――わたしは透明人間だ。
世界は彩りに満ちているのに、わたしには色がない。
クラスメイトは輝いているのに、わたしは無彩色。
どこにでもいる〝普通〟の女子高生。目立たないけれど、孤立しているわけでもない。本当になんの変哲もない無個性の塊《かたまり》。
それがわたし――普川穂波だ。
そんなわたしは幼い頃からお母さんに、目立つな、変わったことをするな、普通にして、と口酸っぱく言われ続けてきた。
世間体を気にしてのことなのか、トラブルに巻き込まれたくないからなのか、面倒を排除したいのか、わたしが周りから浮いて孤立することを心配してなのかはわからないけれど、とにかく個性を殺す教育方針だったと思う。
お母さんの言葉が呪いのようにわたしの心を締め付けて、自然と〝普通〟に過ごすように心掛けるようになった。
周囲から浮かないように〝普通〟に友達を作って、〝普通〟に遊んで、〝普通〟に学校に行って、〝普通〟に勉強して、そんな誰もが当たり前のようにすることを〝普通〟に行ってきた。派手なことや変わったことはせずに、悪目立ちしないように努めている。
それらが自分を縛り付ける呪いだとわかっているのに、呪縛に抗うことができないわたしは、元から社会に埋没する透明人間になる素質があったのかもしれない。まったく嬉しくない才能だ。
「普通って、なんだろう……」
昼休みの教室で自分の席に座って窓の外をぼんやりと眺めていると、初夏の訪れを知らせるように揺らめく瑞々しい若葉を芽吹かせた木々に自然と視線が吸い寄せられて、なにを思ったのか無意識にそう呟いていた。もしかしたら感傷的になっていたのかもしれない。
物思いに耽って独り言を呟くという〝普通〟ではない変わったことをしてしまった事実に、クラスで浮いていないか、と不安になってしまい、チラリと視線を彷徨わせて周囲の様子を窺う。
小さな呟きだったお陰か、幸いにもクラスメイトたちの話し声に紛れてくれて誰かに気づかれた様子はなく、いつも通り埋没することができていた。
しかし――
「――私は普通なんてこの世に存在しないと思うよ」
たまたまわたしの隣を通りすぎたクラスメイトが、振り向きざまにそう声をかけてきた。
「――え」
誰にも気づかれていないと安心していたわたしは、不意を突かれて若干上擦った声を漏らしてしまう。
内心では焦りながらもなんとか平静を装って見上げると、そこにはクラスの人気者――新改希望さんの姿があった。
彼女は明るくて誰にでも分け隔てなく接する美人さんだ。
それこそ、わたしのような透明人間にもほかのクラスメイトに対する態度と変わらない距離感で接してくれる。
かわいい系よりも綺麗系に分類されるような、目鼻立ちのはっきりとした彫像のように整った美しい顔立ちをしている。
スラっとしていながらも程よい肉づきの胸と、モデルのように長い手足を備えており、女性なら誰もが憧れてしまうようなスタイルの持ち主だ。
着崩したブラウスの胸元からチラッとあらわになっている胸や、短いスカートとアンクレットソックスの間に広がる傷一つない綺麗な脚に、女のわたしでも自然と目が行ってしまう。
金色に脱色している髪は鎖骨を少し越えるくらいの長さの脱力ウェーブにしており、可憐でありながらも色気がある。
髪の隙間からチラリと見えるピアスや、手首で存在感を放っているブレスレットが派手な印象を与えている。
一見するとギャルのような出で立ちだけれど、そこまでけばけばしいわけではない。派手さと上品さを上手く融合していて、女性らしい魅力に溢れている。
目立たないように〝普通〟を心掛けているわたしとは大違いだ。
自分の意思でやっていることとはいえ、わたしなんて女の魅力を微塵も感じられない地味子だから……。
正直言うと、周りの目を気にすることなく自分を魅力的に着飾るところや、個性を貫いている新改さんにわたしは憧れている。
自分にはない物をたくさん持っている彼女の姿がとても輝いて見えて、ただただ眩しく映る。
でも、わたしにはお母さんに掛けられた呪いを解く勇気がない。
「普川さん……?」
――あ、いけない。
情けない声を漏らしたきり反応がなかったからか、新改さんはしゃがみ込んで怪訝そうにわたしの顔を覗き込んできた。
つい新改さんに見入ってしまって無視する格好になってしまった。せっかく話し掛けてくれたのに、ごめんなさい……。
「ごめんなさい。ちょっと考えごとをしてて……」
慌てて頭を下げると、新改さんは軽い調子で「そっか」と頷いた。
気分を害した様子がない新改さんの表情を確認して安堵したわたしは、胸中でホッと一息吐く。
クラスの中心に位置する人気者の気分を害してしまったら変に目立ってしまうし、最悪ほかのクラスメイトを敵に回してしまうかもしれない。
そんな目立ち方をしてしまったら、どこにでもいる〝普通〟のクラスメイトでいられなくなってしまう。
普通と言えば、さっき新改さんが気になることを口にしていた。
普通がこの世に存在しないって、どういう意味だろう……?
「さっきのどういう意味……?」
気になったわたしは、遠慮がちに尋ねてみた。
「さっきのって……普通なんてこの世に存在しない、って言ったこと?」
「うん」
ついうっかり言葉足らずの問いをしてしまったけれど、新改さんにはちゃんと意味が伝わってくれた。
「普通の形って人の数だけあると思うんだ。だから自分が普通だと思っていることが、ほかの人にとっては変わったことかもしれない。その逆も然りだね」
「人の数だけ……」
わたしが今まで考えもしなかった視点だ。
確かに〝普通〟という形のない概念に対する解釈は人によって異なるのかもしれない。
それこそわたしが〝普通〟だと思ってやっていることが、ほかの人にとっては奇異に映っている可能性だってある。
もしそうだとしたら、今までわたしが周囲から浮かないように取り組んでいたことはなんだったのか、という話になってくる。
「普川さんはなんで普通について考えていたの?」
悪いほうに考えが向かおうとしていたところで、新改さんがそう尋ねてきた。
そのお陰でわたしの思考が現実に引き戻されて、沈みかけていた気分が霧散した。
「……わたしは〝普通〟にしなきゃいけないから、かな」
なんて答えたものか、と考え込みそうになってしまったけれど、諦めて素直に伝えることにした。そうしないといつまでも思考の海に深く潜り続けてしまう気がしたから……。
「……なんで普通にしなきゃいけないの?」
不思議そうに目を瞬いた新改さんが首を傾げる。
「〝普通〟にしないと周囲から浮いちゃうし、悪目立ちしちゃうから」
「確かに周囲から浮くのも変に目立っちゃうのも嫌かもしれないけど、それは気をつけることであって、〝普通にしなきゃいけないこと〟ではなくない?」
先程までの不思議そうな表情とは打って変わって真剣な顔つきなった新改さんは、一呼吸置いた後に再び口を開く。
「普川さんが言う〝普通にしなきゃいけないこと〟には義務感が籠ってる気がするんだよね」
「義務感……」
「どことなく強迫観念に囚われているような感じって言えばいいのかな……」
確かに強迫観念に駆られて義務を果たしているような節はある。
だって望んで〝普通〟でいようとしているわけじゃないから。
でも幼い頃からお母さんに言われ続けてきたせいか、自分でも外すことのできない枷のような物がわたしの心にきつく嵌められている。
新改さんのような人に憧れることはあっても、自分も同じようになろうと思える勇気はない。
そんな情けない自分に嫌気が差す時があるけれど、むしろ、お似合いだな、と自嘲気味に安心してしまう時もある。
「まだ普川さんと交流が浅い私でも感じるほどだよ」
新改さんとは二年生になってから同じクラスになった。
まだ進級してから二カ月しか経っていないから、当然それ相応の付き合いしかない。元々、新改さんと特別親しいわけじゃないから尚更だ。
そんな彼女でもわかるくらい、わたしの〝普通〟は歪だったらしい……。
「まあ、わたしだからそう思ったのかもしれないけどね……」
意味深にボソッと呟いた新改さんの表情は、どことなく悲しそうであり、達観しているようでもあった。
「新改さんだから……?」
「……ごめん。気にしないで」
「う、うん」
新改さんが口にした言葉と表情が気になったけれど、深く踏み込むのはそのほか大勢のクラスメイトとして〝普通〟ではないと思い、大人しく引き下がった。
しかし、お互いに口を閉ざしてしまったせいで沈黙が場を支配してしまい、なんとも言えない微妙な雰囲気が漂ってしまう。
でも、なんだか居た堪れない気分になりかけたタイミングで、ありがたいことに昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ってくれた。
「――普川さん、今日の放課後、時間ある?」
チャイムを耳にした新改さんは立ち上がると、そう尋ねてきた。
「あるけど……」
予想外の問いに、わたしは生返事をしてしまう。
「そっか、良かった。ならちょっと放課後付き合ってくれない?」
「う、うん。わかった」
大して親しくもないわたしになんの用だろう? と不思議に思いながらも、クラスメイトとして〝普通〟に頷いた。
◇ ◇ ◇
「――さ、行こう」
放課後になり、帰り支度をしていたわたしのもとに新改さんがやって来ると、唐突にそう口にした。
「……どこに?」
放課後付き合って、と言われていたけれど、なにをするのかも、どこに行くのかも聞かされていない。
唐突に「さ、行こう」と言われても、わたしとしては疑問しか浮かばない状況だった。
別に新改さんのことを警戒しているわけじゃないけれど、なにもわからない状況ではどうしたって足が重くなってしまう。
「それは歩きながら話すよ」
クラスメイトの視線がある中で人気者の彼女にそう言われてしまっては、悪目立ちしないように大人しくついて行くしかない。
わたしのような、なんの特徴もない平凡で〝普通〟なクラスメイトのことを人気者の新改さんが誘っても、誰とも分け隔てなく接する彼女ならなにもおかしなことはないと周囲の人たちは勝手に納得してくれる。
まあ、そもそもわたしはクラス内で嫌われているわけでも、敬遠されているわけでもないので、新改さんと仲良くしていても変に思われることはないはずだ。
嫌われたり白い目で見られたりするのは目立ってしまうことと同義だと思うから、その辺は〝普通〟のクラスメイトでいられるように心掛けている。
「わかった。とりあえず、新改さんについて行くね」
会話しながら帰り支度を済ませたわたしは、一先ず新改さんの言葉に納得して頷くと、重くなっている足に軽く鞭を打って一歩踏み出した。
そうしてわたしは大人しく新改さんについて行った。
彼女には「歩きながら話すよ」と言われていたけれど、結局なにも説明がないまま校門まで辿り着いてしまう。
説明が欲しいと口にすることができないわたしは、半歩下がった位置から新改さんを眺めることしかできない。微かに見える横顔に目を向けても、彼女がなにを考えているのかわからなかった。
「――私、普川さんの気持ちがわかるんだ」
説明を欲するわたしの気持ちが通じたのかはわからないけれど、校門を抜けて人気が少なくなったタイミングで、新改さんが正面を向いたまま徐にそう口にした。
「わたしの気持ちが……?」
「うん。〝普通〟に拘る普川さんの気持ちがね」
脈絡のない言葉に戸惑うわたしが無意識に口にした問いに、新改さんが間を置かずに頷く。
頷いた新改さんの背中にどことなく哀愁が漂っているように見えるのは気のせいだろうか?
「新改さんが……?」
彩りに満ちている新改さんにわたしの気持ちがわかるって……?
わたしとは正反対にいるような人なのに……?
「はは、まあ、そういう反応されるのは仕方ないかもね……」
思わず疑うような視線を向けてしまったわたしの顔を横目でチラッと確認した新改さんは、苦笑しながら頬を掻く。
「私、今はみんなと仲良くさせてもらってるけど、昔はいじめられてたんだよね」
「え……」
新改さんみたいにクラスの人気者になれるような人がいじめられていたって、そんなことあるの……?
意外感に包まれたわたしは、チラッと新改さんの顔に目を向ける。
過去に想いを馳せるように遠い目をする新改さんの顔に影が差したような気がしたけれど、彼女はわたしの前を歩いているから横顔を覗くことしかできなかったので、はっきりと確認することはできなかった。
「自分で言うのはなんだけど、私、小学生の頃、男子に人気があったんだよね。でも、それが気に食わなかった女子グループに目を付けられちゃってさ」
やっぱり当時から男子に人気だったんだ……。
そこは今と変わらないんだね……。
まあ、新改さんは美人さんだし、小学生の頃は凄くかわいかったんだろうな……。
「男子にはバレないようにいじめられて、それが卒業するまで続いたんだ」
「質が悪い人たちだったんだね……」
男子に人気な新改をいじめるなら理に適ってはいる。
もし男子にバレたらきっと新改さんの味方をするだろうから、いじめている人たちが不利になってしまう。男子を敵に回さないように上手く立ち回っていたに違いない。
「ほんとにね……。その狡賢さを勉強に使えばいいのにって思ってたよ」
溜息交じりにそう口にした新改さんは肩を竦める。
「卒業した後、いじめっ子グループのリーダー的存在だった人は私立に行ったから離れることができたけど、ほかのメンバーはそのまま同じ中学に進学したからいじめも継続したんだよね」
公立の中学校は学区で進学先が決まるから、同じ小学校の多くの人とそのまま一緒に進学することになる。だから必然的に加害者と被害者も一緒になってしまう。
「まあ、リーダー的存在の人がいなくなったからいじめ自体は軟化して、嫌がらせを受けたり、憂さ晴らしに利用されたりするくらいになったから小学の頃よりはマシだったけどね」
新改さんは笑い話のように軽い調子で言うけれど、それは笑って済ませられる話じゃないと思う……。
でも彼女の中ではもう過去の話として割り切ることができているのかもしれない。だから今は笑い話にできるんだと思う。――まあ、わたしに気を遣って明るく振舞っているだけかもしれないけれど……。
「だから昔はなるべく目立たないように自分を殺して生きてたんだ。いじめっ子たちの気に障らないようにね」
「そうなんだ……。だからわたしの気持ちがわかるって言ったんだね……」
新改さんは相変わらず軽い調子で「そそ」と頷くけれど、わたしとは全然違うと思う。
だって、新改さんはわたしよりもずっと苦しい境遇にいたはずだから――。
確かにわたしも自分を殺して生きている。
でも、それはいじめがきっかけではない。
ただ単に、親の言いつけを頑なに守っているだけだ。
親の顔色を窺っているところは、新改さんがいじめっ子の気に障らないように過ごしていたのと似ているかもしれない。
とはいえ、近しい物があるだけで本質は全然違う。
身を守るために自分を殺すしかなかった新改さんと、なにか特別なきっかけがあったわけでもないのに親に萎縮しているわたしを一緒にしてはいけない。
一緒にしたら一人で戦ってきた新改さんに失礼だ。
「でも、わたしと新改さんでは境遇が違うから気が引けるかな……。わたしは辛い目に遭ったわけじゃないのに、自分で勝手に周囲の顔色を窺ってるだけだから……」
口ではそう言いつつも、理解者ができたような気がして心なしか嬉しく思っている自分もいる。
「なんで普川さんがそんなに〝普通〟に拘ってるのか私にはわからないけど、なんとなく昔の自分に重なる部分があって放っておけなかったんだよね」
苦笑交じりにそう口にした新改さんは、「余計なお世話だったら出しゃばってごめんね」と言葉を続けた。
「それは全然大丈夫」
「そっか。なら良かった」
わたしの言葉に安堵したのか、新改さんは小さく笑みを零す。
もしかしたら新改さんが誰とでも分け隔てなく接するのは、孤独の痛みを知っているからかもしれない。だから今も距離感を間違えずに済んで安心しているのだと思う。
「別に大層な理由があるわけじゃないからね。わたしはお母さんの言いつけを守ってるだけだし」
「……言いつけって?」
「目立つな、変わったことをするな、普通にして、とかかな」
「あぁ~、なるほど」
納得したように頷く新改さん。
「幼い頃から親に言われ続けたら意識に刷り込まれちゃうよね。一種の洗脳みたいなものだし」
「う、うん」
前半部分は同意するけれど、後半の部分はちょっと過激な言い方だから反応に困ってしまい、ぎこちない頷きになってしまった。
「理由はわかったけど――」
そう呟いた新改さんは足を止めて振り返ると――
「〝普通〟〝普通〟って、そんなに〝普通〟に拘ってる時点で、〝普通〟じゃないよね」
わたしの顔を見つめながら妙に耳に残る落ち着いた声音でそう口にした。
「――え」
「だって普通の人は、〝普通〟なんて気にして過ごしてないでしょ?」
驚いて漏れてしまったわたしの声が聞こえていたのかいないのかわからないけれど、新改さんは気にした素振りを見せずに言葉を続ける。
「少なくとも私は気にしてないよ? 昔はともかく」
「……普通は気にしないの?」
「そりゃ、周りから浮かないようにとか、変な目で見られてないかなとかは、多少気にするかもしれないけど、普川さんみたいに〝普通〟でいるために〝普通〟でいようと固執する人はそうそういないんじゃないかな?」
新改さんの指摘にわたしの中でなにかがガタッと崩れる音がした。
長年地道に積み上げてきた物が崩れ落ちるような感覚だ。
「……変かな?」
「変って言うか、逆に目立つと思うよ」
「……」
確かになにかに憑りつかれたように〝普通〟に固執している人は目立つかもしれない……。普通の人はそんなに〝普通〟を気にしないのなら尚更……。
「でも、わたしは無個性だからそんなに目立ってないはず……」
「普川さんは没個性ではあると思うけど、無個性ではないんじゃないかな」
現実逃避気味のわたしの願いは即座に否定されてしまう。
「だって、そんなに〝普通〟に拘ってる特徴があるんだし、それはもう立派な個性でしょ?」
反論できない指摘に言葉が出てこない……。
「でも没個性ってことは埋もれることができてるってことだから、上手くやれてる証拠でもあるんじゃないかな」
「だといいんだけど……」
「実際、普川さんの違和感に気づいたのは私しかいないみたいだしね」
新改さんの言う通り、わたしが〝普通〟に拘っていることに気づいた人は今までで彼女しかいない。だからちゃんと埋没することはできているはず。
埋もれられているのは努力が実っている証拠だから嬉しいけれど、透明人間である事実を改めて突きつけられているような気がして悲しくもなってしまう。
「それになんとなくなんだけど、普川さんは現状に満足してないんじゃないかな、って思ったんだよね」
「……満足してないっていうか、お母さんの言葉に縛られてると自覚してるのに、それに抗うことができない自分に嫌気が差してるって言ったほうが正しいかな」
納得した上で社会に埋没する自分を演じているならなにも不満はない。
でもわたしの場合は、自我が芽生える前からお母さんに歪んだ常識を刷り込まれているので、疑うことなく自然と受け入れていた。
しかし、小学校、中学校、高校と進んで行くうちに社会の常識を身につけていったのと、自分の意思を持つようになったのが影響して、周囲との違いに違和感を覚えるようになった。
そして昔は当たり前のように受け入れていたお母さんの言葉を、今は自分を縛る鎖だということをはっきりと自覚している。
〝普通〟に固執するあまり、〝普通〟ではなくなっていると新改さんに指摘されたのも相まって、より一層、自分の歪さに気づくことができた。
だというのに、わたしは抗うことも自分を変えることもできない。
一歩を踏み出す勇気も、変わろうという発想もない。
自分ではなに一つ変えることができない。
そんな自分に心底嫌気が差す。
だからお母さんの言葉が呪縛になっていると自覚してからは、どんどん自分のことが嫌いになっていく。
いっそのこと誰かがわたしの手を無理やりにでも引っ張って、もっと広い世界に連れて行ってはくれないだろうか――と他人任せな考えが脳裏を過ってしまう。
「自分を変えるのってそう簡単なことじゃないからねぇ……」
訳知り顔でしみじみと頷く新改さん。
「私は変えるって言うよりは、いじめられる前の性格や立ち回りに戻っただけだからなぁ~。もちろん、昔よりも立ち回りは上手くなったけどね」
「その状況を打破しようとする姿勢に尊敬しか湧かないよ」
「はは、ありがとう」
わたしの素直な感想に、新改さんは照れ臭そうに頬を掻きながら笑みを零す。
そのはにかんだ表情が可憐で、女のわたしですら魅了されてしまう。
なんだか彼女が男女関係なく人気な理由の一端を垣間見た気がする。
同性のわたしですらドキッとしてしまうのだから、今の彼女の表情を男性が目の当たりにしたら間違いなく見惚れてしまうだろう。
「元の自分に戻るだけの私より、新しい自分に変わらなきゃいけない普川さんのほうがハードル高いだろうし、なかなか難しい問題だよね」
「今とは違う自分の姿なんて想像もつかないよ」
そもそも変わろうという発想すらなかったくらいだからね……。
違う自分の姿なんて想像できるわけないよ……。
「ん~、内面は簡単に変えられるものじゃないから、まずは外見から変えてみるのはどう?」
「……外見から?」
小首を傾げながら提案する新改さんに釣られるようにわたしも首を傾げる。
「外見を変えると気分も変わるからね」
「……なるほど?」
外見を変えたことがないから実際のところはわからない。
でも、一理あると思う。
制服を着たら身が引き締まって勉強に集中できる気がするし、部屋着だと気が緩んでだらけてしまうからね。
「まあ、普川さんにその気がないならまったく意味のない話だけど」
「それは……そうだね……」
正直、今のわたしとは違う自分に興味はある。
想像はつかないけれど、新改さんやほかのクラスメイトみたいに輝いてみたいと思う。無彩色のわたしに鮮やかな色が付いたらいったいどうなるのか知りたい。
だからわたしは、肩を竦める新改さんに苦笑しながら頷くという曖昧な態度を示した。
「悩んでるなら一度試してみるのもいいかもね。何事も実際にやってみないとわからないし」
確かにその通りだけれど、わたしには一歩踏む出す勇気がない。
そもそも言い訳ばかり口にして前を向こうとしないわたしなんかに、そんな勇気があるわけがない。あるならとっくに試している。
「決められないなら騙されたと思って、私に任せてみない?」
決断できずにうじうじと悩んでいるわたしをみかねたのかわからないけれど、新改さんがそう提案してきた。
安心するような彼女の声色に背中を押されたわたしは、 反射的に「うん」と頷いていた。
差し伸べられた手を取って上手く行ったらそれでよし。失敗したら人のせいにできる、と卑怯な考えを頭の片隅に思い浮かべながら――。
◇ ◇ ◇
「――さ、上がって」
新改さんに連れて来られたのはマンションの一室だった。
鍵を解錠して扉を開く様子を見るに、どうやらここが彼女の自宅らしい。
「……お邪魔します」
初めてお邪魔する家に恐縮しながら足を踏み入れたわたしは、きょろきょろと周囲の様子を窺ってしまう。
整理整頓されているのか土間には新改さんが脱いだ靴しかないので、生活感が希薄だ。偏見かもしれないけれど、派手な印象がある新改さんの自宅としては些か意外だった。
「綾ちゃ――叔母はまだ帰ってくる時間じゃないから、気を遣わずに過ごしてね」
緊張していたわたしは、新改さんの言葉で少し心に余裕が生まれて肩の力が抜けた。
もしかしたら彼女はわたしの緊張を読み取って気遣ってくれたのかもしれない。
「叔母さんと暮らしてるんだ」
「うん、そうだよ。叔母と二人暮らし。さっき言ったように私いじめられてたから、高校進学を機に地元を離れることにしたんだ」
新改さんにとってはいいきっかけだったのかもしれないけれど、そんな理由で地元を離れなくちゃいけないなんて寂しいよね……。新改さんも、家族も。
でも、環境を変えたことで新改さんが高校生活を楽しめているのなら、きっと家族も安心しているんじゃないかな。
「綾ちゃんが「うちにおいで」って言ってくれたんだよね。だからそれに甘えることにしたんだ」
叔母さんの名前が「綾ちゃん」なのかな?
さっきわたしに伝わるように言い直していたから多分そうだと思う。
「叔母さんが一緒なら安心だね」
「そうだね。でも、私より親のほうが安心してると思うけどね」
苦笑交じりにそう言う新改さんだけれど、きっと彼女自身が一番ホッとしているんじゃないかな。
高校から親元を離れる決断を下すのはなかなか勇気がいることだと思うから、近くに信頼できる大人がいるのは心強いはず。
もし叔母さんが受け入れてくれなかったら新改さんは今も地元にいたかもしれないしね。
「私はこっちに来たことで心機一転することができたけど、普川さんはそうもいかないだろうから、なにか別のきっかけがないと自分を変えるのはなかなか難しいよね」
「そう……だね……」
「だから、私がそのきっかけの一助になれたら嬉しいかなって」
歯切れ悪く頷くわたしに向かって新改さんははにかみながらそう口にすると、照れを隠すように足早に歩き出した。
新改さんの言葉に呆気に取られてしまったわたしは、なにもリアクションを取ることができなかった。ただただ呆然と離れていく彼女の背中を眺めることしかできずにいた。
「こっち」
「――あ、うん」
扉を開けたままの状態で呼び掛けてくれた新改さんのお陰で、置いてけぼりを食らってしまったわたしは我に返ることができた。
慌てて追いかけると――
「ここでちょっと待ってて」
新改さんは扉の先に鞄を置きながらそう言葉を残すと、廊下の先に姿を消した。
取り残されたわたしは彼女の背中を見送った後に、扉の先へ視線を向ける。
すると、そこには必要最低限の物しか置かれていない簡素な部屋があった。
状況から察するに、ここが新改さんの部屋だと思う。
でも、わたしが彼女に抱くイメージと正反対の部屋で意外感に包まれた。
なんかこう、もっと女子高生らしいというか、派手な印象があったんだよね……。
でもまあ、新改さんは叔母さんの家に居候させてもらっている身なわけだし、生活に必要な物以外は実家に置きっぱなしなんだと思う。
全部持ってくるとなると引っ越しが大変だし、高校を卒業したら実家に戻る可能性だってあるしね。
そうして勝手に納得したわたしは、部屋に入ってカーペットの上に腰を下ろす。
ミディアムブラウンのカーペットが落ち着いた色合いだからか、心なしかわたしの緊張が解れていく。
多少緊張は解れたけれど、慣れない空間に居心地の悪さを感じる。
そんなわたしの心情を察したわけではないと思うけれど、ちょうどいいタイミングで開けっぱなしの扉の先から足音が聞こえてきた。
「――お待たせ。オレンジジュースでいい?」
その言葉と共にやってきた新改さんは両手でトレイを持っていた。
トレイに視線を向けると、二人分のグラスとクッキーが入った器が載っていた。
「うん。ありがとう」
わたしが頷くと、新改さんは「良かった」と口にする。
そしてわたしの対面に移動した新改さんは膝立ちになって、ローテーブルの上にトレイを置く。続けてトレイからグラスを取り出してわたしと新改さんの前にそれぞれ一つずつ置いた後に、クッキーが入った器を中央に置いた。最後に空になったトレイを床――新改さんの隣――に置く。
「はい、どうぞ」
膝立ちの状態からカーペットに腰を下ろした新改さんに促されたわたしは、「いただきます」と呟くと、グラスを手に取って口元に運んだ。
そして一口啜ると、甘味と酸味が口内に広がった。
さっぱりした味わいに一日の疲れが飛んでいくような気がする。――いや、そんなことで疲れが消えるわけがないので完全に勘違いだ。新改さんの自宅で彼女と間近で対面しているという状況に居た堪れなくて、現実逃避したくなっただけです……。
「私、思うんだよね。普川さんって素材はいいから身形に気を遣ったら化けるんじゃないかって」
半ば心ここに在らずの状態だったわたしは、新改さんの言葉に意識を現実に引き戻される。
「見た感じ今も身嗜みはしっかりしてると思うけど、なんていうか……着飾るって言えばいいのかな? もっと自分を良く見せる工夫をしたらいいと思うんだ」
周囲から浮かないように身嗜みには気を遣っている。
あまり派手にしすぎると目立ってしまうし、身嗜みに無頓着でも悪目立ちしてしまう。だからメイクや服装は最低限勉強して、女子高生として浮かないように心掛けている。――まあ、メイクはBBクリームを塗って眉毛を整えるくらいしかしていないけれど……。
それはともかく、新改さんに身嗜みがしっかりしていると思われているのは、わたしにとって安心できる材料だった。努力が報われる気分だ。
でも――
「あまり派手なメイクは必要以上に目立ちそうだから嫌かな……。それに服もお母さんに見つかっちゃうから厳しいと思う。いろんな服を着てみたいとは思うけど……」
わたしが二の足を踏む原因がこれだ。
「あ~、確かにあんまり派手にしすぎると先生に目を付けられてしまう可能性があるし、服はお母さんと暮らしてると隠しようがないもんね……」
納得した新改さんは脱力して左手で頬杖をつくと、右手をクッキーに伸ばす。
「……なら私服は無理でも、制服だけ工夫するのはどう?」
クッキーを二口で食べた新改さんが徐にそう口にした。
「制服だけ……?」
「うん。どうせ一番着る機会が多いのは制服だし、持っていて当然だからお母さんに見られても問題ないしね」
わたしが首を傾げると、すかさず頷いた新改さんは淀みなく説明してくれる。
「メイクは今のままでもいいと思うけど、着こなし方を変えた制服に合わせて少し弄ったほうがいいかもね。もちろん、派手になりすぎない範囲で」
派手になりすぎないなら今とは違うメイクをしてみてもいいかもしれない。
もしかしたらメイクに感化されて自分の価値観に変化が生まれるかもしれないからね。
「やっぱり女の子なんだから、自分が一番魅力的に映る格好をしないともったいないでしょ?」
そう言ってウインクする新改さんが一番魅力的だと思います。
わたしにはとても輝いて見えます。眩しくて目を瞑ってしまいそうになるくらいです。
「でも、わたし自信ないよ? なにが良くてなにが合わないのか、そういうの良くわからないから……」
社会に埋没するのは得意だけれど、自分を良く見せたり着飾ったりするのは苦手だ。そもそも知識がないし、自分の魅力もわからない。
お母さんのほうがわたしより早い時間に家を出るから、支度する姿を見られる心配はない。
帰宅するのもわたしのほうが早いので、お母さんが帰ってくる前に部屋着に着替える余裕はある。
だから、やろうと思えばやれる――私の気持ち次第で。
「う~ん。なら一度、私の見立てでやってみてもいい?」
そう提案されたわたしは、仮に上手くいかなくても自分のせいじゃないと言い訳できる、と相も変わらず他人任せの精神で頷いた。
◇ ◇ ◇
翌日――落ち着かない心境のまま登校したわたしはクラスの注目を集めていた。
正直、ここまで周囲の反応が変わるとは思っていなかったので少々面喰ってしまった。
なぜなら――
「――普川さん、どうしたの!?」
「いつもと雰囲気が全然違うじゃん!」
「イメチェンしたの!?」
「前から美人さんだなぁ~って思ってたけど、なんかより一層かわいくなったね!」
「なにがあったの!?」
「どんな心境の変化が!?」
クラスメイトの女子に囲まれて質問攻めに遭っていたからだ。
そんなに一遍に話しかけられても答えられないよ……! わたし、聖徳太子じゃないんだから……!!
いつもなら教室に入った時に「おはよう」って挨拶するくらいで、特に交流がある友達意外とはそれ以降あまり話さないのに……。
だから今みたいな状況は反応に困ってしまう……。
「――おい、なんか普川かわいくね?」
「なんかイメージ変わったな」
「やばい、俺、タイプかも……」
「垢抜けたな」
「今まで影が薄くて気づかなかったけど、普川ってあんなに美人だったんだ」
「俺は新改より普川のほうが好みだな」
遠巻きに見てくる――教室内にいるから実際はそんなに離れていない――男子たちの声も聞こえてくる。
女子たちに詰め寄られて質問攻めに遭うのと、男子たちに遠巻きに見られながら話の種にされること、どちらのほうがマシかと問われたら前者と答える。
でも多少はマシというだけであって、正直どちらも勘弁願いたい。
だって、変わりたいとは思っていたけれど、別に注目を浴びたかったわけではないから。
なにより慣れない状況にむず痒くて居た堪れなくなってくる。
というか、あれこれ考えていないで早くなにか言わないとみんなを困らせてしまう。下手したら無視していると思われてしまうかもしれない。
それはまずい。
もしみんなを不快な気分にさせてしまったら、クラス内での立場が悪くなってしまう恐れがある。
今まで積み上げてきた可もなく不可もなく、利もなければ害もない、そんな〝普通〟のクラスメイトの立場を失ってしまうかもしれない。
――変わりたいと言っておきながら、わたしは未だに〝普通〟に囚われているみたい……。
染み付いた価値観はそう簡単に消えるものじゃないのはわかっているけれど、なかなかの根深さに胸中で思わず苦笑いしてしまう。
今のわたしは、もしかしたら変化を恐れてマイナス思考になっているのかもしれない。
「――そんなに一遍に話しかけたら普川さん困っちゃうよ」
対応に困ってあたふたしていると、横合いから声がかかった。
半ば途方に暮れていたわたしは、救世主の登場に安堵して教室の入口に顔を向ける。
するとそこには、ちょうど教室に入って来た新改さんの姿があった。
「ほら、もうチャイム鳴るよ」
そう言いながら新改さんはわたしの席のほうへ歩いてくる。
みんなと一緒に教室の時計へ視線を向けると、新改さんの言う通り、後一分くらいでチャイムが鳴る頃合いだった。
「――やば」
誰かが漏らしたその言葉が合図となって、わたしに群がっていた子たちは慌てて自分の席に戻るなり、鞄をロッカーにしまいに行くなり、忙しなく動き出した。
その様子をみんなから解放されて気が緩んだ状態で眺めていたわたしは、心の底からの感謝を込めて「ありがとう、助かった」と、そばに立つ新改さんに告げた。
すると新改さんは、「どういたしまして」と言いながらウインクを飛ばしてきた。
相変わらずの可憐な笑顔とウインクが神々しくて讃美歌を送りたくなってくる。
「普川さん、放課後、教室で待ってて」
アホなことを考えていたわたしの意識を現実に引き戻すかのように、新改さんが耳元で囁いてきた。
どことなく色っぽさがある囁きにゾクッとしたわたしは、反射的に無言で頷く。
わたしが了承したのを確認した新改さんは、「それじゃ、また後でね」と言葉を残すと、自分の席に向かって歩を進めた。
――新改さん、遅刻ギリギリの登校だったね……。
新改さんの背中を眺めながらそんなどうでもいいことを思っていると、ホームルームの開始を知らせるチャイムが鳴った。
それと同時に――
「――おはようございます」
担任の先生が教室に姿を現した。
◇ ◇ ◇
窓から差し込む夕陽が室内を茜色に染め上げる中、わたしはほかに誰もいない教室で黄昏ていた。
昨日までの自分と、今日の自分は外見しか違いがない。
突然いつもと異なる見た目になっていたらクラスメイトが驚くのは無理もない。わたしだって同じ立場だったら驚いていたと思う。
最初はクラスメイトの反応に圧倒されて辟易してしまったけれど、いま思うと少し滑稽でもあった。
だって、少し身形を変えただけで今までと全然違う反応をするんだよ?
もちろん、自分の勘違いじゃなければ、わたしは嫌われていたわけでも、煙たがられていたわけでもないから、みんなはいつも一クラスメイトとして接してくれていた。
とはいえ、わたしはクラスの中心にいるような人気者ではないので、今日みたいにみんなに囲まれるのは普段ならありえないことだ。
晴れている日の日中は眩しくて鬱陶しく感じる太陽も、夕方になると街並みを夕焼けに染めて美しく彩ってくれる。
それと同じように、人もなにかを変えると様々な面を見せることができるのかもしれない。外見であれ、内面であれ、なにかきっかけさえあれば――。
そう思うと、もしかしたらわたしが考えている以上に変化することの力って大きいのかもしれない。
一人で勝手に納得していると、廊下のほうからすたすたと足早に歩く音が聞こえてきた。
耳を傾けると、わたしがいる教室の入口で足音が止まった。
「――ごめん、ごめん。また待たせちゃった」
その言葉と共に教室の扉を開いたのは、待ち人の新改さんだった。
「なんかいつも待たせてる気がするよ……」
申し訳なさそうに空笑いする新改さんは頭を掻く。
「大丈夫だよ」
いつもって言っても、待ったのは昨日と今日の二回だけなんだけどね。
だからそんなに気にしなくてもいいよ。
それに新改さんは少し呼吸が乱れているから、きっと急いで来てくれたんだろうしね。
「なら良かった。ありがとう」
笑みを零しながらそう言った新改さんは深呼吸して乱れた息を整えると、わたしの右隣の席に腰を下ろした。
そして口元をニヤつかせながら口を開く。
「それにしても普川さん、今日は注目の的だったね」
「そうだね……。注目を浴びたかったわけじゃないから、ちょっと困っちゃった」
「はは、そうだろうね。でも、注目を浴びるのは今だけだと思うから安心して」
それはどういうことだろう?
注目を浴びずに済むのはありがたいけれど、なんで今だけなの?
「人って物事の変化には敏感だけど、すぐに慣れる生き物だから、普川さんが今の姿のまま過ごしてたらクラスのみんなもそのうち気にしなくなるよ」
なるほど……。
確かにその通りかもしれない。
わたしも家の近所に新しいお店ができたら目新しくて足を運んでみることがある。
でも、それもすぐに慣れて当たり前の日常となり、特別気にすることはなくなってしまう。
だから新改さんの言葉にはすんなりと納得できた。
「良かった……。安心した」
一時的なものだとわかって安堵したわたしはホッと息を吐く。
「やっぱり、私の見立ては正しかったってことかな」
そう言って胸を張る新改さん。
「そうだね。わたしもここまでみんなの反応が変わると思わなかったから驚いたよ」
「普川さんは素材がいいから、見せ方を少し工夫するだけで化けるんだよね」
「――そ、そんなことないよ」
新改さんは昨日からわたしの容姿を褒めてくれている。
だけれど、わたしはかわいくないし、美人でもない。
素材がいいのは新改さんのような人のことを言うんだよ。
誰もが美少女と認めるような人なんだから。
そう思ったわたしは、反射的に首を左右に振って否定していた。
「謙遜することないよ。実際、私より普川さんのほうが男ウケはいいだろうし」
「それこそありえないよ」
なに言っているの?
わたしが新改さんより人気なわけないのに……。
「いやいや、ありえるんだって」
真面目な顔で見つめてくる新改さんに、わたしは首を左右に振りながら「いやいやいや」と返す。
すると――
「いやいやいや」
新改さんもまったく同じ反応を返してきた。
「普川さんって自己評価低いよね……」
呆れたように肩を竦める新改さんだったけれど、「いや、まあ、そうならざるを得なかったのか……」と呟いて表情を改めた。
「自覚はないかもしれないけど、普川さんって男ウケがいい要素が揃ってるんだよね」
「……そうなの?」
まったく自覚がないわたしは疑問しか湧いて来ず、無意識に首を傾げた。
「うん。私と違って普川さんは清楚で落ち着いているイメージがあるからね。しかも私より肉づきがいいという付加価値があるから、好みっていう男は多いと思うよ」
そういうものなのかな……?
清楚っていうのはピンと来ないけれど、落ち着いているっていうのは目立たないように気をつけていたのが、周りからはそう見えていたのかもしれない。
そもそも男の子は清楚な子が好きなのかな?
わたしだったら新改さんみたいな子に憧れるけれど……。
まあ、それはともかくとして、肉づきがいいっていうのはちょっと複雑なんですけど……。
わたしは新改さんみたいに無駄な脂肪が一切ないスレンダーな肢体に憧れているから――。
「――あ、太ってるって意味じゃないよ? 普川さんはスラっとしてるしね」
わたしの不満が伝わったのか、新改さんは慌ててそう口にする。
「男って細い子より、少し弾力がある子のほうが好きなんだよね。もちろん、好みは人それぞれだから全員に当てはまるわけじゃないけど」
そういうものなんだ……。
女としては細い子に憧れるのだけれど、男性とは真逆の感性なんだね……。
「妖艶、セクシーって言ったほうがわかりやすいかな」
あぁ~、それならちょっとわかるかも。
「細い子より、ちょうど良く肉づきいい子のほうがセクシーに見えるんだよ」
時々、テレビに映るグラビアアイドルを観たら女のわたしでもセクシーだと思うことがある。
その感覚は男性のほうが強いのかも? だから余計に肉づきのいい女性が魅力的に映るのかもしれない。
「でも、そういう目で見られるのはちょっと……」
「まあ、普川さんはそうだろうね」
「……新改さんは違うの?」
「相手によるかな。好きな人にそういう風に思われるのは、女として見られてるんだなって嬉しくなるし、自信にもなるから」
「そういうものなんだ……。わたし、好きな人いたことないからわからないや」
「まあ、私も今は好きな人いないんだけどね」
肩を竦めた新改さんは、一息吐いた後に「話を戻すね」と口にした。
「私が普川さんの魅力がより引き立つように外見を演出したから、男ウケが良くなったんだよ」
どういう意図があってそうしたのかはわからない。
でも、きっと新改さんなりの考えがあってのことだと思う。
「女は裏でなにを考えてるかわからないけど、男は素直で単純だから反応がわかりやすいんだよ。特に女が絡むとね」
裏があるっていうのはわたしと新改さん自身も含まれているのかな……?
まあ、でも、いじめられていた過去がある新改さんのことだから実体験の上で、女には裏がある、と身に染みているのかもしれない。
「だから男が反応するように魅力を引き立てたら、普川さん自身が変化を実感できるんじゃないかな、って思ったんだ」
なるほど……。
そういう意図があったんだ……。
「もし男子の反応が嫌なら、元に戻すなり、別の工夫をするなりして、また変えればいいだけだからね。大事なのは変化を恐れないことだから」
変化を恐れない――か。
確かにわたしは〝普通〟に固執して変化を恐れていた。
お母さんの顔色を窺っていたのもあるけれど、単純に元の自分とは違う別の自分になるイメージが湧かなかった。だからこそ怖かったのもある。
でも、いざ一歩踏み出してみたら思っていたよりも怖くなかった。
新改さんが味方でいてくれたからというのもあるかもしれない。
わたし一人だったら絶対に今も足踏みしていたはずだから――。
「とは言っても、変わるのってそんな簡単な話じゃないんだけどね」
そう言って溜息を吐く新改さんの表情には苦労が滲み出ている。
新改さんは自分の力で変わったんだもんね。わたしとは違って。
彼女ほど変わることの大変さを理解している人はそうそういないんじゃないかな。
だからこそ新改さんの言葉には説得力がある。
「一度沼に嵌まると変わろうという発想すら湧かなくなってしまうもんね……」
「そうなったら誰かに引っ張り上げてもらわないと抜けられないね」
わたしの言葉に深く頷いた新改さんは――
「私も綾ちゃんが受け入れてくれなかったら、今頃どうなっていたかわからないし……」
と、なんとも形容しがたい複雑な表情で続けた。
過去に思いを馳せているのか、変われたことに安堵しているのか、叔母さんに感謝しているのか、或いは全部なのか――。
新改さんの感情を完璧に読み取ることはできないけれど、これだけはわかる。――負の感情ではないと。
だって、新改さんの顔にも滲み出る雰囲気にも物悲しさがないから。――まあ、わたしの見当違いの可能性もあるけれど……。
「――それはそうと、普川さん、ちょっと立ってくれない?」
唐突にそう口にする新改さん。
脈絡のない突然の出来事にわたしは目を瞬いてしまう。
「わ、わかった」
それでもなんとか平静を保ったわたしは、一拍ほど遅れてから席を立った。
「う~ん」
新改さんは鼻を鳴らしながら、わたしの頭からつま先まで目を這わせる。
「し、新改さん?」
隅々まで見られるのが気恥ずかしくて身を縮こまらせてしまう。
「やっぱり……いいね」
「な、なにが?」
ポツリと呟いた新改さんに、わたしは首を傾げながら言葉の意味を尋ねる。
「いや、私のスタイリングは正しかったなって思ってさ」
「それはどういう……?」
返って来た言葉の意味がわからなかったわたしは、無意識に反対方向に首を傾げてしまう。
「普川さん――」
新改さんはそこで言葉を溜めると――
「最っ高にかわいいよ!!」
満面の笑みで高らかにそう口にした。
「――え」
「特にこの絶対領域がえっちで堪らないんだよね!」
新改さんは戸惑うわたしを無視して膝立ちになる。
そして、両手をわたしの太股に伸ばすと愛撫し始めた。
「このすべすべした肌と弾力が癖になる~」
まさかの行動に呆気に取られていると、今度は太股に頬擦りし始めた。
「――ちょ、ちょっと新改さん」
そう声をかけてもまったく聞こえていないのか、新改さんはわたしの両脚の間に顔を押し込んだ。
顔が太腿に挟まれる形になり、グリグリと感触を堪能している。
頭頂部がスカートに侵入しているけれど、新改さんは夢中になっているのかまったく気づいていない。
「――新改さん!!」
さすがに度が過ぎていると思ったわたしは、痛くならないように気をつけながら強めに新改さんの肩を揺すった。
すると――
「――ハッ!」
すぐに我に返って顔を離してくれた。
「……ごめん。誘惑に抗えなかった……」
恥ずかしそうに顔を逸らす新改さん。
夕陽に照らされているせいか、恥ずかしさからなのかわからないけれど、赤面させていた。
その表情を見たらなぜかおかしくなってしまったわたしは、つい吹き出してしまう。
「――ぷふっ、新改さんの意外な一面を見ちゃったよ」
「わ、忘れて……」
新改さんは恥ずかしさを誤魔化すように頬を掻く。
「でも、それだけ今の普川さんは魅力的ってことだよ」
「少なくとも新改さんの性癖にどストライクってことはわかったよ」
「ぐふっ……」
恥ずかしさに悶える新改さんは、弱々しい口調で「か、揶揄わないで……」と漏らす。
普段は見られない彼女の姿がかわいくて頬が緩んでしまう。
赤く染まった表情がかわいい上に色っぽいって反則では?
「ふ~」
新改さんは深呼吸して心を落ち着かせる。
「……ごめん。正気を失っちゃったけど、話を戻すね」
「う、うん」
表情が元に戻った新改さんは椅子に座り直す。
思いの外切り替えが早くてちょっとビックリしてしまった。
「イメチェンした普川さんの一番のポイントはここなんだよ……!!」
ビシッとわたしの太股も指差す新改さん。
「私と違って普川さんの太股は肉づきがいいから、スカートを短くしてニーハイを穿くことで絶対領域を作ってもらったけど、やっぱり効果抜群だったね!」
胸を張って声高に言う新改さんは――
「女の私が正気を失うくらいだから、男からしたらもっと堪らないんじゃないかな」
と訳知り顔で続ける。
チラリと見下ろすように新改さんの胸元に視線を向けると、組んだ腕に胸が乗っていた。
ブラウスの胸元を少しはだけさせているから母性の象徴があらわになっている。多分、そういうところのほうが男の子は好きなんじゃないかな……。
「特に普川さんはニーハイの上に太股の肉が乗っかるから、余計に魅力的なんだよね。所謂、むっちり太股ってやつ」
む、むっちり……。
褒め言葉なんだろうけれど、素直に喜べない……。
「わたしは新改さんみたいにスレンダーな脚が羨ましいな……」
太い太股は少しコンプレックスだから、新改さんみたいな無駄な脂肪が一切ない細い脚に憧れる。
「私は普川さんが羨ましいけど、確かに細い脚のほうが女ウケはいいだろうね」
そう言って苦笑する新改さんは、「隣の芝生は青く見えるってやつだね」と続けた。
「それに普川さんの太股は太すぎるってわけじゃないよ? 魅力を損なわずに最大限美しく見える絶妙なむっちり具合なんだよ。まさに芸術品とも言える」
腕を組みながら「うんうん」と頷く新改さん。
「そ、そんなに力説されるとは……」
若干気圧され気味のわたしは言葉が詰まってしまう。
「だって私が理想とする美脚なんだもん!」
「美脚なのは新改さんのほうだよ」
「いやいやいや」
「いやいやいや」
お互いに引かないせいで、今日二度目のいやいや合戦を繰り広げてしまう。
「しかもこんなにスカート短くしたことないから恥ずかしさ倍増だよ」
コンプレックスの太股を晒すだけでも恥ずかしいのに、短いスカートのせいで余計に羞恥心を刺激されてしまう。
今まで制服のスカートは膝が隠れるくらいの長さにしていたから、いつも以上にスース―するし、なんか落ち着かない。
「それはそのうち慣れるって」
「新改さんに言われるとなにも言い返せないね……」
軽い調子で言う新改さんのスカートはかなり短い。
わたしでもだいぶ短いほうなのに、それよりもさらに短いのだ。
それこそ下手をしたら下着が見えてしまうのではないかと心配になるほどである。
だからこそ、既に慣れている側の新改さんにはなにも言い返せなかった。
「あと、ブラウスの第一釦を外した状態でリボンを付けるのもポイントだね」
今まではボタンを留めていたけれど、今日は違う。
「そのほうが普川さんの大きなおっぱいが見えそうで見えなくてそそられるし、きっちりしすぎないほうが接しやすい印象を周囲に与えることができるから」
前半部分は聞こえなかったことにして、後半部分は一理あると思った。
見た目が真面目そうだと堅苦しいイメージがあるから、なんとなく緊張してしまう。
逆に派手すぎると怖かったり、気後れしたりする。
だからその中間を狙えばちょうどいいバランスを保てるというわけだね。
「ついでにカーディガンを着て、たまに萌袖をすれば小悪魔感もあって完璧ってわけ」
寒い日はカーディガンを着ることもある。
でも、ファッションという意味で着たのは今日が初めてだ。
「でも、あまり小悪魔感を出しすぎると女ウケが悪くなってしまうけどね。だから、男女ともにウケが悪くないスタイリングを心掛けたんだ」
へ、へぇ~。
新改さん、そこまで考えていたんだ……。
なんか凄いな……。
素直に感心する。
「髪は万が一、家でお母さんに見られても大丈夫なようにボブディにしたけど、普川さんに似合ってるからピッタリだったね。今の制服の着方にも合ってるし」
「今までは特に理由もなくナチュラルミディにしていたから、なんか新鮮だよ」
「ナチュラルミディは清潔感があって軽やかだから、年齢関係なく挑戦できるのがいいよね」
今までは変じゃなければなんでもいいや、の精神だったから特に拘りはなかった。
だからとりあえず、お母さんの真似をしていた。
「髪が伸びたら、また違うスタイルを試してみるのもいいかもね。ドリーミーウェーブとか似合いそうだし」
「それはまたその時に考えるよ」
気が早い話にわたしは苦笑してしまう。
正直、新しい髪型に挑戦してみた今となっては、また別のスタイルにも興味が湧いている。
でも、それはまだ先の話。
「時が来たら新改さんに相談するよ」
「うん、任せて!」
嬉しそうにニカッと笑ってサムズアップする新改さん。
もしかしてなんだけれど、新改さん、わたしのことを着せ替え人形かなにかだと思っていない……? ――まあ、実際にそうだったとしても助かるから全然構わないのだけれども。
胸中で苦笑したわたしは、新改さんと向かい合った状態のまま椅子に腰を下ろした。
「それに合わせてメイクも変えないといけないかもね」
「今回は結局変えなかったもんね」
「清楚な印象を崩さないほうがいいだろうし、普川さんは今のままでも充分かわいいから変える必要がないと思ったんだよね」
メイクに関しては、最低限勉強している。
でも自分のことを客観視できていないからなのか、知識が足りていないからなのかわからないけれど、正直、どんなメイクが自分に合うのかわからないんだよね……。
だから当分は新改さんの言う通りにしようと思っている。
もちろん、今後も勉強は続けていくから、いつかは自分一人で考えたり決められたりできるようになるつもりです。
こうやって前向きに物事を考えられるようになったところが、多少なりとも変われた証拠なのかもしれない。
「身形を変えただけだけれど、なんか心が軽くなった気がするよ」
「それは多分、お母さんの言いつけから解放されたってことじゃないかな」
そうかもしれない……。
今までお母さんの言いつけに逆らったことは一度もなかった。
だから今回初めて変わろうとしたことで、もしかしたら自分を縛り付けていた〝普通〟という呪縛に罅を入れることができたのかもしれない。
心が軽くなったのは、その証拠かな?
「正直、周りの反応を気にしたってなんも意味ないんだよね」
そうは言っても新改さん、わたしの場合は癖みたいなものだから、なかなか染み付いてしまった習慣は抜けないんですよ……。
なんたって一番心を許せるはずの、お母さんの顔色を窺いながらいつも生活しているくらいだから……。
「だって、どうでもいい人になにをどう思われようが、心底どうでも良くない?」
「わ、わたしはそこまで割り切れないかな……」
「まあ、どうしても気になっちゃう気持ちはわかるけど、自分の好きな人や、好かれたいと思ってる人のことだけ大切にすればいいと思うんだよね」
なんと言えばいいのか、達観しているというか、悟っているというか、凄く極端な考え方だね……。
いや、もしかしたら新改さんの場合は諦めていると言ったほうが正しいのかな……?
なんとなく彼女の感情が抜け落ちた表情から、諦念のようなものを感じ取ってしまった。
もしかしたらいじめられていた経験から、人間関係については始めから諦めるようになってしまったのかもしれない。
思い返せば、新改さんは誰とでも分け隔てなく接しているけれど、どことなく広く浅く交流している節がある。
もちろん、特に仲の良い人とは親密にしている。
でも、自分のパーソナルスペースに入れている人以外は、あまり深入りしないようにしている気がする。
もしもの時は切り捨てても構わないと示しているかのように――。
そんな彼女が特に親しくもないわたしに深入りしたのは、本当に珍しいことだと思う。
昨日、似た境遇に自分を重ねて放っておけなかったって言っていたのは、わたしが思っていた以上の重みがあったのかもしれない。
きっと新改さんは勇気を振り絞ってわたしに手を差し伸べてくれたんだ。
「だから周りを気にして萎縮しないで、自分の個性を貫いて好きなように生きるべきなんだよ。人生は一度きりなんだから、楽しんだ者勝ちだと思うんだ」
そう言って微笑む新改さんを陽光が包む。
「もちろん、人に迷惑をかけない範囲でだけどね」
一層笑みを深める彼女は夕陽に照らされているからか、光り輝いて見える。――幻想的とも思えるほどに。
幻覚かもしれないけれど、それくらい美しい光景だった。
「というわけで、普川さんも私と一緒に彩りに満ちた高校生活を送ろうよ。一歩ずつでいいからさ」
新改さんのお陰でわたしも少しは彩づくことができたのかな?
少なくとも透明人間ではなくなったよね?
色味が付いて無彩色ではなくなったよね?
――ううん、もう後ろ向きな考え方はやめよう。
こんなわたしでも、少しは彩づくができたんだ。
新改さんが言っていた通り、身形を変えることで内面に影響を与えることができた。
だから今度はもっと内面を変えていきたい。
少しでも自分のことが好きになれるように――。
そのためには呪縛を完全に解かなくてはいけない。
これからも新改さんに助けてもらうことがあるかもしれないけれど、今後はできる限り自分の意思で、自分の責任でより鮮やかな色を付けていこう。
それが自信にも繋がるはずだから――。
そう決意したわたしは、新改さんの目をしっかりと見つめながら、力強く「うん」と頷いた。
一度きりの人生を彩りに満ちたものにするために――。
ありがとう、新改さん――。
本当に、ありがとう――。
世界は彩りに満ちているのに、わたしには色がない。
クラスメイトは輝いているのに、わたしは無彩色。
どこにでもいる〝普通〟の女子高生。目立たないけれど、孤立しているわけでもない。本当になんの変哲もない無個性の塊《かたまり》。
それがわたし――普川穂波だ。
そんなわたしは幼い頃からお母さんに、目立つな、変わったことをするな、普通にして、と口酸っぱく言われ続けてきた。
世間体を気にしてのことなのか、トラブルに巻き込まれたくないからなのか、面倒を排除したいのか、わたしが周りから浮いて孤立することを心配してなのかはわからないけれど、とにかく個性を殺す教育方針だったと思う。
お母さんの言葉が呪いのようにわたしの心を締め付けて、自然と〝普通〟に過ごすように心掛けるようになった。
周囲から浮かないように〝普通〟に友達を作って、〝普通〟に遊んで、〝普通〟に学校に行って、〝普通〟に勉強して、そんな誰もが当たり前のようにすることを〝普通〟に行ってきた。派手なことや変わったことはせずに、悪目立ちしないように努めている。
それらが自分を縛り付ける呪いだとわかっているのに、呪縛に抗うことができないわたしは、元から社会に埋没する透明人間になる素質があったのかもしれない。まったく嬉しくない才能だ。
「普通って、なんだろう……」
昼休みの教室で自分の席に座って窓の外をぼんやりと眺めていると、初夏の訪れを知らせるように揺らめく瑞々しい若葉を芽吹かせた木々に自然と視線が吸い寄せられて、なにを思ったのか無意識にそう呟いていた。もしかしたら感傷的になっていたのかもしれない。
物思いに耽って独り言を呟くという〝普通〟ではない変わったことをしてしまった事実に、クラスで浮いていないか、と不安になってしまい、チラリと視線を彷徨わせて周囲の様子を窺う。
小さな呟きだったお陰か、幸いにもクラスメイトたちの話し声に紛れてくれて誰かに気づかれた様子はなく、いつも通り埋没することができていた。
しかし――
「――私は普通なんてこの世に存在しないと思うよ」
たまたまわたしの隣を通りすぎたクラスメイトが、振り向きざまにそう声をかけてきた。
「――え」
誰にも気づかれていないと安心していたわたしは、不意を突かれて若干上擦った声を漏らしてしまう。
内心では焦りながらもなんとか平静を装って見上げると、そこにはクラスの人気者――新改希望さんの姿があった。
彼女は明るくて誰にでも分け隔てなく接する美人さんだ。
それこそ、わたしのような透明人間にもほかのクラスメイトに対する態度と変わらない距離感で接してくれる。
かわいい系よりも綺麗系に分類されるような、目鼻立ちのはっきりとした彫像のように整った美しい顔立ちをしている。
スラっとしていながらも程よい肉づきの胸と、モデルのように長い手足を備えており、女性なら誰もが憧れてしまうようなスタイルの持ち主だ。
着崩したブラウスの胸元からチラッとあらわになっている胸や、短いスカートとアンクレットソックスの間に広がる傷一つない綺麗な脚に、女のわたしでも自然と目が行ってしまう。
金色に脱色している髪は鎖骨を少し越えるくらいの長さの脱力ウェーブにしており、可憐でありながらも色気がある。
髪の隙間からチラリと見えるピアスや、手首で存在感を放っているブレスレットが派手な印象を与えている。
一見するとギャルのような出で立ちだけれど、そこまでけばけばしいわけではない。派手さと上品さを上手く融合していて、女性らしい魅力に溢れている。
目立たないように〝普通〟を心掛けているわたしとは大違いだ。
自分の意思でやっていることとはいえ、わたしなんて女の魅力を微塵も感じられない地味子だから……。
正直言うと、周りの目を気にすることなく自分を魅力的に着飾るところや、個性を貫いている新改さんにわたしは憧れている。
自分にはない物をたくさん持っている彼女の姿がとても輝いて見えて、ただただ眩しく映る。
でも、わたしにはお母さんに掛けられた呪いを解く勇気がない。
「普川さん……?」
――あ、いけない。
情けない声を漏らしたきり反応がなかったからか、新改さんはしゃがみ込んで怪訝そうにわたしの顔を覗き込んできた。
つい新改さんに見入ってしまって無視する格好になってしまった。せっかく話し掛けてくれたのに、ごめんなさい……。
「ごめんなさい。ちょっと考えごとをしてて……」
慌てて頭を下げると、新改さんは軽い調子で「そっか」と頷いた。
気分を害した様子がない新改さんの表情を確認して安堵したわたしは、胸中でホッと一息吐く。
クラスの中心に位置する人気者の気分を害してしまったら変に目立ってしまうし、最悪ほかのクラスメイトを敵に回してしまうかもしれない。
そんな目立ち方をしてしまったら、どこにでもいる〝普通〟のクラスメイトでいられなくなってしまう。
普通と言えば、さっき新改さんが気になることを口にしていた。
普通がこの世に存在しないって、どういう意味だろう……?
「さっきのどういう意味……?」
気になったわたしは、遠慮がちに尋ねてみた。
「さっきのって……普通なんてこの世に存在しない、って言ったこと?」
「うん」
ついうっかり言葉足らずの問いをしてしまったけれど、新改さんにはちゃんと意味が伝わってくれた。
「普通の形って人の数だけあると思うんだ。だから自分が普通だと思っていることが、ほかの人にとっては変わったことかもしれない。その逆も然りだね」
「人の数だけ……」
わたしが今まで考えもしなかった視点だ。
確かに〝普通〟という形のない概念に対する解釈は人によって異なるのかもしれない。
それこそわたしが〝普通〟だと思ってやっていることが、ほかの人にとっては奇異に映っている可能性だってある。
もしそうだとしたら、今までわたしが周囲から浮かないように取り組んでいたことはなんだったのか、という話になってくる。
「普川さんはなんで普通について考えていたの?」
悪いほうに考えが向かおうとしていたところで、新改さんがそう尋ねてきた。
そのお陰でわたしの思考が現実に引き戻されて、沈みかけていた気分が霧散した。
「……わたしは〝普通〟にしなきゃいけないから、かな」
なんて答えたものか、と考え込みそうになってしまったけれど、諦めて素直に伝えることにした。そうしないといつまでも思考の海に深く潜り続けてしまう気がしたから……。
「……なんで普通にしなきゃいけないの?」
不思議そうに目を瞬いた新改さんが首を傾げる。
「〝普通〟にしないと周囲から浮いちゃうし、悪目立ちしちゃうから」
「確かに周囲から浮くのも変に目立っちゃうのも嫌かもしれないけど、それは気をつけることであって、〝普通にしなきゃいけないこと〟ではなくない?」
先程までの不思議そうな表情とは打って変わって真剣な顔つきなった新改さんは、一呼吸置いた後に再び口を開く。
「普川さんが言う〝普通にしなきゃいけないこと〟には義務感が籠ってる気がするんだよね」
「義務感……」
「どことなく強迫観念に囚われているような感じって言えばいいのかな……」
確かに強迫観念に駆られて義務を果たしているような節はある。
だって望んで〝普通〟でいようとしているわけじゃないから。
でも幼い頃からお母さんに言われ続けてきたせいか、自分でも外すことのできない枷のような物がわたしの心にきつく嵌められている。
新改さんのような人に憧れることはあっても、自分も同じようになろうと思える勇気はない。
そんな情けない自分に嫌気が差す時があるけれど、むしろ、お似合いだな、と自嘲気味に安心してしまう時もある。
「まだ普川さんと交流が浅い私でも感じるほどだよ」
新改さんとは二年生になってから同じクラスになった。
まだ進級してから二カ月しか経っていないから、当然それ相応の付き合いしかない。元々、新改さんと特別親しいわけじゃないから尚更だ。
そんな彼女でもわかるくらい、わたしの〝普通〟は歪だったらしい……。
「まあ、わたしだからそう思ったのかもしれないけどね……」
意味深にボソッと呟いた新改さんの表情は、どことなく悲しそうであり、達観しているようでもあった。
「新改さんだから……?」
「……ごめん。気にしないで」
「う、うん」
新改さんが口にした言葉と表情が気になったけれど、深く踏み込むのはそのほか大勢のクラスメイトとして〝普通〟ではないと思い、大人しく引き下がった。
しかし、お互いに口を閉ざしてしまったせいで沈黙が場を支配してしまい、なんとも言えない微妙な雰囲気が漂ってしまう。
でも、なんだか居た堪れない気分になりかけたタイミングで、ありがたいことに昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ってくれた。
「――普川さん、今日の放課後、時間ある?」
チャイムを耳にした新改さんは立ち上がると、そう尋ねてきた。
「あるけど……」
予想外の問いに、わたしは生返事をしてしまう。
「そっか、良かった。ならちょっと放課後付き合ってくれない?」
「う、うん。わかった」
大して親しくもないわたしになんの用だろう? と不思議に思いながらも、クラスメイトとして〝普通〟に頷いた。
◇ ◇ ◇
「――さ、行こう」
放課後になり、帰り支度をしていたわたしのもとに新改さんがやって来ると、唐突にそう口にした。
「……どこに?」
放課後付き合って、と言われていたけれど、なにをするのかも、どこに行くのかも聞かされていない。
唐突に「さ、行こう」と言われても、わたしとしては疑問しか浮かばない状況だった。
別に新改さんのことを警戒しているわけじゃないけれど、なにもわからない状況ではどうしたって足が重くなってしまう。
「それは歩きながら話すよ」
クラスメイトの視線がある中で人気者の彼女にそう言われてしまっては、悪目立ちしないように大人しくついて行くしかない。
わたしのような、なんの特徴もない平凡で〝普通〟なクラスメイトのことを人気者の新改さんが誘っても、誰とも分け隔てなく接する彼女ならなにもおかしなことはないと周囲の人たちは勝手に納得してくれる。
まあ、そもそもわたしはクラス内で嫌われているわけでも、敬遠されているわけでもないので、新改さんと仲良くしていても変に思われることはないはずだ。
嫌われたり白い目で見られたりするのは目立ってしまうことと同義だと思うから、その辺は〝普通〟のクラスメイトでいられるように心掛けている。
「わかった。とりあえず、新改さんについて行くね」
会話しながら帰り支度を済ませたわたしは、一先ず新改さんの言葉に納得して頷くと、重くなっている足に軽く鞭を打って一歩踏み出した。
そうしてわたしは大人しく新改さんについて行った。
彼女には「歩きながら話すよ」と言われていたけれど、結局なにも説明がないまま校門まで辿り着いてしまう。
説明が欲しいと口にすることができないわたしは、半歩下がった位置から新改さんを眺めることしかできない。微かに見える横顔に目を向けても、彼女がなにを考えているのかわからなかった。
「――私、普川さんの気持ちがわかるんだ」
説明を欲するわたしの気持ちが通じたのかはわからないけれど、校門を抜けて人気が少なくなったタイミングで、新改さんが正面を向いたまま徐にそう口にした。
「わたしの気持ちが……?」
「うん。〝普通〟に拘る普川さんの気持ちがね」
脈絡のない言葉に戸惑うわたしが無意識に口にした問いに、新改さんが間を置かずに頷く。
頷いた新改さんの背中にどことなく哀愁が漂っているように見えるのは気のせいだろうか?
「新改さんが……?」
彩りに満ちている新改さんにわたしの気持ちがわかるって……?
わたしとは正反対にいるような人なのに……?
「はは、まあ、そういう反応されるのは仕方ないかもね……」
思わず疑うような視線を向けてしまったわたしの顔を横目でチラッと確認した新改さんは、苦笑しながら頬を掻く。
「私、今はみんなと仲良くさせてもらってるけど、昔はいじめられてたんだよね」
「え……」
新改さんみたいにクラスの人気者になれるような人がいじめられていたって、そんなことあるの……?
意外感に包まれたわたしは、チラッと新改さんの顔に目を向ける。
過去に想いを馳せるように遠い目をする新改さんの顔に影が差したような気がしたけれど、彼女はわたしの前を歩いているから横顔を覗くことしかできなかったので、はっきりと確認することはできなかった。
「自分で言うのはなんだけど、私、小学生の頃、男子に人気があったんだよね。でも、それが気に食わなかった女子グループに目を付けられちゃってさ」
やっぱり当時から男子に人気だったんだ……。
そこは今と変わらないんだね……。
まあ、新改さんは美人さんだし、小学生の頃は凄くかわいかったんだろうな……。
「男子にはバレないようにいじめられて、それが卒業するまで続いたんだ」
「質が悪い人たちだったんだね……」
男子に人気な新改をいじめるなら理に適ってはいる。
もし男子にバレたらきっと新改さんの味方をするだろうから、いじめている人たちが不利になってしまう。男子を敵に回さないように上手く立ち回っていたに違いない。
「ほんとにね……。その狡賢さを勉強に使えばいいのにって思ってたよ」
溜息交じりにそう口にした新改さんは肩を竦める。
「卒業した後、いじめっ子グループのリーダー的存在だった人は私立に行ったから離れることができたけど、ほかのメンバーはそのまま同じ中学に進学したからいじめも継続したんだよね」
公立の中学校は学区で進学先が決まるから、同じ小学校の多くの人とそのまま一緒に進学することになる。だから必然的に加害者と被害者も一緒になってしまう。
「まあ、リーダー的存在の人がいなくなったからいじめ自体は軟化して、嫌がらせを受けたり、憂さ晴らしに利用されたりするくらいになったから小学の頃よりはマシだったけどね」
新改さんは笑い話のように軽い調子で言うけれど、それは笑って済ませられる話じゃないと思う……。
でも彼女の中ではもう過去の話として割り切ることができているのかもしれない。だから今は笑い話にできるんだと思う。――まあ、わたしに気を遣って明るく振舞っているだけかもしれないけれど……。
「だから昔はなるべく目立たないように自分を殺して生きてたんだ。いじめっ子たちの気に障らないようにね」
「そうなんだ……。だからわたしの気持ちがわかるって言ったんだね……」
新改さんは相変わらず軽い調子で「そそ」と頷くけれど、わたしとは全然違うと思う。
だって、新改さんはわたしよりもずっと苦しい境遇にいたはずだから――。
確かにわたしも自分を殺して生きている。
でも、それはいじめがきっかけではない。
ただ単に、親の言いつけを頑なに守っているだけだ。
親の顔色を窺っているところは、新改さんがいじめっ子の気に障らないように過ごしていたのと似ているかもしれない。
とはいえ、近しい物があるだけで本質は全然違う。
身を守るために自分を殺すしかなかった新改さんと、なにか特別なきっかけがあったわけでもないのに親に萎縮しているわたしを一緒にしてはいけない。
一緒にしたら一人で戦ってきた新改さんに失礼だ。
「でも、わたしと新改さんでは境遇が違うから気が引けるかな……。わたしは辛い目に遭ったわけじゃないのに、自分で勝手に周囲の顔色を窺ってるだけだから……」
口ではそう言いつつも、理解者ができたような気がして心なしか嬉しく思っている自分もいる。
「なんで普川さんがそんなに〝普通〟に拘ってるのか私にはわからないけど、なんとなく昔の自分に重なる部分があって放っておけなかったんだよね」
苦笑交じりにそう口にした新改さんは、「余計なお世話だったら出しゃばってごめんね」と言葉を続けた。
「それは全然大丈夫」
「そっか。なら良かった」
わたしの言葉に安堵したのか、新改さんは小さく笑みを零す。
もしかしたら新改さんが誰とでも分け隔てなく接するのは、孤独の痛みを知っているからかもしれない。だから今も距離感を間違えずに済んで安心しているのだと思う。
「別に大層な理由があるわけじゃないからね。わたしはお母さんの言いつけを守ってるだけだし」
「……言いつけって?」
「目立つな、変わったことをするな、普通にして、とかかな」
「あぁ~、なるほど」
納得したように頷く新改さん。
「幼い頃から親に言われ続けたら意識に刷り込まれちゃうよね。一種の洗脳みたいなものだし」
「う、うん」
前半部分は同意するけれど、後半の部分はちょっと過激な言い方だから反応に困ってしまい、ぎこちない頷きになってしまった。
「理由はわかったけど――」
そう呟いた新改さんは足を止めて振り返ると――
「〝普通〟〝普通〟って、そんなに〝普通〟に拘ってる時点で、〝普通〟じゃないよね」
わたしの顔を見つめながら妙に耳に残る落ち着いた声音でそう口にした。
「――え」
「だって普通の人は、〝普通〟なんて気にして過ごしてないでしょ?」
驚いて漏れてしまったわたしの声が聞こえていたのかいないのかわからないけれど、新改さんは気にした素振りを見せずに言葉を続ける。
「少なくとも私は気にしてないよ? 昔はともかく」
「……普通は気にしないの?」
「そりゃ、周りから浮かないようにとか、変な目で見られてないかなとかは、多少気にするかもしれないけど、普川さんみたいに〝普通〟でいるために〝普通〟でいようと固執する人はそうそういないんじゃないかな?」
新改さんの指摘にわたしの中でなにかがガタッと崩れる音がした。
長年地道に積み上げてきた物が崩れ落ちるような感覚だ。
「……変かな?」
「変って言うか、逆に目立つと思うよ」
「……」
確かになにかに憑りつかれたように〝普通〟に固執している人は目立つかもしれない……。普通の人はそんなに〝普通〟を気にしないのなら尚更……。
「でも、わたしは無個性だからそんなに目立ってないはず……」
「普川さんは没個性ではあると思うけど、無個性ではないんじゃないかな」
現実逃避気味のわたしの願いは即座に否定されてしまう。
「だって、そんなに〝普通〟に拘ってる特徴があるんだし、それはもう立派な個性でしょ?」
反論できない指摘に言葉が出てこない……。
「でも没個性ってことは埋もれることができてるってことだから、上手くやれてる証拠でもあるんじゃないかな」
「だといいんだけど……」
「実際、普川さんの違和感に気づいたのは私しかいないみたいだしね」
新改さんの言う通り、わたしが〝普通〟に拘っていることに気づいた人は今までで彼女しかいない。だからちゃんと埋没することはできているはず。
埋もれられているのは努力が実っている証拠だから嬉しいけれど、透明人間である事実を改めて突きつけられているような気がして悲しくもなってしまう。
「それになんとなくなんだけど、普川さんは現状に満足してないんじゃないかな、って思ったんだよね」
「……満足してないっていうか、お母さんの言葉に縛られてると自覚してるのに、それに抗うことができない自分に嫌気が差してるって言ったほうが正しいかな」
納得した上で社会に埋没する自分を演じているならなにも不満はない。
でもわたしの場合は、自我が芽生える前からお母さんに歪んだ常識を刷り込まれているので、疑うことなく自然と受け入れていた。
しかし、小学校、中学校、高校と進んで行くうちに社会の常識を身につけていったのと、自分の意思を持つようになったのが影響して、周囲との違いに違和感を覚えるようになった。
そして昔は当たり前のように受け入れていたお母さんの言葉を、今は自分を縛る鎖だということをはっきりと自覚している。
〝普通〟に固執するあまり、〝普通〟ではなくなっていると新改さんに指摘されたのも相まって、より一層、自分の歪さに気づくことができた。
だというのに、わたしは抗うことも自分を変えることもできない。
一歩を踏み出す勇気も、変わろうという発想もない。
自分ではなに一つ変えることができない。
そんな自分に心底嫌気が差す。
だからお母さんの言葉が呪縛になっていると自覚してからは、どんどん自分のことが嫌いになっていく。
いっそのこと誰かがわたしの手を無理やりにでも引っ張って、もっと広い世界に連れて行ってはくれないだろうか――と他人任せな考えが脳裏を過ってしまう。
「自分を変えるのってそう簡単なことじゃないからねぇ……」
訳知り顔でしみじみと頷く新改さん。
「私は変えるって言うよりは、いじめられる前の性格や立ち回りに戻っただけだからなぁ~。もちろん、昔よりも立ち回りは上手くなったけどね」
「その状況を打破しようとする姿勢に尊敬しか湧かないよ」
「はは、ありがとう」
わたしの素直な感想に、新改さんは照れ臭そうに頬を掻きながら笑みを零す。
そのはにかんだ表情が可憐で、女のわたしですら魅了されてしまう。
なんだか彼女が男女関係なく人気な理由の一端を垣間見た気がする。
同性のわたしですらドキッとしてしまうのだから、今の彼女の表情を男性が目の当たりにしたら間違いなく見惚れてしまうだろう。
「元の自分に戻るだけの私より、新しい自分に変わらなきゃいけない普川さんのほうがハードル高いだろうし、なかなか難しい問題だよね」
「今とは違う自分の姿なんて想像もつかないよ」
そもそも変わろうという発想すらなかったくらいだからね……。
違う自分の姿なんて想像できるわけないよ……。
「ん~、内面は簡単に変えられるものじゃないから、まずは外見から変えてみるのはどう?」
「……外見から?」
小首を傾げながら提案する新改さんに釣られるようにわたしも首を傾げる。
「外見を変えると気分も変わるからね」
「……なるほど?」
外見を変えたことがないから実際のところはわからない。
でも、一理あると思う。
制服を着たら身が引き締まって勉強に集中できる気がするし、部屋着だと気が緩んでだらけてしまうからね。
「まあ、普川さんにその気がないならまったく意味のない話だけど」
「それは……そうだね……」
正直、今のわたしとは違う自分に興味はある。
想像はつかないけれど、新改さんやほかのクラスメイトみたいに輝いてみたいと思う。無彩色のわたしに鮮やかな色が付いたらいったいどうなるのか知りたい。
だからわたしは、肩を竦める新改さんに苦笑しながら頷くという曖昧な態度を示した。
「悩んでるなら一度試してみるのもいいかもね。何事も実際にやってみないとわからないし」
確かにその通りだけれど、わたしには一歩踏む出す勇気がない。
そもそも言い訳ばかり口にして前を向こうとしないわたしなんかに、そんな勇気があるわけがない。あるならとっくに試している。
「決められないなら騙されたと思って、私に任せてみない?」
決断できずにうじうじと悩んでいるわたしをみかねたのかわからないけれど、新改さんがそう提案してきた。
安心するような彼女の声色に背中を押されたわたしは、 反射的に「うん」と頷いていた。
差し伸べられた手を取って上手く行ったらそれでよし。失敗したら人のせいにできる、と卑怯な考えを頭の片隅に思い浮かべながら――。
◇ ◇ ◇
「――さ、上がって」
新改さんに連れて来られたのはマンションの一室だった。
鍵を解錠して扉を開く様子を見るに、どうやらここが彼女の自宅らしい。
「……お邪魔します」
初めてお邪魔する家に恐縮しながら足を踏み入れたわたしは、きょろきょろと周囲の様子を窺ってしまう。
整理整頓されているのか土間には新改さんが脱いだ靴しかないので、生活感が希薄だ。偏見かもしれないけれど、派手な印象がある新改さんの自宅としては些か意外だった。
「綾ちゃ――叔母はまだ帰ってくる時間じゃないから、気を遣わずに過ごしてね」
緊張していたわたしは、新改さんの言葉で少し心に余裕が生まれて肩の力が抜けた。
もしかしたら彼女はわたしの緊張を読み取って気遣ってくれたのかもしれない。
「叔母さんと暮らしてるんだ」
「うん、そうだよ。叔母と二人暮らし。さっき言ったように私いじめられてたから、高校進学を機に地元を離れることにしたんだ」
新改さんにとってはいいきっかけだったのかもしれないけれど、そんな理由で地元を離れなくちゃいけないなんて寂しいよね……。新改さんも、家族も。
でも、環境を変えたことで新改さんが高校生活を楽しめているのなら、きっと家族も安心しているんじゃないかな。
「綾ちゃんが「うちにおいで」って言ってくれたんだよね。だからそれに甘えることにしたんだ」
叔母さんの名前が「綾ちゃん」なのかな?
さっきわたしに伝わるように言い直していたから多分そうだと思う。
「叔母さんが一緒なら安心だね」
「そうだね。でも、私より親のほうが安心してると思うけどね」
苦笑交じりにそう言う新改さんだけれど、きっと彼女自身が一番ホッとしているんじゃないかな。
高校から親元を離れる決断を下すのはなかなか勇気がいることだと思うから、近くに信頼できる大人がいるのは心強いはず。
もし叔母さんが受け入れてくれなかったら新改さんは今も地元にいたかもしれないしね。
「私はこっちに来たことで心機一転することができたけど、普川さんはそうもいかないだろうから、なにか別のきっかけがないと自分を変えるのはなかなか難しいよね」
「そう……だね……」
「だから、私がそのきっかけの一助になれたら嬉しいかなって」
歯切れ悪く頷くわたしに向かって新改さんははにかみながらそう口にすると、照れを隠すように足早に歩き出した。
新改さんの言葉に呆気に取られてしまったわたしは、なにもリアクションを取ることができなかった。ただただ呆然と離れていく彼女の背中を眺めることしかできずにいた。
「こっち」
「――あ、うん」
扉を開けたままの状態で呼び掛けてくれた新改さんのお陰で、置いてけぼりを食らってしまったわたしは我に返ることができた。
慌てて追いかけると――
「ここでちょっと待ってて」
新改さんは扉の先に鞄を置きながらそう言葉を残すと、廊下の先に姿を消した。
取り残されたわたしは彼女の背中を見送った後に、扉の先へ視線を向ける。
すると、そこには必要最低限の物しか置かれていない簡素な部屋があった。
状況から察するに、ここが新改さんの部屋だと思う。
でも、わたしが彼女に抱くイメージと正反対の部屋で意外感に包まれた。
なんかこう、もっと女子高生らしいというか、派手な印象があったんだよね……。
でもまあ、新改さんは叔母さんの家に居候させてもらっている身なわけだし、生活に必要な物以外は実家に置きっぱなしなんだと思う。
全部持ってくるとなると引っ越しが大変だし、高校を卒業したら実家に戻る可能性だってあるしね。
そうして勝手に納得したわたしは、部屋に入ってカーペットの上に腰を下ろす。
ミディアムブラウンのカーペットが落ち着いた色合いだからか、心なしかわたしの緊張が解れていく。
多少緊張は解れたけれど、慣れない空間に居心地の悪さを感じる。
そんなわたしの心情を察したわけではないと思うけれど、ちょうどいいタイミングで開けっぱなしの扉の先から足音が聞こえてきた。
「――お待たせ。オレンジジュースでいい?」
その言葉と共にやってきた新改さんは両手でトレイを持っていた。
トレイに視線を向けると、二人分のグラスとクッキーが入った器が載っていた。
「うん。ありがとう」
わたしが頷くと、新改さんは「良かった」と口にする。
そしてわたしの対面に移動した新改さんは膝立ちになって、ローテーブルの上にトレイを置く。続けてトレイからグラスを取り出してわたしと新改さんの前にそれぞれ一つずつ置いた後に、クッキーが入った器を中央に置いた。最後に空になったトレイを床――新改さんの隣――に置く。
「はい、どうぞ」
膝立ちの状態からカーペットに腰を下ろした新改さんに促されたわたしは、「いただきます」と呟くと、グラスを手に取って口元に運んだ。
そして一口啜ると、甘味と酸味が口内に広がった。
さっぱりした味わいに一日の疲れが飛んでいくような気がする。――いや、そんなことで疲れが消えるわけがないので完全に勘違いだ。新改さんの自宅で彼女と間近で対面しているという状況に居た堪れなくて、現実逃避したくなっただけです……。
「私、思うんだよね。普川さんって素材はいいから身形に気を遣ったら化けるんじゃないかって」
半ば心ここに在らずの状態だったわたしは、新改さんの言葉に意識を現実に引き戻される。
「見た感じ今も身嗜みはしっかりしてると思うけど、なんていうか……着飾るって言えばいいのかな? もっと自分を良く見せる工夫をしたらいいと思うんだ」
周囲から浮かないように身嗜みには気を遣っている。
あまり派手にしすぎると目立ってしまうし、身嗜みに無頓着でも悪目立ちしてしまう。だからメイクや服装は最低限勉強して、女子高生として浮かないように心掛けている。――まあ、メイクはBBクリームを塗って眉毛を整えるくらいしかしていないけれど……。
それはともかく、新改さんに身嗜みがしっかりしていると思われているのは、わたしにとって安心できる材料だった。努力が報われる気分だ。
でも――
「あまり派手なメイクは必要以上に目立ちそうだから嫌かな……。それに服もお母さんに見つかっちゃうから厳しいと思う。いろんな服を着てみたいとは思うけど……」
わたしが二の足を踏む原因がこれだ。
「あ~、確かにあんまり派手にしすぎると先生に目を付けられてしまう可能性があるし、服はお母さんと暮らしてると隠しようがないもんね……」
納得した新改さんは脱力して左手で頬杖をつくと、右手をクッキーに伸ばす。
「……なら私服は無理でも、制服だけ工夫するのはどう?」
クッキーを二口で食べた新改さんが徐にそう口にした。
「制服だけ……?」
「うん。どうせ一番着る機会が多いのは制服だし、持っていて当然だからお母さんに見られても問題ないしね」
わたしが首を傾げると、すかさず頷いた新改さんは淀みなく説明してくれる。
「メイクは今のままでもいいと思うけど、着こなし方を変えた制服に合わせて少し弄ったほうがいいかもね。もちろん、派手になりすぎない範囲で」
派手になりすぎないなら今とは違うメイクをしてみてもいいかもしれない。
もしかしたらメイクに感化されて自分の価値観に変化が生まれるかもしれないからね。
「やっぱり女の子なんだから、自分が一番魅力的に映る格好をしないともったいないでしょ?」
そう言ってウインクする新改さんが一番魅力的だと思います。
わたしにはとても輝いて見えます。眩しくて目を瞑ってしまいそうになるくらいです。
「でも、わたし自信ないよ? なにが良くてなにが合わないのか、そういうの良くわからないから……」
社会に埋没するのは得意だけれど、自分を良く見せたり着飾ったりするのは苦手だ。そもそも知識がないし、自分の魅力もわからない。
お母さんのほうがわたしより早い時間に家を出るから、支度する姿を見られる心配はない。
帰宅するのもわたしのほうが早いので、お母さんが帰ってくる前に部屋着に着替える余裕はある。
だから、やろうと思えばやれる――私の気持ち次第で。
「う~ん。なら一度、私の見立てでやってみてもいい?」
そう提案されたわたしは、仮に上手くいかなくても自分のせいじゃないと言い訳できる、と相も変わらず他人任せの精神で頷いた。
◇ ◇ ◇
翌日――落ち着かない心境のまま登校したわたしはクラスの注目を集めていた。
正直、ここまで周囲の反応が変わるとは思っていなかったので少々面喰ってしまった。
なぜなら――
「――普川さん、どうしたの!?」
「いつもと雰囲気が全然違うじゃん!」
「イメチェンしたの!?」
「前から美人さんだなぁ~って思ってたけど、なんかより一層かわいくなったね!」
「なにがあったの!?」
「どんな心境の変化が!?」
クラスメイトの女子に囲まれて質問攻めに遭っていたからだ。
そんなに一遍に話しかけられても答えられないよ……! わたし、聖徳太子じゃないんだから……!!
いつもなら教室に入った時に「おはよう」って挨拶するくらいで、特に交流がある友達意外とはそれ以降あまり話さないのに……。
だから今みたいな状況は反応に困ってしまう……。
「――おい、なんか普川かわいくね?」
「なんかイメージ変わったな」
「やばい、俺、タイプかも……」
「垢抜けたな」
「今まで影が薄くて気づかなかったけど、普川ってあんなに美人だったんだ」
「俺は新改より普川のほうが好みだな」
遠巻きに見てくる――教室内にいるから実際はそんなに離れていない――男子たちの声も聞こえてくる。
女子たちに詰め寄られて質問攻めに遭うのと、男子たちに遠巻きに見られながら話の種にされること、どちらのほうがマシかと問われたら前者と答える。
でも多少はマシというだけであって、正直どちらも勘弁願いたい。
だって、変わりたいとは思っていたけれど、別に注目を浴びたかったわけではないから。
なにより慣れない状況にむず痒くて居た堪れなくなってくる。
というか、あれこれ考えていないで早くなにか言わないとみんなを困らせてしまう。下手したら無視していると思われてしまうかもしれない。
それはまずい。
もしみんなを不快な気分にさせてしまったら、クラス内での立場が悪くなってしまう恐れがある。
今まで積み上げてきた可もなく不可もなく、利もなければ害もない、そんな〝普通〟のクラスメイトの立場を失ってしまうかもしれない。
――変わりたいと言っておきながら、わたしは未だに〝普通〟に囚われているみたい……。
染み付いた価値観はそう簡単に消えるものじゃないのはわかっているけれど、なかなかの根深さに胸中で思わず苦笑いしてしまう。
今のわたしは、もしかしたら変化を恐れてマイナス思考になっているのかもしれない。
「――そんなに一遍に話しかけたら普川さん困っちゃうよ」
対応に困ってあたふたしていると、横合いから声がかかった。
半ば途方に暮れていたわたしは、救世主の登場に安堵して教室の入口に顔を向ける。
するとそこには、ちょうど教室に入って来た新改さんの姿があった。
「ほら、もうチャイム鳴るよ」
そう言いながら新改さんはわたしの席のほうへ歩いてくる。
みんなと一緒に教室の時計へ視線を向けると、新改さんの言う通り、後一分くらいでチャイムが鳴る頃合いだった。
「――やば」
誰かが漏らしたその言葉が合図となって、わたしに群がっていた子たちは慌てて自分の席に戻るなり、鞄をロッカーにしまいに行くなり、忙しなく動き出した。
その様子をみんなから解放されて気が緩んだ状態で眺めていたわたしは、心の底からの感謝を込めて「ありがとう、助かった」と、そばに立つ新改さんに告げた。
すると新改さんは、「どういたしまして」と言いながらウインクを飛ばしてきた。
相変わらずの可憐な笑顔とウインクが神々しくて讃美歌を送りたくなってくる。
「普川さん、放課後、教室で待ってて」
アホなことを考えていたわたしの意識を現実に引き戻すかのように、新改さんが耳元で囁いてきた。
どことなく色っぽさがある囁きにゾクッとしたわたしは、反射的に無言で頷く。
わたしが了承したのを確認した新改さんは、「それじゃ、また後でね」と言葉を残すと、自分の席に向かって歩を進めた。
――新改さん、遅刻ギリギリの登校だったね……。
新改さんの背中を眺めながらそんなどうでもいいことを思っていると、ホームルームの開始を知らせるチャイムが鳴った。
それと同時に――
「――おはようございます」
担任の先生が教室に姿を現した。
◇ ◇ ◇
窓から差し込む夕陽が室内を茜色に染め上げる中、わたしはほかに誰もいない教室で黄昏ていた。
昨日までの自分と、今日の自分は外見しか違いがない。
突然いつもと異なる見た目になっていたらクラスメイトが驚くのは無理もない。わたしだって同じ立場だったら驚いていたと思う。
最初はクラスメイトの反応に圧倒されて辟易してしまったけれど、いま思うと少し滑稽でもあった。
だって、少し身形を変えただけで今までと全然違う反応をするんだよ?
もちろん、自分の勘違いじゃなければ、わたしは嫌われていたわけでも、煙たがられていたわけでもないから、みんなはいつも一クラスメイトとして接してくれていた。
とはいえ、わたしはクラスの中心にいるような人気者ではないので、今日みたいにみんなに囲まれるのは普段ならありえないことだ。
晴れている日の日中は眩しくて鬱陶しく感じる太陽も、夕方になると街並みを夕焼けに染めて美しく彩ってくれる。
それと同じように、人もなにかを変えると様々な面を見せることができるのかもしれない。外見であれ、内面であれ、なにかきっかけさえあれば――。
そう思うと、もしかしたらわたしが考えている以上に変化することの力って大きいのかもしれない。
一人で勝手に納得していると、廊下のほうからすたすたと足早に歩く音が聞こえてきた。
耳を傾けると、わたしがいる教室の入口で足音が止まった。
「――ごめん、ごめん。また待たせちゃった」
その言葉と共に教室の扉を開いたのは、待ち人の新改さんだった。
「なんかいつも待たせてる気がするよ……」
申し訳なさそうに空笑いする新改さんは頭を掻く。
「大丈夫だよ」
いつもって言っても、待ったのは昨日と今日の二回だけなんだけどね。
だからそんなに気にしなくてもいいよ。
それに新改さんは少し呼吸が乱れているから、きっと急いで来てくれたんだろうしね。
「なら良かった。ありがとう」
笑みを零しながらそう言った新改さんは深呼吸して乱れた息を整えると、わたしの右隣の席に腰を下ろした。
そして口元をニヤつかせながら口を開く。
「それにしても普川さん、今日は注目の的だったね」
「そうだね……。注目を浴びたかったわけじゃないから、ちょっと困っちゃった」
「はは、そうだろうね。でも、注目を浴びるのは今だけだと思うから安心して」
それはどういうことだろう?
注目を浴びずに済むのはありがたいけれど、なんで今だけなの?
「人って物事の変化には敏感だけど、すぐに慣れる生き物だから、普川さんが今の姿のまま過ごしてたらクラスのみんなもそのうち気にしなくなるよ」
なるほど……。
確かにその通りかもしれない。
わたしも家の近所に新しいお店ができたら目新しくて足を運んでみることがある。
でも、それもすぐに慣れて当たり前の日常となり、特別気にすることはなくなってしまう。
だから新改さんの言葉にはすんなりと納得できた。
「良かった……。安心した」
一時的なものだとわかって安堵したわたしはホッと息を吐く。
「やっぱり、私の見立ては正しかったってことかな」
そう言って胸を張る新改さん。
「そうだね。わたしもここまでみんなの反応が変わると思わなかったから驚いたよ」
「普川さんは素材がいいから、見せ方を少し工夫するだけで化けるんだよね」
「――そ、そんなことないよ」
新改さんは昨日からわたしの容姿を褒めてくれている。
だけれど、わたしはかわいくないし、美人でもない。
素材がいいのは新改さんのような人のことを言うんだよ。
誰もが美少女と認めるような人なんだから。
そう思ったわたしは、反射的に首を左右に振って否定していた。
「謙遜することないよ。実際、私より普川さんのほうが男ウケはいいだろうし」
「それこそありえないよ」
なに言っているの?
わたしが新改さんより人気なわけないのに……。
「いやいや、ありえるんだって」
真面目な顔で見つめてくる新改さんに、わたしは首を左右に振りながら「いやいやいや」と返す。
すると――
「いやいやいや」
新改さんもまったく同じ反応を返してきた。
「普川さんって自己評価低いよね……」
呆れたように肩を竦める新改さんだったけれど、「いや、まあ、そうならざるを得なかったのか……」と呟いて表情を改めた。
「自覚はないかもしれないけど、普川さんって男ウケがいい要素が揃ってるんだよね」
「……そうなの?」
まったく自覚がないわたしは疑問しか湧いて来ず、無意識に首を傾げた。
「うん。私と違って普川さんは清楚で落ち着いているイメージがあるからね。しかも私より肉づきがいいという付加価値があるから、好みっていう男は多いと思うよ」
そういうものなのかな……?
清楚っていうのはピンと来ないけれど、落ち着いているっていうのは目立たないように気をつけていたのが、周りからはそう見えていたのかもしれない。
そもそも男の子は清楚な子が好きなのかな?
わたしだったら新改さんみたいな子に憧れるけれど……。
まあ、それはともかくとして、肉づきがいいっていうのはちょっと複雑なんですけど……。
わたしは新改さんみたいに無駄な脂肪が一切ないスレンダーな肢体に憧れているから――。
「――あ、太ってるって意味じゃないよ? 普川さんはスラっとしてるしね」
わたしの不満が伝わったのか、新改さんは慌ててそう口にする。
「男って細い子より、少し弾力がある子のほうが好きなんだよね。もちろん、好みは人それぞれだから全員に当てはまるわけじゃないけど」
そういうものなんだ……。
女としては細い子に憧れるのだけれど、男性とは真逆の感性なんだね……。
「妖艶、セクシーって言ったほうがわかりやすいかな」
あぁ~、それならちょっとわかるかも。
「細い子より、ちょうど良く肉づきいい子のほうがセクシーに見えるんだよ」
時々、テレビに映るグラビアアイドルを観たら女のわたしでもセクシーだと思うことがある。
その感覚は男性のほうが強いのかも? だから余計に肉づきのいい女性が魅力的に映るのかもしれない。
「でも、そういう目で見られるのはちょっと……」
「まあ、普川さんはそうだろうね」
「……新改さんは違うの?」
「相手によるかな。好きな人にそういう風に思われるのは、女として見られてるんだなって嬉しくなるし、自信にもなるから」
「そういうものなんだ……。わたし、好きな人いたことないからわからないや」
「まあ、私も今は好きな人いないんだけどね」
肩を竦めた新改さんは、一息吐いた後に「話を戻すね」と口にした。
「私が普川さんの魅力がより引き立つように外見を演出したから、男ウケが良くなったんだよ」
どういう意図があってそうしたのかはわからない。
でも、きっと新改さんなりの考えがあってのことだと思う。
「女は裏でなにを考えてるかわからないけど、男は素直で単純だから反応がわかりやすいんだよ。特に女が絡むとね」
裏があるっていうのはわたしと新改さん自身も含まれているのかな……?
まあ、でも、いじめられていた過去がある新改さんのことだから実体験の上で、女には裏がある、と身に染みているのかもしれない。
「だから男が反応するように魅力を引き立てたら、普川さん自身が変化を実感できるんじゃないかな、って思ったんだ」
なるほど……。
そういう意図があったんだ……。
「もし男子の反応が嫌なら、元に戻すなり、別の工夫をするなりして、また変えればいいだけだからね。大事なのは変化を恐れないことだから」
変化を恐れない――か。
確かにわたしは〝普通〟に固執して変化を恐れていた。
お母さんの顔色を窺っていたのもあるけれど、単純に元の自分とは違う別の自分になるイメージが湧かなかった。だからこそ怖かったのもある。
でも、いざ一歩踏み出してみたら思っていたよりも怖くなかった。
新改さんが味方でいてくれたからというのもあるかもしれない。
わたし一人だったら絶対に今も足踏みしていたはずだから――。
「とは言っても、変わるのってそんな簡単な話じゃないんだけどね」
そう言って溜息を吐く新改さんの表情には苦労が滲み出ている。
新改さんは自分の力で変わったんだもんね。わたしとは違って。
彼女ほど変わることの大変さを理解している人はそうそういないんじゃないかな。
だからこそ新改さんの言葉には説得力がある。
「一度沼に嵌まると変わろうという発想すら湧かなくなってしまうもんね……」
「そうなったら誰かに引っ張り上げてもらわないと抜けられないね」
わたしの言葉に深く頷いた新改さんは――
「私も綾ちゃんが受け入れてくれなかったら、今頃どうなっていたかわからないし……」
と、なんとも形容しがたい複雑な表情で続けた。
過去に思いを馳せているのか、変われたことに安堵しているのか、叔母さんに感謝しているのか、或いは全部なのか――。
新改さんの感情を完璧に読み取ることはできないけれど、これだけはわかる。――負の感情ではないと。
だって、新改さんの顔にも滲み出る雰囲気にも物悲しさがないから。――まあ、わたしの見当違いの可能性もあるけれど……。
「――それはそうと、普川さん、ちょっと立ってくれない?」
唐突にそう口にする新改さん。
脈絡のない突然の出来事にわたしは目を瞬いてしまう。
「わ、わかった」
それでもなんとか平静を保ったわたしは、一拍ほど遅れてから席を立った。
「う~ん」
新改さんは鼻を鳴らしながら、わたしの頭からつま先まで目を這わせる。
「し、新改さん?」
隅々まで見られるのが気恥ずかしくて身を縮こまらせてしまう。
「やっぱり……いいね」
「な、なにが?」
ポツリと呟いた新改さんに、わたしは首を傾げながら言葉の意味を尋ねる。
「いや、私のスタイリングは正しかったなって思ってさ」
「それはどういう……?」
返って来た言葉の意味がわからなかったわたしは、無意識に反対方向に首を傾げてしまう。
「普川さん――」
新改さんはそこで言葉を溜めると――
「最っ高にかわいいよ!!」
満面の笑みで高らかにそう口にした。
「――え」
「特にこの絶対領域がえっちで堪らないんだよね!」
新改さんは戸惑うわたしを無視して膝立ちになる。
そして、両手をわたしの太股に伸ばすと愛撫し始めた。
「このすべすべした肌と弾力が癖になる~」
まさかの行動に呆気に取られていると、今度は太股に頬擦りし始めた。
「――ちょ、ちょっと新改さん」
そう声をかけてもまったく聞こえていないのか、新改さんはわたしの両脚の間に顔を押し込んだ。
顔が太腿に挟まれる形になり、グリグリと感触を堪能している。
頭頂部がスカートに侵入しているけれど、新改さんは夢中になっているのかまったく気づいていない。
「――新改さん!!」
さすがに度が過ぎていると思ったわたしは、痛くならないように気をつけながら強めに新改さんの肩を揺すった。
すると――
「――ハッ!」
すぐに我に返って顔を離してくれた。
「……ごめん。誘惑に抗えなかった……」
恥ずかしそうに顔を逸らす新改さん。
夕陽に照らされているせいか、恥ずかしさからなのかわからないけれど、赤面させていた。
その表情を見たらなぜかおかしくなってしまったわたしは、つい吹き出してしまう。
「――ぷふっ、新改さんの意外な一面を見ちゃったよ」
「わ、忘れて……」
新改さんは恥ずかしさを誤魔化すように頬を掻く。
「でも、それだけ今の普川さんは魅力的ってことだよ」
「少なくとも新改さんの性癖にどストライクってことはわかったよ」
「ぐふっ……」
恥ずかしさに悶える新改さんは、弱々しい口調で「か、揶揄わないで……」と漏らす。
普段は見られない彼女の姿がかわいくて頬が緩んでしまう。
赤く染まった表情がかわいい上に色っぽいって反則では?
「ふ~」
新改さんは深呼吸して心を落ち着かせる。
「……ごめん。正気を失っちゃったけど、話を戻すね」
「う、うん」
表情が元に戻った新改さんは椅子に座り直す。
思いの外切り替えが早くてちょっとビックリしてしまった。
「イメチェンした普川さんの一番のポイントはここなんだよ……!!」
ビシッとわたしの太股も指差す新改さん。
「私と違って普川さんの太股は肉づきがいいから、スカートを短くしてニーハイを穿くことで絶対領域を作ってもらったけど、やっぱり効果抜群だったね!」
胸を張って声高に言う新改さんは――
「女の私が正気を失うくらいだから、男からしたらもっと堪らないんじゃないかな」
と訳知り顔で続ける。
チラリと見下ろすように新改さんの胸元に視線を向けると、組んだ腕に胸が乗っていた。
ブラウスの胸元を少しはだけさせているから母性の象徴があらわになっている。多分、そういうところのほうが男の子は好きなんじゃないかな……。
「特に普川さんはニーハイの上に太股の肉が乗っかるから、余計に魅力的なんだよね。所謂、むっちり太股ってやつ」
む、むっちり……。
褒め言葉なんだろうけれど、素直に喜べない……。
「わたしは新改さんみたいにスレンダーな脚が羨ましいな……」
太い太股は少しコンプレックスだから、新改さんみたいな無駄な脂肪が一切ない細い脚に憧れる。
「私は普川さんが羨ましいけど、確かに細い脚のほうが女ウケはいいだろうね」
そう言って苦笑する新改さんは、「隣の芝生は青く見えるってやつだね」と続けた。
「それに普川さんの太股は太すぎるってわけじゃないよ? 魅力を損なわずに最大限美しく見える絶妙なむっちり具合なんだよ。まさに芸術品とも言える」
腕を組みながら「うんうん」と頷く新改さん。
「そ、そんなに力説されるとは……」
若干気圧され気味のわたしは言葉が詰まってしまう。
「だって私が理想とする美脚なんだもん!」
「美脚なのは新改さんのほうだよ」
「いやいやいや」
「いやいやいや」
お互いに引かないせいで、今日二度目のいやいや合戦を繰り広げてしまう。
「しかもこんなにスカート短くしたことないから恥ずかしさ倍増だよ」
コンプレックスの太股を晒すだけでも恥ずかしいのに、短いスカートのせいで余計に羞恥心を刺激されてしまう。
今まで制服のスカートは膝が隠れるくらいの長さにしていたから、いつも以上にスース―するし、なんか落ち着かない。
「それはそのうち慣れるって」
「新改さんに言われるとなにも言い返せないね……」
軽い調子で言う新改さんのスカートはかなり短い。
わたしでもだいぶ短いほうなのに、それよりもさらに短いのだ。
それこそ下手をしたら下着が見えてしまうのではないかと心配になるほどである。
だからこそ、既に慣れている側の新改さんにはなにも言い返せなかった。
「あと、ブラウスの第一釦を外した状態でリボンを付けるのもポイントだね」
今まではボタンを留めていたけれど、今日は違う。
「そのほうが普川さんの大きなおっぱいが見えそうで見えなくてそそられるし、きっちりしすぎないほうが接しやすい印象を周囲に与えることができるから」
前半部分は聞こえなかったことにして、後半部分は一理あると思った。
見た目が真面目そうだと堅苦しいイメージがあるから、なんとなく緊張してしまう。
逆に派手すぎると怖かったり、気後れしたりする。
だからその中間を狙えばちょうどいいバランスを保てるというわけだね。
「ついでにカーディガンを着て、たまに萌袖をすれば小悪魔感もあって完璧ってわけ」
寒い日はカーディガンを着ることもある。
でも、ファッションという意味で着たのは今日が初めてだ。
「でも、あまり小悪魔感を出しすぎると女ウケが悪くなってしまうけどね。だから、男女ともにウケが悪くないスタイリングを心掛けたんだ」
へ、へぇ~。
新改さん、そこまで考えていたんだ……。
なんか凄いな……。
素直に感心する。
「髪は万が一、家でお母さんに見られても大丈夫なようにボブディにしたけど、普川さんに似合ってるからピッタリだったね。今の制服の着方にも合ってるし」
「今までは特に理由もなくナチュラルミディにしていたから、なんか新鮮だよ」
「ナチュラルミディは清潔感があって軽やかだから、年齢関係なく挑戦できるのがいいよね」
今までは変じゃなければなんでもいいや、の精神だったから特に拘りはなかった。
だからとりあえず、お母さんの真似をしていた。
「髪が伸びたら、また違うスタイルを試してみるのもいいかもね。ドリーミーウェーブとか似合いそうだし」
「それはまたその時に考えるよ」
気が早い話にわたしは苦笑してしまう。
正直、新しい髪型に挑戦してみた今となっては、また別のスタイルにも興味が湧いている。
でも、それはまだ先の話。
「時が来たら新改さんに相談するよ」
「うん、任せて!」
嬉しそうにニカッと笑ってサムズアップする新改さん。
もしかしてなんだけれど、新改さん、わたしのことを着せ替え人形かなにかだと思っていない……? ――まあ、実際にそうだったとしても助かるから全然構わないのだけれども。
胸中で苦笑したわたしは、新改さんと向かい合った状態のまま椅子に腰を下ろした。
「それに合わせてメイクも変えないといけないかもね」
「今回は結局変えなかったもんね」
「清楚な印象を崩さないほうがいいだろうし、普川さんは今のままでも充分かわいいから変える必要がないと思ったんだよね」
メイクに関しては、最低限勉強している。
でも自分のことを客観視できていないからなのか、知識が足りていないからなのかわからないけれど、正直、どんなメイクが自分に合うのかわからないんだよね……。
だから当分は新改さんの言う通りにしようと思っている。
もちろん、今後も勉強は続けていくから、いつかは自分一人で考えたり決められたりできるようになるつもりです。
こうやって前向きに物事を考えられるようになったところが、多少なりとも変われた証拠なのかもしれない。
「身形を変えただけだけれど、なんか心が軽くなった気がするよ」
「それは多分、お母さんの言いつけから解放されたってことじゃないかな」
そうかもしれない……。
今までお母さんの言いつけに逆らったことは一度もなかった。
だから今回初めて変わろうとしたことで、もしかしたら自分を縛り付けていた〝普通〟という呪縛に罅を入れることができたのかもしれない。
心が軽くなったのは、その証拠かな?
「正直、周りの反応を気にしたってなんも意味ないんだよね」
そうは言っても新改さん、わたしの場合は癖みたいなものだから、なかなか染み付いてしまった習慣は抜けないんですよ……。
なんたって一番心を許せるはずの、お母さんの顔色を窺いながらいつも生活しているくらいだから……。
「だって、どうでもいい人になにをどう思われようが、心底どうでも良くない?」
「わ、わたしはそこまで割り切れないかな……」
「まあ、どうしても気になっちゃう気持ちはわかるけど、自分の好きな人や、好かれたいと思ってる人のことだけ大切にすればいいと思うんだよね」
なんと言えばいいのか、達観しているというか、悟っているというか、凄く極端な考え方だね……。
いや、もしかしたら新改さんの場合は諦めていると言ったほうが正しいのかな……?
なんとなく彼女の感情が抜け落ちた表情から、諦念のようなものを感じ取ってしまった。
もしかしたらいじめられていた経験から、人間関係については始めから諦めるようになってしまったのかもしれない。
思い返せば、新改さんは誰とでも分け隔てなく接しているけれど、どことなく広く浅く交流している節がある。
もちろん、特に仲の良い人とは親密にしている。
でも、自分のパーソナルスペースに入れている人以外は、あまり深入りしないようにしている気がする。
もしもの時は切り捨てても構わないと示しているかのように――。
そんな彼女が特に親しくもないわたしに深入りしたのは、本当に珍しいことだと思う。
昨日、似た境遇に自分を重ねて放っておけなかったって言っていたのは、わたしが思っていた以上の重みがあったのかもしれない。
きっと新改さんは勇気を振り絞ってわたしに手を差し伸べてくれたんだ。
「だから周りを気にして萎縮しないで、自分の個性を貫いて好きなように生きるべきなんだよ。人生は一度きりなんだから、楽しんだ者勝ちだと思うんだ」
そう言って微笑む新改さんを陽光が包む。
「もちろん、人に迷惑をかけない範囲でだけどね」
一層笑みを深める彼女は夕陽に照らされているからか、光り輝いて見える。――幻想的とも思えるほどに。
幻覚かもしれないけれど、それくらい美しい光景だった。
「というわけで、普川さんも私と一緒に彩りに満ちた高校生活を送ろうよ。一歩ずつでいいからさ」
新改さんのお陰でわたしも少しは彩づくことができたのかな?
少なくとも透明人間ではなくなったよね?
色味が付いて無彩色ではなくなったよね?
――ううん、もう後ろ向きな考え方はやめよう。
こんなわたしでも、少しは彩づくができたんだ。
新改さんが言っていた通り、身形を変えることで内面に影響を与えることができた。
だから今度はもっと内面を変えていきたい。
少しでも自分のことが好きになれるように――。
そのためには呪縛を完全に解かなくてはいけない。
これからも新改さんに助けてもらうことがあるかもしれないけれど、今後はできる限り自分の意思で、自分の責任でより鮮やかな色を付けていこう。
それが自信にも繋がるはずだから――。
そう決意したわたしは、新改さんの目をしっかりと見つめながら、力強く「うん」と頷いた。
一度きりの人生を彩りに満ちたものにするために――。
ありがとう、新改さん――。
本当に、ありがとう――。