もう三十年近く昔の話になるかしら。
 私は二十九になる年にこのお店を出して、愛想もよく働き振りも真面目だったりっちゃんをチーママに据えて。細々だけど、それなりに賑やかな日常を送っていた。
 それでそうね、出店してからちょうど一年くらい経った頃だったかな。りっちゃんは私に報告があるって嬉しそうな顔して、
 
『梓ママ、私結婚する。お腹に赤ちゃんができたの』
 
 って。とても驚いたけど、素直におめでとうって伝えたわ。
 
『いつの間にそんな人見つけていたの?  マサオさん? ユウくん? 白状なさい』
『ううん、違うの。今呼ぶから待ってて』
 
 そう言ってりっちゃんが店の外に迎えにいくと、姿を見せたのは白いカッターシャツに蝶のブローチをつけた細身の男性だった。
 私はね、その男性に見覚えがあったの。
 
『りっちゃん、この方って』
『あ、ママやっぱり覚えてた? 何度かお店に来たことあったもんね』
 
 りっちゃんが連れてきた彼はお店の客ではなかったけれど、数ヶ月前から時々お店に顔を出していた人でね。手相占いをしてみませんかって、私や常連さんに声をかけて回ってた。
 正直に言うと、私はりっちゃんが連れてきた彼のこと少し鬱陶しいなって思っていたの。だってほら、なんだか怪しいじゃない? 最初は安値だった占いが、回を重ねるごとに料金が増していき、あげく水晶とか壺とか買わされて、そうなるともうのめり込んで抜け出せなくなって……なんて、悪い方に考えちゃったりして。そういうのが流行った時代ってのもあったし。
 だからね。私は彼を一足先に帰して、りっちゃんに本当のところを訊いてみることにしたのよ。
 
『りっちゃん、いつからあの彼と付き合っているの?』
『二ヶ月くらい前から。四丁目の割烹店でたまたま会って、そこから連絡先交換してって感じかな』
『それで子供ができてもう結婚って、大丈夫なの?』
『なにが?』
『なにがって』
『大丈夫だよママ。彼と一緒になればお金に苦労することは絶対ないって保証されているし、それにぶっちゃけ言うとさ』
 
 りっちゃんは私を手招きすると顔を寄せ、耳元で衝撃的なことを口にしたわ。
 
『お腹の子の本当の父親ね、タクさんなの』
『…………えぇ!?』
 
 私が驚きで声を上げると、店内の角のテーブル席でお酒を飲んでいたタクさんと奥様は不思議そうに首を傾げていた。それを愛想笑いで受け流した(のち)、店内に流していたBGMのボリュームを若干上げて、私はさらに小声を意識しつつりっちゃんに事情を聞くことにした。
 覚悟はしていたわ。お酒を飲みながら男女がおしゃべりする空間を提供する以上、なにかしらのトラブルが発生する可能性もあるって。だから不倫とか、そういう泥沼を私は想定していたのだけど……りっちゃんの話はそんな可愛いものじゃなくてね。
 
『体外、受精?』
『そう。タクさんと奥様、不妊治療中って言っていたの覚えてる? だから、病院で培養管理されていたタクさんの精子を私の卵子と受精させて移植したの。あ、タクさんは何も知らないよ? こっちが勝手にやったことだから。それで、今回結婚する彼はもちろんこのことは承知の上。なんなら、私にその処置を施した病院と彼が所属している団体はとっても仲良しでね。私がどうしてもタクさんの遺伝子が欲しいってお願いしたら、彼は自分との結婚を条件に私の願いを叶えてくれたの。凄いでしょ?』
 
 りっちゃんは笑顔だったわ。元々、可愛らしい顔と愛嬌でお客さんを虜にする水商売は彼女の天職だった。だけどりっちゃんはお店の他の女の子と揉めることもよくあって、だからこそ私の二番手として立場をあげていたたの。ルールで区切れば、たとえ不仲でも仕事と割り切って上手く立ち回れると思ったし、事実りっちゃんに会うのを目的にお店に来てくれるお客さんが多かったっていうもあったから。でも、あんな恐ろしいことをする子だなんて思っていなくてね。私はりっちゃんを諭そうと努めた。
 
『今からでも遅くないわ。お腹の子供は諦めなさい。犯罪よ』
『え? なんで?』
『なんでじゃないわよ!』
 
 この辺りで、いいかげんに私とりっちゃんの不穏な空気を周りも察し始めたわ。だから私はタクさんと奥さんを含めた他のお客さんを一旦店から出そうと思ったのだけど、りっちゃんが発した次の一言で私は口を(つぐ)むことになるの。
 
『子供は産む。お店も続ける。もし、梓ママが私の幸せを阻むなら……全部をぶちまけてもいいのよ? 今ここで』
 
 りっちゃんの真っ赤な唇が、化け物みたいに頬まで伸びてね。その美しさと恐怖に私は悟るの。ああ、もう何を言ってもりっちゃんには届かないって。
 だから平穏を優先した。りっちゃんはこのことは墓場まで持っていくつもりだと言っていたし、タクさんと奥様がこのまま何も知らずに幸せに暮らせるのならそれが一番良い、そう思ったから。