厩に黒翔を繋いで振り返ると、月明かりの中に秀宇がいた。
「お疲れさまでございます、暁嵐さま」
「わざわざ待たなくてよい。奇襲を受けても俺を殺められる者などいない」
「それは承知にございますが、それにしても少しお戻りが遅いような気がしまして」
 過保護な、と暁嵐は苦笑する。
 だがそれも仕方がないのかもしれない。幼い頃から一緒に育った彼は、暁嵐が皇太后の手によって殺されかけたところを何度も目撃している。不意を突かれて万が一という可能性を心配しているのだろう。そのようなことになり皇太后が実権を握れば国は確実に破滅の一途を辿(たど)る。
 早足に私室へ向かいながら、暁嵐は秀宇の疑問に答えた。
「湯殿に湯浴みをする女がいた」
「湯浴みをする女……でございますか」
「ああ、百の妃、郭凛風と名乗っていたな」
「なっ……! 百の妃ですと!?」
 秀宇が目を()いた。
「そ、それは今朝の話し通りではありませぬか!」
「声を落とせ、秀宇。清和殿の外だ」
 叱責すると彼は一旦口を閉じる。結界の中に入りすぐにまた口を開いた。
「暁嵐さま、これは皇太后さまの(わな)にございます!」
「まぁそうだろうな」
 暁嵐が一度も妃を閨に呼んでいないという状況で、順位の低い妃が何食わぬ顔で接触してきたのだ。
 偶然ではないだろう。そもそも本来なら後宮か寝所以外で、皇帝と妃が顔を合わせること自体ほとんどない。
「とりあえず、しばらく様子を見る。お前は百の妃の実家を洗え」
 私室に入ると、部屋の中は照明が落とされ、すぐにでも休めるよう整えられていた。
「様子を見るとは……まさかまたお会いになるおつもりですか?」
「もちろんそうだ。会わずして相手の出方を探ることはできぬだろう」
「で、ですが、あやしいなら身元を洗えばいいだけの話では!? なにも暁嵐さま自ら……」
「落ち着け、秀宇」
 暁嵐は寝台に座り、ため息をついた。
「あの妃が刺客だとしても、閨の場でなければなにもできん。むしろ皇太后の尻尾を掴むまたとない機会だ」
 百の妃が刺客であるという証を掴み、皇太后の名を吐かせれば、皇后一派を一掃する足がかりになる。
「とにかくお前は、百の妃の身元を洗え、必要ならば実家がある地方へ足を運んででもだ。わかったな」
 有無を言わせずそう言うと、秀宇は渋々頷いて下がっていった。
 暁嵐は寝台の上にゴロンと横になり、(てん)(がい)を見つめ考えを巡らせる。
 百の妃、郭凛風。
 わざわざ秀宇に言われなくとも、暁嵐とて限りなく黒に近いと踏んでいる。今のところ不審な点は状況だけ。それでも、生まれた時から命を狙われ続けてきた暁嵐の勘が、彼女は黒だと告げている。
 あの場では、まるで暁嵐を皇帝と知らないそぶりを見せていたが、おそらくそれも策のうち。無垢なふりをしているのだろう。
 なんならあの場で拘束し、無理やり吐かせてもよかったのだ。たかだか小娘ひとり、術にかければすぐに()を上げるだろう。
 ……だが暁嵐はそうしなかった。
 理由は、愛馬黒翔だ。
 黒翔は人よりも知性があり、相手の本質を見抜く力がある。幼い頃からそばにいた暁嵐のみを信頼し、人間を寄せ付けない。その黒翔が、彼女に身を任せていたという事実が、暁嵐を思いとどまらせた。
 彼女に二心あって、暁嵐に近づいているならば、すぐにでも黒翔が蹴り飛ばしていたはず……。
 あの場ではどうするべきか判断がつかず、暁嵐は彼女と明日も会うことにしたのだ。少々強引に約束を取り付けたが、彼女が刺客なら好都合とばかりに明日も姿を見せるはず。
 あやしいと思ったのなら、身元を洗えばいい。
 秀宇の言うことはもっともだ。その方が安全だとわかっている。
 だがそれでも暁嵐は自分で確かめたいと思ったのだ。早く皇后の尻尾を掴み、平和な世を作りたい。今まで数えきれないほど命を狙われてきた皇太后との決着を自分でつけたいという気持ちもある。
 郭凛風の正体を暴き皇太后の名を吐かせれば、長年の恨みを晴らし母の(かたき)を打つことができるのだ。
 ――明日には、必ず。
 薄暗い中、空を睨み暁嵐はそう心に決めていた。