口元で傾けたグラス、その底に沈殿していた氷が雪崩のように顔に押し寄せてきて、レモンサワーを盛大に(こぼ)した。
 
「ちょっと杏奈ちゃん大丈夫? 今タオルあげるから」
「すみません……グラスの中身が少なくなるとよくやっちゃうんですよね、私」
 
 ハハっ、と渇いた笑いが漏れた。胸元に溢れたレモンサワーを手で払いながら、私は努めて笑顔で対応する。が、内心は鼓動が乱れて目が泳ぐ思いだった。
 
 浅倉潤の母親の名が黒函莉里だなんて情報は初耳だ。だが冷静に考えてそんなことはあり得ない。どんなに若くとも、浅倉潤の母親の年齢は梓ママと同じくらいなはず。
 六年前の事件の資料で、焼肉店にいた他の客のリストを確認したこともあるが、事件当日午後十八時前後に店の個室を利用していた客は三組のみで、
 
 一組目が前田清玄、浅倉潤、片桐さん妹。
 二組目が黒函莉里。
 三組目が男性客二人。
 
 報知器が鳴り、避難を済ませた店内の客の中にも、浅倉潤の母親と思しき年齢層の女性はいなかったはずだ。
 そもそも浅倉潤の母親は十四年前、浅倉潤の父親から暴行を受けたのちに亡くなっている。後日確認した目黒さんとのやりとりの映像の中でも、浅倉潤は自らの口でそう語っていた。
 
「一体どうなって……」
 
 思わず呟いた私に、梓ママは水の入ったグラスを渡してくれた。
 
「杏奈ちゃん飲みすぎなのよ、少し酔いを覚ましなさい。お茶漬けでも食べる?」
「……あ、はい。頂きます」
「ママ、俺はチェックして」
「チェック? もしかしてタクさん、今日もこのあとキャバクラに行こうとしているんじゃないでしょうね」
 
 炊飯ジャーからご飯を装いながら梓ママが言えば、タクさんはバレたか、とおちゃらける。
 
「別にいいじゃねえか、金はあるんだから」
「あのねえ。奥さんはそんなつもりでタクさんにお金を残したわけじゃ」
「いいんだよ、説教すんな。お前はお袋か」
「はあ?」
 
 タクさんは梓ママの顔を見ずに帰り支度を始めた。
 
「大体なんで保険金なんか。金なんてあってもあいつが居なきゃ意味ねえんだよ。だから、あいつが残した金は元々ないつもりでじゃぶじゃぶ使うことに決めたの、俺は!」
「タクさん」
「あー、やめやめ! 杏奈ちゃんまたな。梓のボケ防止の為に、これからもちょこちょこ店に顔出してやってくれ。梓、また月末に払うからツケとけよ。今日は杏奈ちゃんの会計も一緒でいいから」
「ちょっと、タクさん!」
「じゃあな」
 
 タクさんはそう言って足早に店を去った。
 程なくしてお茶漬けを出してくれた梓ママは、タクさんの奥さんが最近ガンで亡くなったこと、その奥さんがタクさんに内緒で自身に死亡保険をかけていたことなどを話してくれた。
 タクさんが帰り、店の客が私だけになったことで、梓ママはグラス片手に私の隣へと座る。
 
「この店ね。スナックなんて肩書きだけど、昔は“出会い酒場”だなんて揶揄されていたこともあってね。タクさんと亡くなった奥さんはこの店で出会ったの。それはもうラブラブで……あ、そうそう。さっきちらっと話に出たりっちゃん? 彼女もこの店に来ていた人と結婚したわ」
「それが浅倉潤の父親ですか」
「まあ、うん。戸籍上はね。本当の父親は別の人なんだけど」
 
 梓ママは過去を振り返るように、遠い目で空間を見つめる。
 
「色々複雑なのよ。りっちゃんは気のいい女の子だったけど同時に危うさも備えていて、そのせいでトラブルもあったり、最後はあんな(むご)い死に方……って、ごめん杏奈ちゃん。こんな暗い話、聞きたくないわよね」
「いや! 聞きたいです。めちゃくちゃ聞きたいです、その話」
「そう?」
 
 じゃあ夢物語だと思ってね、と梓ママは話を続けてくれた。