「りっちゃんは本当に出産するし、それなのに子供を放ってお店のお客さんとふらふら遊ぶし。一体何がしたかったんだか……お相手の男性も、結婚報告の日以降一度もお店に来たことはなかったわ。何だか気持ち悪いでしょう?」
 
 黙り込む私に、梓ママは気付いたように声を掛ける。
 
「お茶漬け、梅干しより鮭の方がよかったかしら。全然食が進んでないけれど」
「あ、梅で全然! その、ママの話がなんていうか、あまりに現実離れした話で聞き入っちゃって」
「でしょう?」
 
 少しぬるくなったお茶漬けを箸でかき込みながら、私は頭を働かせた。そうして梓ママの夢物語(・・・)を改めて脳内で組み立ててみる。
 
 “りっちゃん”こと黒函莉里と、先程まで店にいた常連タクさんとの間に生まれたのは、浅倉潤だ。その戸籍上の父親は叶韻蝶会(きょういんちょうかい)の息のかかった男で、なぜか結婚を条件に黒函莉里の奇怪な願いを叶えた。
 前田清玄に近づくために潜入した大学病院には確か、高度生殖医療センターのフロアもあったはず。叶韻蝶会(きょういんちょうかい)との繋がりがあった点から考えても、黒函莉里に体外受精を施した医療機関はあの大学病院でほぼ確定だろう。
 
 でも、一体何のために? なぜ男はそうまでして、黒函莉里と婚姻関係を結ぶ必要があったのだろうか。血の繋がりがないと承知の上で浅倉潤を戸籍に入れ、黒函莉里がスナックの仕事を続けることも許可し、更に息子である浅倉潤には毎年プレゼントを渡す人間性。
 それは家庭を顧みなかった母親とは対照的で、浅倉潤はどちらかと言えば父親に好意的な感情を抱いていたはずだ。その父親を刺した動機を考えた時、
 
 ——矛盾する。
 
 浅倉潤は(くだん)の教誨室で、父親が母親に暴行を加えた理由を【本当の父親ではないと告げられたショック】と説明していた。梓ママの話が本当なら最初からわかって結婚していたことになり、その理屈は通らない。
 だけど同時に、浅倉潤の発言が全て嘘だとも思えなかった。母の死を目の当たりにしても涙の出ない心境。父親に自分の言葉が届かない憤り。それらが全て虚偽ならば、浅倉潤は相当な役者だ。
 
 私が最後の一粒まで茶碗に残さず平らげたその時、梓ママはカウンターに肘をついて頬杖しながら私に問いかける。
 
「杏奈ちゃんってもしかして看護師さん?」
「……え?」
「いやね、食べるスピードものすごく早いし、癖なんだと思うけどやたらと手のひらを握ったり閉じたり。そういうのってほら、注射の時に血管わかりやすいようによく見る仕草じゃない? ポケットにも沢山ペン刺さってるし。うちにもいたのよ昔、昼は病院で看護師として働いて、夜バイトに来てくれていた子が。あまりにハードスケジュールですぐに辞めていっちゃったけど」
 
 私は指摘された順に口、手、ポケットを確認する。まずい、気を抜きすぎた。まさか梓ママに看護師の見聞(けんぶん)があったとは。最近まで馴染んでいた生活に引っ張られてしまった。
 予想は大抵的外れだが、導き出す答えがニアピンだったことに、私は梓ママを侮るなかれと今一度気を引き締める。公安警察が一般人に刑事と見抜かれる失態だけは避けたい。
 ちなみに、手を握って開くのが刑事の癖というわけではなく、考え事をする時に出てしまう私の個人的な癖だった。
 
「凄いですね。確かに最近まで看護師でした。今はもう退職しちゃったんですけどね」
「やっぱり! ほら、私たちって人を見る商売じゃない? こういうカン結構当たるのよ。まあ今月でお店も閉めることだし、最後まで現役の感が鈍っていなくてよかったと思うことにするわ」
「え、今月でやめるって、どうして」
 
 私が言えば、梓ママは店の入り口に置かれた電飾の看板を消灯して店内にしまった。時刻は間も無く二十二時をまわる。
 
「店内見てよ、ガラガラ。この時間でもこの有様よ? もう、いつお店畳もうかなあってずっと思ってやってきてたの」
「でも、さっきはタクさんのためにお店を開けてるって」
「私ね杏奈ちゃん。さっきの夢物語、今まで警察にも誰にも話したことがなかったのよ。りっちゃんが死んで、潤くんが捕まって、何だか私心にぽっかり穴が開いちゃって。でもタクさんの手前、真実を話す気も起きなかった。タクさんと奥さんが仲良くしている姿を見るたび、本当のことを隠している罪悪感に苛まれてね」
 
 梓ママがテーブル席の椅子をテーブルに上げるので、私も見よう見まねで手伝う。梓ママはありがとう、と微笑んだ。
 
「でも。潤くんも、タクさんの奥さんも亡くなったのを知って、私とうとう我慢できなくなっちゃった。これじゃあ、いつタクさんに口を滑らせてしまうかわからないでしょう? だから畳むの。今日、杏奈ちゃんにこんな話を聞かせてしまったことも謝るわ。ごめんなさい」
「そんな。謝らないでください、梓ママは何も悪くないんですから」
「ううん……ん? あれ、なんだろうこれ」
 
 床に何かを見つけて座り込む梓ママ。そこはさっきまでタクさんが座っていた角のテーブル席で、拾い上げた小さな紙に梓ママは首を傾げる。
 
「きょういん、ちょうかい? へえ。タクさん、変わった名前のキャバクラに行ってるのね。綺麗な蝶が書いてある、ほら」
 
 そう言って梓ママが見せた名刺には、妖艶に羽ばたく青紫の蝶。そこに書かれた名前を見て、私は慌てて梓ママにチェックをお願いした。
 
「いいのよお金は。タクさんが奢りだって言っていたし」
「いや、でも」
「その代わり、店を閉める前にもう一度だけ顔を見せて? 次は鮭のお茶漬けも準備できるようにしておくから」
「……わかりました。あの、その名刺貰っていってもいいですか」
「ええ。いいけど」
 
 私は梓ママから名刺を受け取り、急いで店を出た。通りすがったタクシーを呼び止め乗り込むと、行き先を伝える。
 
「浅草駅に向かってください。細かい道は都度言うので」
 
 走り出したタクシーの車内で、私はじっと名刺を見つめていた。

 ——鳳蝶 

 そう書かれた、名刺を。