女官に連れられて、凛風がやってきた小部屋は、人気のない長い廊下をいくつも曲がった先にあった。
窓を幕で覆われた中に下がる小さな灯籠。その灯りだけが頼りの薄暗い部屋には、甘ったるい香りが充満している。この香りには覚えがあった。
「おお、ずいぶん見られるようになったではないか」
背後の扉が静かに閉まったと同時に、部屋の中央に座るでっぷりとした女性が口を開いた。
「皇太后さま、お連れしました」
女官が彼女に告げるのを凛風は血の気が引く思いで聞いていた。いつの頃からそばにいた彼女が、皇太后と通じていたという事実に胸が騒ぐ。つまりはずっと監視されていたということか。
彼女と過ごした日々、交わした言葉の数々を思い浮かべようと試みるが、動揺しすぎてなにも思い浮かばない。ただ冷たい汗が背中を伝うのみである。
あまりの衝撃に立ってはいられず床に跪いた凛風のそばに皇太后がやってくる。
静かな部屋に衣擦れの音がはっきりと響いた。
彼女の持つ扇が凛風の顎に添えられる。ぐいっと上を向かせられると、蛇のような目が自分を見ていた。
「女子は男を知ると美しくなるというからのぅ。もはやあの男に可愛がってもらったか?」
「わ、私は……。まだ……」
ガタガタと身体が震えだすのを感じながら凛風が答えると、彼女はふふふと嫌な笑みを浮かべた。
「そなたがまだ深い仲になっておらぬのは知っておる。じゃが、とりあえず気に入られておるのは確かなようじゃ、褒めてつかわす。ふふふ、それにしてもうまくいったのぅ。わらわの読みがあたったというわけじゃ」
皇太后が凛風の隣の女官向かって満足げに言っている。言葉の意味がよくわからない凛風に、心底嬉しそうに種明かしをした。
「あの男は、哀れななりをした者に優しいじゃろう? 百の妃という惨めな位置もあの男の好みじゃ」
意味深な言葉に、凛風の背中をぞくりと嫌な感覚が走りぬけた。
隣に跪く、無表情な女官を見ると、はじめて彼女と言葉を交わした時のことが蘇る。
百の妃に選ばれたこと。暁嵐と出会った露天の湯。
まさか偶然だと思っていたあのはじまりから、すべて仕組まれたことだったのだろうか……?
「そなたは、わらわが課した役割を今のところ完璧にこなしておる。さすがは郭凱雲の娘じゃ」
その言葉に、凛風は目を閉じる。
胸が鋭利な刃物でえぐられたように痛んだ。そこから溢れ出た凛風の血が、凛風と暁嵐のふたりの間に起こった温かな思い出を、どす黒い赤に染めてゆく。
はじめて目にした自分の名の字。
はじめて目にした彼の笑顔。
身体の傷を生きた証だと言ってくれた言葉も。
互いを愛おしく想い合うこの心も。
なにもかも、皇太后が描いた絵に過ぎなかったのだ。
「お主は優秀な刺客ぞ」
皇太后の扇が凛風の頬を辿る感触に、凛風の心が絶望に染まっていく。
知らなかったとはいえ、はじめて愛した唯一無二の男性を、陰謀に巻き込んでしまっていた自分の愚かさが憎かった。
「あの男が、気に入った妃に手を出せぬ腰抜けとは知らなかったが、もはや時間の問題なのであろう? 男はのう、寝所にて好きな女にしなだれかかられればいちころじゃ。つまりはもはやいつ使命を実行するのか、お前しだいというわけじゃ」
そう言って皇太后は懐から、黒い布に包まれたなにかを出し、にっこりと微笑んだ。
「だがお前も不安じゃろう? なにしろ相手は鬼なのじゃから。皆でお前を助けてやる」
「皆で……?」
暗殺は閨でひっそりと行われるのではなかったかと、凛風は首を傾げる。すると皇太后が手にしている黒い包みの布を解く。中から簪が出てきた。凛風が刺しているものと同じように先が尖り、紫色に変色している。
「これは……?」
「新たな簪じゃ。明後日、炎華祭が都の端の離宮にて執り行われる。皇帝の治める世が穏やかなことに感謝して国中の民が、感謝の品を皇帝に捧げるという毎年恒例の国家行事じゃ。皇帝は、離宮に妃をひとり連れていき、一夜を過ごすことになっている。今年は間違いなくそなたであろう」
そこで皇太后は言葉を切り、鋭い視線で凛風を見る。
「その夜、必ず使命を実行せよ。わらわに組みする家臣たちが離宮に攻め入る手筈を整え、お前が手を下すのを待っている。やつを確実に仕留めるためじゃ。この簪で喉を突けば致命傷になるはずじゃが、念には念を入れてのことじゃ」
「そんな……」
あまりにも恐ろしい話に絶句する凛風に、皇太后は楽しげに言葉を続ける。
「この簪にはやつを絶命させる術の他にもうひとつ術がかけてある。そなたがこの簪をやつの喉に突き立てて簪が血を吸えば、我が息子輝嵐がそれを感じるようになっておる。それを合図に家臣たちは離宮に攻め入る。そしてやつの亡骸をわらわのもとへ持ってくるのだ」
血塗られた恐ろしい計画を口にしているというのに、彼女はまるで歌うようにうっとりと目を細めた。
皇帝を暗殺し、謀反を起こし家臣同士を戦わせれば、暁嵐だけでなく多くの者の血が流れるというのに。
皇太后が、凛風が刺している簪を引き抜き、新たな簪を刺す。そしてなにかを思い出したように声をあげる。
「おお、そうじゃ」
そしてまた、懐から紙を出し、凛風に見せるように広げた。
「お主の弟から預かっておった文じゃ」
その言葉の通り、文のようだった。字を習いたての凛風にわかるのは、『凛風』の文字と『浩然』の文字。
「お主の弟は大変優秀だそうじゃ。科挙を受けるための予備試験を見事最年少で突破した。今は、本試験を受けるため都におる。わらわの実家で預かり、勉学に励んでおる。よい後継ぎがいて郭家の先は明るいな。そなたがきちんと役目を果たしたあかつきには弟の道は開けるじゃろう」
つい先ほど見た、大空に飛び立っていった白い小鳥、自由に羽を羽ばたかせていた光景が、黒い墨でぐちゃぐちゃに塗りつぶされていくのを感じた。
暁嵐に抱きしめられて夢を見た、もうひとつの道など自分にはなかったのだと思い知る。
浩然が皇太后の手の内にいるならば、今この時にでも消すことができるのだ。炎華祭の次の日の夜明けを暁嵐が生きて迎えたら……。
暁嵐と浩然、ふたりの大切な存在に身を引き裂かれるようだった。どちらかを選ぶなど、絶対にできないのに選ばなくてはならないのだ。
「よいな、弟の命はお前にかかっておるのだぞ」
そう言い残し、皇太后は部屋を出ていった。
残された凛風はしばらくそこで灯篭の灯りを見ていた。
「凛風妃さま、そろそろ戻りませんと。他の女官たちに不審に思われてしまいます」
女官が少し苛立った様子で凛風を急かす。正体を知られた今、もはや凛風を妃扱いする必要はないということだろう。
凛風は立ち上がり、女官に続いて部屋を出た。いつのまにか日は傾き、長い廊下の窓が橙色に染まっていた。
その光が、絶望に染まる凛風の心を照らす。不意に凛風は先をゆく女官に向かって呼びかける。
「あなたはなぜ皇后さまに付き従っているの?」
自らの願いのためならば、血を流してもかまわないと考える残酷な皇太后に。彼女にとっては女官もまた凛風と同じようにいつ切り捨ててもかまわない存在だ。
女官が驚いたように足を止めて振り返る。
「皇后さまは、必要ならば忠誠を誓う者もためらわずに始末される方だわ。恐ろしくはない?」
「答える必要はありません」
女官が感情のない声で答える。その表情は陽の光を背にしていて見えなかった。
「あなたさまは、ご自身の使命を果たすことのみをお考えください」
「私が使命を果たし後の輝嵐さまが治める世は、あなたにとっていい世なのかしら?」
凛風からの問いかけに彼女は沈黙し、こちらに背を向ける。
「そのようなこと、考えたこともございません」
そしてまた歩き出した。
凛風も彼女について歩きながら、夕陽を見つめていた。
自分を騙し、皇太后の策にはめたこの女官を憎む気持ちにはなれなかった。少し前の凛風も彼女と同じだったのだ。
自分の果たす役割がいったいどのような結果をもたらすのか、考えることもしないで、凍りついた心のままただ流されるだけ。
――でも今は、もうそんなことはできなかった。
暁嵐が凛風の心を動かしてくれたから。
自分の頭で考える力をくれたから。
己の心のままに生きられる世を作ると語ってくれたから。
たとえ自分が見られなくとも、暁嵐が存在する限りその世が広がっていると凛風は信じたい。
そのために、自分ができることはなんなのか。
赤い夕陽を見つめて、凛風は考え続けた。
窓を幕で覆われた中に下がる小さな灯籠。その灯りだけが頼りの薄暗い部屋には、甘ったるい香りが充満している。この香りには覚えがあった。
「おお、ずいぶん見られるようになったではないか」
背後の扉が静かに閉まったと同時に、部屋の中央に座るでっぷりとした女性が口を開いた。
「皇太后さま、お連れしました」
女官が彼女に告げるのを凛風は血の気が引く思いで聞いていた。いつの頃からそばにいた彼女が、皇太后と通じていたという事実に胸が騒ぐ。つまりはずっと監視されていたということか。
彼女と過ごした日々、交わした言葉の数々を思い浮かべようと試みるが、動揺しすぎてなにも思い浮かばない。ただ冷たい汗が背中を伝うのみである。
あまりの衝撃に立ってはいられず床に跪いた凛風のそばに皇太后がやってくる。
静かな部屋に衣擦れの音がはっきりと響いた。
彼女の持つ扇が凛風の顎に添えられる。ぐいっと上を向かせられると、蛇のような目が自分を見ていた。
「女子は男を知ると美しくなるというからのぅ。もはやあの男に可愛がってもらったか?」
「わ、私は……。まだ……」
ガタガタと身体が震えだすのを感じながら凛風が答えると、彼女はふふふと嫌な笑みを浮かべた。
「そなたがまだ深い仲になっておらぬのは知っておる。じゃが、とりあえず気に入られておるのは確かなようじゃ、褒めてつかわす。ふふふ、それにしてもうまくいったのぅ。わらわの読みがあたったというわけじゃ」
皇太后が凛風の隣の女官向かって満足げに言っている。言葉の意味がよくわからない凛風に、心底嬉しそうに種明かしをした。
「あの男は、哀れななりをした者に優しいじゃろう? 百の妃という惨めな位置もあの男の好みじゃ」
意味深な言葉に、凛風の背中をぞくりと嫌な感覚が走りぬけた。
隣に跪く、無表情な女官を見ると、はじめて彼女と言葉を交わした時のことが蘇る。
百の妃に選ばれたこと。暁嵐と出会った露天の湯。
まさか偶然だと思っていたあのはじまりから、すべて仕組まれたことだったのだろうか……?
「そなたは、わらわが課した役割を今のところ完璧にこなしておる。さすがは郭凱雲の娘じゃ」
その言葉に、凛風は目を閉じる。
胸が鋭利な刃物でえぐられたように痛んだ。そこから溢れ出た凛風の血が、凛風と暁嵐のふたりの間に起こった温かな思い出を、どす黒い赤に染めてゆく。
はじめて目にした自分の名の字。
はじめて目にした彼の笑顔。
身体の傷を生きた証だと言ってくれた言葉も。
互いを愛おしく想い合うこの心も。
なにもかも、皇太后が描いた絵に過ぎなかったのだ。
「お主は優秀な刺客ぞ」
皇太后の扇が凛風の頬を辿る感触に、凛風の心が絶望に染まっていく。
知らなかったとはいえ、はじめて愛した唯一無二の男性を、陰謀に巻き込んでしまっていた自分の愚かさが憎かった。
「あの男が、気に入った妃に手を出せぬ腰抜けとは知らなかったが、もはや時間の問題なのであろう? 男はのう、寝所にて好きな女にしなだれかかられればいちころじゃ。つまりはもはやいつ使命を実行するのか、お前しだいというわけじゃ」
そう言って皇太后は懐から、黒い布に包まれたなにかを出し、にっこりと微笑んだ。
「だがお前も不安じゃろう? なにしろ相手は鬼なのじゃから。皆でお前を助けてやる」
「皆で……?」
暗殺は閨でひっそりと行われるのではなかったかと、凛風は首を傾げる。すると皇太后が手にしている黒い包みの布を解く。中から簪が出てきた。凛風が刺しているものと同じように先が尖り、紫色に変色している。
「これは……?」
「新たな簪じゃ。明後日、炎華祭が都の端の離宮にて執り行われる。皇帝の治める世が穏やかなことに感謝して国中の民が、感謝の品を皇帝に捧げるという毎年恒例の国家行事じゃ。皇帝は、離宮に妃をひとり連れていき、一夜を過ごすことになっている。今年は間違いなくそなたであろう」
そこで皇太后は言葉を切り、鋭い視線で凛風を見る。
「その夜、必ず使命を実行せよ。わらわに組みする家臣たちが離宮に攻め入る手筈を整え、お前が手を下すのを待っている。やつを確実に仕留めるためじゃ。この簪で喉を突けば致命傷になるはずじゃが、念には念を入れてのことじゃ」
「そんな……」
あまりにも恐ろしい話に絶句する凛風に、皇太后は楽しげに言葉を続ける。
「この簪にはやつを絶命させる術の他にもうひとつ術がかけてある。そなたがこの簪をやつの喉に突き立てて簪が血を吸えば、我が息子輝嵐がそれを感じるようになっておる。それを合図に家臣たちは離宮に攻め入る。そしてやつの亡骸をわらわのもとへ持ってくるのだ」
血塗られた恐ろしい計画を口にしているというのに、彼女はまるで歌うようにうっとりと目を細めた。
皇帝を暗殺し、謀反を起こし家臣同士を戦わせれば、暁嵐だけでなく多くの者の血が流れるというのに。
皇太后が、凛風が刺している簪を引き抜き、新たな簪を刺す。そしてなにかを思い出したように声をあげる。
「おお、そうじゃ」
そしてまた、懐から紙を出し、凛風に見せるように広げた。
「お主の弟から預かっておった文じゃ」
その言葉の通り、文のようだった。字を習いたての凛風にわかるのは、『凛風』の文字と『浩然』の文字。
「お主の弟は大変優秀だそうじゃ。科挙を受けるための予備試験を見事最年少で突破した。今は、本試験を受けるため都におる。わらわの実家で預かり、勉学に励んでおる。よい後継ぎがいて郭家の先は明るいな。そなたがきちんと役目を果たしたあかつきには弟の道は開けるじゃろう」
つい先ほど見た、大空に飛び立っていった白い小鳥、自由に羽を羽ばたかせていた光景が、黒い墨でぐちゃぐちゃに塗りつぶされていくのを感じた。
暁嵐に抱きしめられて夢を見た、もうひとつの道など自分にはなかったのだと思い知る。
浩然が皇太后の手の内にいるならば、今この時にでも消すことができるのだ。炎華祭の次の日の夜明けを暁嵐が生きて迎えたら……。
暁嵐と浩然、ふたりの大切な存在に身を引き裂かれるようだった。どちらかを選ぶなど、絶対にできないのに選ばなくてはならないのだ。
「よいな、弟の命はお前にかかっておるのだぞ」
そう言い残し、皇太后は部屋を出ていった。
残された凛風はしばらくそこで灯篭の灯りを見ていた。
「凛風妃さま、そろそろ戻りませんと。他の女官たちに不審に思われてしまいます」
女官が少し苛立った様子で凛風を急かす。正体を知られた今、もはや凛風を妃扱いする必要はないということだろう。
凛風は立ち上がり、女官に続いて部屋を出た。いつのまにか日は傾き、長い廊下の窓が橙色に染まっていた。
その光が、絶望に染まる凛風の心を照らす。不意に凛風は先をゆく女官に向かって呼びかける。
「あなたはなぜ皇后さまに付き従っているの?」
自らの願いのためならば、血を流してもかまわないと考える残酷な皇太后に。彼女にとっては女官もまた凛風と同じようにいつ切り捨ててもかまわない存在だ。
女官が驚いたように足を止めて振り返る。
「皇后さまは、必要ならば忠誠を誓う者もためらわずに始末される方だわ。恐ろしくはない?」
「答える必要はありません」
女官が感情のない声で答える。その表情は陽の光を背にしていて見えなかった。
「あなたさまは、ご自身の使命を果たすことのみをお考えください」
「私が使命を果たし後の輝嵐さまが治める世は、あなたにとっていい世なのかしら?」
凛風からの問いかけに彼女は沈黙し、こちらに背を向ける。
「そのようなこと、考えたこともございません」
そしてまた歩き出した。
凛風も彼女について歩きながら、夕陽を見つめていた。
自分を騙し、皇太后の策にはめたこの女官を憎む気持ちにはなれなかった。少し前の凛風も彼女と同じだったのだ。
自分の果たす役割がいったいどのような結果をもたらすのか、考えることもしないで、凍りついた心のままただ流されるだけ。
――でも今は、もうそんなことはできなかった。
暁嵐が凛風の心を動かしてくれたから。
自分の頭で考える力をくれたから。
己の心のままに生きられる世を作ると語ってくれたから。
たとえ自分が見られなくとも、暁嵐が存在する限りその世が広がっていると凛風は信じたい。
そのために、自分ができることはなんなのか。
赤い夕陽を見つめて、凛風は考え続けた。