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 悲しくなるほど貧相な食事を終えた二人は、別の建物にある古びた教室に入った。同じ第三学年の二人には、一限目に歴史学の授業があった。
 やや縦長の教室は、一般的な日本の高校の教室の半分くらいの面積だった。木製の二人掛けの机が所狭しと並んでいて、その大半がすでに埋まっており、生徒たちが雑談や授業の準備をしていた。
 壁も深みのある茶色の木でできており、一面にびっしりと英語が刻まれていた。一つしかない窓は小さく、補強のためか六角形の、黒の金属の部材が表面に見えた。
 遥香は、前から二番目の空席に座った。教室を見渡した桐畑は、遥香の隣席を選んだ。できるだけ後ろに座りたかったが、空きがなかった。
 机の上の立て台には、羽ペンが刺さっていた。映画でしか見た経験のないペンに、桐畑は興味津々だった。
 程なくして前の入口から、膝下まで届く黒ガウンと、天辺が正方形の黒帽子を身に着けた女性教師が入ってきた。四十代と思われる風貌で、すっと伸びた背と大きく開かれた目からは強い能動性が感じられた。
 黒板前の教卓で止まった教師は手に持っていた本を置き、「では、授業を始めます」と、ゆっくりと顔を上げた。
「先週、告知しましたように、今日は、第三回十字軍におけるリチャード一世の施策について議論していただきます。ではミス・エアリー、概要の提示をお願いします」
 遥香に向いた教師の笑顔には、有無を言わさぬものがあった。
はい(yes ma'am)
 ぴしりと答えた遥香は、さっと立ち上がった。
「十字軍遠征に大きな情熱を持つリチャード一世は、王庫の金やサラディン税、軍役負担金を遠征の費用に……」
(いやいや、何をぺらぺら講釈を垂れてんだよ。俺ん中にゃあ、そんな崇高な歴史の知識はないって。英語は、なんでかわかるがよ。おんなじ感じで、過去に飛ばされたはずだぜ。あんたいったい、どうなってんの?)
 疑問でいっぱいの桐畑の頭には、遥香の朗々とした説明が入ってこない。
 遥香が着席すると、「ありがとう、ミス・エアリー」と教師が滑らかに労った。
「では先ほどの概要を踏まえて、リチャード一世の施策への意見や、自分がリチャード一世ならどのように行動するかなど、自由に議論なさい」
 教師の端的な指示に、生徒たちは移動を始めた。
「ちょいちょい、朝波さんよ。お前、何でそんなにイギリスの歴史に詳しいの? 今、流行の歴女ってやつか? それともまさかの帰国子女? まあお前の知的さなら、マサチューセッツ帰りですって言われても納得は行くがよ」
 桐畑は、再び立ち上がった遥香におじおじと尋ねた。振り向いた遥香は、わずかに眉の上がった不思議そうな面持ちだった。
「オバマ元大統領が、『キリスト教徒も酷い行いをしてきた』、みたいな発言をしてたでしょ? で当然、気になるじゃない? 差別問題は、知ろうとしない事が罪になりうるからね。そういう経緯で、かるーく本を漁って調べたの」
 遥香は、台詞通りの軽い口振りだった。
「オバマの台詞は知らんけど、かるーくってどのくらい? 百ページとか?」
「……予想、ページ単位なんだ。君との常識のギャップを、どうしようもなく感じちゃうね」
 溜息を吐かんばかりの遥香の表情は、やがて凛としたものに変わる。
「ちゃんと数えてないけど、十冊強ってとこかな。もっと読む気だったけどサッカーも忙しいし、他に読みたい本もあったから。まあ、十あたりが妥協点だよね」
 何気なく告げた遥香は小さく微笑んで、男女混合の三人の生徒が身振り手振りを交えながら議論する机へと向かった。少し迷った桐畑だったが、やがておもむろに遥香に従いていく。
 アッコン降伏がああだとか、サラディンがこうだとか、桐畑以外の四人が喧々諤々と討論する中、黙り込む桐畑はぼんやりと考える。
(あんたらさ、よくそんな一心不乱に話し込めるよな。歴史なんて研究してどうすんだ? このいかんともしがたい空腹が、解消されるわけじゃああるめえよ)