「まったく! いったいどういうことにございます? お妃さまが謁見に出席しないなんて、後宮はじまって以来の大失態にございますよ!!」
大廊下に後宮長の小言が響く。凛風はうつむいて、それを聞いていた。
彼女が怒り心頭なのは、今朝凛風は寝坊して謁見をすっぽかしてしまったからだ。
昨夜、部屋に戻った凛風はいつものように寝台に入って目を閉じた。けれどどうにも胸が騒いで眠ることができなかったのだ。
はじめて自分の名前の字を目にした時の喜びと、それを書いてくれた男性の名前が胸の中をぐるぐる回って、頭は冴える一方だった。
仕方なく凛風は起き上がり、自分の名を書いてみることにした。心が落ち着くかと思ったのだ。墨を磨り、白い紙の上で筆を滑らせると、胸の中のざわざわは確かに少し落ち着いた。
だが今度は手習い自体に夢中になってしまい、『あと一枚、次が最後』と思いながら続けるうちに朝を迎えてしまったのだ。
もちろん謁見には参加するつもりだった。だがその前にひと休み、と思い寝台に横になったところ、次に目を開けたときはもう日が高くなっていたというわけだ。
もちろん時間になっても起きない凛風を女官が放っておくわけがない。おそらく、他の妃たちがそう仕向けたのだ。
〝私たちが起こしておく〟とでも言ったのだろう。
九十九の妃を含む数人が小廊下から顔を出して凛風が叱られるのを、くすくす笑って見ていた。
「うまくいったわ」
「だけど少し可愛そうね」
「あら寝坊したんだもの。自業自得よ」
心底楽しそうである。
「謁見への欠席は前日にご寵愛を受けたお妃さまか、ご病気の時だけにございます。今後は絶対にこのようなことがないよう十分にお気をつけくださいませ!」
もうかれこれ半刻ほど後宮長の説教は続いているが、内容は同じことの繰り返しである。
妃たちは飽きもせずに凛風を見てくすくす笑いながら話をしている。
「それにしても寝坊で謁見を欠席するなんて、もったいないことをするわね。一日のうちで陛下のお顔を見られる唯一の機会なのに」
「私なんて、毎日陛下の足音が聞こえただけで、胸がドキドキしてどうにかなってしまいそうなのに」
「あら私もよ、頬がぽーっと熱くなって、いつまでも治らないわ」
あれこれ言い合う妃たちの言葉に、凛風の胸がコツンと鳴る。
そのような状態には、なんだか身に覚えがあるような……?
「あーん、もっとお目にかかりたいわ。朝だけなんて全然足りない」
「そういえば五十二のお妃さまが、閨に呼ばれるよう願いをかけて陛下のお名前を書いた紙を部屋に飾って毎日お祈りしてるって言ってた」
「あらそれ素敵。眺めるだけで陛下のおそばにいるような気になれそう」
その話に、凛風はまた引っかかりを覚えて眉を寄せた。
妃たちは皆、皇帝の寝所に召されたいと願っている。彼を男性として慕っているということだ。
これが男性を恋しく思うということなのか、という普段の凛風なら気にも留めないことが頭に浮かんだ。
さすがの凛風もそうした気持ちがこの世に存在するのは知っている。けれど自分には関係ないと興味がなかった感情だ。
男性を恋しく思うと、胸がドキドキとして、頬の火照りがいつまでも治らない。相手の名前が書かれた紙を眺めたりして……。
と、そこまで考えて、凛風の胸がどきりと鳴る。
どちらも昨夜の凛風を彷彿とさせる話だったからだ。
昨夜は、部屋に戻ってからも胸の鼓動は治らず頬も火照ったままだった。
陽然からもらった彼の名前が書かれた紙は帰ってすぐに机の引き出しにしまったが、寝台に入り目を閉じるとどうしてかもう一度目にしたいという気持ちになった。意味もなく引き出しから出してしばらく眺め、しまい込む。けれどまたすぐに見たくなり出してくる、ということを何度も何度も繰り返したのだ。
どうしてあのようになってしまったのかいくら考えてもわからなかったが……。
でもまさか、と凛風はその考えを打ち消した。
そんなことあるはずがない。
妃たちの話から、男性を恋しく思うとどうなるのかはわかった。
でもやっぱり凛風とは関係がない話だ。よく似ているからって凛風もそうとは限らないのだから。
……けれど。
ならどうして、昨夜の自分はあんな風になってしまったのだろう……?
青筋を立てて説教を続ける後宮長をよそに、凛風はぐるぐると考えを巡らせていた。
大廊下に後宮長の小言が響く。凛風はうつむいて、それを聞いていた。
彼女が怒り心頭なのは、今朝凛風は寝坊して謁見をすっぽかしてしまったからだ。
昨夜、部屋に戻った凛風はいつものように寝台に入って目を閉じた。けれどどうにも胸が騒いで眠ることができなかったのだ。
はじめて自分の名前の字を目にした時の喜びと、それを書いてくれた男性の名前が胸の中をぐるぐる回って、頭は冴える一方だった。
仕方なく凛風は起き上がり、自分の名を書いてみることにした。心が落ち着くかと思ったのだ。墨を磨り、白い紙の上で筆を滑らせると、胸の中のざわざわは確かに少し落ち着いた。
だが今度は手習い自体に夢中になってしまい、『あと一枚、次が最後』と思いながら続けるうちに朝を迎えてしまったのだ。
もちろん謁見には参加するつもりだった。だがその前にひと休み、と思い寝台に横になったところ、次に目を開けたときはもう日が高くなっていたというわけだ。
もちろん時間になっても起きない凛風を女官が放っておくわけがない。おそらく、他の妃たちがそう仕向けたのだ。
〝私たちが起こしておく〟とでも言ったのだろう。
九十九の妃を含む数人が小廊下から顔を出して凛風が叱られるのを、くすくす笑って見ていた。
「うまくいったわ」
「だけど少し可愛そうね」
「あら寝坊したんだもの。自業自得よ」
心底楽しそうである。
「謁見への欠席は前日にご寵愛を受けたお妃さまか、ご病気の時だけにございます。今後は絶対にこのようなことがないよう十分にお気をつけくださいませ!」
もうかれこれ半刻ほど後宮長の説教は続いているが、内容は同じことの繰り返しである。
妃たちは飽きもせずに凛風を見てくすくす笑いながら話をしている。
「それにしても寝坊で謁見を欠席するなんて、もったいないことをするわね。一日のうちで陛下のお顔を見られる唯一の機会なのに」
「私なんて、毎日陛下の足音が聞こえただけで、胸がドキドキしてどうにかなってしまいそうなのに」
「あら私もよ、頬がぽーっと熱くなって、いつまでも治らないわ」
あれこれ言い合う妃たちの言葉に、凛風の胸がコツンと鳴る。
そのような状態には、なんだか身に覚えがあるような……?
「あーん、もっとお目にかかりたいわ。朝だけなんて全然足りない」
「そういえば五十二のお妃さまが、閨に呼ばれるよう願いをかけて陛下のお名前を書いた紙を部屋に飾って毎日お祈りしてるって言ってた」
「あらそれ素敵。眺めるだけで陛下のおそばにいるような気になれそう」
その話に、凛風はまた引っかかりを覚えて眉を寄せた。
妃たちは皆、皇帝の寝所に召されたいと願っている。彼を男性として慕っているということだ。
これが男性を恋しく思うということなのか、という普段の凛風なら気にも留めないことが頭に浮かんだ。
さすがの凛風もそうした気持ちがこの世に存在するのは知っている。けれど自分には関係ないと興味がなかった感情だ。
男性を恋しく思うと、胸がドキドキとして、頬の火照りがいつまでも治らない。相手の名前が書かれた紙を眺めたりして……。
と、そこまで考えて、凛風の胸がどきりと鳴る。
どちらも昨夜の凛風を彷彿とさせる話だったからだ。
昨夜は、部屋に戻ってからも胸の鼓動は治らず頬も火照ったままだった。
陽然からもらった彼の名前が書かれた紙は帰ってすぐに机の引き出しにしまったが、寝台に入り目を閉じるとどうしてかもう一度目にしたいという気持ちになった。意味もなく引き出しから出してしばらく眺め、しまい込む。けれどまたすぐに見たくなり出してくる、ということを何度も何度も繰り返したのだ。
どうしてあのようになってしまったのかいくら考えてもわからなかったが……。
でもまさか、と凛風はその考えを打ち消した。
そんなことあるはずがない。
妃たちの話から、男性を恋しく思うとどうなるのかはわかった。
でもやっぱり凛風とは関係がない話だ。よく似ているからって凛風もそうとは限らないのだから。
……けれど。
ならどうして、昨夜の自分はあんな風になってしまったのだろう……?
青筋を立てて説教を続ける後宮長をよそに、凛風はぐるぐると考えを巡らせていた。