「この〝我〟という字が、自分という意味だ。〝食〟が食べる。書を読むだけなら、ひとつひとつの字を正しく書ける必要はない。まずは……」
 机の隣に座る暁嵐が、凛風の前に広げられた教本を指差し説明する。夜の寝所での手習いである。
 自分が教えるのだから、簡単な書物くらいすぐに読めるようになると言った通り、彼の教え方は上手だった。
 読みたい書を広げながら、それに沿って進めるので飽きることなく頭に入る。
 けれど今宵はさっぱりだった。
「ここを自分で読んでみろ」
 そう言われて、凛風は彼の手元を見る。
「えーっと」
 けれど、さっき教えてもらったばかりの字なのに、頭に浮かんでこなかった。
「その……」
 言葉に詰まり、気まずい思いで彼を見る。
 きちんと聞いていたのかと叱られるのを覚悟するけれど、凛風の予想に反して、彼はどこか楽しげな笑みを浮かべていた。
「どうやら今宵は、身が入らないようだな」
 ずばりその通りのことを口にする彼に、凛風は「申し訳ありません……」と眉を下げた。
 原因はもちろん、昼間の厩での口づけだ。
 あの後、後宮へ戻ってからも、彼の唇の感触と熱い視線が頭から離れず、心はずっとふわふわしたままだった。そしてそれは今も続いている。
「どうした? なにか気になることでもあったか?」
 そう尋ねる彼は、からかうような目で凛風を見ている。
 凛風の気持ちなどお見通しで、その上であえて聞いているのだということに気がついて、凛風の頬は燃えるように熱くなった。
 昼間のことをずっと考えていたのだということもバレてしまっているような気がして恥ずかしくてたまらない。
「もう……わかっているのではないですか?」
 頬を膨らませてそう言うと、彼はくっくと笑い凛風の頭をぽんぽんと叩いた。
 楽しげな様子がなんだか少し悔しかった。
 凛風と違って、彼がこんなにも余裕なのは、きっと彼にとっては口づけくらいなんでもないことだからだろう。
 彼はこの国の皇子として育ったのだ。今はまだ凛風以外の妃を閨に呼んでいないとはいえ、このくらい……。
 とそこまで考えて、凛風の頭にある疑問が浮かんだ。
 どうして彼は、妃を閨に呼ばないのだろう?
 はじめてここへ来た時は気が動転していて聞き流してしまったけれど、皇帝の行動としては不自然だ。
「あの、暁嵐さま。……お尋ねしてもよろしいですか?」
 問いかけると、暁嵐が頷いた。
「どうして暁嵐さまは、他のお妃さまを閨にお呼びにならないのですか?」
 暁嵐が眉を上げる。その彼に、凛風はさらに問いかける。
「皆暁嵐さまのために後宮入りされましたのに、そのお妃さまを避けられるのはどうし……!?」
 とそこで、暁嵐が突然立ち上がり凛風を抱き上げた。
「きゃっ……! 暁嵐さま!?」
 目を白黒させ彼にしがみつく凛風を抱いたまま、部屋を横切り寝台へと歩いていく。そこへ優しく凛風を下ろし、両脇に手をつき不気味なくらいにっこりと笑った。
「俺はどうやら後宮長を罷免しなくてはならないようだ。まったく仕事ができていない」
「え!? ……後宮長さまを?」
 彼が口にしたまったく予想外の言葉に凛風は目を丸くする。凛風の疑問と後宮長の役割がどう繋がるのかさっぱりわからなかった。
「どういうことですか?」
 驚きながら首を傾げると、暁嵐がやや大袈裟にため息をついた。
「閨に上がる妃の教育は後宮長の役割だ。それなのにお前は、皇帝の寝所にいるというのに他の妃の話を……、しかもまるで自分ではなく他の妃を呼んでほしいというような口ぶりだ」
「え!? そ、そういうわけでは……」
 確かに、凛風が寝所にて伽をする本物の妃ならば、やや失礼な発言かもしれない。皇帝に他の妃を呼ばせて、自分は伽を逃れようとしているようにも取れる。
「そういう意味ではなくて……その」
 本気で後宮長を罰するつもりなどまったくなさそうな彼に向かって、凛風は言い訳をする。
「そうではなくてただの疑問です。それにこれは私だけではなくて後宮でも皆が疑問に思っていることです。家臣の皆さまにもあれこれ言われるのでしょう? それをわざわざ私を寵愛するふりをしてまで……ん!」
 唐突に唇を彼の唇で塞(ふさ)がれてしまう。
 そしてはじまった口づけは、昼間よりも熱くて激しかった。あっという間に凛風の疑問は思考の彼方へ吹き飛んで、頭の中が彼への想いでいっぱいになっていく。
 どうしてこうなったのか、自分はなにを疑問に思っていたのか、それすらわからなくなるくらいだった。
 ぼんやりとする視線の先で、暁嵐の唇が囁いた。
「凛風、これは寵愛するふりか?」
 自分を見つめる彼の瞳の奥に赤いなにかがちらついているのを見た気がして、凛風の背中がぞくりとする。胸がドキドキと痛いくらに高鳴った。
 少し前から感じていた、まさかという思いがゆっくりと確信に変わろうとしている。けれどそれを知るのは怖かった。
 彼の想いを知ってしまったその先、自分の気持ちがどうなってしまうのか、わからなくて怖かった。
「暁嵐さま……」
 答えられない凛風を暁嵐はしばらくじっと見つめていたが、やがて息を吐いて目を閉じる。もう一度開いた時には、いつもの優しい眼差しに戻っていた。
「この後もしっかり考えろ」
 凛風の頭を優しく撫でて、隣にごろんと横になる。自分の腕を枕にして天井を見つめて口を開いた。
「俺が後宮の妃を閨に呼ばないのは、もともと妃はひとりだけにすると決めているからだ」
 先ほどの凛風の疑問に対する答えだろう。だがその内容は、凛風にとっては突拍子もないことに思えた。
 皇帝の妃がひとりだなんて聞いたことがない。教養も知識もない凛風だが、そのくらいは知っている。
 後宮長からは、閨に上がるのが自分だけなどと欲深いことを考えぬようにときつく言われた。古来より後宮では、たった一度皇帝の手がついただけで生涯を終える妃も珍しくないという話だ。
 戸惑う凛風をちらりと見て、暁嵐は言葉を続けた。
「俺の母上は、もともと後宮女官だったんだが、前帝の目に留まり妃の身分に召し上げられた」
 その話は、凛風も父から聞いたことがあった。
「ほどなくして子ができたのだから普通なら幸運だったと言えるだろうが、母上にとってはそうではなかった。本当は将来を言い交わした相手がいたようだ」
「将来を言い交わした相手が……」
 凛風の胸は痛んだ。
 皇帝の目に留まったなら妃になるのは避けられない。将来を言い交わした相手がいながら他の男性の妃になるしかなかったというのは、どれほどつらいことだろう。男性を愛おしく思う気持ちを知った今の凛風にはよくわかる。
「しかも女官の出ということで後宮での立場は弱く、原因不明の死を遂げるまで他の妃たちにいじめ抜かれていた。俺は母上の笑っている顔を覚えていない」
 あまりにひどい話の内容に、凛風は言葉を失った。彼ははっきり言わないけれど、凛風の頭には皇太后の蛇のような目が浮んでいた。
 原因不明の死と彼は言うけれど……。
 暁嵐が長いため息をついて、凛風を見た。
「皇帝に複数の妃がいれば、いらぬ争いを生みつらい思いをする者が出る。だから俺は、同じことを自分の代で繰り返さないと決めている。信頼できる者ひとりだけを妃とし、大切に愛しむ」
 凛風を見つめて、強く言い切る彼に、凛風は心が震えるのを感じていた。
 皇帝に妃がひとりきりなど本当なら周りが許すはずがない。でも彼ならば自らの意思を貫くだろうと確信する。
 はじめてここに来た夜の彼の言葉を思い出し、凛風は口を開く。
「暁嵐さまが己の心のままに生きられる世を作りたいとおっしゃったのはお母さまのことがあったからですね」
「そうだ。必ず実現してみせる。……そしてその時は、信頼できる妃に隣にいてほしいと思っている」
 ――そばにいたいと強く思う。
 己の心のままに生きられる世。
 はじめて耳にした時は、それが人にとってよい世なのかどうかすらわからなかった。
 けれど今の凛風にははっきりとわかる。
 自分の望みを口にできた時の高揚感と幸せな思いが胸に広がる。
 そういう世を凛風は望んでいる。
 彼ならば、実現できるだろう。そしてその時は自分がそばにいたいと思う。
 もちろんそれは実現することのない望みだけれど……。
 目を伏せると抱き寄せられ、暁嵐の腕の中にすっぽりと包まれる。
「暁嵐さま」
 驚く凛風の耳に温かい声が囁いた。
「凛風、すべて俺の腕の中で考えるんだ。そうすれば、お前にとってよい答えに辿り着く」
 自分にとってよい答え……。
 心の中で呟いて、重なるふたりの胸の鼓動を聞きながら、凛風はゆっくりと目を閉じた。