皇帝主催の宴は後宮の大広間で執り行われた。謁見の時とは打って変わって、華やかな飾りが施されている空間に、天井から下がるたくさんの灯籠(とうろう)が橙色の光を放ち、まるで昼間のような明るさだ。
 緩やかな音楽が流れる中、皆の笑い声があちらこちらから聞こえてくる。目の前には国の各地から集められた馳走が並んでいた。
 玉座と向かい合わせの部屋の中央には、舞台が設けられ、妃たちの舞を彼がよく見えるようになっている。
 凛風の席は、いつもの末席ではなく、皇帝に一番近い場所だった。暁嵐の目が届かない後宮内では、女官長を含めて凛風への扱いはひどいもの。だがさすがに暁嵐の前では一番の寵姫として扱う必要があるのだろう。
 はじめて見る光景に、凛風は居心地の悪い思いで視線を彷徨わせていた。
 妃同士の茶会にも呼ばれたことがない凛風にとっては、華やかな場ははじめてだ。このような場で下手な舞を披露すると考えるだけで、緊張でどうにかなってしまいそうだった。
 凛風は玉座の暁嵐を見る。
 彼が皇帝としての正装でいるところを見るのははじめてだ。朝の謁見の際も寝所に召されるまで凛風は顔を上げなかったし、寝所に召されるようになってからは、欠席していたからだ。
 公式な場所で玉座に座る暁嵐は、皇帝の風格を漂わせ、誰も寄せ付けない空気を纏っている。夜に凛風に手習いをしてくれる彼とは別人のようだった。
 その彼が唯一、寝所にと望む妃が自分だけだなんて、後宮中の妃たち、いや宮廷のすべての者がおかしいと思うのも無理はない。
 視線を送る凛風に暁嵐が気がつき、口元に笑みを浮かべる。控えている女官を呼びなにかを囁くと女官は心得たように頷いて、凛風のところへやってきた。
「凛風妃さま、気が進まないなら無理をしないようにと、陛下よりのご伝言です」
「陛下が?」
 女官の言葉に凛風が彼を見ると、暁嵐が心配そうに見ていた。このような場に慣れていない凛風を心配してくれているのだ。
「大丈夫です、とお伝えください」
 凛風が女官に囁いた時、その場に歓声があがる。
 妃による舞がはじまるのだ。
 楽師たちが奏でていた音楽が一旦止まると、まずは一の妃が舞台に上がった。舞の順は、一の妃、二の妃、最後に凛風と決まっている。
 一の妃は紫色に金色の刺(し)繍(しゅう)が施された美しい衣装を身につけている。まるで天女の衣のようなその衣装からは腕や肩が見えていた。灯籠の光の中で真っ白な肌が艶めいている。
 普段より露出が激しい衣装を身に着けているのは、皇帝の目を意識しているからだろう。ゆったりとした音楽に合わせて、一の妃が舞いはじめる。付け焼き刃でしかない凛風の舞など足元に及ばないほど洗練された舞だった。
「素敵ねぇ」
 同じ妃たちの間からもため息が漏れた。
「ご寵姫さまが舞を披露するのは後宮の伝統行事ですもの。きっと小さな頃から習っておられたのよ」
 一の妃の舞が終わると、今度は二の妃が舞台に上がる。彼女もまた肌が見える衣装を身につけていた。妃の中でもひときわ妖艶な身体つきの彼女には、女性である凛風でもドキドキするくらいだ。
 彼女の舞は、一の妃の洗練されたものとは違い、どこか俗物的な魅惑的な動きをふんだんに取り入れたものだった。軽快な音楽に合わせて腰をくねらせる彼女に、またもや妃たちからため息が漏れる。
「さすがだわ」
「見た目では二のお妃さまには絶対に勝てないわね」
 ふたりの妃の素晴らしい舞を目のあたりにして、凛風の心はこれ以上ないくらい沈んでいく。刺客である自分は、彼女たちに嫉妬する資格はないと思ったけれど、そのような使命を負っていなくとも比べものにならないと思う。
「凛風妃さま、ご準備くださいませ」
 女官からの囁きに、凛風は浮かない気持ちのまま立ち上がった。
 二の妃の舞が終わり、凛風が舞台に上がると、広間は異様な空気に包まれた。
 凛風が身につけているのは、先ほどの妃たちのような肌が見えるものではなく、傷痕を隠せるよう手首まで覆われた袖の長いものだ。暁嵐が用意してくれた上質なものには違いないが、他の妃たちからは見劣りするのは間違いない。ましてや肉付きのよくない凛風が着ているのだからなおさらだ。
「ずいぶん不思議な衣装だこと」
「仕方がないわよ、あの身体じゃ」
 笑い声と侮辱的な言葉、凛風に注がれる侮蔑の色を帯びた視線。
 仮にも皇帝の御前だというのにお構いなしなのは、古来から後宮がそのような場だからだ。
 歴代皇帝たちは、妃同士の鞘(さや)のあて合いには無関心。寵愛する妃がどれほどひどくいじめられても、決して助けることはなかったのだという。
 緊張で右も左もわからない中、まだ心の準備ができていないというのに音楽が鳴りはじめる。凛風は慌てて、習った通りに身体を動かした。
 先ほどの妃たちとは、比べものにならないほど拙(つたな)い動きに、くすくすという笑い声が大きくなりはじめた。
「やだ、あれなに?」
「仮にも寵愛を受けている妃が。恥ずかしくないの?」
 あからさまに凛風を馬鹿にしはじめた彼女たちの言葉が、凛風の胸を刺した。
 自分が馬鹿にされるのはかまわない。そんなことで今さら傷ついたりはしない。
 でも今は、暁嵐の顔に泥を塗らないか心配だった。寵愛する妃がこのような不恰好な妃では、彼の威厳に傷がつく。
 とにかく早く終わりたい。
 そう願いながら、凛風がくるりと回った時、ツンと袖がひっぱられるような感じがする。途端に衣装の肩のあたりからピリッと裂けて、袖が外れてしまった。
 凛風は驚いて振り返る。床までつく長い袖だからなにかに引っかかったのだろうかと見回したが、それらしいものはなかった。
 最前列の妃ふたりが顔を見合わせてくすくすと笑っている。彼女たちのどちらが袖を踏んだのだろう。
 とっさに凛風は露わになった肩をもう一方の手で覆う。
 くすくすという笑い声がいっそう大きくなった。
「はじめて見たけど本当に汚いのね」
「あれじゃ隠したくもなるわ」
 傷だらけの肩を皆の眼前に晒してしまっていることが申し訳なかった。舞が粗末だというだけでも暁嵐に恥をかかせてしまっている。それなのに醜い肌を晒してしまうなんて。
 舞どころでなくなった凛風が立ち尽くしていると、突然音楽がやむ。
 不思議に思って楽師たちの方を見ると、彼らは皆手を止め目を見開いている。意識はあれど身体を動かせないようだ。
 尋常ではない状況にハッとして玉座を見ると、暁嵐が楽師たちの方に手を向けている。その頭には、黒い角が現れていた。
彼の角が現れる時は鬼の力を使う時。つまりこの状況は彼の力によるものだ。
 皆が固唾を呑み静まり返る中、暁嵐がゆっくりと立ち上がる。表情には明らかに不快感が滲んでいた。
彼は皆を一瞥し、手を振り下ろす。楽師たちの強張りが解けた。
だが誰も再び音楽を奏でようとしなかった。それどころかこの場にいる誰も口開くことができない。妃同士のやり取りには無関心なはずの皇帝の突然の行動に驚いているのだ。
 暁嵐は玉座を下りコツコツと靴音を響かせて舞台の上へやってきた。そして自らが身につけていた外衣を脱ぎ、凛風を包み抱き上げた。
 皆が目を剥く中、彼は凛風の袖を踏んだと思しき妃に視線を送る。彼女の長い袖の裾にぼうっと赤い炎が上がった。
「ひいっ!」
 妃が声にならない悲鳴をあげる。炎に焼かれる恐怖に彼女の目は恐怖の色に染まるが、火は彼女の肌を焼く前に消えた。
 暁嵐が怒気をはらむ低い声で問いかけた。
「凛風の衣装は私が贈ったもの。寵姫の美しい肌を誰にも見せたくないゆえ袖の長いものを選んだのだ。その私の心を、そなたは踏みにじるのだな?」
「わ……わざとでは……」
 あわあわと言い訳する彼女を無視して、暁嵐は、凛風を嘲笑っていた皆をぐるりと見回した。
「私の意向に逆らい、彼女の肌を目にした者にも、すべからく罰を与えなければならぬ」
 彼の目尻が赤く光り、どこかから「ひっ!」という引きつれたような声があがった。
 この場にいた者皆が、凛風の肩を見たのだ。罰を与えると言うなら、妃と家臣皆が残らず罰を受けることになる。
 怒りを露わにする彼に、凛風も言葉を失い彼を見つめる。
「へ、陛下……お静まりくださいませ……!」
 年嵩の家臣が意を決した様子で進み出て、彼を諌(いさ)めようと試みる。
「これは、事故にござ……」
「痴(し)れ者! 私がこの目で見たものを否定するつもりか?」
 一喝する鋭い声に空気がビリッと引き裂かれる。皇帝の激しい怒りを目のあたりにして家臣は頭を抱えてうずくまった。
「も、申し訳ありませぬ……」
「暁嵐さま」
 凛風は彼の服を掴み呼びかける。
 はじめて見る彼の姿が怖くないと言ったら嘘になる。でも彼が怒りを露わにしているのは、凛風のためなのだ。黙っているわけにいかなかった。
 自分のことで家臣たちと対立してほしくない。
「私は大丈夫です」
 思いを込めてそう言うと、彼は訝しむように凛風を見つめる。凛風の言葉が本心か考えているのだろう。
「暁嵐さま」
 凛風がもう一度呼びかけると、暁嵐は息を吐いて目を閉じる。次に開いた時は目尻の赤と角は消えていた。
 そして皆に向かって口を開く。
「私と凛風妃はこれにて退出する」
 足早に舞台を下り、清和殿に向かって歩き出した。