鳳蝶(アゲハ)さまは身体の弱い人でした。まだ二十代半ばと若くありながら心臓が悪く、日常生活は誰かが付き添わなければままならない程に辛そうでした。
 鳳蝶(アゲハ)さまは前田くんの父親が勤務する病院に月に三度の通院をし、食事と軽い散歩以外はベッドの上で過ごします。部屋の蝶たちを眺めて、時折何かを思い出すように遠くを見つめ、そして眠る。
 そんな日常を繰り返す中で鳳蝶(アゲハ)さまの話し相手になることが増えた私は、いつの間にか散歩で車椅子を押すことを任され、通院の付き添いを任され、遂にはそのお顔を拝見できるまでの立場に昇格します。
 五年——私は約五年間で幼虫から(さなぎ)を乗り越え、叶韻蝶会(きょういんちょうかい)という組織では前田くんと同じ幹部となりました。
 
 私は組織の枠組みの中で自分の立場を見つけることが得意でした。少年院で培った礼儀と根気。耐え忍ぶ心、そして忠誠。少年院で過ごした約三年間、刑務官という絶対的存在は私の道標でした。
 それは叶韻蝶会(きょういんちょうかい)でも同じことが言えました。私にとって叶韻蝶会(きょういんちょうかい)は少年院と同じ、従うべき(おさ)のいる心地のよい居場所だったのです。
 
 
 平成二十九年 五月二日
 私はいつものように通院から帰り、鳳蝶(アゲハ)さまをベッドに寝かせてから部屋を出ると、螺旋階段を降りたすぐそこに前田くんが立っているのが見えました。
 
『ねえ、ちょっといいかな』
 
 前田くんはいつもの白いカッターシャツにアーガイル柄のカーディガン、ベージュのチノパンとなんだか軽いコーディネートです。実のところ、私のファッション知識は前田くんから得たものが全てだと言っても過言ではありません。
 
『どうしたの。なんだか嬉しそうだね』
 
 私が言えば、前田くんは声を落とすようにジェスチャーしたあと顔を寄せてきました。
 
『合コンだよ、合コン。女子大生と二対二のさ』
『女子大生……』
『浅倉くん合コンとか行ったことないでしょ? 僕がいろいろご教示してあげるから一緒に行かない? もちろん食事代は全部僕が持つし、焼肉だよ?』
 
 ご教示してあげる、とはなんとも変な日本語で、相変わらず少しモヤッとする言い回しではあったけれど、確かに私は合コンには一度も行ったことがなく興味がありました。
 
『うん。いいよ』
『よかった。実は一緒に行くはずだったやつに断られちゃってさ。女の子は二人で来るし、困っていたんだ』
 
 前田くんはキャメル色のリュックからスマホを取り出すと、SNSのアプリを立ち上げて画面を私に見せます。
 
『今日来るのはこのユリって子と、それからこっちのリリって子。二人とも十九歳。僕はユリちゃんといい感じだから、浅倉くんはリリちゃんの相手をお願いね。そうそう、合コンでは僕のことはキヨって呼ぶように頼むよ。僕も浅倉くんのことはジュンって呼ぶから』
 
 前田くんのスマホの画面に映し出されていたのは簡単なプロフィール文と、目元だけがわかるようにポーズを取ったユリって子の顔写真。リリという子に至っては、何かのキャラクターの女の子をアイコンに設定しているようで顔は分かりません。
 
『……前田くんは元々、この子達と知り合いなんだよね』
『もちろん。ユリちゃんとはDMでやり取りして二ヶ月くらい経つし、リリちゃんはユリちゃんの一番仲の良い相互だから』
『相互?』
『お互いをフォローし合っているってこと。僕はユリちゃんと二人きりでもいい、って言ったんだけど、ユリちゃんが浅倉くんに会いたいっていうから』
『え、ユリって子は僕のこと知ってるの?』
『え? ああ……なんとなく話の流れで、きみのことを喋ったことがあってさ』
 
 たぶん。前田くんは自分のことを私を救ったヒーローかなんかだと思っている節があって、おそらく周りにもそのように風潮していることが予想されました。今回も女の子たちにはそういった類で話をしたのでしょう。
 顔も知らない、素性も知らない、そんな男女が待ち合わせて出会う。私はそれを出会い系サイトだと揶揄しましたが、前田くんは頑なに否定しました。
 
『ほら、これはあくまで異業種交流会だから。ちなみに僕は医者、きみは介護ヘルパーってことになってる』
『前田くん、確かお父さんの病院では事務員やってるって』
『事務()ね。それでも病院で働いていることに変わりはないし、きみだって肩書きがあった方が喋りやすいでしょ』
『それは別に名刺を渡せば』
『あ、ダメダメ! 叶韻蝶会(きょういんちょうかい)のことは絶対に秘密にして! カルト宗教なんて、絶対敬遠されるに決まってるじゃん。とにかく今日の十八時。場所は後でメッセージ入れとくから』
 
 そういうと、前田くんは軽い足取りで出て行ってしまいました。
 この頃の前田くんは私と再開した時の雰囲気とは随分かけ離れていて、崇拝しているはずの鳳蝶(アゲハ)さまのことも怪しいとか信用できないとか、心が冷めてしまっているように私には感じていました。私を叶韻蝶会(きょういんちょうかい)へと導いたのは前田くんなのに、私が幹部に昇格すると途端に肩を並べた気になったのか、内部のあれやこれやを打ち明けるようにもなります。私は正直、そんな話は聞きたくありませんでした。