「痛っ」
 昼下がりの自室にて、衣装に腕を通した途端にちくっと鋭い痛みを感じて、凛風は声をあげる。手伝いをしていた女官が、焦ったように凛風を見た。
「凛風妃さま、いかがなさいました?」
「なんでもないわ。少し腕をひねっただけ」
 そう言って凛風は、さりげなく自分の腕を刺したと思しき針を抜いた。なんでもなくはないが、騒ぎ立てれば彼女が罰を受けることになるからだ。
 彼女は、以前露天の湯殿の使用を勧めてくれた女凛風付きの女官で、後宮では味方のいない凛風に親切にしてくれている唯一の存在だ。罰を受けるのは可哀想だ。
 そもそも妃用の衣装に針が残っているなど、本来はありえない。しかも今凛風が身につけているのは、普段着ではなく皇帝の御前にて舞を披露するためのものなのだ。仕立ててから後宮内に運ばれてくるまでに、何度も確認されている。
 それなのに、針が残っているということは、後宮内に針を仕込んだ者がいるというわけだ。言うまでもなく、後宮でただひとり寵愛を受ける凛風を妬んだ妃のうちの誰かだろう。
 二の妃の取り巻きたちの凛風への嫌がらせは、日に日にひどくなる一方だった。一の妃の目を気にしてか、以前のような乱暴で直接的なものはなくなったが、代わりにより陰湿なものになっていった。物がなくなったりダメにされたり、聞こえるように陰口を言われたりはしょっちゅうだ。
 最下位だと馬鹿にされて、もともとのけ者だったのに急に寵愛を受けることになってしまったのだから、無理もない話だ。
 暁嵐からは、後宮にてなにかあればすぐに言うようにと言われている。母親が後宮で嫌がらせを受けていたのを見て育った彼には、なんでもお見通しというわけだ。
 でも凛風はいちいち報告していない。そこまでではないと思っているからだ。後宮での無視も嫌がらせも実家にいた頃と比べればすべて些細なこと。あの棘のある枝で叩かれる痛みに比べれば、針が刺さった痛みなど蚊に刺されたようなものだ。
 それに今の凛風は、それどころではないのだ。
 あの厩での口づけから三日。
 相変わらず、凛風は毎夜暁嵐の寝所に召されている。彼から字を教わり、美しい絵が描かれた書物を読む。暁嵐が寝台の中で少し先を読んでくれることもあった。
 そこまではそれまでと変わらないのだけれど……。
 凛風は指で唇をつっと辿る。寝所での彼を思い出して少し甘い息を吐いた。
 はじめて口づけを交わし、彼の母の話を聞いたあの日からふたりの関係は少し変わった。暁嵐は毎夜凛風に口づけをし、寝台で眠る時は、凛風を引き寄せ腕に抱く。
 彼の香りに包まれて彼の体温を感じると凛風の胸はドキドキと鳴って落ち着かず、寝るどころの話ではない。ここのところ凛風は少々寝不足気味というわけだ。
 昼間はあくびばかりしている。
 今も、今夜大広間にて開かれる皇帝主催の宴に向けて衣装を身につけている最中だというのに、ふぁとあくびが漏れてしまっているありさまだ。
「凛風さま。ここのところお疲れのご様子ですね。陛下の毎夜のお召しでは仕方がないですが」
 女官がにこやかに笑ってそう言った。
「あ……いえ」
『毎夜のお召し』という言葉に、凛風は頬を染める。彼女がどういう意味で言ったのかを理解したからだ。
「そうではなくて……」
 慌てて凛風は首を横に振る。凛風の寝不足の理由は彼女が想像しているものではない。でも彼女は納得しなかった。
「あら、凛風妃さま。恥ずかしいことではありせんよ。むしろ後宮においては、よいことにございます。それだけご寵愛が深い証になりますから。先の皇帝陛下の後宮では、陛下のお召しの翌日はわざと疲れた様子を見せるお妃さまもいらっしゃったという話です」
 凛風は彼女の話に面食らう。
 普段はあまり口数の多くない彼女が、あからさまな言葉を使ったことに驚いたのだ。
「そうなんですね……」
 話の内容を聞いているだけでも恥ずかしくて凛風はうつむいた。すると彼女は凛風を覗き込み、少し心配そうに眉を寄せた。
「ですが、顔色がよろしくないような……一度医師さまに診ていただきましょう」
 大袈裟なことを言う女官に、凛風は慌てて声をあげた。
「医師さま!? いいえ、私は大丈夫です」
「ですが、ご寵愛を受けておられるお妃さまのお身体の変化は、しっかりと把握しておけと後宮長さまから言われていますし……」
『身体の変化』という言葉に、凛風はまたもやどきりとする。つまり彼女は、凛風の疲れを懐妊の兆しではないかと、思っているのだ。
「そうではないの。私……。寝所に召されてはいるけれど、その……まだ……」
 閨をともにしていないとそれとなく告げる。ただの寝不足を大事にしてほしくないという一心だった。今この状況で凛風が医師の診察を受ければ、あらぬ憶測を呼び大騒ぎになってしまう。
 女官が「まぁ」と言って目を見開いた。
「……そうなんですか」
「な、内密にお願いします……」
 暁嵐との閨事情など本当は誰にも知られなくないが、きちんと話しておかないと今すぐにでも医師を呼ばれてしまう。
「だからこれは本当にただの寝不足です」
 女官が物分かりよく頷いた。
「わかりました。ですが意外な話ですわね。陛下はあのような男ぶりの方ですし、毎夜凛風さまをお召しになられているほどのご寵愛の深さですのに……」
「わ、私が至らないから……」
 曖(あい)昧(まい)に答えると、女官は優しく微笑んだ。
「きっと凛風妃さまを大切に思っておられるのでしょう。でも今宵の凛風妃さまの舞をご覧になられたら、もう先にお進みになられずにはいられないと思いますよ」
 そう言って、凛風の衣装の紐をキュッと締めた。
「舞なんて、私、自信がありません」
 彼女の言葉に凛風は眉尻を下げた。
 今夜の宴で凛風は皇帝と妃たち、主だった家臣たちの前で舞を披露することになっている。なんでも皇帝主催の宴では恒例のことなのだという。
 宴で舞を披露できるのは、皇帝の寵愛を受けている妃のみ。だからこれは後宮の妃にとって、自らの優位を他の妃に見せつける絶好の機会なのだという。
 古来から妃たちは、この日のために幼少期から舞を習い、当日は最上級の衣装を身に纏う。
 けれどそのようなことに興味がない凛風にとっては、ただただ人前に立つということに恐れを感じるだけだった。
 舞などまったく習ったことない凛風は、宴が開かれると決まってから急ぎ習っている。決していい出来でないのが自分でもわかるから、なおさら憂鬱だった。
 暁嵐からは気が進まないなら、舞はやらなくていい、なんなら出席しなくていいと言われたが、後宮長に反対されて断念した。
『陛下のお言葉に甘えて、そのような情けないことをおっしゃるものではありません。ご寵姫さまが出席なさらないなど聞いたことがありませんわ。陛下のご威光に傷がつきます』
 暁嵐に恥をかかせることになると言われては、わがままを言うわけにいかない。仕方なく凛風は舞の準備をしているというわけである。
「ですが本当なら、今宵舞を披露するのは凛風妃さまだけのはずですのに、他のお妃さままで舞われるのは口惜しいですわね」
 女官が悔しそうに言う。
 本来なら、舞を舞うのは一度でも寵愛を受けた妃だけなのだが、今夜は凛風の他に一の妃と二の妃も舞を披露することになっている。
 凛風だけでは少し華やかさに欠けるからというのが公の理由だが、ここは後宮、裏の思惑がないわけがない。暁嵐が、最下位の妃だけを寵愛しているという状況を面白く思わない者たちの差し金だ。
 暁嵐が、舞を舞う美しい妃に目を留めて、凛風以外の妃を寵愛することを期待しているのだろう。
 そのことに想いを馳(は)せて、凛風の胸がキリリと締め付けられた。
 暁嵐が自分ではない他の妃を寝所に呼ぶなど、想像するだけで胸が焼けるような心地がする。彼は妃はひとりだけと決めていると聞いていても、治らなかった。おそらくこれが嫉妬という感情なのだろう。
 ――そんなこと考える資格、私にはないのに……。
「凛風妃さま、ご心配なさらなくても大丈夫です。陛下は凛妃に夢中でいらっしゃるのですから」
 女官が凛風を勇気づけるようにそう言って、服の中から甘い香りがする貝殻を取り出した。
「もしご不安なら、夜のお召しの際、この香料を耳の後ろにおつけになって、陛下のもとへお上りなさいませ」
「香料?」
「男性のお心を夢中にすると言われている香料にございます。凛風妃さまがこれをおつけになればきっと……」
 意味深に言って女官はにっこりと笑う。
 つまりは香料を使えば、暁嵐とより深い中になれるかもしれないと彼女は言っているのだ。
「お身体に障るものではありません。歴代のお妃さま方が使われてきたものにございますから」
「……わ、私は結構です」
 凛風は手を振り、受け取らなかった。凛風を心配してくれる彼女の心遣いはありがたいが、凛風は暁嵐と深い仲になることを望んでいない。それはすなわち、ふたりの終わりを意味するからだ。
「そのような高価なものをつけるなど、私には分不相応で……」
 すると女官は凛風の手を取って貝殻を握らせた。
「まぁそうおっしゃらずに。一度試してごらんなさい」
 冷たい手と、ざらりとした貝殻の感触、少し強引な彼女の行動に、凛風は得体のしれない違和感を覚え、どきりとして彼女を見る。一点の曇りもないその笑みに、どうしてか胸が騒ぐのを感じながら、とりあえず香料を受け取った。