どーんどーんと銅鑼が鳴る中、凛風は大廊下を他の妃たちとともに大広間に向かっている。毎朝恒例の皇帝の謁見である。
他の妃たちのおしゃべりを聞きながらこっそりあくびを噛み殺す。昨夜も陽然のことを考えて、よく眠れなかった。
彼への想いは、どんなに押し殺そうとしても、消し去ろうと試みても、まったく無駄に終わってしまう。
それならばもう湯殿へ行くべきではない。彼に会わなければ、胸の想いもいずれはなくなるだろうから。わかっていてもそれもできそうにないのが情けなかった。
浮かない気持ちで凛風は大広間の自分の場所に着席する。頭を下げて皇帝を待った。
銅鑼がどーんと鳴ると、その場が水を打ったように静まり返る。玉座の向こうの扉が開き、皇帝が入室した。
「面を上げよ」
よく響く低い声に、隣の妃が顔を上げる。でも凛風は頭を下げたままだった。
後宮入りした初日から今日まで、凛風は一度も顔を上げていない。どうしても皇帝の顔を見るのが怖いからだ。
末席の妃など誰も気に留めないのだろう。それを咎められたことはない。頭を下げたまま、丞相と皇帝のいつものやり取りが終わるのを待つ。
「陛下、今宵お召しになられたいお妃さまはいらっしゃいますか」
丞相からの伺いに、皇帝が口を開いた。
「ああ、いる」
その答えに、一同息を呑む気配がする。隣の妃が「うそ」と呟くのを聞きながら、凛風も目を見開いた。
本来なら皇帝の御前でおしゃべりは厳禁だ。だが、今は咎められるどころか、あちらこちらから囁くような驚きの声があがっている。
無理もない。
後宮が開かれてひと月以上、頑なに妃を拒んでいた皇帝が、いきなり妃を所望したのだ。妃たちどころか役人たちも驚いている。
その中で、丞相は落ち着いていた。
「して、そのお妃さまは、どなたさまにございますか?」
その問いかけに皆が固唾を呑んで見守る中、皇帝はしばし沈黙する。しばらくしてよく通る声で答えた。
「今宵は、百の妃を所望する」
その言葉に、凛風は目を見開き、石畳の床を凝視した。
自分の耳が信じられなかった。
ここにいる女たちは皆皇帝の妃なのだから、誰が召されてもおかしくはない。それは凛風とて同じこと。だが顔を見たこともない最下位の妃を所望するなどどう考えてもあり得ない。
きっとこれは聞き違い。
混乱する頭で、凛風は自分を落ち着かせようと試みる。だがあまりうまくいかなかった。
しばらくすると周りのざわざわが大きくなる。皇帝が立ち去ったのだ。
心の臓がどくんどくんと嫌な音を立てるのを聞きながら、凛風は恐る恐る顔を上げる。きっと自分ではない他の誰かが指名されているはずと願いながら。
けれど顔を上げた瞬間に、絶望感に襲われる。大広間にいる者全員が、怪訝な表情で凛風に注目していたからだ。
「なんであんたが?」
隣に座る九十九の妃が憎々しげに呟いた。
――聞き間違いではなかった。
皇帝に指名されたのは間違いなく自分なのだ。
今宵凛風は、彼の寝所に行かなくてはならない。
すなわちその時が、凛風の最期の時。
「ねえ、どういうこと?」
「あり得ない。なにかの間違いでしょう?」
ひそひそと話す妃たちの言葉がどこか遠くに聞こえる。この世界が現のことではないように思えた。
頭に浮かぶのは、陽然のことだけだ。
もう彼を目にすることは叶わない。別れの言葉も言えていないのに……。
自分を見るたくさんの人の中に、彼がいないだろうかと凛風は視線を彷徨わせる。
せめてもう一度だけでも、彼の姿を目にしたい。
……けれどいくら探しても彼の姿は見えなかった。
他の妃たちのおしゃべりを聞きながらこっそりあくびを噛み殺す。昨夜も陽然のことを考えて、よく眠れなかった。
彼への想いは、どんなに押し殺そうとしても、消し去ろうと試みても、まったく無駄に終わってしまう。
それならばもう湯殿へ行くべきではない。彼に会わなければ、胸の想いもいずれはなくなるだろうから。わかっていてもそれもできそうにないのが情けなかった。
浮かない気持ちで凛風は大広間の自分の場所に着席する。頭を下げて皇帝を待った。
銅鑼がどーんと鳴ると、その場が水を打ったように静まり返る。玉座の向こうの扉が開き、皇帝が入室した。
「面を上げよ」
よく響く低い声に、隣の妃が顔を上げる。でも凛風は頭を下げたままだった。
後宮入りした初日から今日まで、凛風は一度も顔を上げていない。どうしても皇帝の顔を見るのが怖いからだ。
末席の妃など誰も気に留めないのだろう。それを咎められたことはない。頭を下げたまま、丞相と皇帝のいつものやり取りが終わるのを待つ。
「陛下、今宵お召しになられたいお妃さまはいらっしゃいますか」
丞相からの伺いに、皇帝が口を開いた。
「ああ、いる」
その答えに、一同息を呑む気配がする。隣の妃が「うそ」と呟くのを聞きながら、凛風も目を見開いた。
本来なら皇帝の御前でおしゃべりは厳禁だ。だが、今は咎められるどころか、あちらこちらから囁くような驚きの声があがっている。
無理もない。
後宮が開かれてひと月以上、頑なに妃を拒んでいた皇帝が、いきなり妃を所望したのだ。妃たちどころか役人たちも驚いている。
その中で、丞相は落ち着いていた。
「して、そのお妃さまは、どなたさまにございますか?」
その問いかけに皆が固唾を呑んで見守る中、皇帝はしばし沈黙する。しばらくしてよく通る声で答えた。
「今宵は、百の妃を所望する」
その言葉に、凛風は目を見開き、石畳の床を凝視した。
自分の耳が信じられなかった。
ここにいる女たちは皆皇帝の妃なのだから、誰が召されてもおかしくはない。それは凛風とて同じこと。だが顔を見たこともない最下位の妃を所望するなどどう考えてもあり得ない。
きっとこれは聞き違い。
混乱する頭で、凛風は自分を落ち着かせようと試みる。だがあまりうまくいかなかった。
しばらくすると周りのざわざわが大きくなる。皇帝が立ち去ったのだ。
心の臓がどくんどくんと嫌な音を立てるのを聞きながら、凛風は恐る恐る顔を上げる。きっと自分ではない他の誰かが指名されているはずと願いながら。
けれど顔を上げた瞬間に、絶望感に襲われる。大広間にいる者全員が、怪訝な表情で凛風に注目していたからだ。
「なんであんたが?」
隣に座る九十九の妃が憎々しげに呟いた。
――聞き間違いではなかった。
皇帝に指名されたのは間違いなく自分なのだ。
今宵凛風は、彼の寝所に行かなくてはならない。
すなわちその時が、凛風の最期の時。
「ねえ、どういうこと?」
「あり得ない。なにかの間違いでしょう?」
ひそひそと話す妃たちの言葉がどこか遠くに聞こえる。この世界が現のことではないように思えた。
頭に浮かぶのは、陽然のことだけだ。
もう彼を目にすることは叶わない。別れの言葉も言えていないのに……。
自分を見るたくさんの人の中に、彼がいないだろうかと凛風は視線を彷徨わせる。
せめてもう一度だけでも、彼の姿を目にしたい。
……けれどいくら探しても彼の姿は見えなかった。