女官に教えてもらった湯殿は、城の敷地のはずれにあった。かつては皇帝と妃が湯浴みを楽しんだ場所だからだろう。
 うっそうとした木々に囲まれて周囲からは見えないようになっている。
 今は放っておかれているという話の通り、(ひと)()はまったくない。
 女官に渡された案内図がなければ、そこに湯殿があるなど気がつかなかっただろう。
 木々に囲まれた湯殿の先は小川のようになっていて、たっぷりの湯がそこから注ぎ込まれている。
 もうもうと立ち込める湯気に、凛風の胸は高鳴った。行水でもなんの問題もないとは言ったものの、やはり湯に浸かれるのは嬉しい。
 周囲を見回し、誰もいないことを確認してから衣服を脱いで岩場に置き、そっと足先をつける。
 少し熱めの湯が気持ちよかった。
 ゆっくりと入り、肩まで浸かって目を閉じると、湯の温もりが身体の(しん)まで染み渡る。
 白い息を吐いて見上げると、頭上には満天の星。(きら)めく星を見つめながら、凛風は不思議な気持ちになる。
 後宮入りしてからの凛風は想像していたよりも平穏な日々を過ごしている。
 他の妃に虐められはするものの、食事と暖かい寝床が用意されている。
 いつ、継母に呼びつけられて叩かれるかと(おび)えることのない安心な生活だ。
 やりきれない用事を言いつけられて一日中走り回りくたくたになることもない。
 こうしていると、自分に過酷な使命が課せられていることを忘れてしまいそうになる。
 このまま時が過ぎ去って、皇太后が皇帝暗殺を諦めてくれればいいのにと願わずにはいられなかった。
 そしたら、またいつか浩然と会えるかもしれない。大切な弟を抱きしめることができるかもしれないのだ。
 ――多くを望むのは危険だ。叶わなかった時に、つらい思いをすることになるから。
 それはわかっているけれど……。
 そんなことを考えながら湯に浸けて温かくなった両手を、凛風が顔につけた時。
「何者だ」
 ガサッという音とともに、背後から低い声が鋭く凛風に問いかける。ビクッとして振り返ると、湯気の向こうに大きな黒い馬を連れた背の高い男性が立っていた。
「きゃ!」
 思わず凛風は声をあげて顎まで湯に浸かる。突然のことに驚きすぎて、問いかけに答えられなかった。
 女官からここは誰も来ないから大丈夫と言われていたのに……。
 馬を連れている男性は、宦官の(あかし)である三つ編みはしておらず、役人の服ではない部屋着のような簡易な服装だ。
 馬を連れているのだから、厩の役人のようにも思えるが、それにしても雰囲気が普通の人とは異なっていた。
 漆黒の髪と切れ長の目、スッと通った鼻筋。
 これほど端正な顔つきの男性を目にするのははじめてだ。
 しかも背が高く逞しい身体つきではあるもののどこか高貴な(たたず)まいでもある。射抜くような鋭い視線に、心が震えるような心地がする。
「答えろ。お前は誰だと聞いている」
 再び威圧的に問いかけられて、凛風は慌てて震える唇を開いた。
「郭凛風と申します……! 百の妃にございます」
 相手が誰かもわからないうちに、身元を明かすべきではないのかもしれない。
 だが、とにかくこちらがあやしい者でないと示す必要がありそうだ。そうでなければ、すぐにでも命を取られかねない、そんな考えが頭をよぎるほどに、男性が放つ空気がぴりぴりと張り詰めている。
 男が眉を寄せて呟いた。
「……百の妃?」
「こ、後宮長さまの許可を得て湯浴みをしておりました」
「なぜこのような場所で湯浴みをする。後宮には妃のための湯殿があるだろう」
「そ、それはその……。私は身体に醜い傷がありますので、他のお妃さま方のお目汚しにならぬようにと思いまして……」
 凛風は、問われるままに事情をすべて口にする。その内容に、男性が目を細めた。
「傷? 後宮で()めごとでもあったか?」
「え? い、いえ。そうではありません。古い傷でございます」
「……なるほど」
 ようやく男性は納得して口を閉じる。そしてそのまま形のいい眉を寄せて考え込んでいる。
 凛風の胸がドキドキとした。
 実家の敷地からほとんど出してもらえずに育った凛風にとっては、彼くらいの男性と話をするのははじめてだからだ。
 しかも湯気でよく見えないとはいえ、自分は肌を(さら)している状況。これ以上耐えられそうない。
 なんとかあがれないだろうかと考える。
 とりあえず湯の中で着替えと手拭いが置いてある岩場に近い場所まで移動して……。
 だがその時、男性の隣の馬がぶるんとひと鳴き、かっぽかっぽと歩いてくる。
 そのままざぶざぶと湯の中までやってきて、岩場と凛風の間に膝を折り身体まで浸かった。
 凛風は目を丸くする。馬が湯に浸かるところなど見たことがない。
「黒翔、お前……」
 男性にとってもこの行動は意外だったようだ。驚いたように問いかけ、手綱を引く。
 だが黒翔と呼ばれた馬はどこ吹く風で気持ちよさそうに目を閉じて動く気配はなかった。
 黒い艶のある毛並みと締まった身体つき、濡れたような黒い目の美しい馬だった。
「気持ちいい?」
 思わず凛風は問いかける。久しぶりに馬をすぐ近くで見られて、少し心が浮き立った。黒翔は瞼を上げて凛風をちらりと見る。そしてまた目を閉じた。
 口元に笑みを浮かべる凛風に、男性が(いぶか)しむように問いかけた。
「お前、馬が怖くはないのか?」
 ハッとして、凛風は慌てて笑みを引っ込めた。
「こ……怖くはございません。実家では馬の世話をよくしておりましたから」
「馬の世話を? お前がか?」
 そこで凛風はしまったと思い口を閉じる。後宮に上がるよう育てられた娘は普通は馬の世話はしない。不審に思われ、刺客だということがバレたら大変だ。
 どう言えばこの場を切り抜けられるのか、凛風は一生懸命考えを(めぐ)らせる。だが頭が()で上がるような心地がしてうまく考えがまとまらなかった。
 のぼせてきたのだ。
 パタパタと手で顔を(あお)ぐ凛風に、男性が眉を上げる。岩場に置いてある凛風の手拭いを取り、目線だけで合図してから、凛風に向かって放り投げた。
 受け取ると、さりげなくこちらに背を向ける。今のうちにあがれということだろう。
 凛風は素早くあがり衣服を身につけた。
 彼から放たれる空気は異常なまでに威圧的だが、悪い人物ではないのかもしれない。
「ありがとうございました」
 広い背中に声をかけると、彼は振り返り、湯から出てきた黒翔の脚を拭いてやっている。
 言動はやや威圧的だが、その手つきは意外なほど優しかった。彼は馬に湯浴みをさせるためにここへ来たのだろうか。
「都では、馬も湯に浸かるのですか?」
 脚を拭いてやった後、立髪を撫でる様子を見つめながら尋ねると、男性はちらりとこちらを見て口を開いた。
(けつ)(りゅう)をできにくくするためだ。熱い湯に浸かると血が流れやすくなる」
 血瘤とは馬の脚にできる出来物だ。それで命を失うことはないが、場所によっては走るのに支障をきたす。
 凛風も、実家では白竜にできないように気をつけていた。
「湯に浸かって……確かによい方法ですね」
 男性が凛風を見て目を細めた。
「本当に異な妃だ。馬の病にまで精通しているとは」
「え!? あ……いえ、その……」
「まあよい。……血瘤は、なってしまったら針で刺して溜まった血を出すしかないからな」
「針で!? それはいけません」
 凛風は思わず声をあげた。
「傷が()んで脚を失う馬もおります。それよりも、脚を指圧してやる方が……」
「指圧を?」
 頷いて、凛風はそっと黒翔に近寄る。自分を見つめる大きな黒い目に、問いかけた。
「少し脚を触らせてもらってもいい?」
 黒翔がふんっと鼻を鳴らす。
「ありがとう」
 凛風は脚にそっと触れ、実家の下男から教わった通りに、脚を指で押してゆく。
 黒翔は抵抗することなく気持ちよさそうにしていた。
 男性が驚いたように目を見開き、そのままじっと凛風と黒翔を見ている。
 その視線に、やはり不審に思われているだろうかと凛風は思う。
 後宮入りするような娘が、馬の指圧をするなど本来はあり得ない。
 今すぐにやめるべきだ。でもそれよりも凛風にとっては、黒翔の脚の方が大切に思えた。漆黒の毛並みを持つこの賢い馬が脚を失うなど耐えられない。
「予防にもなりますから、毎日湯からあがった後してあげてください」
 凛風は、前脚、後脚すべてに指圧を施していく。
 最後の脚を終えると、黒翔はぶるんと鳴いて、凛風の頬を鼻で突いた。礼を言っているのだろう。
 凛風も艶々の毛並みに頬を寄せた。
「気持ちよかった?」
 こうしていると故郷の白竜を思い出す。
 凛風がいなくても大切にしてもらえているだろうか? 馬は一家の財産だから、心配ないと思うけれど……。
 頬の温もりを心地よく感じながら目を開くと、男性が口を開いた。
「明日もこの時刻に」
「……え?」
「明日からも湯浴みに来るのだろう。今宵と同じ時刻にしろと言っている。ここは俺以外は誰も来ないはずだが、夜更けに妃がひとりで湯浴みをするなど物騒だ」
 では彼は、明日から凛風が湯浴みをする間、なにごとも起こらぬよう見張っていてくれるつもりなのだろうか。
 威圧的に言い放ってはいるものの、ずいぶん親切な内容だ。
 でもそれに甘えるわけにはいかない。見ず知らずの人にそこまでしてもらう理由はない。戸惑いながら、凛風は首を横に振った。
「け……結構です。明日からは後宮内の湯殿にて湯浴みをしようと思います」
「それができぬから、お前は今宵ここへ来たのだろう」
「それは……そうですが。そのようなことをお願いするわけには……」
 異様なまでの風格とはいえ、間違いなく彼はここの役人だ。
 ならばさまざまな役割に従事しているはず。凛風のためにわざわざ時刻を合わせてもらうのは申し訳ない。
 そう思い凛風は断ろうと思ったのだが。
「代わりにさっきの指圧を黒翔にしてやってくれ。こいつは気性が荒く、俺以外の者には身体を触らせない。俺がやればいい話ではあるが、お前の方が効果がありそうだ」
「他の者には身体を触らせない……」
 呟きながら黒翔を見ると、まるで会話の内容がわかっているかのように、濡れた目が凛風を見ている。その目にまるで黒翔自身に頼まれているような気分になるが……。
「この時刻だ。わかったな」
 迷う凛風に男性はそう言って、黒翔とともに(きびす)を返す。
「あ……!」
 凛風の答えを聞かずに、暗闇の木立の向こうへ去っていった。
 予想外の出来事と、思いがけない成り行きに、()(ぜん)として凛風はその場に立ちつくした。
 若い男性と言葉を交わすのもはじめてだったというのに、明日も会うという約束をしてしまったのだ。鼓動はドキドキと鳴ったまま一向に収まる様子がない。
 やはり身分を明かしたのは間違いだった。
 最下位とはいえ凛風も一応皇帝の妃。役人である彼は、放っておくことができなかったのだろう。役目の一環として、湯浴みの見張りを買って出た。
 申し訳ないのひと言だ。明日きちんと断ろう。
 凛風はそう心に決めて、自分も後宮への道を歩きはじめた。