紙に書かれた小さな文字の羅列を読む気力はなかった。要するにあれは、私の身体の中に黒函莉里という異物が紛れ込んだ証明か或いは、私の死に対する価格八千万円との表記がある紙なのだろうと、興味もなく考える。
 
 ああ、うるさい。息苦しい。
 
 ずっと感じて来た違和感。私が私でなくなる恐怖。それでも、私は生き延びたかった。倫理なんて考えない。命が尽きるかもしれないという時に、我が身を一番に考えて何が悪いというのだ。
 病気を治すにはお金が必要で、そのお金を稼ぐには健康な身体が要る。長い時間を費やして身を削っても、その見返りは雀の涙だ。
 
 私は右手首を失った腕を前に突き出し見せつけながら、反論する。
 
「私は命のために、命をかけたの。そんなふうにリスクを負わなければ生きる道すらなかったの。それなのに、運もなかった。こんなことならあの時、右手でなく左手を落として貰えばよかったわ。そうすればもしかしたら、検出されるDNAは私のものだったかもしれないのに」
「落として貰えば。お前は今、落として貰えば、そう言ったな」
 
 片桐は目黒と目を合わせ、一つ頷く。
 
「ずっと疑問だったんだよ。いくら何でも、自分で自分の手首を切り落とすなんて奇行が出来るのかって。ましてやお前は病弱で、心臓に負担のかかるそんな行為をたった一人で(おこな)うことは極めて不可能だ。それにあの日、焼肉店の防犯カメラにはお前が入店する姿はあっても、退店する姿は映っていなかった。あの店には他にも協力者がいたんだ」
 
 片桐の言葉を待っていたかのように、今度は目黒がその胸元から数枚の写真を取り出した。
 
「焼肉店の個室を利用していた客は三組。一組目が前田清玄、浅倉潤、片桐の妹。二組目があなた。そして、三組目が男性二人。この三組目の客は、互いにでかいスーツケースを二つ抱えて来店し、その後報知器が鳴り響く喧騒に紛れてそそくさ退店している。調べると一人は前田清玄の父前田丈晴(まえだたけはる)教授の息のかかった医師。そしてもう一人は」
 
 目黒が掲げた写真は、防犯カメラ映像をアップにしたもの。そこに映る男の首には、見覚えのある蛇の刺青が描かれている。
 
「教琳寺院の僧侶、宗胤(しゅういん)。あなたのその右手首を切り落としたのは、この男だ」
「……その通りよ。元暴力団員とかなんとか。母が紹介してくれたの」
「宗胤は、前田清玄が絞殺し浅倉潤が連れ去った片桐の妹に、会ったんですか」
 
 ——あ、そういうこと。彼らが知りたいのは私のことじゃなく、身内の話(・・・・)なの。
 ムカつく。どこまでも馬鹿にして。
 
「会ってたんじゃないの、知らないけど。殺したのは誰かと訊かれて浅倉潤だと答えたら、宗胤という男は作戦を急ぐようにスーツケースを広げて段取りを早めた。医者が私に麻酔をかけ、宗胤が手を切り落として手首を止血。目を覚ませば、私はこの建物の上にある鳳蝶(アゲハ)の部屋にいた。ああ、そのあとは確か」

 
 口が、勝手に動いた。目黒も片桐も、新妻も浅倉潤のことさえ無視をして、私はひたすら自分自身のことを話し続ける。
 何のために生きているのかなんて知りたくない。これからどうやって生きていくのかなんて考えたくない。生まれた時から“鳳蝶”として生きていく道だけは用意されていて、だけど私にはその道を歩く健康な身体が足りなかった。
 足りなかったのはそれだけじゃない。お婆様のように本物でもなく、母のように知恵を持つでもなく、誰かを先導するのに必要な魅力のない私には母の愛だけが全てだった。
 母は出来損ないの私を見捨てなかった。叶韻蝶会(きょういんちょうかい)という組織を利用して各界とパイプを繋ぎ、不正を働いてまでも私の治療に必要なお金を調達してくれた。母だけは、ずっと私の味方だったのに。
 
 
紫子(ゆかりこ)、あなたの力は本物よ。あなたは私の大切な娘だわ』
 
 
 そう言って紫子の頭を撫でた母は、私が物陰から様子を見ていたことに気づくとすぐに表情を変えた。悔しかった。苦しかった。でも、

 あんな嬉しそうに笑う母の顔を見たのは、その時が初めてだった。