午後の明るい日差しのもと、案内役の役人について凛風が厩へ顔を出すと、気がついた黒翔が、嬉しそうにぶるんと鳴いた。
「黒翔!」
 思わず凛風は駆け出して、黒翔の顔に抱きついた。
「久しぶり、元気だった?」
 凛風の言葉に答えるように黒翔がふんと鼻を鳴らした。後ろで、厩の役人が心底驚いたというように声をあげる。
「驚きました。黒翔がこのように身を預ける者は陛下しかおりませんから」
「いや、今や俺よりも心許している。俺の手入れでは不満そうにしているからな」
 楽しげな言葉に驚いて凛風は振り返る。
 従者を従えた暁嵐が立っていた。
「暁嵐さま」
 暁嵐が視線だけで合図すると、周りの役人たちは声が聞こえないくらいまで離れていった。警護を怠ることはできずとも皇帝と妃のひと時に配慮しているのだ。
「黒翔に会うことを許してくださり、ありがとうございます」
 凛風が弾んだ声で礼を言うと、彼は首を横に振った。
「いや、そろそろ黒翔からもせっつかれていたからな。さっき言ったように、俺の手入れでは満足できないようだ」
 凛風が百の妃として彼の寝所に呼ばれるようになって二十日が経った。
 今の凛風の生活は、夜は彼から字を習い、昼は彼がくれた簡単な書物を読むというものだ。閨に召されながら使命を実行していないことについて皇太后がどう思っているのかという懸念はあるものの、おおむね平穏な日々である。
 気がかりなのは、黒翔だった。
 季節は春を迎え、毎夜湯に浸かる必要はなくなった。手入れは昼間に暁嵐がしていると聞いていても寂しい気持ちは収まらなかった。
 黒翔は、今の凛風にとって心の支えといえる存在だ。元気にしているだろうかと思い出しては会いたくなる。それを暁嵐に話したら、手入れをする際に会わせてくれることになったのである。
 暁嵐が櫛を手にして、さっそく手入れをはじめようとする。
「黒翔、こっちを向け」
 でも黒翔はぶるんと不満そうに鳴いて従わない。濡れた瞳で凛風をじっと見つめている。
「私にやらせてくれるの?」
 尋ねると彼は瞬きで答える。
「皇帝の手入れを拒否するとは、いい度胸だ」
 苦笑する暁嵐から櫛を受け取り、凛風はさっそく手入れに取りかかる。久しぶりの黒翔との触れ合いに胸が弾んだ。
 まずはすべての脚を指圧して蹄の汚れを取り払う。最後に毛並みを整えて、満足そうに鼻を寄せる黒翔の顔に抱きついた。
「おつかれさま。どこもかしこも健やかで安心した」
 目を閉じて、心地よい艶々の毛並みを感じ取り幸せな気持ちになっていると。
「いつまでそうしているつもりだ?」
 後ろから声をかけられる。振り返ると暁嵐は柱にもたれかかり腕を組んで、呆れたように凛風を見ていた。
「妃との逢瀬だと告げて俺は政務を抜けてきたのに、肝心の妃が黒翔に夢中では俺の面目は丸潰れだ」
「え? ……あ、申し訳ありません」
 凛風は辺りを見回した。確かに、従者たちは声は聞こえないものの姿が見える場所にいる。凛風が暁嵐そっちのけで黒翔の手入れをしているのは一目瞭然だ。
「久しぶりだったので、その……」
 もじもじしながらそう言うと、暁嵐が柱から身体を起こし、くっくっと笑いながら凛風のところへやってくる。そして凛風を囲むように黒翔の身体に両手をついた。
 黒翔と彼の腕に挟まれて凛風の胸がどきんと跳ねた。
「俺の寵姫は、自分が誰の妃なのかをときどき忘れてしまうようだ」
 楽しげに言って彼はじっと凛風を見つめる。その視線に、凛風の頬が熱くなった。
『寵姫』という言葉に、少し前の夜に彼に言われたことが頭に浮かんだからだ。
 彼が凛風に親切にしてくれる理由……。
 その先は自分で考えろと言われたその答えは、はっきりと出ていない。彼もあれ以来なにも言わなかった。
 でもときおりこんな風に、核心をつくような言葉を口にして、熱のこもった視線で凛風を見る。そのたびに、それが答えのように思えて、凛風の心はふわふわと軽くなる。まるで天まで上る心地がするのだ。
 自分はこのような気持ちになる立場にないとわかっていながら止められない。
「そ、そのようなことは……」
 呟いて目を伏せると、彼は凛風の顎に手を添える。その手にぐいっと上を向かせられると、視線の先で彼が笑みを浮かべた。
「暁嵐さま」
「凛風……」
 ――そこで。
 ふんっという鼻息が、ふたりの間を通り抜ける。驚いて黒翔を見ると、彼は不満そうにふたりを見ていた。
「黒翔、お前……」
 暁嵐がじろりと黒翔を睨んだ。
「主人の邪魔をするとは、どういうつもりだ?」
 暁嵐の言葉に、黒翔がヒヒンヒヒンといなないて暁嵐の身体を鼻で突く。
「こら、やめろ。お前は……ったく。いつからそんな聞き分けのない赤子のような真似をするようになったのだ!」
 そんなやり取りをするふたりがおかしくて、お腹から笑いが込み上げる。思わず噴き出しくすくす笑う。
「黒翔、ダメよ。暁嵐さまにそのようなことをしては」
 暁嵐が眩しそうに目を細めた。
「黒翔はすっかりお前に夢中のようだ。こいつは俺以外を乗せることはないが、お前なら喜んで乗せるだろう」
「黒翔に……乗る?」
「ああ、馬に乗ったことは?」
 意外な問いかけに、凛風は首を横に振った。
「いいえ……世話をしていましたが、乗ったことはありません」
 普通馬に乗るのは男性だ。女性は馬が引く籠に乗ることが多い。
「黒翔はこの国で一番の走り手だ。乗ると自分が風になったように思えるぞ」
「風に……」
 凛風の頭に、草原を走る漆黒の馬の姿が浮かぶ。どんな美しいだろうと、胸が痛いくらいに高鳴った。
「すごい……」
 黒翔に乗り草原を走れるなら、どんなに幸せだろう。きっと、夢のような心地がするに違いない。
 ドキドキと高鳴る胸の鼓動を聞きながら黒翔に視線を送ると、綺麗な瞳がこちらを見つめていた。
 その目が、暁嵐の言葉を肯定しているように思えて、凛風の胸は嬉しい気持ちでいっぱいになる。
 この美しい駿馬が、自分を乗せてもいいと思ってくれているなんて……!
「乗りたいか?」
「はい、乗ってみたいです! ……あ」
 考えるより先に素直な思いが口から出る。そのことに驚いて、凛風は慌てて口を押さえた。
「あ……いえ」
 こんな風に、自分の希望を口にするなんて、記憶にある限りはじめてだ。凛風にとってはいけないことだったから。重い使命を負った今はなおさらだというのに。
「へ、変なことを言って申し訳ありません」
 なにに対して謝るのか自分でもわからないままに、凛風がそう言うと暁嵐が微笑み首を横に振った。
「謝る必要はない」
「でも……」
 うつむく凛風の身体を暁嵐が抱き寄せ、凛風を見つめた。すぐ近くに感じる彼の温もりに凛風の鼓動が速くなる。
「そうやって、やりたいことを声に出し、言葉にしろ。そしたらいつか叶うだろう」
「いつか……?」
「ああ、俺が叶えてやる」
 力強く彼は言う。
 現実を見ればそれは間違いだ。凛風の願いは実現しない。それでも彼が言うと本当にそうなるかもしれないと思えるから不思議だった。
「もう一度言ってくれ、凛風。お前の願いを、俺はもう一度聞きたい」
 彼の命を狙う身で、彼になにかを願うなど分不相応であり間違ったことだ。もう言うべきではない。
 ――それでも。
 声に出したいと、凛風は思う。たとえ叶わなくとも今この時にこの願いが凛風の胸に存在するということはまぎれもない事実なのだから。
 すぐそばで自分を見つめる強い視線に導かれるような気持ちで、凛風はもう一度、自分の思いを口にした。
「暁嵐さま。私、黒翔に乗せてもらいたいです。風になってみたい」
 痛いほど胸が鳴るのを聞きながら凛風が言い終えたその刹那、暁嵐の瞳がわずかに揺れる。国の頂点に君臨する皇帝である彼が、凛風の言葉に心動かされることなどないはずなのに。
 彼の手が凛風の頬を包み込み、親指が瞼に優しく触れる。
「お前の目は、宝玉のようだ。いや、どんな宝玉よりも美しい」
 そして次に唇を辿る。願いを口にした凛風を、よく言えたと褒めるように。
「暁嵐さま」
 ――もう一度。
 唇に触れる彼の指の感触が、なにかを求めているように思えて、凛風の背中を甘い痺れが駆け抜ける。身体が熱くなってゆく。
 彼の視線がゆっくりと下りて、互いの吐息がかかるところで一旦止まる。
「先日お前が俺に聞いたことを、自分の頭で考えたか? ……なぜ俺がお前にこうするのか」
 低くて甘い囁きに、凛風の胸がじんと痺れる。
 その刹那、優しく唇を奪われた。
 唇に触れる柔らかな感触に、凛風の身体を強い衝撃が駆け抜けて、心の奥底にある本当の願いが目を覚ます。
 凛風の心と身体は、ただ彼を求めている。今この時だけでなく将来にわたってずっと、彼のそばに在りたいと願っている。
「あ、暁嵐さま。見られて……」
 わずかに離れた唇で、凛風は掠れた声を出す。頭が熱くて自分を保てなくなりそうだ。力の入らない両手を彼の胸にあてる。
「問題ない、黒翔の陰になっている」
 低い声で暁嵐が囁き、もう一度深く口づける。
 目を閉じると、温かなものが凛風の胸の中に広がっていく。それはおそらく今の自分には無縁のもの。遠い記憶の中にしかない、幸せな思いだ。
 自分を包む腕の力強さと、自分に向けられる彼の想いを目のあたりにして、凛風は自分の中のなにかが変わろうとしているのをはっきりと感じていた。