カステラは最後の晩餐にはならなかった。
 そんなことを、僕はスーパーの棚にカステラを陳列しながら考える。
 
川田(・・)くん、そろそろ上がっていいわよ」
 
 そう声をかけられ時計を見れば、退勤時刻の十六時を八分過ぎていた。
 
「まだ品出しが終わっていなくて」
「夕勤の人に引き継いでくれればいいから」
「でも」
 
 僕が名残惜しそうに棚を見れば、店長は察したように何かを差し出した。

「はい、これ。どうぞ」
 
 見れば、店長の手には箱に入ったチョコレート。
 
「川田くん仕事ぶりもいいし、いつもシフト調整に協力してくれて助かってんのよ、だからこれ」
「あ、えっと」
「あれ。甘いもの好きじゃない? 和菓子コーナーによく目を止めているから、てっきり」
「いえ、好きです。甘いもの」
「そう? ならどうぞ。って言っても、昨日の売れ残りで半額シール貼る前のやつだけどね」
 
 店長は無理矢理僕の手に箱を握らせると、お疲れ様、と告げて去っていった。
 見れば、箱の中には六粒の異なるチョコが可愛らしく収められている。
 今日は二月十五日。僕の死刑が執行(・・・・・)された日から、間も無く一年が経過しようとしていた。


 
 僕は名を浅倉潤から川田純へと変えた。手続きは全て片桐さんが手配してくれて、ありがたいことに住む場所も職も手にできている。
 特に趣味もなく、日の出来事を語らう友もなく。僕は職場であるスーパーと家とを、ただただ往復する日常をこなしていた。
 
 スーパーから自宅への帰路の途中には、二百メートルほどの土手がある。その土手を歩いているときは、どうしてもゆかりちゃんのことを考えてしまう自分がいた。記憶の中のゆかりちゃんの顔はくしゃくしゃに歪んで、どうしよう、と僕に助けを求める。
 
 考えてみると、僕の人生はいつも他があってこそのものだった。自分のことを考えるより、人がどう感じるか、どうしたら感謝されるかの方がよっぽど気になって、純粋な善を見失っていたように思う。
 
 
 “ねえ、やっぱり変えない? 暗証番号”
 “どうして?”
 “これじゃあ清玄くんが拗ねちゃうよ、自分は除け者だって。だからさ、番号は潤くんと清玄くんのコードを合わせた98961502。これでどう?”
 
 
 一歩ずつ地面を踏みしめながら、僕は陽の傾き始めた空をぼうっと眺めた。
 ゆかりちゃんはずっと僕に感謝しているのだと思っていたが、違った。前田くんも鳳蝶さまも特に僕を必要としていたわけではなく、たまたま都合のよい時に手軽に扱える存在が僕だった、それだけのことだ。
 
 去年の二月二十九日。タイムリミットが尽きた教誨室で、宗胤は僕に礼を言った。
 同時に、僕には新たな人生が用意されていることと、その上で忘れてはならない一言を告げられる。
 
 “浅倉潤。あなたは、罪人だ”
 
 宗胤は自身では名を明かさなかったが、その後連れて行かれた叶韻蝶会(きょういんちょうかい)で目黒という名の刑事だとわかった。全ては仕組まれたシナリオで、僕があの三時間で必死に守ろうとしていたものは、始まる前から既になくなっていたことを知る。


 
 いつもならまっすぐ家に帰るところを、今日は土手の中ほどまで降りて腰を下ろした。目の前の淀んだ川が、西陽に照らされてそれなりに煌めく。

 僕は店長にもらったチョコレートの箱を鞄から取り出して、無造作に包みを剥いだ。赤色や黄色、それから瑠璃色のコーティングを施されたハートのチョコが、仕切られたスペースにちょこんと並ぶ。
 ひとつ。赤色のチョコを摘んで口に含めば、想像した通りのあまい香りが鼻に抜けた。未だ僕にまとわりついて離れない過去のように、口内を不快に流れ這う。
 その匂いは、あの鳳蝶さまの香水のようにむせ返るほど気怠く、羽を軋ませながら無様に飛ぶ蝶を幻想させて。僕は思わず、湿った草の上に背中から倒れた。

 「ゆかり……」
 
 手を伸ばし、空を見る。
 幻想の中現れた大紫蝶(オオムラサキ)が、群青の空に横切る琥珀の上をいつまでもぎこちなく飛んでいる。そんな気がしてならなかった。