次の日の夜更け、同じ時刻に湯殿へ行くと、黒翔を連れた男性はすでにそこにいた。岩場に座り腕を組んでいる。凛風に気がつくと湯殿を顎で指し示した。
「お前が先に入れ。黒翔が入ると湯が濁る」
「わ、私の湯浴みは結構です。今日は黒翔の指圧だけ……」
 凛風は、あらかじめ決めていたことを口にする。明日からはもうここへは来ないと言わなくてはと考えていると、男性が眉を寄せて凛風を睨んだ。
「それでは来た意味がないだろう」
「今宵は、黒翔の指圧をしにまいりました……ですが明日からは……」
「いや、そうではない」
 男が言って、黙り込む。そして小さな声で「まどろっこしい」と呟いた。
「え……?」
「いいからさっさと湯浴みをしろ。俺はそれほど暇ではない」
 威圧的な物言いに、凛風はビクッと肩を揺らす。そのような言い方をされては従うしかなかった。命令されると否と言えない。たとえ相手が父と継母でなくとも、凛風の身体にはそれが染みついている。
 言われた通りに服を脱ぎかけて、男が鋭い視線でこちらを見ていることに気がついた。手を止めて恐る恐る口を開く。
「あの」
「なんだ?」
「……こちらに背を向けて……いただきたいのですが……」
 命令とはいえ男が見ている前で湯浴みをする勇気はない。昨夜もそうしてくれたのだから今夜もお願いしていいだろう。凛風はそう思ったのだが、なぜか男性は怪訝な表情になる。不快、というよりはなぜそのようなことを言うのだと疑問に思っている様子だ。
「背を向けてほしいのか?」
「そ、そうしてくださるとありがたいです……」
 頷きながら凛風は頬が熱くなるのを感じていた。湯浴みを見られるのが恥ずかしがるなど、見張りをしてもらっているのに()(しつけ)な言葉だったかもしれない。
 男が、赤くなる凛風に気がついたように目を見開き(せき)(ばら)いをする。
「まぁ……そうか」
 呟きこちらに背を向けた。
 安堵して、凛風は服を脱いで湯に浸かった。
 手脚を伸ばして目を閉じる。少し落ち着かないけれどやはり湯に浸かると気持ちいい。とはいえ、あまりゆっくりはできない。早々に髪を洗い、あがらなくてはと思っていると。
「おい」
 男性の声とともに、黒翔がこちらに歩いてくる。そしてドボンと湯に浸かった。
「黒翔、お前は後だ。湯が濁るだろう」
 男が言って手綱を引こうとする。
 凛風はそれを止めた。
「わ、私は大丈夫です。こちらは上流になっておりますから、湯は濁りません」
 気持ちよさそうにしている黒翔に向かって手を伸ばす。
「ついでに立て髪の手入れもしようか」
 黒いたてがみを濡れた指で丁寧に()いてゆくと、黒翔が嬉しそうにブルンと鳴いた。
 自分の髪も洗い、湯から上がると、次は指圧を施してゆく。
 自分を見つめる男性に、落ち着かない気持ちではあるものの黒翔の身体に触れるたび、綺麗な瞳と目が合うたびに胸が弾んだ。
「気持ちいい? 強すぎたら教えてね」
 指圧が終わり黒い毛並みを手で撫でて立ち上がる。ふと思い立ち、黒翔の身体に手をついたまましばらく考える。恐る恐る振り向いて、思い切って口を開いた。
「あの……櫛をお持ちではないですか?」
「櫛?」
「は、はい。黒翔の毛並みを整えてやりたくて。濡れたから少し乱れておりますし……」
 凛風が頼まれたのは指圧だけ。毛並みを整えてやるのは厩戸の役人である男性の役割だ。それはわかっているけれど、艶々の黒い毛並みに触れていたらどうしても整えてやりたくなったのだ。
 男性が怪訝な表情になった。
 その反応に凛風はドキッとする。毛並みの手入れは馬と人との信頼関係を築くための行為でもある。関係のない凛風にやりたいなど言われて、不快に思われたのかもしれない。叱られるかと不安になる。
 けれど男性は首を横に振っただけだった。
「いや、今はない。……明日は持ってこよう」
 その答えに凛風は慌てて口を開く。
「え? あ、明日は……!」
〝もう来ない〟と言わなくては。
 でもそこで袖を引っ張られて振り返る。黒翔が凛風の袖を(くわ)えて、濡れた目でこちらを見ていた。その目に、凛風の気持ちがぐらりと揺らぐ。男性の提案を断れば、もう黒翔には会えないのだ。
「……お、お願いします」
 黒翔がブルンと鳴いて凛風の頬を突いた。そのくすぐったい感触に、凛風の頬に笑みが浮かぶ。男性には申し訳ないと思いつつ、また明日も黒翔の手入れができるのが嬉しかった。
「おやすみ」
 いつまでもこうしていたいくらいだがそういうわけにはいかない。凛風は男性に向き直る。
「今宵はありがとうございました」
 そして後宮に戻ろうと男性に背を向けかけたところ。
「きゃっ!」
 濡れた地面に足滑らせ身体の均衡を崩してしまう。
目を閉じて地面にぶつかることを覚悟するが、いつまでもその衝撃はやってこなかった。恐る恐る目を開くと、代わりに逞しい腕が自分の腰を支えている。
 驚いて振り返るとすぐ近くに男性の漆黒の瞳があった。彼が転びそうになった凛風を支えてくれたのだと気がついて息を()んだ。
 鼓動がドクンと大きな音を立て、頬が燃えるように熱くなった。凛風にとって男性とこれほど接近するのはじめてのことだ。動揺して息をすることも忘れてしまうくらいだった。
 礼を言うこともできずにいる凛風を、彼は軽々と抱き上げる。
「っ……!」
 突然の彼の行動に、驚き身を固くする凛風を抱いたまま彼は移動し、乾いた地面にそっと下ろした。その腕と仕草は彼が放つ威圧的な空気からは想像できないほど優しかった。
「暗いと足元が見えぬ。黒翔の周りはぬかるんでいるから気をつけろ」
「あ、ありがとうございます……」
 混乱したまま目を伏せて(かす)れた声でようやく凛風は礼を言う。けれど再び彼の顔を見ることはできなかった。
「お、おやすみなさいませ……」
 そのままくるりと踵を返して後宮に向かって足速に歩きだす。
 少し冷たい夜の空気が頬を撫でるけれど、火照(ほて)りは一向に収まらなかった。
 身体に回された彼の腕の感触が、いつまでも残っているような気がした。