「目黒警視が、どうして」
「お前が悪い。片桐の忠告を無視したお前がな」
 
 銃口を向けながら、目黒は一歩ずつ新妻杏奈へと近づいていく。
 
「どうして! 浅倉潤は? 彼をどこへやったんですか!」
「死んだろう、あいつは。死刑になったってニュースで観なかったのか」
「それは表向きの……まさか、目黒警視が浅倉潤を殺したんじゃ」
「そんなのどうだっていい。結局奴が死んだことに変わりはないんだ。死んだ人間を気にかけるほど俺は暇じゃないんだよ。俺は助かった命を、蝶子の人生を優先すると決めたんだ」
 
 そっと振り返る目黒に、私は微笑みを返す。
 ああ。なんという悦楽。私はずっとこれを求めていた。絶対の忠誠、献身的な愛……私は、それを受けるに値する特別な人間だ。
 
「目を覚ましてください。その人は、樋井蝶子は亡くなった奥さんじゃないんですよ!」
「俺はな、新妻。なにも彼女をあいつの代わりにしようだなんて思っちゃいない。ただ罪を償いたいんだ。その為にはお前の存在が邪魔になる」
「待ってください」
「すまんな」
 
 パン、と小さな破裂音が鳴った。硝煙が上がり、新妻杏奈は左胸を抑えて後ろに倒れる。
 もぞもぞと這う虫のように身体をくねらせ徐々に動きが鈍くなる姿は、十五年前に浅倉潤の父親が死んだ場面を思い起こさせた。
 眼球に熱を感じるほどの西日に照らされた、うつ伏せの背中を。
 
「蝶子」
 
 そう目黒に名を呼ばれて、私は記憶の世界から我に帰る。息絶えた新妻杏奈を横抱きにした目黒は、冷静な眼差しで私を見ていた。
 
「俺は新妻を処理するから先に帰っててくれ。浅倉潤の父親と、梓とかいうスナックのママを片付けるのはまた別の機会にしよう」
「ええ。わかったわ」
「それじゃあ」
「……ちょっと待って」
 
 私は一歩、目黒へと踏み出す。
 
「本当に新妻警部が死んでいるか確かめてもいいかしら。ほら、人間って案外しぶといでしょう。火だるまになっても生きているような仰天人間だっているって聞くし、ね? 念の為よ」
 
 また一歩近づいても、目黒は表情を変えない。
 
「わかった。手首で脈を取るといい」
「そんなんじゃダメ。これを使うわ」
 
 そう言ってポケットから折りたたみナイフを取り出せば、目黒はやっと顔色を崩した。
 
「死体を刺すのか」
「とどめよ」
「そんなことをしたら後処理が面倒だ」
「大丈夫。ほんの少し肌に突き立てるだけ」
「……わかった」
 
 私は目黒の側まで寄り、左手で握ったナイフを振り上げる。目を閉じた新妻杏奈の顔面を見下ろしながら、ゆっくりとその胸元へとナイフを近づけた。
 
「さようなら新妻警部」
 
 その瞬間、私は手のひらに力を込めなおして思い切り体重を左腕に乗せる。けれど、そうして強く押し込めようとしたナイフは空を切った。
 同時にドン、っと床に落ちる新妻警部。
 
「いっっ……たい! はあ? 何してくれてるんですか!」
「お前に傷がついたら流石に警視長に顔向けできん」
「いや傷付きましたけど。尾骶骨めっちゃ痛いんですけど」
「受身を取れ、刑事だろう」
「無茶言わないでください!」
 
 ふざけたやりとりに私は思わず固まる。
 やっぱり。こんなことだろうと思った。
 状況を把握しようと目黒を見れば、その背後で扉が開く。
 
「ナイフを下ろせ、樋井蝶子」
 
 現れた片桐(かたぎり)は拳銃を構えていた。形勢の悪さに後退りしながらナイフを捨てれば、そのナイフを新妻杏奈が拾う。
 
「両手を上げろ」
「……」
「どうした。聞こえなかったか? 両手を上げてみろ」
 
 ——なぜ気づかなかった? さっき新妻杏奈相手に確認した時、片桐の気配(・・)なんてなかったはずなのに。
 
「ああ、言っておくが別に気にしない。お前の右手がどうなっていようと構わないから、遠慮なく上げてくれていいぞ」
「どういう意味よ」
「まだわからないか? その右手の義手を見ても、べつに驚かないって言ってるんだよ」