『ここが、今日からきみが世話になる教琳寺院だ。彼はここの僧侶で、名を宗胤(しゅういん)という。挨拶しなさい』
 
 身体中に包帯を巻きつけた私は、車椅子に座りながら紹介された男を見上げた。
 強面(こわもて)で大きな身体のその男は、暑い時期だというのに作務衣(さむい)の下にハイネックシャツを着込み、僧侶というよりヤクザに近い風貌だった。
 
『宗胤です。どうぞよろしく』
『あの、私』
『大丈夫。記憶を失っているのですよね。話は大体伺っています。今日からあなたの名は静嘉(じょうか)。静かな(しあわせ)と書いて、静嘉と読みます』
『じょう、か』
『寺には尼も数人おります。身体が自由に動かせるようになるまでは、彼女たちを頼るとよいでしょう。まずは全身の火傷の痛みの緩和と、ここでの生活に慣れることに専念して参りましょう』
 
 そう言って優しく微笑んだ宗胤は、それ以降も私に対して笑顔を向け続けた。いつも私を気にかけて傍に寄るが、特段干渉してくるわけでもなく適度な距離で見守ってくれる。

 そうして半年も経つと寺での生活にも慣れ、私は毎朝の清掃や読経にも参加できるようにまで身体を回復させていた。
 そんなある日、宗胤は私に告げる。
 
『移植?』
『ええ。損傷のない背中や臀部(でんぶ)の表皮細胞を人工的に培養し、火傷の激しい胸元から首にかけて移植する手術です。受けてみませんか』
『でも、手術には大金が必要なんじゃ』
『お金の心配は要りません。ご紹介する大学病院にも専門医が揃っているようですし、静嘉さんの気持ちを一番に考えてくださればそれで結構ですよ』
 
 私は鏡を見ながら考える。
 記憶を失った私は、鏡を見ても自分の顔面に違和感を覚えることはなかったけれど、やはり火傷で爛れた皮膚は見栄えが悪かった。これが少しでも良くなるのなら、手術を受けてみたい。考える時間はそう必要なかった。
 それにしても、どうして宗胤はこれほどまでに私によくしてくれるのだろう。この教琳寺院が私のような境遇の人間を世話していたという前例はないし、私にはそれがずっと疑問だった。
 
 
『ずいぶん見違えました。素敵です』
 手術後、宗胤はそう言って私を誉めた。
 
『こら。お行儀が悪いですよ、静嘉』
 時には父のように私を叱って。
 
『お誕生日、おめでとうございます』
 プレゼントを手にそう言って笑う宗胤のことを、私はいつからか大好きになる。
 
 
 そうして六年。私はこの寺で二十五歳を迎えた。記憶は相変わらず戻らないけれど、別に構わなかった。私は今の生活が好きだし、大学病院で知り合った女性から小さなアルバイトを紹介してもらったりして、少しずつだけど社会に馴染めている実感も持てていた。
 このまま寺のみんなと、何より宗胤と、穏やかな日常を過ごしていきたい。そう思っていた矢先。
 別れは、突然やってくる。
 
 
『宗胤……?』

 寺の広間に横たわる宗胤を最初に発見したのは私だった。本当に、眠るように穏やかな顔で微笑む宗胤だったが、その唇は青紫に変色し、口の端から垂れた唾液の筋を一目見て死んでいるのだと気づく。頬に触れれば、気のせいか仄かにまだ熱を感じた。
 起きて、そう声を掛けながら捲った掛け布団の下は血の海で。涙を堪えて現実を拒否した私は、頬に、首に、肩に、知らぬ間に唇を押し付けていた。自分でもなにがしたいのか分からなかった。でも、止められないのだ。
 そうしているうちにふと、枕の下に手紙が挟まっていることに気がついた。
 
 
 静嘉、すまない。そう始まったその手紙には、過去に宗胤が暴力団に潜り込む任務を与えられた警察官であったこと、その権限を使ってとあるHLA型の適合者を調べ、その適合者を教琳寺院と繋がりのある叶韻蝶会(きょういんちょうかい)という組織に紹介したことが書いてあった。
 読み始めてすぐは、なぜこの手紙が私への謝罪で始まるのかが理解できなかった。でも読み進めるうちに、宗胤が紹介した適合者の骨髄がその叶韻蝶会(きょういんちょうかい)の蝶子なる人物に移植されたこと、その蝶子が私を殺そうとした前田清玄と共謀し、私の手首を切り落とした犯人であることが書かれていたあたりで、私の頭を衝撃が突き抜ける。
 
 ——思い出したのだ。あの日の、全てを。
 
 私は切り離された宗胤の右手を持って寺を飛び出した。行く当てはなかった。でも、じっとしてもいられなかった。
 もう寺には帰れない。昨日まで願ってやまなかった穏やかな日常は、もうない。
 
 コートを羽織り、その懐に入れた宗胤の手を守るように身体を丸めて。気がつけば私は、皮膚移植を行った大学病院の入院病棟へとまっすぐに向かっていた。
 ここには、私にアルバイトを紹介してくれた女性が入院している。女性はその付き人に、私を“黒箱莉里”だと偽って紹介し、その付き人は病弱な彼女の代わりに“四代目鳳蝶(アゲハ)”という役割をある施設で務めてほしいと私に依頼してきた。
 
 女性の名は樋井蝶子。
 付人の名は前田清玄。
 施設の名は叶韻蝶会(きょういんちょうかい)
 全て宗胤の手紙に書かれていた名だった。
 
 許せない。絶対に。
 私は怒りと憎しみで震えた手を、蝶子の病室の引き戸へと掛ける。
 
『……殺してやる』
『待ってください』
 
 背後から声を掛けられ、私は条件反射で振り向く。そこには蝶子によく似た女性が、凛とした佇まいで立っていた。
 
片桐静香(かたぎりしずか)さんですね』
『だ、誰ですかあなた』
樋井紫子(ひのいゆかりこ)。私は蝶子の妹です。あなたの気持ちはよくわかります。ですが、どうか早まらないで。姉には必ず、私が罪を償わせますから』
『そんなの、どうやって』
『私に協力してください。そうすれば必ず、あなたの未来を明るい方に導いてみせます』
 
 そう言って、樋井紫子は私にフェイスヴェールを差し出したのだ。