宮ではじまった炎華祭は、まずはじめに皇帝と皇后が鎮座する前で、各地から集められた特産品が捧げられた。民から皇帝への感謝の念が示されるのだ。
それが終わると各地の伝統舞踊が披露される。ここからは、凛風も暁嵐から少し離れた席に座り参加する。
家臣たちにも食べ物や飲み物が振る舞われ、賑やかな雰囲気になる。
目の前で披露される国中から集まった者たちの舞いや、音楽、歌を聞きながら凛風は目を丸くしていた。祭など凛風にとってははじめてだし、そもそも歌や舞を近くで観ることもほとんどない。
そしてつくづく自分は世間知らずだったのだと思い知る。どの演目も、出る人の身につけている衣装は見慣れないし、歌も舞も見たことがない雰囲気のものばかりだ。
その中のひとつ、まさに今はじまったばかりの演目に、凛風は目を奪われていた。
赤い衣装を身につけて、長い髪をひとつにまとめた女性が舞う様子は、まるで花の間をひらひらと飛ぶ蝶のようだ。
この衣装はどこかで見たことがあるような……。
「凛風妃さま」
控えの女官に声をかけられて、うっとりと観ていた凛風は、振り返った。
「はい」
「陛下よりご伝言を賜って参りました」
そう言う彼女は皿に盛られた橙色の果実を手にしている。
凛風は首を傾げた。
「ご伝言?」
「はい。今舞っているのが、以前凛風妃さまにお話しした、町の者たちにございますと……。こちらは、かの地の特産品にございます」
凛風は驚いて、目の前で舞い踊る女性に視線を戻す。
以前話をした町とは、暁嵐が連れていくと約束した花の町のことだろう。では彼女はあの書物に描かれていた町から来たのだ。そう言われれば書物の中で舞っていた女性と衣装がとてもよく似ている。
きっと書物の中の女性もこのように舞っていたのだと思うと、凛風の胸は弾んだ。
「そうですか、この方たちが……」
呟くと、凛風の胸は嬉しい気持ちでいっぱいになる。かの町へ暁嵐とともに行くことは叶わなかった。それでも舞を見ることはできたのだ。
「美しい舞と衣装ですね」
目尻の涙を拭いながらそう言うと女官が微笑んだ。
「炎華祭にて、舞を舞うのは名誉なことにございます。すべての地域のものが披露できるわけではありませんから。毎年選抜された者だけが、この場に呼ばれるのです。今年は陛下たってのご希望で、かの地の者が舞を披露することになったとか……」
では今、かの地の女性が凛風の目の前で舞っているのは、凛風のためというわけだ。
暁嵐からの伝言の内容から女官もそれを察したのだろう。にこやかに笑って果物を差し出した。
「本当に陛下は、凛風妃さまを大切に思われているのですね。こちらはかの地の特産品にございます。どうぞ今お召し上がりくださいませ」
女官の言葉に頬を染めて、凛風は果物に手を伸ばす。食べやすいよう小さく切られた橙色のかけらを口にして、目を見開いた。
「甘い!」
女官がにっこりと微笑んだ。
「古来より、皇帝陛下からご寵姫さまへの贈り物として献上されてきた果物だそうですよ。その甘さは天にものぼる心地がするとか」
「はい、すごく……美味しいです!」
今まで食べたどんな食べ物よりもまろやかな甘さで美味しかった。こんなに美味しい作物がこの世にあることが信じられないくらいだ。
「お気に召したなら、こちらのものはすべて凛風妃さまにお食べいただくようにと陛下がおっしゃっておられます。ささ、どうぞ」
凛風はもうひとつ果物を口にする。そして女官の向こう、玉座に座る暁嵐がこちらを見ていることに気がついた。
声こそ聞こえなくとも、凛風が果物を喜んでいるのはわかるのだろう。はしゃいでしまったのが恥ずかしくて、凛風が口を押さえると、彼はふっと笑って目を細める。そしてまた前を向いた。
その精悍な横顔に凛風の胸はきゅんと跳ねた。
皇帝としての揺るぎない強さを湛える堂々とした風格だ。昨夜寝所で一夜をともにした彼と同一人物だということが信じられないくらいだった。
凛風の胸は愛おしい彼への想いでいっぱいになる。
けれど、その向こう。
皇太后の席に鎮座する皇太后がこちらを見ていることに気がついてどきりとした。口元を扇で隠し凛風を探るように見ている。今宵の計画を忘れていないだろうなと確認しているようだった。
その視線に、凛風の背中が泡だった。身体中の傷痕がじくじくと疼きだす。課せられた使命に背くことに、身体が拒否を示しているのだ。呼吸が浅くなるのを感じて、凛風は慌てて目を閉じた。
心を落ち着けて昨夜の出来事を思い出す。
昨夜、暁嵐は凛風をこれ以上ないくらい大切に扱ってくれた。身体に残る無数の傷痕のひとつひとつに口づけて、愛の言葉をくれたのだ。
――大丈夫、私は私の決めたことを実行する。
心の中で言い聞かせ目を開くと、傷痕の疼きは治まった。
皇太后から目を逸らし、凛風は真っ直ぐに前を向く。晴れ渡った空のもと国中から集まった人たちが、暁嵐を崇め奉っている。
きっと彼らが望むのは、愛する者との平穏な日々。暁嵐の治世が、穏やかであることを願っているのだろう。
青い空を白い鳥が飛んでいくのを見つめながら、凛風は今宵自分が取るべき選択を心の中で確認した。