少し乱れた艶のある黒い毛並みを櫛で力を入れて整えてゆく。もう一方の手で身体を優しく撫でて、呼吸に乱れがないか確認する。先ほどまでは湯上がりで少し早くなっていたが、もうずいぶん落ち着いた。
「はい、今夜はこれでおしまいね」
そう言って黒翔の身体を優しく叩くと、ぶるんと鳴いて凛風の頬に鼻を寄せる。凛風はその顔を抱きしめた。
目を閉じて艶々の毛並みと温もりを感じとると、ひと時の間だけ自分に課せられた過酷な使命を忘れることができる。凛風にとって一日のうちで唯一心が解れる時だ。
「いつまでそうしてるつもりだ?」
背後からの呼びかけに、慌てて頬を離し振り返ると、男性が自分を睨んでいた。凛風の湯浴みと黒翔の手入れが終わったらすぐにでも帰りたいのに、ぐずぐずしている凛風に苛立っているのだろうか。
彼と会うようになって十日が経った。
その間、黒翔とは心を通い合わせる仲になれた。凛風にとって黒翔は大切な存在で、自分もまた彼に信頼されていると感じる。
一方で、男性とはまったくだった。
彼はいつも岩場に腰かけ長い脚を組んで、どこか不機嫌に凛風と黒翔を見ている。
それとは逆に凛風は、彼の方をまともに見られず話しかけることもできなかった。転びそうになったところを助けてもらった時のことが、心に残っているからだ。
あれくらいの出来事は、彼にとってはなんでもないことなのだろう。だが凛風にとってはそうではない。人生ではじめての異性との接近だったのだ。
突然のことにもかかわらず、素早く自分を支え軽々と抱き上げた逞しい腕と、すぐ近くに感じた温もりを思い出すだけで、顔から火が出そうな心地になる。その彼とまともに口をきける自信はなかった。
見張りをしてもらっておきながら失礼だとわかっていても、彼がいる方向を見ることなどできず毎晩帰り際に礼を言うのが精一杯だ。
昨夜は彼から黒翔の指圧の礼をしたいと話しかけられたが、動揺しまともに話せた自信はない。そんな風にしか振る舞えない自分が情けなくて申し訳なかった。
彼には昼間の役割があるにもかかわらず、毎夜凛風の湯浴みに付き合ってもらっている。負担になっている上、こんな態度しか取れないのだからもうやめにするべきだ。
だがもはや凛風にはそれができない。湯浴みの見張りを断れば、もう黒翔に会えなくなるからだ。
「も、申し訳ありませんでした。今宵もありがとうございました」
凛風は頭を下げ、黒翔から離れる。そそくさと後宮に戻ろうとすると。
「待て、昨夜頼まれたものを持ってきた」
意外な言葉を口にして、男性が差し出したのは、筆と紙、教本だ。
「私に……ですか?」
驚き、すぐに受け取らない凛風に、彼は不満げに口を開いた。
「昨夜、欲しいと言ってただろう」
「は、はい。……ありがとうございます」
慌てて凛風は受け取るが、まだ信じられなかった。
確かに昨夜、なにか必要なものはないかと尋ねられた際、筆と紙が欲しいと答えた。本当はもっと強く断らなくてはならなかったのに、動揺して本心を言ってしまったのだ。でもまさか本当に持ってきてくれるとは思わなかった。
突然手にした贈物に、申し訳ないと思いつつ凛風の胸は高鳴った。これがあれば浩然に文を送ることができる。返事が来れば浩然の様子を知ることができるかもしれない。
どきどきしながら、さっそく受け取った教本を開いてみる。そしてそのまま眉を寄せて固まった。
「どうした? 教本がほしいのではなかったか?」
「は、はい……ありがとうございます。ただ、少し難しく思いまして……」
教本には絵がなく、一度も手習いをしたことがない凛風には、なにが書かれてあるのかさっぱり理解できなかった。
「……でも、やってみます。ありがとうございました」
とはいえ自分でなんとかするしかない。自信はないがやってみよう。そう心に決めて凛風は教本を閉じる。
すると男性が、手を差し出した。
「貸せ」
凛風から筆と紙を受け取り、平らな岩場に紙を広げて墨を磨る。
「文を書くならば、まずは自分の名からだ」
唐突な彼の行動に驚く凛風にそう言って、白い紙に大きく文字を書いた。
「お前の名だ。まずはこれを練習しろ」
促されて男性の手もとを覗き込み、凛風は息を呑んだ。
白い紙に黒々と書かれた『凛風』という文字に胸を突かれ、心の奥底から熱い思いが湧き上がるような心地がした。
父がつけたという自分の名を、凛風はあまり好きではなかった。
母に呼んでもらった記憶はもはやない。
名を呼ばれる時は、継母に罵倒され叩かれる時だからだ。
でもはじめて目にする自分の名は、堂々として美しく見える。まるで今この瞬間に、彼によって名がつけられたかのように思えるくらいだった。
「私の名前……綺麗……」
目の奥が熱くなって鼻がつんとしたかと思うと、あっという間に目の前が滲んでいく。継母に叩かれても過酷な使命を課せられても泣かなかったのに、どうしてか今は涙をこらえることができなかった。目から溢れた雫が、白い紙の端にぽたりと落ちた。
「……申し訳ございません」
素手で頬を拭いそう言うと、男性が咳払いをして、少し掠れた声を出した。
「明日はこれを他の紙に練習し、持ってくるように。書けるようになったら次は弟の名を教えてやる」
その言葉に、凛風は目を見開いた。では彼が、凛風に字を教えてくれるということだろうか?
「……よろしいのですか?」
「教本が役に立たないのでは、筆も紙も無駄になる」
ややぶっきらぼうなその答えに、凛風の胸は感謝の気持ちでいっぱいになる。湯浴みに続き迷惑をかけることにはなるけれど、今の凛風には彼しか頼れる人がいない。
「ありがとうございます。しっかり練習してまいります」
頬が熱くなるのを感じながらそう言うと、男性が凛風から目を逸らし、筆を置く。そしてこちらに背を向けて黒翔の手綱を取った。
帰るのだ、そう思った瞬間に凛風は彼の背中に呼びかける。
「あの……!」
高鳴る胸の鼓動を聞きながら、考えるより先に問いかける。
「名を、教えていただくことはできますか?」
男性が振り返る。
「……名を? 俺のか?」
「はい」
答えると、彼は訝しむように目を細めそのまま沈黙する。
その反応に、凛風の胸はドキドキとした。
名を尋ねてはいけなかったのかもしれない。役人である彼にとって後宮妃との関わりはよくないことなのかも。
それでも凛風は知りたかった。
好きではなかった自分の名を、美しい字で書いてくれた彼の名を。
けれど彼は、なにかを考えるように沈黙したまま答えない。
やはり不躾なことだったのだと凛風が諦めかけたその時、こちらに戻ってきて、再び筆を取る。そして新たな紙を敷いて、大きく『陽然』と書いた。
「陽然だ」
彼の名も、自分の名と同じくらい美しいと凛風は思った。
岩場に並ぶふたつの名に、凛風の鼓動がとくとくとくと速度を上げてゆく。どうしてかわからないけれど、ずっとずっと見ていたい、そんな気持ちになるような不思議な光景だ。
「陽然……さま」
声に出すと、陽然は頷いて自分の名を書いた紙を手に取る。用は済んだとばかりに今にも破り捨てそうになるのを、凛風はとっさに止めた。
「それも! ……いただいてはいけませんか?」
頬がかぁっと熱くなる。不思議そうに凛風を見る彼の視線が痛かった。
変なことを言っているのはわかっているが、どうしても破り捨ててほしくなかった。もう少し自分の名と彼の名が並ぶのを見ていたい。
「せっかく書いていただいたお手本ですし……その。お手本はたくさんある方が……」
苦しい言い訳だと思いながらそう言うと、彼は紙をもとの場所に戻した。
「ありがとうございます」
「いや……だがやはり……異な妃だ」
掠れた声で呟いて、くるりとこちらに背を向ける。今度こそ黒翔を連れて帰っていった。
その後ろ姿を見つめながら、凛風は胸に両手をあてる。
速くなった鼓動は一向に収まらず、なにやら心がふわふわとして、湯からあがってずいぶん経つのに、頬がほかほかと火照っていた。
そんな自分の反応に、凛風は困惑する。こんな気持ちははじめてだった。
彼とのやり取りにいちいちドキドキしてしまうのは、はじめての男性との関わりに動揺しているのだと思っていた。情けないことではあるが、それは仕方がない。でも今胸にあるこの弾むような想いは、また違ったもののように感じる。
自分の名を美しく書いてもらえた喜びと、浩然以外の人に親切にしてもらうという慣れない状況に、心と身体が驚いているのだろうか。
「陽然さま」
彼の名を呟くと、どうしてかその自分の声音が甘く耳に響く。彼の名はこの世の中で一番特別なもののように思えた。
この自分の気持ちがいったいどこから来るものなのか……。
月明かりの中、岩場に並ぶふたつの名を見つめながら、凛風は考え続けていた。
「はい、今夜はこれでおしまいね」
そう言って黒翔の身体を優しく叩くと、ぶるんと鳴いて凛風の頬に鼻を寄せる。凛風はその顔を抱きしめた。
目を閉じて艶々の毛並みと温もりを感じとると、ひと時の間だけ自分に課せられた過酷な使命を忘れることができる。凛風にとって一日のうちで唯一心が解れる時だ。
「いつまでそうしてるつもりだ?」
背後からの呼びかけに、慌てて頬を離し振り返ると、男性が自分を睨んでいた。凛風の湯浴みと黒翔の手入れが終わったらすぐにでも帰りたいのに、ぐずぐずしている凛風に苛立っているのだろうか。
彼と会うようになって十日が経った。
その間、黒翔とは心を通い合わせる仲になれた。凛風にとって黒翔は大切な存在で、自分もまた彼に信頼されていると感じる。
一方で、男性とはまったくだった。
彼はいつも岩場に腰かけ長い脚を組んで、どこか不機嫌に凛風と黒翔を見ている。
それとは逆に凛風は、彼の方をまともに見られず話しかけることもできなかった。転びそうになったところを助けてもらった時のことが、心に残っているからだ。
あれくらいの出来事は、彼にとってはなんでもないことなのだろう。だが凛風にとってはそうではない。人生ではじめての異性との接近だったのだ。
突然のことにもかかわらず、素早く自分を支え軽々と抱き上げた逞しい腕と、すぐ近くに感じた温もりを思い出すだけで、顔から火が出そうな心地になる。その彼とまともに口をきける自信はなかった。
見張りをしてもらっておきながら失礼だとわかっていても、彼がいる方向を見ることなどできず毎晩帰り際に礼を言うのが精一杯だ。
昨夜は彼から黒翔の指圧の礼をしたいと話しかけられたが、動揺しまともに話せた自信はない。そんな風にしか振る舞えない自分が情けなくて申し訳なかった。
彼には昼間の役割があるにもかかわらず、毎夜凛風の湯浴みに付き合ってもらっている。負担になっている上、こんな態度しか取れないのだからもうやめにするべきだ。
だがもはや凛風にはそれができない。湯浴みの見張りを断れば、もう黒翔に会えなくなるからだ。
「も、申し訳ありませんでした。今宵もありがとうございました」
凛風は頭を下げ、黒翔から離れる。そそくさと後宮に戻ろうとすると。
「待て、昨夜頼まれたものを持ってきた」
意外な言葉を口にして、男性が差し出したのは、筆と紙、教本だ。
「私に……ですか?」
驚き、すぐに受け取らない凛風に、彼は不満げに口を開いた。
「昨夜、欲しいと言ってただろう」
「は、はい。……ありがとうございます」
慌てて凛風は受け取るが、まだ信じられなかった。
確かに昨夜、なにか必要なものはないかと尋ねられた際、筆と紙が欲しいと答えた。本当はもっと強く断らなくてはならなかったのに、動揺して本心を言ってしまったのだ。でもまさか本当に持ってきてくれるとは思わなかった。
突然手にした贈物に、申し訳ないと思いつつ凛風の胸は高鳴った。これがあれば浩然に文を送ることができる。返事が来れば浩然の様子を知ることができるかもしれない。
どきどきしながら、さっそく受け取った教本を開いてみる。そしてそのまま眉を寄せて固まった。
「どうした? 教本がほしいのではなかったか?」
「は、はい……ありがとうございます。ただ、少し難しく思いまして……」
教本には絵がなく、一度も手習いをしたことがない凛風には、なにが書かれてあるのかさっぱり理解できなかった。
「……でも、やってみます。ありがとうございました」
とはいえ自分でなんとかするしかない。自信はないがやってみよう。そう心に決めて凛風は教本を閉じる。
すると男性が、手を差し出した。
「貸せ」
凛風から筆と紙を受け取り、平らな岩場に紙を広げて墨を磨る。
「文を書くならば、まずは自分の名からだ」
唐突な彼の行動に驚く凛風にそう言って、白い紙に大きく文字を書いた。
「お前の名だ。まずはこれを練習しろ」
促されて男性の手もとを覗き込み、凛風は息を呑んだ。
白い紙に黒々と書かれた『凛風』という文字に胸を突かれ、心の奥底から熱い思いが湧き上がるような心地がした。
父がつけたという自分の名を、凛風はあまり好きではなかった。
母に呼んでもらった記憶はもはやない。
名を呼ばれる時は、継母に罵倒され叩かれる時だからだ。
でもはじめて目にする自分の名は、堂々として美しく見える。まるで今この瞬間に、彼によって名がつけられたかのように思えるくらいだった。
「私の名前……綺麗……」
目の奥が熱くなって鼻がつんとしたかと思うと、あっという間に目の前が滲んでいく。継母に叩かれても過酷な使命を課せられても泣かなかったのに、どうしてか今は涙をこらえることができなかった。目から溢れた雫が、白い紙の端にぽたりと落ちた。
「……申し訳ございません」
素手で頬を拭いそう言うと、男性が咳払いをして、少し掠れた声を出した。
「明日はこれを他の紙に練習し、持ってくるように。書けるようになったら次は弟の名を教えてやる」
その言葉に、凛風は目を見開いた。では彼が、凛風に字を教えてくれるということだろうか?
「……よろしいのですか?」
「教本が役に立たないのでは、筆も紙も無駄になる」
ややぶっきらぼうなその答えに、凛風の胸は感謝の気持ちでいっぱいになる。湯浴みに続き迷惑をかけることにはなるけれど、今の凛風には彼しか頼れる人がいない。
「ありがとうございます。しっかり練習してまいります」
頬が熱くなるのを感じながらそう言うと、男性が凛風から目を逸らし、筆を置く。そしてこちらに背を向けて黒翔の手綱を取った。
帰るのだ、そう思った瞬間に凛風は彼の背中に呼びかける。
「あの……!」
高鳴る胸の鼓動を聞きながら、考えるより先に問いかける。
「名を、教えていただくことはできますか?」
男性が振り返る。
「……名を? 俺のか?」
「はい」
答えると、彼は訝しむように目を細めそのまま沈黙する。
その反応に、凛風の胸はドキドキとした。
名を尋ねてはいけなかったのかもしれない。役人である彼にとって後宮妃との関わりはよくないことなのかも。
それでも凛風は知りたかった。
好きではなかった自分の名を、美しい字で書いてくれた彼の名を。
けれど彼は、なにかを考えるように沈黙したまま答えない。
やはり不躾なことだったのだと凛風が諦めかけたその時、こちらに戻ってきて、再び筆を取る。そして新たな紙を敷いて、大きく『陽然』と書いた。
「陽然だ」
彼の名も、自分の名と同じくらい美しいと凛風は思った。
岩場に並ぶふたつの名に、凛風の鼓動がとくとくとくと速度を上げてゆく。どうしてかわからないけれど、ずっとずっと見ていたい、そんな気持ちになるような不思議な光景だ。
「陽然……さま」
声に出すと、陽然は頷いて自分の名を書いた紙を手に取る。用は済んだとばかりに今にも破り捨てそうになるのを、凛風はとっさに止めた。
「それも! ……いただいてはいけませんか?」
頬がかぁっと熱くなる。不思議そうに凛風を見る彼の視線が痛かった。
変なことを言っているのはわかっているが、どうしても破り捨ててほしくなかった。もう少し自分の名と彼の名が並ぶのを見ていたい。
「せっかく書いていただいたお手本ですし……その。お手本はたくさんある方が……」
苦しい言い訳だと思いながらそう言うと、彼は紙をもとの場所に戻した。
「ありがとうございます」
「いや……だがやはり……異な妃だ」
掠れた声で呟いて、くるりとこちらに背を向ける。今度こそ黒翔を連れて帰っていった。
その後ろ姿を見つめながら、凛風は胸に両手をあてる。
速くなった鼓動は一向に収まらず、なにやら心がふわふわとして、湯からあがってずいぶん経つのに、頬がほかほかと火照っていた。
そんな自分の反応に、凛風は困惑する。こんな気持ちははじめてだった。
彼とのやり取りにいちいちドキドキしてしまうのは、はじめての男性との関わりに動揺しているのだと思っていた。情けないことではあるが、それは仕方がない。でも今胸にあるこの弾むような想いは、また違ったもののように感じる。
自分の名を美しく書いてもらえた喜びと、浩然以外の人に親切にしてもらうという慣れない状況に、心と身体が驚いているのだろうか。
「陽然さま」
彼の名を呟くと、どうしてかその自分の声音が甘く耳に響く。彼の名はこの世の中で一番特別なもののように思えた。
この自分の気持ちがいったいどこから来るものなのか……。
月明かりの中、岩場に並ぶふたつの名を見つめながら、凛風は考え続けていた。