「こちらは裁可……こちらは県令の意見を聞く」
 昼下がり、皇帝が政務を行うための黄玉の間にて。
 山積みにされた巻物に素早く目を通し、暁嵐は決断を下していく。案件によって、目の前に並ぶ家臣たちの意見を聞きながら。
 皇帝としての責務は多岐に渡る。
 一番大切なのは、鬼の力を持って魑魅魍魎から民を守ること。
 ふたつ目は正しい政治を行い、飢える者がいない国づくりをすることだ。
 暁嵐のもとには、国中からたくさんの意見が集まってくる。
「こちら、南江(ナンコウ)からの報告にございます」
 役人が暁嵐の前に広げた巻物に目を通し、暁嵐は眉を寄せる。報告には、近頃山で魑魅魍魎らしき陰を見た者が複数いるとある。今のところ人的被害はないようだが、聞き捨てならない報告だ。
 早速暁嵐は目を閉じて、意識のみを空高くに飛び上がらせる。こうすると身体は宮廷にあっても国土の隅々まで見ることができるのだ。南江に意識を向けると、結界がやや弱まっている箇所がある。
 暁嵐はすぐにその結界を張り直した。先帝の結界から自分の結界を張り直す際は、実際に現地に出向く必要があったが、すでに自ら張った結界で国を守っている今は、ここからでもある程度のことができる。
「結界を強化した。もう案ずることはないと南江の者に伝えよ」
 目を開いてそう言うと、役人が頭を下げた。
「陛下、ありがとうございます。次は、高揚の件にございます」
 役人はそう言って、机の上に巻物を広げた。
 高揚。
 国の端のその地名と、百の妃郭凛風の姿が重なった。
 毎夜彼女と会うようになってから、今日で十日目。逢瀬を重ねるにつれて、暁嵐は原因不明の苛立ちを感じるようになっていた。
 彼女が刺客としてなにかをしたわけではない。
その逆で、まったくなにもないからだ。
 毎夜暁嵐は、今宵こそ凛風は意味ありげな仕草で自分を誘うだろう、そしたら正体を暴いてやると思い、会いに行く。
 だが一向にそんな様子は見られないのだ。
 湯殿に来ると、彼女はまず遠慮がちに湯浴みをする。そして、一緒に湯に入りたがる黒翔を受け入れ、たてがみを洗っている。背を向けた暁嵐の背後から聞こえるのは、黒翔に話しかける彼女の優しい声音とそれに答える黒翔の鼻息。両者とも実に楽しそうだ。
 そして湯からあがると嬉々として黒翔の世話をするのだ。指圧をして毛並みを整えている。
 その間、彼女はほとんど暁嵐を見ない。
 ――これほどまでにわからないものに出会ったのは、生まれてはじめてである。
 状況からみて彼女が刺客なのは間違いないはずなのに、彼女自身に、まったくそんな様子がない。
 このふたつの現象の(かい)()に、苛立っているというわけだ。
 この苛立ちは、早く正体を見せろというはやる気持ちからくるものだ。
 早く皇太后の尻尾を掴み、宮廷に平穏をもたらすのが、皇帝としての責務なのだから。
 彼女が尻尾を出せば好都合。
 皇后もろとも処分してやる。
 早くそれらしいことをしろ。
 だが今凛風が暁嵐を誘惑したとして、自分はすぐさま彼女を捕え糾弾することができるだろうか……?
「……か。陛下。いかがいたしましたか?」
 尋ねられて、暁嵐はハッとする。巻物に書かれてある内容はそれほど複雑ではないのに、いつまでも決断を下さない暁嵐を家臣は不審に思ったようだ。
「お疲れですか、陛下。一度休憩いたしましょう。(シャオ)(チー)と茶をお持ちいたします」
 家臣が周りに指示を出す。
 疲れは感じていなかったが、集中力が途切れている。とりあえず暁嵐は頷いた。
 従者たちが心得て、巻物と使っていた(すずり)や筆を片付ける。
 それを見るうちに、暁嵐の頭に、昨夜の郭凛風の様子が浮かんだ。
 昨夜暁嵐は、あまりにも黒翔のみに関心を向ける凛風に、水を向けてみることにした。あり得ないことだが、刺客としての役割を忘れているのではないかと思ったのだ。
 いつもの通り黒翔の手入れを終え帰ろうとする彼女を呼び留め、問いかけた。
『毎夜黒翔の手入れ、ご苦労。なにか礼をしよう。望むことを言ってみろ』
 彼女が刺客なら、またとない機会だ。これ幸いとなにかをねだるだろう。
 すると彼女は首を横に振った。
『な、なにもございません……。湯浴みを……お付き添いいただいている代わりですから』
 この答えについては予想通り。まずは無欲なふりをするだろう。だが何度か促せばなにかを望むはずだ。刺客としての役割を果たすための足がかりになるなにかを。
『いいから申してみよ』
 少々強引に促すと彼女は頬を染めて眉を寄せ、しばらく考える。そしてしどろもどろになりながら望むことを口にした。
『ならば……筆と紙をいただけますでしょうか? できれば……その、字を習うことができる教本も』
 まったく予想外なその答えに、暁嵐は不意を突かれ、不覚にも次の言葉が出てこなかった。なぜ今この状況で筆と紙を望むのだ。
『……や、やはり結構です。分不相応なものを願い出てしまい申し訳ありませんでした』
 恐縮し帰ろうとする彼女を引き留めさらに続きを促すと、つっかえながら事情を説明する。故郷にいる弟に文を書きたいのだという。
『まだ十三なのです。母親を亡くしておりますから、寂しい思いをしているかと……』
 だが彼女は字が書けないのだという。
『昼間は時間がありますから、その時に手習いをしたいと思いまして……』
 後宮の妃が日中にやることといえば、身体を磨くか茶会に興じることくらい。手習いをしたがる妃など聞いたことがない。
 いやおそらくは、これも彼女の狙いなのだ。他の妃は望まぬようなものを望み、家族を大切に思う娘のふりをして、暁嵐の気を引こうとしている。
 そうに違いないと思いながらが、どうもしっくりこなかった。
「……筆を用意してくれ」
 机を片付ける従者に向かって暁嵐が言うと、彼は手を止め首を傾げた。
「筆……にございますか?」
「ああ、少し細めのものだ。それから紙と手習のための教本も。子が字を習う時の一番易しいものを夕刻までに一式頼む」
「御意にございます」
 秀宇がいなくてよかったと思う。
 でなければ妙な物を準備させると不審に思われてしまっただろう。
 なぜ彼女に乞われるままに、望む物を贈るのか。
 尋ねられても、今ははっきりとした答えを出せる自信がなかった。
 とりあえず凛風の出方を探るため、策に乗るふりをする?
 いや普段ならそのようなことはしない。相手の意図も読めないうちに、そうするのは危険だからだ。
 ではなぜ自分は彼女に筆と教本を贈ろうとしているのだ?
 巻物を片付ける役人を見ながら、暁嵐は考え続けていた。